スタート・ライン
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またお見合いがだめになった、と、早苗がぐちをいいに来る。
養護学校時代の先輩で親友だった早苗は、いま私とは別の施設にいて、時々こうして遊びに来ていた。かわいい顔をしているので結構もてるらしい。
「でも、施設の男じゃ生活していけないしね。それに」
といいかけて早苗はおいてあったスナック菓子を目ざとく見つけ、食べていい? といってガサゴソやりながら続けた。
「それに私、典子みたいな純愛路線って苦手なの。っていうか、人を好きになるってことがよくわからない。この人いいな、って思ってもすぐいやなところがみえてくるの。だから、えいっ、って気合い入れて一気に決めたいのよね。うーん、健常者には一応あこがれるけど、でも、一人で何でも出来る人と結婚するのって、ちょっとこわいと思わない? 途中で放り出されたら終わりだもんね。私はやっぱり生活力のある障害者の男と堅実にお見合いして結婚したい。そしてだんなさんの出来ないところをカバーしながら暮らしていくの。それも一つの自立の手段だと思うのよ」
だそうである。
玉の輿を狙ったりして、結婚と恋愛をシビアにわけて考える女の子が多いという今の時代、こんな早苗の考え方は普通っぽいのかな、と思う。しかしなかなか、えいっ、とは簡単にいかないらしく、それも早苗の方が、あーのこーのと考えて結局断るケースが多いのだ。
天気のいい日曜日の寮はがらんとしていて、普段は狭いと感じているこの四人部屋にもゆったりと時間が流れているようだった。
「私って、見かけ倒しなのよね」
早苗が食べかけのスナック菓子の袋を抱えてため息をついた。
「私、上半身は普通に動くし、こうやって座っていれば、障害、わからないでしょう? 何でも出来そうに見えるのよね。でも実際、腰はきかないし、手にも少し緊張があるし、出来ないことがいっぱいあるのよ。だから、一般雇用の困難な重度障害者、なんじゃない。あんまりうれしい顔して期待なんかしないでほしいわ」
早苗はスナック菓子をつまんで口にほうりこむ。
「典子はいいな。まるのまんま見たまんまの障害者、だもんね」
と、本当に羨ましそうにしみじみいうから、参ってしまう。私は、おまえなー、といいながら、ここは笑っちゃうしかない。でも、早苗のそういうところが私はなんとなく好きだ。早く、えいっ、と結婚して幸せになれるといいね、と思った。
早苗の考え方には、一応、理があると思う。ども、それは早苗だから理があるのだ。自分の身の上をなんとかするために結婚するっていうのは、私にはやっぱり不謹慎なことに思えてならない。本当に純粋に好きだから、いっしょにいたいから、だから結婚、っていうのが本当の形だと、私はやっぱり思う。こういうと、早苗は決まって、
「また、典子の恋愛至上主義がはじまった」
などと、笑い転げるけど。
でも、そういう早苗って結婚してからだんなさんと強烈な恋愛をしそうなタイプだと、私はにらんでいる。
その絵の前で、私はしばらく動けなかった。
絵をやっている友人の暢子に誘われてなんとなく覗いた二科展の地方展。画廊特有のしんとした透明な空間の中で意識を泳がせながら、しばらく歩いて、私は一枚の絵から吹いてくる風のようなものを感じて、立ちどまった。
「すごい絵でしょう?」
横で暢子が話しかけてくる。
「何がどうすごいのかよくわからないけれど、存在感っていうのか、パワーっていうか、とにかくすごい。この絵のところだけ時空が曲がっちゃうんじゃないかしら」
「孵化」と題されたその絵は、ちょっと見には単なる一本の枯木の絵だったが、通り一遍の見方で素通りできないような、気配、のようなものがあった。絵の中の枯木に生気があるのだ。見つめていると、木が大地から水を吸い上げているのがわかる。今にも芽を出そうとしているエネルギーの渦が見えてくる。
本物の生の木にはエネルギーを発散する空間がある。生命は自然の中で文字どおり自然に存在する。それが絵という平面の世界でそのエネルギーを保ったまま存在しているのである。発散する空間がないぶん生命が際立つ。これは作者自身の生命なのだろうか。
私は少なくとも二十分ぐらい、その絵の前で、そのつかみどころのない生命の気配を感じていた。
暢子のアトリエは自宅のビルの屋上にあった。家がかなり裕福で、一人っ子の暢子は、美大を出てから就職しないで絵を続けている。
