Chapter 6
学校が夏休みに入ってから、あっと言う間に2週間が過ぎた。7月も半ばに入り、日中は日差しが大分強い。
僕とジェニーは相変わらず、毎日日課の修練をこなし、新月には番人としての仕事をし、残りの時間は図書館に行って本を読んだりして過ごしている。
僕は去年の夏は毎日ガソリンスタンドの中にあるコンビニでアルバイトをしていたけれど、今年は夏休み中に行なわれる協会主催の奨学生試験もあるから、そっちの方に集中したくて、バイトはしていない。実際、僕が5月に行なわれた検定試験に合格して一人前の「門の番人」となってから、僕が行なう仕事に対する報酬が僕宛てに小切手で送られてくるようになったけれど、その額はコンビニでのバイトの比ではない。つくづく、僕はこの仕事に就けてラッキーだったと思う。
先週、初めて協会からの小切手を受け取った翌日、僕はマイクと一緒に町に行き、僕の名義の銀行口座を生まれて初めて作った。17歳の今になるまで、僕は自分の名前の銀行口座を持ったことが無くて、コンビニでバイトをしていた時も、実は現金でバイト料を貰っていた。
マイクに連れられ、僕は生まれて初めて銀行に行った。マイクは慣れた足取りでどんどん奥に行ってしまって、僕は緊張のあまり、一瞬マイクを見失ってしまったけれど、奥の方で僕らを迎えてくれた人の良さそうなオジサンの笑顔で、僕の緊張もいくらか解れた。
マイクが僕の口座を作るために来たことを伝えると、そのオジサンは僕らを彼のオフィスに招き入れてくれ、あっと言う間に手続きが済み、三十分もしないうちに僕の人生初の銀行口座が設けられ、僕の初めての小切手が入金され、僕は仮の小切手帳を受け取っていた。
小さな1冊の小切手帳で、何だか「大人」になったような気がした。
「何だい、ダン。いつまでも小切手帳を眺めたりして」
帰りの車の中で飽きずに小切手帳を眺めていた僕に、マイクが呆れたようにそう言った。
「あ、え、えーっと。だって、これが、僕のものなんですよね?」
「そうだよ。1、2週間もすれば、君の名前がちゃんと印刷された新しい小切手帳や、ATMカードが届くからね。ATMカードはクレジット・カードみたいに買い物に使うことができるけど、預金残高は常に自分の頭の中に入れておくこと。いいね?」
「はい。もちろんです」
「ハハ。まぁ、君ならジェイクみたいに無駄遣いはしないと思うがね」
「ジェイクって…。そうなんですか?」
「ああ。あいつ、金が入るとすぐに使ってしまうんだ。将来のために貯めるってことを考えないんだよ。あいつの将来が心配だよ」
小さな溜息混じりにそう言うマイクの話を聞いて、ジェイクの部屋の中に溢れるCDや雑誌の山を思い出し、僕は一人で納得した。それと同時に、やっぱり、あのジェイクがコツコツと貯金をするようなタイプには思えない。僕はそれを思って、一人でクスッと笑ってしまった。
「あ、すみません。何か、ジェイクらしいなって思って。あ、あと、今日は本当に、ありがとうございます」
僕はそうマイクに言うと、軽く頭を下げた。
「マイクさんがいてくれなかったら、僕、あの協会からの小切手を持ったまま、どうしたらいいのかわかりませんでした」
恥ずかしい話しだけど、僕は生まれてこの方、小切手と言うものを見たことが無かった。そんな僕が協会から送られてきた小切手を僕宛の封筒から取り出し、最初に言った言葉は「これ、何?」だった。その瞬間、オルセン家の人々は皆、キョトンとしていた。その後でマイク達と話して、僕が小切手を見たことがないことや、銀行に行ったことがないこと。銀行口座も持っていないということがわかって、早速、銀行口座を作りに来たわけだ。彼らがいなかったら、僕はあの小切手を銀行に入金することも無く、小切手はただの紙切れになってしまっていたかもしれない。
「いや…。口座が無いと、これから先、不便だからね。今度、君のATMカードが届いたら、ATMの使い方を教えてあげよう」
「はい、お願いします」
マイクに元気に返事をして、ふと、ちょっとした疑問が僕の頭を過ぎった。
「あの…。一つ、質問してもいいですか?」
「ん? どうぞ?」
「普通は、僕くらいの年齢には、銀行口座って持っているものなんですか?」
僕の問に、マイクは「うーん、そうだねぇ…」と言いながら、何か考えているようだった。
