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01.トウゲン島

 積雲の隙間から、三つの太陽が顔を出していた。


 純白の両翼を優雅に羽ばたかせた雌のペガサスと、八本の脚をもつ漆黒の毛並みが美しい雄のスレイプニルが、大空を駆けじゃれ合っている。


「待ってくれよぉ~、君のことが本気で好きなんだ」


「その八本の足で、私に追いつけるかしら。ふふふ」


 燦々と日差しを浴びたスレイプニルは大地を蹴り上げ、ペガサスに迫るが、彼女はそれを軽やかにかわす。


「つまんねぇ。春先にサカりやがって」


 彼らと同じ馬属性の聖獣でありながらも、馬の上半身にクジラのような下半身を持つケルピーは、海面から顔を出し両者を目で追いながら欠伸を噛み殺す。


 波は今日も穏やかだった。


 大海原にぽつんと浮かぶトウゲン島は、六千年に渡り四大陸の間を絶えず漂流している。遊びつかれたペガサスが急降下し、エメラルドグリーンに輝く島へ戻ろうとすると、スレイプニルもそれに倣い追いかけた。


 見るものを失ったケルピーは海岸に目を移す。岩礁には各大陸からの夥しい漂流ゴミが打ち上げられている。


「あいつら、またゴミ漁りに来てんのか」


 ケルピーが毒づいた先に、二つの影があった。


「お~い!チュッティ!いいもの見つかったか~!」


 クセのある青髪を銀杏結いにした少年が叫んだ。


 岩場にしゃがみ込み、ゴミ漁りに精を出すこの少年の名は、イサムと言った。深紅の薔薇の模様があしらわれた丈の短い白い着物に、草履という身なりで、右肩から斜めにかけて大剣を背負っている。


「ない。生ゴミばっかだ」


 はるか向こうでイエティ族の少年、チュッティがしかめた顔を見せる。その全身は白い体毛に覆われ、顔や手の平、足などは小麦色をしていた。


「おれは…またいいの拾ったぞ。水着の写真集ってやつだ。この前拾った本の女より、オッパイでけぇ!見てみろよ」


 青髪の少年、イサムは水浸しになった本を高く掲げ、頬を紅潮させながら眩しい笑顔をチュッティへと見せる。


「な!すげぇだろ?果実みたいだ」


 イサムの燃えるような緋色の瞳が輝く。その額に刻まれたスペード型の痣は、彼がこの島へ流れ着いた時からあるものだった。


「いや、人間のメスには興味ない」


 一瞥をくれたのち、にべもなく返事をしながら、チュッティはゴミ袋を入念に漁り、腐った野菜を海に投げ棄てる。


 程なくしてチュッティの足元を、ピンク色したカニの親子が「すまんね。すまんね。通るよ」と甲高い声を上げて横切った。かれらは漂流ゴミの野菜を啄ばみ、命を繋いでいるのだろう。せっせ、せっせと投げ棄てられた先を目指していた。


「この女…どこの大陸の人間かなぁ」


 イサムは、額にあるスペード型の痣を人差し指で掻きながら、写真集をめくり、チュッティに見せる。


「見た感じ、お前と違う人種だろうな」


 写真集の中で豊満な胸を寄せながら笑う女は、黒髪に灰色の瞳だった。また、タイトルらしき文字が書かれているが、イサムやチュッティはこの島の言葉であるバルベ語しか読めないため、意味は分からない。


「会ってみたいな」


 イサムは立ち上がる。背はチュッティよりも十センチほど低く、百七十ちょっとだった。


「は?」


「この島を出て、おれ以外の人間に会ってみたい」


「本気か」


 チュッティが眉根を顰め、ビニール袋ごと放り投げた。ピンクのカニの親子は落下するビニール袋に慌てふためいていた。


「おれも、もう十五だ」


 イサムは、右人差し指を忙しなく鼻の下に擦りながら笑う。そのとき岩礁に高く波が打ち上げられた。水しぶきがキラキラと反射した。


 しばらく二人のやり取りを眺めていたケルピーは「この島を出るだと?ガキみたいな夢を見やがって。やることないし、帰ってトウゲン酒でも煽るか」と呟き、尾びれを大きく動かしながら深海に潜っていった。



 トウゲン島を東西に分断するシヴァ山脈と、南北に流れるブラフマー川が交差する島の中心部には、黄金に輝くヴィシュヌ山が聳え、その頂には広大な神殿があった。


 ヴィシュヌ山麓はメメントの森とも呼ばれ、様々な聖獣が生息し、清らかなエネルギー、つまり「聖力」をヴィシュヌ山頂にあるこの神殿に供給し続けている。そして膨大な聖力を吸い上げた神殿は、維持神ヴィシュヌの石像を介して聖力を増幅させ、世界全体にエネルギーを齎す。