「親が働かせてくれないからね。絵は道楽みたいなもんよ。二十五歳にして隠居生活。あーあ、おじんみたいね」
絵の具だらけのジーンズの上下に無造作に束ねた髪。お嬢様スタイルにはほど遠い恰好の暢子が、アトリエの床にひざを抱えてそういった。
言葉のわりには、目がキラキラしている。
暢子と知り合ったのは、考えてみれば、養護学校時代だった。彼女は中一の時、腰の骨が少し変形しているとかで手術を受けて、リハビリのために養護学校の私のクラスに編入してきて半年ほどいた。外見的な障害はほとんど残っていない。゜
「あの絵、よっほどショックだったみたいね。作者紹介しようか?」
と、暢子はいった。
「うん、やめとく。イメージこわれるの、こわい。それより、私も絵描いてみたいな」
「よしよし、やっとその気になってきた。日曜日の昼間だったら私家にいないから、このアトリエ使っていいよ。最低必要な絵の具と道具くらい教えるけど、あとはチンタラ教えない。本を読むなり、自分で勉強すること。典子は私のライバルなんだからね」
「ちょっと、いつもいってるけど、美大出のセミプロと一緒にしないでくれる? こっちはずぶの素人なのよ」
暢子はいつもなぜか私をライバルにしたがる。
「こっちもいつもいってるけど、技術は努力すればそれなりに身につくけど、感性とかは、もう、絶対無理なのよ。典子には何か独特の感性があるの。まあ、とにかく思うとおりにやってみなよ」
暢子はそういってアトリエの合鍵を渡してくれた。ライバルにされるのはなんだか変な感じだったけれど、絵を描きたいというノバ本当だったので、私は暢子の好意に甘えることにした。
「お前って、結婚の話になると不機嫌になるね」
映画の帰り、車の中で運転席の圭介が前を向いたままいった。
「そう?」私は曖昧に答えていた。
圭介の言葉の端から彼の気持ちをあれこれ考えていたころは、ドキドキして楽しかったけれど、彼の口から結婚という言葉がはっきり出てくるようになって、気が重くなってきたのは確かだった。
同じ施設で仕事をしながらコンピューターのプログラマーの勉強をしていた圭介は、半年ほど前、施設を出て、コンピューター関係の会社に委託されて自宅でプログラムの仕事をしていた。うまくやりくりすれば結婚して生活できるだけの収入はあった。
私は少ししんどい恋愛をしたことがある。もうこだわっていないつもりだったが、少し慎重になっているのかもしれない。
しかし、それとは別に圭介との間で思いがすれちがうのを感じていた。
圭介が結婚を考える前提には生活に対する自信がある。それは必要なもので、圭介はとても努力してそれを手に入れた。それはわかる。でも、それを結婚する資格みたいに思っているようで、なんだかいやだった。
世の中とうまく対応できる人だけがおおっぴらに人を好きになることが許されるということ、圭介がそんなふうに考えているようだということが、悲しかった。
「しばらく、日曜日は会えないわ。友達のアトリエ貸してもらって絵を描くの」
「日曜日に会えないんならいつ会えるんだよ。お前、ほかの日は仕事だろ?」
私が絵を描くことに興味もないのね。私たち、なぜ会っているのかしら。
考えだすと限りなく悪いほうへ考えそうで、私は助手席のリクライニングシートを倒して目を閉じた。
「おい、典子、もう着くぞ。寝るなよ」
すぐ隣にいるはずの圭介の声がどこか遠かった。車が施設の寮へ向かう曲がりくねった道を走っているのがわかった。
指が気持ちのいい速さでキーボードを弾いている。4ケタの品コードと枚数がCRT画面に打ち込まれる。指が思うように動かない日は、肩から腕ごと動かしてやっと打つという悲惨なときもあるが、今日は調子がいい。
仕事場の隅で在庫管理用のコンピューターに今日仕上がった製品の数を打ち込んでいく。授産施設というのは、障害に合わせた設備や工夫、それに、仕事を与えられているという、特殊な感じを除けばきわめて普通の生産活動をしている。
この施設では比較的障害の重度な私の仕事は検品とか計算とか、細かい仕事が多い。やっていて楽しい仕事だから私にあっているのかもしれないと思う。
小さな枠の中でひとつの仕事に執着し過ぎるのは大人げない気もする。ひとつのことができるかできないかを比べて、できないよりできるほうが幸せだとは、思わない。けれど、どんな形でもどんなささいなことでも世の中にできることがあるというのは、いいことだと思う。
ふと、圭介のことを考える。彼は、仕事に対してどんな思いがあるんだろう?