「その人の、家にもよると思うがね。例えば、うちではジェニーが番人として仕事を始めたのが早かったから、あの子は比較的幼いうちから自分名義の口座を持つようになった。まぁ、カードは最近まで持たせていなかったけれどね? 一般的には、大体中学生か高校生くらいで持つんじゃないかな。アルバイトをするとなったら、銀行口座は必要だしね。そういえば、ジェイクは中学に入ってからだったかな。ま、大学に入る前には持っておくべきものではないのかな。大学に入って親元を離れたら、必ず必要だと思うしね」
「大学…」
「ああ。そう言えば、協会の試験までもうすぐだね。修練は大分進んでいるから、私は何も心配していないがね」
車はオルセン家に到着した。車から降りながら、マイクが思い出したように僕に言った。
「そうそう、ティアナとアンガスは、今回の試験でも試験官として参加するようだよ? 先日、メールでそう伝えてきた」
「本当ですか? 知っている人がいると、何だか心強いです」
喜んだ僕を見て微笑んでいたマイクは、僕の肩に手を乗せ、僕の目を見ながら言った。
「とは言え、彼らも贔屓は一切しないから、しっかり頑張りなさい」
「はい!」
僕らが家に入ると、待ち構えたかのようにジェニーが居間のソファから飛び降りた。
「おかえり! ちゃんと口座は開けた?」
「うん。ちゃんと小切手も入金してきたし、仮の小切手帳も貰ってきたよ、ほら」
「おおー」
僕が掲げた小切手帳を見上げながら、ジェニーが賛美の拍手をした。何か、宝物を手に入れたような気分で僕は胸を張る。
「で、今のご気分は?」
ジェニーがテレビのレポーターのように手をマイクを持つような形にして、僕に差し出しながら言った。
「何か、大人になったな、って」
「ぷっ! 何それ!」
「笑うなよ。本当にそう思ったんだ」
クスクスと笑い続けるジェニーに、少しムッとしながらそう言うと、ジェニーが必死に笑いを抑えようとしながら首を横に振った。
「ああ、ごめんごめん。別にバカにしたわけじゃないよ? ただ―」
「ただ?」
聞き返した僕を見上げるような形で、ジェニーが答えた。
「何か、ダンがカワイイなって…」
「カ…」
(カワイイ?)
言われ慣れない単語に、どう反応していいものやら困りながら思考を巡らせていると、ジェニーが申し訳なさそうな顔をして言った。
「あ、ごめん。男の人にカワイイなんて、やだったよね?」
どうやら、ジェニーは僕が怒っていると思ったらしい。
「いや、別に、いいけど、さ」
そういう僕を少し泣きそうな顔で見上げるジェニーに、言葉を足す。
「別に、怒ってないよ?」
言葉だけじゃ足りないかなと思って、ジェニーの頭を少し撫でると、ジェニーが僕から顔を反らした。以前だったら、これで機嫌が直っていたのに、最近のジェニーは色々と難しい。
「ジェニー、ごめん。カワイイなんて言われたの、初めてだったから。どう反応したらいいのか、わからなかったんだ」
「……」
ジェニーは無言だ。まだ何か拗ねてるのか?
「機嫌直してよ。ほら」
ようやく僕の方に顔を向けたジェニーは、どういうわけか顔が真っ赤だ。風邪でも引いたのかな?
僕がそっとジェニーの額に手を置いて熱を測ろうとしたら、ジェニーの身体がビクっと大きく震えた。
「!!」
「熱は…。少しあるみたいだね。ジェニー、身体、だるい所とか無い? 部屋で寝てた方がいいんじゃない?」
「こ、これは…!」
真っ赤なジェニーが、何故か身体を硬直させながら言った。
「風邪じゃないからっ! ダ、ダンのせいだからっ!」
「へ?」
理由が判らずにジェニーを見詰めると、ジェニーがまたフイと顔を反らせた。
「な、何それ…?」
「もう、いいから! 私、部屋に行く!」
ジェニーは駆け足で階段を昇って行った。
「何なんだよ、あれ…」
僕が呆然と廊下で立ちすくんでいると、後ろからクスクスと明るい笑い声がした。振り向くと、そこにはやんわりと微笑むローラがいた。
ローラは、僕と目が合うと小さく肩をすくめながら言った。
「あら、ごめんなさい。邪魔しちゃったかしら? でも、本当、若いってス・テ・キ♪」
ほう、と夢見心地で溜息を吐きながらそう言うと、ローラは僕に軽くウィンクしてキッチンへと戻っていった。