 この世界で最も神聖なる場所、穢されてはならないこの場所で「オッパイ」という言葉が連呼された。


「これはヒルコ語だ。イサム、お前の言うこのオッパイが大きい女性はヒルコ人の特徴である黒髪に灰色の瞳の持ち主であることから、間違いなくこの本はヒルコ大陸から流れ着いたものだろうな…この写真集のタイトルを直訳すると、エリョーサ・ワイゼのバインバイン・パイオツッコ伝説…ふしだらな本だ」


 神殿を六千年に渡り守り続けている大天使イザナギは、楽園麦でつくったパンとユニコーンの涙で発酵させたワインという質素な夕食を家族で済ませたあと、息子イサムから渡された写真集を一読したのち答えた。


 イザナギの隣には妻であり、同じく大天使のイザナミがいて、息子を不安そうに見つめている。イザナギ、イザナミ夫妻は創造神ブラフマーが六千年前に地上に遣わせた三人の天使のうち、二人にあたる。


「始祖の民の一人、ヒルコが治めた大陸だっけ?大陸によって髪や瞳の色が違うなら、青い髪のおれはどこから流れてきたんだろう、父ちゃん」


 イサムは写真集を奪い返しながら問いただす。イザナギは眉根を顰める。何と答えるべきか思いあぐねているのだ。


「ふむ…」


 緩やかな法衣を纏った大天使のイザナギとイザナミの背には、純白の双翼がはためき、金髪の頭上には眩い光の輪が浮かんでいた。彼らがイサムの実の父母でないことは一目瞭然だった。


「まだ、お前には早すぎる…こういう本を読むのも、外の世界に興味を持つのもな」


 イザナギはイサムから写真集を取り上げようと、手を伸ばした。


「いつもそればかりじゃないか!おれはもう十五だぜ」


 イサムは写真集を背に隠し、右手で青い髪を掻き毟りながら唾を飛ばす。


「外の世界については、そのうち話す」


「そのうちって、いつだよ!」


 イザナギは言葉を噤んだ。右隣のイザナミが心配そうに夫と息子を見つめる。


「イサム、お父さんに向かって怒鳴るのはやめて」


 イザナミは目に涙を浮かべていた。


「本当の親じゃないくせに!」


 イサムは怒鳴ったあとに後悔した。イザナギとイザナミは哀しそうな目でイサムを見つめていた。


「…おれに関するものといえば、この大剣と、赤ん坊の頃に包まれてた布でつくったっていう、この着物だけじゃないか」


「イサム」


 母として心を痛めたイザナミは、ついに嗚咽を漏らした。


 豊かな乳房を持つこの天使は、赤子だったイサムを母乳で育てた。血の繋がりはないものの、親子としての愛情は十五年間、育んできたつもりだった。


「剣の鍔に埋め込まれたこの玉には俺の額の痣と同じ形のマークが入っているし、この着物の布に描かれた薔薇だって、この島に咲く青い薔薇と色が違う…分からないことだらけだ!」


 イサムも泣き顔で叫ぶ。


「イサム…父さんの話を聞いてくれ」


 イザナギがイサムの肩を抱く。二メートル近い巨躯を考えれば、幼子を窘める父に見えた。


「おれは自分が何者なのか、何回も何回も考えた…でも、考えるだけじゃ答えなんて分かりはしないんだ」


 イサムは、それでも首を振るしかできなかった。


「お父さんの話を聞いてあげてちょうだい…お願い」


「これを見てくれよ!小さい時に仕立ててもらった着物の丈が年々、短くなってるんだぜ?」


 イサムは、着物の裾を引っ張りながら言った。


「この島が嫌いになったわけじゃない。世界を見たいんだ。おれ以外の人間に会ってみたいんだ!だから…」


 唾を飲み込む。


「…明日、グリミに跨り旅立つ事を許して欲しい。父ちゃん、母ちゃん…」


 イサムは、神殿の外で眠りこける雌のグリフォンを指差して言った。そのグリフォンは数年前「お前ももう幼子ではないし、島のあちらこちらを探検してこい」と、イザナギが引き合わせたものだった。


 結果としてイサムは、グリミに跨って活発に島を探索するようになり、チュッティという、シヴァ山脈東部に棲むイエティ族の同世代の友人を得ることとなったわけだが、息子の好奇心を肥大させるきっかけに直結したとも言えて、今となっては父として複雑な気持ちだった。


「仕方がない」


 イザナギは右手人差し指を、イサムに翳す。


「束縛聖術…、鳥牢獄(ケージ)!えいっ」


 イサムの周囲に光の粒が集まり、やがてそれは巨大な鳥かごに変化した。


「何するんだよ!」


「いいか…イサム、よく聞きなさい。私も母さんもお前の幸せを願っている」


 鳥かごに入れられたイサムは、ふわふわと宙に舞い、神殿の外に出された。束縛聖術をつかうという事は神に背いた者に対する仕打ちである。神殿の中には置けないというのが暗黙のルールだった。