データの入力が終わり、今日の生産高と製品の出荷のための在庫表のプリントアウトが始まる。プリンターが発する機械音の中で、私はなんとなく照れたような圭介の顔を思い出してみた。
暢子の家は繁華街から少しはずれた一角にある。六階建てのビルで、一階から三階と六階が貸し事務所になっていて、四階五階が住居だった。管理人さんに断ってエレベーターで屋上まで上がる。
絵の関係の会合とかで暢子は日曜日はほとんど外に出ている。家族もそれぞれ家にいないことが多いらしい。貸し事務所も休みのようで、ビル全体がしんと静まり返っていた。
屋上の重い扉を開けていったん外に出て、すぐ横に、あとから建てたらしい簡単な木造のアトリエがある。鍵を開けて中に入ると、ふわっと、絵の具の匂いがした。
真ん中のテーブルにかきおきがあった。
「典子へ
よくきた、よくきた、いらっしゃい。ちょっと過保護かな、とは思ったけど、キャンパス、いくつか用意しました。典子の細腕じゃ大きなキャンパスここまで運ぶの大変だもんね。どれでも使っていいよ。
じゃ、期待してるからね。
プレッシャーの好きな友人」
読みながら、思わずにんまりしてしまう。
新しい、大きさの違うキャンパスが何枚か、テーブルの横に立てかけてある。その中から中ぐらいのものを選んで、イーゼルにかけてみる。
絵の具や画用液や筆などはひと通り買いそろえて持ってきた。本も二、三冊買い込んで、施設から支給される一カ月分の作業工賃の大半がなくなった。自分でも気合いが入っていると思う。
真っ白なキャンバスをじっと見る。何を描きたいのか、まだわからない。あの、やたらに生気を帯びた「枯木」の絵は不思議に思い出せなくて、なぜかほっとする。あの絵は私の中で変幻自在のエネルギーの塊なのかもしれない。今はとにかくこの、白い四角いスペースが、なんだかうれしかった。
暢子に「ありがとう」と書き置きをして、道具をじゃまにならないように隅のほうにしまって、私はアトリエをでた。
しばらく音沙汰がなかった早苗から電話があった。
「どこへいってたの? 昼間電話したんだけど。デート? 相変わらず純愛してるんだ」
「うん。デートといえばデート、純愛といえば純愛、かな。早苗は? 相変わらずお見合いしてるの?」
「うん、これといって進展なし。すごく強引な男にちょっとひっかかっているけどね。ひどいのよ、いきなり電話かけてきて、あした迎えにいくからな、ガチャン、だもんね。断る暇も何もあったもんじゃないわよ。んーと、なんていったかな、あんたはあーのこーのいっても大事なことは最後にはちゃんと自分で決められる人だから、俺は安心して自分の気持ちをぶつけられるんだ、とかなんとかわけのわかんないことをいうのよ」
「ふうーん」
「わりと骨のありそうなおもしろい人だな、と思って。はじめてじゃない? そういうタイプ」
「まあね。私は経済力があって私を買いかぶらないやつならだれだっていいけどね」
「とにかくがんばってみなよ。今回のそれって、結構おもしろそうだから」
「典子がおもしろがってどうすんのよ。人のことだと思って」
「だって、人のことだもの」
電話口で笑いながら、早苗は近いうちにお見合いを卒業するな、と、私は思った。
仕事場へ向かう廊下の、窓際の花瓶にさしてある水仙が、いい感じだったので、描いてみたくなった。
絵を描こうと思い始めてから、時間があるとスケッチブックに鉛筆や木炭を動かしていた。被写体があったり、頭に浮かんだものだったり、いろいろ描き散らしている。
学校の美術の時間によく水彩画を描かされたが、デッサンで気に入ったものが描けたと思っても、絵の具を使う段になると、はみ出したり、色が混ざりあったりして、まともな絵を描いたことがなかった、
油絵なら描けるかもしれないと思ったのは、最初に暢子の家に遊びにいったときだった。油彩の絵の具は水彩と違って滲まないので扱いやすそうだし、失敗してもあとで修正できる。ただね描く場所とか、道具とか、薬品とか、この仰々しさがなければなあ、と思っていた。家や寮の狭い部屋ではとてもできそうにない。