何なんだろう、今日は。僕にはさっぱり、彼女達が言ってることの意味がわからない。
7月の終わりに、僕とジェニーが選抜試験へと旅立つ日がやって来た。
家でジョアンおばあちゃんや猫達と別れた後、マイクが運転する車で僕とジェニー、ローラは空港へと向かっていた。
「IDは持ってるわね? 空港のセキュリティを通る時に必ず必要だから、どこに入れたかちゃんと覚えておきなさい? それと…」
助手席で心配そうに注意事項の確認をするローラを、ジェニーが後部座席から遮った。
「財布はやたらと出さない、キョロキョロしない、道がわからなかったら制服来てる警察官に尋ねる、でしょ? もー、わかったわよー。何度も何度も、この数週間呪文みたいに聞かされてきたんだから~!」
「でも、心配なのよ~」
「大丈夫だって! ね、ダン?」
僕に同意を求めるジェニーには悪いけど、これだけは言わせて欲しい。
「あの…。僕、実は飛行機に乗るの、今回が初めてなんですけど…」
「えっ?」
「まぁ!!」
「ええええ?!!」
車の中に、三人の驚いた声が響いた。
「す、すみません。別に、隠してたわけじゃないんですけど、何か、こう、言いそびれたっていうか…」
「あ、あ、IDはあるよね? ちゃんと何かしら持ってるよね?」
半分泣きそうな顔をしながら尋ねるジェニーに、僕はしっかりと頷いた。
「あ、それは大丈夫。僕、学校のドライビングコース取ったから、一応、運転免許はあるんだ」
「よ、よかった…! セキュリティのところで離れ離れになっちゃうかと思った~」
大げさに安堵の息を漏らすジェニーも、内心は、この旅行で少し緊張しているのかもしれない。あれほど「余裕、余裕」と言ってはいるけれど、両親抜きで旅行するのは今回が初めてだと言っていたし。
門の番人を統括する協会から大学の奨学金を受けるための選抜試験は、今年はオレゴン州で行なわれる。
「全く、何だってオレゴンなのよ。同じ西なら、カリフォルニアでもよくない?」
選抜試験の要項が書かれた資料を受け取った数週間前から、ジェニーは延々、文句を言い続けている。でも、他に行なわれたことがある地域は、どこをとっても人口が少なそうなエリアばかりだったから、きっとこれがオレゴンじゃなくても、ジェニーは同じ文句を言っているんだと思う。
マイクがやれやれと言った口調で言った。
「去年の試験は、カリフォルニア州だったそうだけどねぇ…」
「え? 本当? 何よそれ、ずるい! オレゴンよりよっぽどいいじゃない!」
ジェニーの言葉を聴いて、マイクとローラは一瞬、顔を見合わせてフッと笑った。
「カリフォルニアはカリフォルニアでも、デスバレー国立公園の中での、サバイバルキャンプだったそうだよ? しかも、この時期に」
今日は晴れていて、真夏の日差しが強い。ここでこれだけ強いのだから、灼熱地獄になるという噂のデスバレーの中は、尋常ではないくらい暑いはずだ。
ジェニーも同じことを思っていたらしく、窓の外を眩しそうに眺めた後に、ポツリと言った。
「……ごめんなさい。やっぱり、オレゴンで結構です」
マイクとローラの二人と空港で別れた後、僕らは割りとスムーズにチェックインを済ませ、セキュリティを抜け、無事に飛行機に乗ることができた。
初めての飛行機は、時々ガクっと下がる様な感覚がして冷や汗が出たけれど、色々と興味深いものだった。
降りる時に頼んだら、パイロットの人が少しだけ操縦席を見せてくれた。操縦席には色んなメーターが所狭しと付けられていて、何だかSF映画の中みたいだ。
もう少し見たり質問したりしたかったけれど、残念ながら僕らは乗り継ぎをしなければならなかったので、時間に焦ったジェニーが僕の腕を引っ張って操縦席から僕の身体を切り離した。
「あああ~! もうちょっと見たかったのに!」
「子供みたいなこと言わないのっ!!」
そう。この道中、僕はまるで、探険ごっこを楽しむ子供だった。何しろ、色んなことが初めて経験することで、僕の興奮度は、かなり振り切れていたんじゃないかと思う。
そんな僕にジェニーは笑ったり呆れたりで、僕らは僕らなりにこの旅行を楽しんでいた、と思う。
乗り継ぎの飛行機にも間に合い、僕らはようやくオレゴンに到着した。ポートランド空港は、オレゴンで最大の都市にある空港の割には、何だかのんびりした空気が漂っていた。