「どういう意味だよ」


 イサムが怒鳴った。


「罪深き四大陸に、お前を行かせるわけにはいかん。人類は神に見放され滅び行く運命なのだ」


 イザナギもイザナミも神殿の中にいる。外にふわふわと放り出された息子へ「心の声」で語りかけてきた。


「私の可愛いイサム、どうか今夜一晩、考え直して。この島にいる限り、あなたはずっと汚されることはないの」


 イザナミは嗚咽しながら語りかけてきた。母を泣かせた自分を多少、恨めしく思いイサムは何も言い返せない。


「母ちゃん…外の世界の何が汚れてるっていうんだ」


「イサム…私たちが、かつてもうけた四人の息子たちと同じ運命を、お前に辿らせるわけにはいかないのだ」


 イザナギの低い声を最後に、会話は遮断された。イサムを閉じ込めた鳥かごは、相変わらずふわふわと浮遊している。


 夜空に浮かんだ月は三つ。神殿の外で鼾をかいてるイサム専用グリフォンのグリミが見えた。彼女と同様メメントの森に棲む聖獣たちも眠りこけている頃だろう。


「寒いぜ、ちくしょう」


 浮遊していた鳥かごはやがて、神殿を囲む四本の尖塔のうち、右前方の尖塔の頂点に括りつけられた。


「おやすみ。お前は大事な息子だ」


 イザナギ、イザナミの声が聞こえたが、イサムは返事などしなかった。



 数時間が過ぎた。鳥かごのぶら下がった尖塔をするりするり、と登る影があった。


「おい、イサム」


「チュッティか」


 鼻ちょうちんをぶら下げていたイサムは飛び起きて、格子を掴んだ。


「今日、言ったあの話マジか」


「何がだよ」


「この島を出るって話だ。今までこの島を出た者は例外なく捕まって、イザナギ様に一生地下牢獄に入れられるって話だぞ」


「構うか。出たくても出られないなら牢獄と変わらないだろう」


「そう言うと思ったぜ。なら出るか?」


 不敵に笑うチュッティの白い体毛が、風に吹かれ靡く。


「今の俺の状況をよく見ろ。そうしたいのは、山々だが…クソオヤジに聖術をかけられちまった」


 イサムは眉尻を下げて言う。散々暴れた挙句、背中の大剣を抜いて断ち切ろうともしたが、鳥かごはびくともしなかったからだ。


「そんなもん、俺が秘密道具で出してやるよ。そのかわり俺も連れて行け。イザナギ様の息子であるお前と共犯なら、俺も思い切りがつくってもんだ」


 チュッティは、風呂敷包みを背負っていた。


「お前も外の世界に興味があったのか?」


「トウゲン島にいるイエティ族のメスは、ブスばっかだ。この俺が告白しても無視し続ける性格の悪い最悪なブスしかいない。あいつらオッパイやケツはいいんだけどな。だからよ、外の世界にはもっとマシなメスがいるかもしれんと思ってな」


 チュッティは風呂敷包みの中を改めながら言う。


「んじゃ、グリミを起こして、さっさと一緒にこの島を出ようぜ」


「オッケー!あったぜ!ノミ飲みジュース!これを飲めばノミサイズになれる。晴れて脱獄だ」


 イサムは狂喜した。



 イザナギ、イザナミ夫妻は、宮殿の最上階にある右から三番目の部屋にいた。今日までイサムにあてがっていた部屋である。


「本当に良かったの?」


 吹き抜けの四角い窓から、グリフォンに跨り夜の空を飛び立つ二人を見ながら、イザナミが囁く。


「父親の立場として、あの子を正面から行かせるわけにはいかなかった。友人の力を借りたとしても、私の聖術を破り勝手に出て行ったのならば何も言うことなどない」


 イザナギは目を合わせようとはせず、何かのセリフのように言った。


「あの子…大丈夫かしら」


 イザナミは米粒のように小さくなった息子たちを見送ったあと、イサムのベッドに腰を沈め、アタマを抱えた。


「剣術、体術、聖道の術の数々をこの十五年間みっちり教え込んだ。命を落とすようなことはあるまい…それに、あの子は…」


「ヴィシュヌ様のお導き…そう言いたいのね」


 イザナミは哀しそうに呟く。


「ああ。今思えば、四人の息子たちが宝玉と共に各大陸に渡った時より定められていたことかもしれない。世界の行く末は、ヴィシュヌ様とシヴァ様によって決まる」


 その言葉に何と返すべきか、イザナミは思いあぐねた。


「元はといえば、心を健やかに鍛える為に修行をつけてあげたんでしょ?皮肉なものね」


「なぁ…イザナミ…子供とは、親の知らない間に勝手に成長するものだな…前にも子育てに失敗をしたのに…私は父親失格だ」


 イザナギは罪の意識を抱えていた。


「ねぇ、あなた…」


 イザナミは、イザナギの肩を揺すった。


「ああ、そうだ。もう私にはお前しかいない」


 イザナギはそれを励ましと捉え、頷く。


「そうじゃないわ、私が言いたいことは」


「なんだ?」


「ベッドの下に、沢山あったエッチな本も一緒に消えてる…あの子ったら」

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