すっとまっすくな葉の深緑に、花びらのみずみずしい白。花瓶の水仙はどこか颯爽としている。植物はいつも命を主張する。
残り少ない昼休み、時計を気にしながら、私はスケッチブックの上で鉛筆を動かした。
しばらく会えない、といってから、毎週のように日曜日の夜、圭介から電話があった。別に何を話すというのでもなく、元気か、に始まり、仕事のこと、委託されている会社のことなんかをとりとめもなく話して切るのである。
電話というものの威力だろうか、会っているときには気になってしかたがなかった圭介の傲慢さみたいなものを通り抜けて、思いの強さだけが伝わってくる。時々、話が途切れて黙りこむこともあったが、不思議に気にならなかった。電話回線でつながっているだけで満足できる、そんな感じがなんだか心地よかった。
暢子のアトリエの隅でジーンズの上下に着替えてキャンバスに向かう。今日は始めようと思う。
毎週日曜日にここへ通い始めてからもう一カ月になる。キャンパスはまだ白いままだった。今までここで何をしていたかといえば、油絵の手引書を読んだり、スケッチブックにデッサンの練習をしたり、白いままのキャンパスをただボケ―ッと眺めていたのである。やっと描きたいものが見えてきた。
スケッチブックを広げて水仙のところを開く。昼休み、十分たらずで描いたスケッチだった。ほかにもいろいろ描いてみたが、これが一番いい。
しばらくキャンパスを見つめてイメージを浮かべてから、木炭でデッサンする。布でふき取りながら何回も描きなおす。
それから、グリーン系の絵の具で下塗りをする。だいたいの輪郭をとってから、同系色の濃淡で全体の感じが出るように色を置いていくのである。
絵を描くという作業は、創作というより、何かを確かめるという感じだと思った。私の中のイメージがだんだん掘り起こされていく。花びらの淡いグリーンがキャンパスの画面の中で浮き立つ。
油絵の第一段階の下塗りを終えて、ひと息つく。すっとキャンパスと筆先に神経を集中させていたので、作業をやめるとどっと疲れた。
腰かけていた椅子の背にもたれて、私はボーっとしていた。このごろいつも疲れたときには決まって圭介のことが頭に浮かぶ。なぜだろう、とか、ややこしいことは考える気もしないので、浮かぶままにしておいた。心地よい疲れだと思った。
今日はここまでということにして、二十分ぐらいぼんやりした後、体を起して筆を洗い、道具を片づけた。キャンパスがある程度乾くのを待ってイーゼルからはずす。
着替えて外に出ると、もう日が沈みかけていた。風の中に初夏の、ちょっと甘いような匂いがした。
アトリエを出て帰ろうとしたとき、暢子が帰ってきた。コーヒーでも飲まない? と誘われて暢子の部屋にはいる。
「二十五っていうと、普通、適齢期でしょ? お見合いとか、迫られない?」
と、暢子に聞いてみた。なんとなく、今日はそんな話がしたかった。
モノトーンで統一されたその部屋は理知的で落ち着いた感じの部屋だったが、ベッドの脇にいくつかのアンティークドールが、そみだけまだ夢見ているように飾られていて、暢子らしいと思った。
「うちの親って変わってるの」
コーヒーサイフォンを運びながら暢子がいった。
「親って子供に何事もない平穏な人生を望むものよね、普通。典子のいうようにお見合なんかさせたがったり、うちは一人っ子だからお婿さんもらうのに大変だったはずなんだけど、でも、うちはちがうの」
話しながら暢子は、フラスコに水を入れ、アルコールランプに火をつける。
「世離れしているっていえばおおげさだけど、根っからのんきっていうか、おおらかっていうか、奔放なのね。私のことも『お前はおもしろい子だから普通に育てるのはつまらない』とか、『あんたは無過保護にめげないいい根性してる』とか、楽しそうにいうの。一度、冗談で見合いしてみたいっていったことあるけど、『見合いなんかする暇があったらいい恋愛をしなさい』なんていって若いころの話たっぷり聞かされたわ。娘をなんだと思っているのかしら、と思うこともあるけど、本当はすごい親なんじゃないかと、このごろ思う」