「えーっと、確か、待ち合わせの場所が…」
空港には、協会の人が迎えに来ていて、僕らを試験の会場まで連れて行ってくれることになっている。
指定された場所まで行くと、そこには見覚えのある人物が、他に数人の人達と一緒に待っていて、僕らの姿を見つけるとこちらに向かって大きく手を振った。人懐こそうな笑顔は相変わらずで、僕らは彼の笑顔を見てホッと胸を撫で下ろした。
「ジェニー、ダン。こっちだ!」
「お久しぶりです、アンガス」
5月の僕の番人検定試験の時に、試験官として協会から派遣されてきたアンガスだった。
「二人とも、無事に到着してよかったよ。今日は君たちが最後なんだ。じゃ、皆揃った所で出発しようか。君たちの自己紹介は車の中でいいかな?」
「はい」
アンガスを筆頭に、僕らは駐車場に向かって歩き始めた。
アンガスの他は、アンガスと一緒に話しながら歩いている金髪の若い女性。見た感じでは、彼女も試験官の一人だろうか。
他は僕らと同じ年代の男子が4人と女子が1人。全員、僕らの方をチラチラと伺いながら歩いている。
『僕ら』と言うよりは、ジェニーを気にしながら、そのついでに僕が彼らの視界に入っていると言った方が正しいかもしれない。
「あの」
駐車場へと向かう連絡通路の途中で、少し赤みの掛かった金髪を小さなポニーテイルにしている女の子がジェニーの横に寄ってきて声を掛けた。
「え? あ、何?」
ジェニーが微笑みながら彼女に顔を向けると、その子は一瞬驚いたように両目を開いて、「あ、えと、あの」とモゴモゴと言いながら俯いき、ジェニーが困ったように首を傾げた。
「えーっと、私はジェニー。ジェニー・オルセン。よろしくね? あなたは?」
ジェニーが軽く挨拶をすると、女の子は少し安心したように顔を上げて微笑んで、小さな口から小さな声が恐る恐る出てきた。
「あ、あの、わ、私は、アイリーンっていいます。アイリーン・デービス、です…。え、えっと、今回の試験で、女の子は私とあなたと、あともう一人の子と、3人だけみたいなので、よろしくお願いしますね?」
「え? そうなの? じゃあ、他は全員男の子ばっかり?」
「ええ。待ってる時に、ジャネットさんがそう仰ってました」
「ジャネットさん?」
ジェニーが首を傾げながら尋ねると、アイリーンは頷いて、前の方を見た。
「ええ。アンガスさんと一緒にいらっしゃる、あの金髪の女性です。今回の試験官のお一人だそうですよ?」
アイリーンの言葉にアンガスの方に視線を移すと、アンガスの隣に並んで歩く金髪の女性の後姿が見えた。
「へえ~。じゃ、女の子同士、仲良くしようね、アイリーン」
ジェニーの言葉に、アイリーンが嬉しそうにはにかみながら「こちらこそ」と応えた。
ここに来ているということは、多分アイリーンも16歳か17歳だとは思うのだけれど、小柄で童顔なアイリーンは、ジェニーと一緒に並んでいると同い年とは思えない。どちらかと言うと姉妹みたいだ。
そんなアイリーンが気に入ったのか、ジェニーは何やら楽しげに会話をしている。そういえば、ジェニーが女の子と楽しそうに話をしているのって、あまり見たことが無いかもしれない。学校でも時々、エマと二人で話しているのを見かける程度だ。
そう言えば、以前、ジェニーがチラッと言っていた。彼女は、門の番人である自分が、そうでない人々とそう接していいのかが、よくわからないのだと。確かに、僕とジェニーは幼馴染とは言え、僕が番人になるまでは少し距離を置かれていたような気がする。ジェニーは、あまり自分のことを話さない子供だったし。
ジェニーがアイリーンと仲良くなってくれるといいかもしれないと思いながら歩いていたら、ふと、左肩を軽く叩かれた。
「え?」
少し驚いて左を向くと、そこには少し赤みが掛かった金髪がきちんと整えられた男子が立っていた。背は、僕と同じくらいか。スラリとしていて、ポロシャツの似合う、ジェニーが言うところの「王子様タイプ」ってやつかも知れない。
彼は驚いた僕に少し驚いて、すぐに「すまない」という顔をして言った。
「あ、ごめん。驚かせるつもりは無かったんだ。声を掛けたんだけど、君に聴こえていなかったみたいだから」
「え? あ、そうなんだ。ごめん。少し、考え事をしてたから」
「…彼女のこと?」
「あー、うん。あのまま仲良くなってくれるといいかなって」
「僕もそう思うよ。アイリーンには、友達があまりいないから」
「あ、君、もしかして、あの女の子と兄妹か何か?」
僕の疑問に、彼は微笑みながら頷いた。
「ああ。アイリーンと僕は双子なんだ」
(ああ、なるほど)
道理で髪の毛の色が同じなわけか。彼は「あ」と小さく言うと、僕に向かって右手を差し出した。
「ごめん。自己紹介がまだだったね。僕はティム。ティム・デービス。君は?」
「僕はダン・ウィーザーです。ヨロシク、ティム」
「ヨロシク」
駐車場に停められていたミニバスに乗り、僕らはポートランド市街から2時間ほど離れた場所にある農場へと連れてこられた。
農場には母屋の他に大きな別館があり、僕らはその中へと案内された。少し古いその建物は小奇麗に整頓されていて、まるでウェスタン映画にでも出てきそうな雰囲気がある。
それぞれ、二人から三人の相部屋に通され、食事の時間と場所の指定を受けた後、短い自由時間になった。僕はティムと相部屋で、もう一人明日到着するとのことだった。
「何人くらい、ここにいるのかな?」
僕がふと、そう尋ねると、荷物を解いていたティムが「50人くらいだと聴いている」と答えた。
「ご、50人…?」
意外と多いんだなと思いながらそう言うと、ティムは平然とした様子で言った。
「ああ。全米及びカナダと南米から選抜された50人がここに集う。その中から、何人が本選に残るかは知らないけどね」
「本選…って?」
僕が尋ねると、ティムはちょっと驚いた顔をした。
「君、これから何が行なわれるか、知らないのか?」
まるで知っていて当たり前のような口調でそう言うティムに、僕は少しムッとしつつ答えた。
「何って…。『選抜試験』だろう?」
「ああ。だが、その選抜試験に入る前に、身体測定と健康診断、それから基本実技の試験がある。そこである程度ふるいに掛けられるんだ」
「へえー。それって、別に難しくないだろう?」
「普通は、な。だが、去年は集められた50名のうち、選抜試験の本選に残った者は、15名だったと聞いたが…」
「50人中、15人…? 半分以下か。それは厳しいね」
「ああ。ある程度、実力がある者達が北米や南米から集められているにも関わらず、だからな」
ティムの言葉に、僕はある疑問が浮かんだ。
「ティム。『ある程度』って言うのは、どのくらいのレベルのことなのかな?」
「えっ?」
ティムが驚いた顔をして僕を見た。
「ごめん。でも、僕は門の番人になってまだ日が浅くて、他の番人はオルセン家の人たちしか力を見たことがないし。他の番人がどのくらいの力を持つのか、実際のところ、よくわからないんだ」
僕の言葉に、ティムは「ふむ」と呟いて右手でアゴをさすりながら少し考え、そして口を開いた。
「君の知っているレベルは、かなりハイレベルだと思うよ? 僕の知る限り、オルセンは番人の一族の中でもトップレベルの力を持つはずだ。言い換えれば、彼らは『普通』じゃない。それより君、さっき、番人になって日が浅いって言ったかい?」
「ああ。そうだけど…?」
僕がそう言うと、ティムは興味深げに僕を見詰めた。端正な顔が少しずつ近づいて来て、僕は焦った。
「な、何…? どうしたんだよ、ティム?」
少し後ずさると、やっと僕らの間の距離に気付いたティムが一瞬ハッとしながら顔を離した。
「ああ、すまない。ダン、君って、もしかして…。一族外の出、か…?」
「そうだけど…?」
僕の返事に、ティムの表情が一気に凍りついた。
「―と、言う事は、君が『噂の』一族外の受験者、か…」
一瞬、僕を見るティムの瞳の奥が光ったような気がして、僕は身構えた。身体の奥が、門の綻びを感じた時のように警鐘を打つ。
「『噂』って、何だよ…?」
僕の警戒心を感じ取ったのか、ティムがフッと鼻で笑いながら前髪をかき上げた。
「ああ。僕の両親が小耳に挟んだ噂なんだけどね。今年の選抜試験の受験者のうち、『姫君』を除いた中で最も注目されているのが、今回唯一の一族外出身者だと言うんだ。それが…」
ティムがニヤリと微笑みながら僕に近付いた。
「君、というわけだ」
ティムの全身から威圧感を感じ、僕は掌にうっすらと冷や汗を掻いていた。
(何だ、これ…?)