フラスコで煮えたぎったお湯がゴボゴボいいながらロートの中へ上がりきる。コーヒーの香りがふわっと部屋いっぱいに広がる。
アルコールランプの火を消して、暢子は白いカップにいれたばかりのコーヒーを注ぐ。砂糖いくつ? といってスプーンを動かしながら暢子は続けた。
「結婚は当分ないよ。まずは相手あってのことだしね。ちょっと前まではやたらと情熱にかられて恋愛したり、女であることにすごく反抗したりしてたけど、いまやっと落ち着いたって感じ。こうして落ち着いてみると、女って、女であることって、だんだんおもしろくなってくるのよね。しばらくひとりでいるわ。ひとりの男と自然にいい関係になるまでね。絵もあるし。白状すると、本当はこれで生計を立てていきたいんだ。でも、まだまだ青二才でさ、そんなたいそうなこととてもいえないからね、すねっかじりの甘ちゃんで通してる。親と暮らすのも結構おもしろいしね。でもいつかは、額に汗して描いた絵を売ったお金でお米を買ってそのご飯を食べてまた絵を描く、っていう、労働者の生活をしたいと思うのよ。絵を描くって、インテリみたいに見えるけど、本当は肉体労働なのよ」
カップをゆっくり傾けながらコーヒーを飲む暢子が、なんだかきれいに見えた。
コーヒーを飲みながらしばらく絵の話をして、帰ろうとしたとき、暢子がふいに、
「典子、今恋愛してる?」といった。
あまりに唐突だったので、どきっとした。圭介の顔が浮かぶ。それがなんとなくいい感じで、私はうなずいた。
「うん、いい傾向だ」暢子がいった。
何がいい傾向なんだろう、と、一瞬考えたが、暢子の笑顔はやたらと説得力があって、私はなんだか納得して、部屋を出た。
「ふうん。背筋をのばして颯爽と歩くキャリアウーマンって感じね」
もう八割方描き上がった私の、「水仙」の絵を見て、暢子がいった。展覧会の準備とかで出かけていた暢子は、置き忘れた書類を取りにアトリエに戻ってきたのだった。
「人物画みたいな、不思議な存在感があるんだ・・・。あ、ごめん。まだイメージ限定させちゃいけないわね。でもほんと、期待してるよ」
そういって、暢子は出ていった。
葉の線をはっきりさせて、バックの色を整え、厚くならないように注意しながら花びらを重ね塗りしていく。自分の筆のタッチがだんだん好きになる。
絵を描くという過程の中で、いろんなことを考えていたような気がする。いろんなことを整理して、不要なものを削って削って削り尽くして,本当の自分を見る。そんな作業を無意識にやっていたような気がする。
キャンバスに手をつけてから二カ月、今日か少なくとも来週には仕上がりそうだ。なんだか、今まで体内で大事に育ててきたものを体外へ産み落とすような、充実感と一種の寂しさみたいなのを感じる。
いつまでも暢子には甘えていられないし(彼女には仕事なのだ)、こんなことはそうそうできないと思う。絵を続けることは難しいとしても、今はキャンパスの中に見えてくる自分を思いっきり華やかに完成させようと思った。
「私、結婚するの」
少し照れながら、しかし、きっぱりした声で早苗がいった。
三か月ぶりの電話だった。予想はしていたが、やはり驚いた。
「例の強引な男と?」
と一応聞いてみる。
「まあね。押し負けってとこかな」
「ふうん」
でも、相手が押してくればくるほど反抗したくなる彼女のひねくれた性格を私はよーく知っている。
「毎日のように電話をかけてきていた相手が、突然、休戦を宣言してきたの。一か月ほどひとりになって俺との結婚本気で考えてくれないかっていうの。それでどうしてもいやだったらきっぱりあきらめるってね。私、本当は八割方断るつもりでいたんだ。収入も安定しているし、今までの男みたいに私を買いかぶっているところもないし、条件としては悪くなかったけど、ちょっとストレートすぎるっていうか、あの激しさにはついていけないなって思ったのね。私も結構まともに考えていたのよ。でも、ある日突然、まあいいかな、って思ったの。妥協とかじゃなくて、自然に、あいつと暮らしてもいいかな、って。自分でも不思議だったわ。それからとんとんとんと話が進んじゃって、式は来年の春。秋には施設を出て家で花嫁修業。なんかおかしいわね」