ティムはフッと笑うと、僕から少し離れた。それと同時に、辺りの空気が少し歪んだ。
「君の力を、早くこの目で見たいものだよ。楽しみだ」
ティムはそう言うと、部屋から出て行った。それと同時に、張り詰めて重く感じていた部屋の中の空気が元に戻った。
しばらく呆気に囚われながら閉じられたドアの方を見ていたら、そこからコンコンとノックの音がした。微かに僕の名を呼ぶ声が聴こえる。
「あ、はい?」
「ダン? 私」
ジェニーの声が聴こえた。
「入っても、いい?」
「どうぞ」
僕の返事の後、ドアが控え目に開けられて、向こうからジェニーの顔が半分だけ見えた。
「何、覗いてるんだよ。いいよ、入っても」
「あ、うん。お邪魔します」
ジェニーは部屋に入ると、少し興味深げに部屋の中を見回した。
「ふーん」
「ふーんって、何?」
「あ、ううん。私たちの部屋と比べて、何だか殺風景だなーって思って。ダン達も3人部屋なんだね。誰がルームメート?」
「ティムと、あと1人は明日到着するんだって」
「へえー。私はアイリーンと同室なの。まぁ、女の子は私たちだけみたいだから、当然なんだけど…。もう一人の女の子は、明日到着するんですって」
ジェニーがそう言いながら、窓の外を覗いた。僕らの部屋は2階にあり、窓からはすぐ横にある放牧場の牛がよく見える。部屋に入ってすぐ後に窓の外を覗いた時、手が届きそうな位置に牛の背中が見えて驚いた。
「ナイスな牛ビューね」
ジェニーが苦笑しながらそう言って肩をすくめた。
「幸い、それ程うるさくないから助かったよ」
「夜はさすがに、牛舎に入ってるんでしょ?」
「そうだと嬉しいけど」
僕らはお互いの顔を見合ってクスクスと笑った。それと同時に、僕の肩から力が抜けていった。気付かなかったけれど、僕はティムと話していた時に、かなり肩に力が入っていたらしい。
「あ…」
「何?」
ジェニーが首を傾げながら僕を見ている。ジェニーのこういう仕草は子供の頃から変わらなくて、僕の心の奥が暖かくなる。
「い、いや。意外と緊張してたんだなって思って」
「私も、さっきちょっとベットに横になったら身体が重くって。何だかんだ言って、結構疲れてるのかもって思った」
「うん」
少し開けられた窓から、草の匂いの混じった暖かな風が入ってきた。ふと、ジェニーが何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、ここに来る時にティムとすれ違ったんだけど、何かあったの?」
「う…ん。どうして?」
ジェニーが「うーんとね」と言いながら、少し考えを巡らせた。
「何かこう、空港で会った時と雰囲気が違ったから、かな? こう、ちょっと黒いオーラが出てた感じ」
「ああ、うん」
「…ケンカでもしたの? まだ初日なのに?」
「そうじゃないよ。そうじゃなくて…。えーっと、あれ…?」
ティムとの会話を思い出してみたけれど、何故ティムが急に攻撃的な態度を取ったのかがわからなかった。
「確か、『ある程度の力』って何かって僕が訊いて、その後、僕が一族外だってことで、ティムが何か気を悪くしたみたいで…」
「ふーん」
「僕が一族外から来た受験者だって知ったら、何だかやたらと挑発的な態度になって…。何か訳わかんないよ」
僕の言葉に、ジェニーは申し訳なさそうに言った。
「一族の人間には、一族外の番人にそういう態度を取る人もいるけど…。でも、ティムがそうなのはちょっと意外よね。割りとこう、初対面の時は優しい雰囲気じゃなかった?」
「うん…」
僕が少し溜息を付くと、ジェニーが何かを思い出したように言った。
「あ、でも、苗字が『デービス』か…」
何かを納得したように一人で頷くジェニーに、僕は尋ねた。
「それって、何か意味があるのか?」
「うん。あのね、パンドラと夫の門番との間に生まれた娘から生まれた子供達は7人いてね、それぞれの血統のうち、現代まで残っているのは4家あるんだけど、そのうちの一つがうち。それで、『デービス』もその中の一つなの。ちゃんと確認してないけど、多分ティムとアイリーンはその血筋だと思う」
「でも、パンドラは母から娘に伝わるんだろう? なのに、苗字が残るわけ?」
「うん。だって、パンドラ、もしくはパンドラ予備軍の女性と結婚する時に、女性の姓を残すんだもん」
「ちょっと待って。『パンドラ予備軍』って、何?」
僕の質問に、ジェニーが「あれ、言ってなかったっけ?」と言って肩をすくめながら説明を始めた。
「パンドラって、普通は母から娘に伝わるんだけどね。全てのパンドラが娘を産めるわけでも、全てのパンドラの娘達が門の番人としての力があるわけでも無いし、パンドラの娘に何かがあって、パンドラになる前に死んじゃう可能性もあるでしょう? でも、『パンドラ』を繋げていかなくちゃいけないから、パンドラ4家の同じ様な年齢の女の子の中でパンドラになれる素質のある子達は、予備軍として教育されるの。うちの先祖がパンドラを継ぐ前は、『フェルプス』っていう家系が主にパンドラを継いでたそうなんだけど、ある代のパンドラの子供が全員男で、しかもその男の子達が全員流行病や戦争で亡くなってしまったんですって。それで、うちのご先祖様がパンドラに選ばれて、今は母さんがパンドラなわけ」
「で、その次が君なわけ、か…」
「うん」
「で、デービスはその予備軍?」
「そう」
「じゃ、アイリーンは…」
「パンドラ予備軍、ね」
「で、他の2家は?」
「えーっとね、ちょっと紙とペン貸して?」
僕はまだ床に置きっぱなしだった僕のバックからノートとペンを取り出すと、ジェニーに渡した。ジェニーは真新しいノートの最初のページに、PANDORAと縦に書いた。
「パンドラ7家って、並べるとPANDORAになるのよねー。覚えやすいでしょ? Oはうち、オルセンでしょ。Dはデービス。でね、残りは…」
ジェニーは残りに文字を足していった。上から、フェルプス、アンダーソン、ネルソン、デービス、オルセン、リチャードソン、そしてアルバート。
「このうちね、フェルプスとリチャードソンとアルバートはもう無いの。で、残ったのがうちと、デービス、アンダーソンとネルソンの4家」
「へえー」
僕はジェニーからノートとペンを受け取ると、オルセンにジェニーの名を、デービスにティムとアイリーンの名を書いた。
「他の2家にいる予備軍って?」
僕の質問に、ジェニーが首を傾げた。
「さあ?」
「へ?」
僕は少し驚きながらジェニーを見たが、ジェニーの回答は冗談では無かったようだ。
「し、知らないの…?」
「うん」
僕の質問に、ジェニーは悪びれずに即答した。
「ええ?」
「だって、交流無いんだもん」
「そうなの?」
「うん。パンドラ4家は、お互いを干渉しないように、それぞれが距離を置いた場所を拠点にしてるし、よっぽどの一大事で無い限りは、会うことはないのよねー。でも、協会の幹部の人たちは、把握してるんじゃないかな?」
「…なるほど、ね」
「気になる?」
ノートの上の文字を見つめていたら、不意にジェニーがそう尋ねた。
「うーん…。まぁ、気にはなる、かな…。僕に無関係な話でもないしね」
「それは…。ダンが『鍵』だから?」
「うん」
その瞬間、視界が塞がった。
(え…?)
ふんわりと何かいい香りが鼻をくすぐる。暖かい。
呆然としている僕の右耳に、微かな声が響いた。
「…せない」
「え…?」
呻くように聞き返すと、もう少しはっきりとした声が返って来た。
「させない。鍵になんか、させない」
僕の首に回されたジェニーの腕が、小刻みに震えた。
「ダンを、鍵になんて、させない」
ジェニーは、同じ言葉を呪文のように繰り返していた。
「ジェニー…」
何だろう、この気持ち。
哀しいのに穏やかで、嬉しいのに切ない。
身体に直に伝わってくるジェニーの鼓動を感じながら、そこからさらに身体の奥に痛みが広がる。
開いた門に引きずり込まれるような感覚さえして、僕は無意識のうちにジェニーに縋り付いていた。
「ダ、ダン…? 大丈夫?」
耳元に、ジェニーの戸惑ったような声が聴こえた。いつもの、僕を暗闇から引き上げてくれる声。
僕はジェニーの肩越しに少し深呼吸をすると、手を少しだけ緩めた。でも、今、自分の腕の中にあるものを手放すのは、そのまま全てを失ってしまいそうで怖かった。
「ん…。ごめん。もう少し…。もう少しだけ、こうしてて」
卑怯なのはわかってる。でも、今は縋っていたかった。だから、正直言ってジェニーが「うん」と小さく返事をしてくれたのは、とても嬉しかったんだ。
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私たちがどのくらい、そうしていたのかはわからない。
ただ、抱き締めていないとダンがどこかに行っちゃいそうな気がした。
昔から時々、ダンはふっと消えてしまうような感じがすることがあった。意外と脆いんだなと思ったのは、ダンが家で倒れた時かもしれない。
ダンは、私が守る。うん、大丈夫。
ダンが家で倒れて部屋で眠っていた時、私はリビングルームで母さんと二人きりになって話をした。
今まで、他愛の無い話は沢山したけど、あんな風に一人の人間として対等な立場で話をしたのは、多分あの時が初めてだったと思う。