そういって早苗は少し笑い、軽く息をついて、続けた。
「結婚てさ、やっぱりシビアに条件と条件のぶつかりあいなのよ。典子のいう恋とか愛情とかも含めてね。私たちって、障害という絶対条件があるわけよ。だからハンパなところで妥協しちゃいけないの。そういう愛情も含めた条件がしっかりきっちり噛み合っていないといけないのよ。私ね、今度の縁談、相手があいつでよかったと思う。これだけ条件がよくてさ、あいつがあたりさわりのない普通の男だったら、もっと早く決めてたと思うの。でも、きっといつまでも心がフラフラして落ち着かなかったと思うんだ。あいつだったから、最後のところで自分の気持ち確かめられたんじゃないかって、そんな気がする。私、望みどおりの堅実な結婚選んだつもりだけどね、それ以上になんだかすごく納得してるの」
「それって結局、のろけ?」
「そうよ。わかる?」
「なによ、ぬけぬけと。でも、早苗が結婚か」
「典子」
「うん?」
「恋愛もハンパじゃだめだよ」
「うん」
なんだかしみじみした気持ちで、私はうなずいた。
冷房のきいた静かな画廊から出ると、夏の街ははじけそうにカラフルだった。
私たちは車の置いてある駐車場へ向かってゆっくりと歩き出した。さっきからずっと圭介が黙り込んでいるのが、私は少し気になっていた。
圭介と会うのは四カ月ぶりだろうか。暢子に勧められて展覧会に出品した「水仙」絵が入選して、その展覧会に圭介を誘ったのだった。
私の絵を圭介は黙ってじっと見ていた。ほかの誰に見られても何も感じなかったが、圭介に見られるのは、なんだか裸を見られているようで、恥ずかしかった。
「俺、男だからさ、好きな女ぐらい守ってやれないといけないと思ってた」
松葉づえを運ぶ速度を少しゆるめながら、圭介がぽつんといった。
「こんなこと、今でも典子にはあんまり聞かせたくないけど、結構大変だったんだ、施設を出て食べていけるようになるまで。やっぱりだめかな、と何度も思った。でも、なんとかここまでやってきて、これで典子のこと守っていけるかな、と思ってた。でも、ちかうんだよな」
アイスクリームをもった小さな男の子がこちらを振り返る。
「この四カ月いろんなことを考えてた。仕事ができて収入があって、この状態でしか女を守れない男っていったいなんだろう、と思った。俺の今のこの状態なんてさ、考えてみると、いつどうなるかわからない、どこかがちょっとこければ全部くずれてしまうような、あやういものなんだよな」
女の子たちがおしゃべりをしながら、さざ波のように通り過ぎていく。
「これから先、どんな状態になっても、たとえ寝たきりになっても、俺、典子のこと守ってられるかなって、ずっと考えてた。どんな状態でも絶対途方にくれないでその状態で一生懸命生きて好きな女を愛し続ける。そういうのが本当の男の甲斐性ってもんじゃないかって、そんな気がするんだ」
横断歩道で、私たちは立ちどまった。信号は青だったが、間に合いそうにもないので、次の青まで待つ。
白いストライプの上をいろんな人たちが往来する。
「一緒に歩いてほしい」
青信号が点滅して赤に変わったとき、圭介がいった。
「幸せにできるかどうか、自信はないけれど、どんな状態になっても、典子を守るっていう気合だけはもてる。なんだかたよりない言い方だけどな」
ぽつりぽつりと話す圭介の言葉は確かな重さで私の心に響いた。彼と歩く人生がだんだん現実感をともなってくる。
並んで立っている圭介の、松葉づえをついた広い肩を眺めながら、私は自分に向かってうなずいた。
信号が青に変わる。
またいろんな人たちが渡り始める。いろんな人生たちにまじって、私たちの恋も歩き始める。
横断歩道のくっきりしたストライプの上を、風が光っていくのが見えた。