今までも言ってたこと、言ったことがなかったこと。自分のこと、パンドラのこと、鍵のこと、そしてダンのこと―。
私は、その時私の心の中に溜まっていたものを全て、母さんに話した。母さんは頷いたり、驚いたり、真剣な表情をしたりして、私の話を聞いてくれた。
そんな中、母さんが私に尋ねた。
「ジェニー。あなたにとって、ダンって一体、何なのかしら?」
「何って…?」
初め、母さんの質問があまりにも漠然とし過ぎていて、私には何のことやらさっぱりわからなかった。
「んー。どういう存在っていうか、どういう意味のある人?」
「存在…。意味…?」
「ええ。考えたことは、あるかしら?」
「友達、とか家族みたいな?」
「うーん。そうじゃなくて…。もっとこう、あなたの心の中における立ち位置っていうか…。彼がいるとあなたはどう思うのか、いないと何が違うのか、とか?」
母さんのいう言葉は随分と曖昧だけど、言いたい事は、何となく私にもわかった。
私は、母さんの目をしっかりと見ながら言った。
「大事…。大切なの。それじゃ、答えになってないかな?」
母さんはフッと表情を和らげると、うっすらと微笑みながら頷いた。
「いいと思うわ。なら、大切になさい」
「うん」
私はそう言うと立ち上がり、部屋に戻ろうとした。
「ジェニー」
「ん?」
母さんに呼び止められて振り返ると、母さんは申し訳ないような顔をして言った。
「あなたを、パンドラにしてしまうこと。許してね?」
何を今さら―そう言おうとして、口をつぐんだ。
私がパンドラになれば、いつか、『鍵』であるダンをこの手で殺してしまうかもしれない。母さんは、それを心配しているのだ。
私が、私の大切な人を、私のこの手で葬る未来を、彼女が与えてしまうことを。
「母さん、私ね」
自信なんて無い。それでも、私はやるって決めたから。
「ダンを、鍵になんてさせない。例え私の中のパンドラの血がそう望んだとしても、絶対にさせない」
キュッと握った掌に爪が食い込んだ。
「絶対に、させない…!」
私はそう言ってリビングルームを出た。閉じた扉の向こう側から、母さんがすすり泣く声が小さく聴こえた。
私は、泣かない。ダンだって自分の運命と戦ってるのに、パンドラである私が負ける事は許されない。
そう、許されない。
それくらい、私たちは大きな罪を背負って生きている。
パンドラの、果てしなく大きな罪を。
「ごめん。もう、大丈夫だから」
ダンの声が身体を伝わって聴こえてきて、私は我に返った。
我に返ってみると、何て大胆なことをしてるんだろう、私ってば…!
「あ、う、うん。よかった!」
私は誤魔化しながらダンから身体を離した。離れた身体の間に風がすっと通って、何だか寒く感じた。それを何故だか寂しく感じていると、手に暖かい物が触れた。ダンの手だ。
私たちは無言のままで、しばらくお互いの指を絡め続けていた。ダンの手は意外と大きくて、長い指が妙にセクシーと言うか…。
そんなことを考えていたら、妙に頭に血が上った。全身が変な熱を発している。
(何これ!)
変。私、変!
身体中の力が暴走するような感覚。「気」の制御が利かない。こんなの、私じゃない。
少しパニックになりかけた私にいち早く気付いたダンが、私を引き寄せた。耳がダンの胸に当てられて、ダンの心臓の音が聴こえた。
「ジェニー、大丈夫?」
「だ、だ、大丈夫。多分…」
「気が乱れてる」
「う、うん。知ってる」
「体調でも悪いの?」
「そうじゃないから、大丈夫よ」
「これも…。僕の、せい?」
ダンの戸惑ったような声が頭の上から降って来て、私は一瞬、答えるのを躊躇った。
「それは…」
でも、こういう時のダンは、自覚があるんだか無いんだかわからないけど、とっても意地悪だ。
「それは?」
何で聞き返すのよ…。それじゃ、答えないわけにいかなくなるじゃない。
私は身体の奥から、その答えを無理矢理に外に出した。
「ある意味『イエス』よ、きっと」
「え?」
思い切って顔を上げると、少し驚いたような顔をしたダンと近い距離で目が合った。
窓から射し込んでくる光が暖かくて。窓の隙間から入ってくる風の香りが甘くて。遠くに聴こえる森の木のざわめく音が心地良くて。ダンの体温が温かくて、ダンの瞳の緑色が、綺麗で―。
そこから先、何がどうなってそうなったのかは、よく覚えていない。
気が付いたら、私達は唇を重ねていた。
最初は軽く、触れる程度で。次は少し長めに。
それは確かに、挨拶とは違う。幼馴染とも違う、何か、初めてなもの。
心臓が、破裂するかと思った。