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門の番人  作者: 成田チカ
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Chapter 5

 「検定試験」なんていうから、何か決められた筆記試験だの実技試験だのをやるものかと思っていたら、門の番人となるためのそれは、どうやらそうではないらしい。

 試験当日。その日、僕は学校を一日休まされ、試験官の二人と行動を共にした。

 やることは「普段週末に行なっている一連の修練を行なう」というものだった。それを聞いた時は、はっきり言って拍子抜けした。でもまぁ、「本番」は夜なんだろう、きっと。だって、今夜は新月だ。

 僕は普段行なっているランニングから始め、柔軟体操、筋トレなどの基礎訓練から瞑想などの基礎修練を黙々とこなした。朝食や昼食まで、試験官であるティアナとアンガスは僕に引っ付いて回った。僕が一人になれるのはトイレの中だけという、何とも異様な事態だ。

 マイクとローラからは事前に、彼らは「普段の僕」を見ているのだと聞いていた。それを聞いてはいたけれど、監視されているみたいで何だか変な感じだ。

 二人は僕と一緒にいる間、一言も話さない。まるで自分達は最初からそこにいないかのように振舞っている。不思議なことに、あれほど強く感じていた二人の覇気は、今日は全く感じない。意識しなければ、二人はまるで空気のようだ。気の強弱をこれほどに意図的にコントロール出来るなんて、余程のスキルがないと出来ることではない。どうやら彼らが協会の「上の人」であると言うのは、本当らしい。

(僕にも、出来るのかな…?)

 今日の修練の間、僕は自分の気をコントロールしようと試みた。だけど、やっぱりこれは、思いつきだけですぐに出来るというものではないらしい。大体、気を高める修練ばかりを積んでいる今の僕に、その高めた気を逆に失くせというのは、かなり力に無理がある。

(まずは、気を最大限まで高められるようになって、制御のことを考えるのはそれからかな)

 彼らと一緒に時間を過ごしながら、僕は自分の未熟さを痛感していた。


 夕暮れ時になり、オルセン家の居間にいた僕は、遠くに空気の微妙なズレを感じた。今夜は新月。一月で門が最も緩みやすくなる日だ。

「あっちの方向に門を感じるけど、どう?」

 僕は窓枠に座りながら外を凝視していた二匹の門探知猫に問い掛けた。二匹のうち、灰色猫のスモーキーが振り返り、少ししゃがれた男性の声で答えた。

「ああ。北東の方角に二つ、現れかけてるな。手前の方のは結構デカイ。どうする? マイク」

 スモーキーが僕の後ろに立っていたマイクに尋ねると、マイクが頷きながら言った。

「では、大きな方をジェニー。小さな方をダンが閉めるということで、どうだろう」

 だが、それまで無言で僕について回っていたティアナが、ここで口を挟んだ。

「マイク。その、大きな方の門を、ダンに閉めさせてみるというのはどうかしら?」

「ええ?」

 驚いた僕がティアナを見ると、ティアナは「あら、出来るでしょ?」と、まるでジェニーのような言い方で肩をすくめた。

 僕は門のある方向を見つめると、そこに向かって意識を集中させた。今では、ある程度の門ならば、こうして意識を集中させることでその大きさを推し量ることが出来るようになった。

 門は僕の身の丈よりも少し高く、横に結構広い。

(僕に、出来るか…?)

 僕は目を閉じて、自分の中にそう問い掛けた。すると、いつもの聴きなれた明るい声が聴こえたような気がして、気分が少し軽くなった。

 僕は目を見開くと、僕の返事を待っているティアナ達をしっかりと見つめて頷いた。

「やります。行かせて下さい」

 僕の返事を聞いてティアナとアンガスが微笑みながら頷き、マイクが担当の変更を指示すると、僕らは一斉に動き始めた。


 僕の目指す門は、オルセン家から車で三十分位車で走った先にある林の中にあった。少し強めの風が木々の合間を音を立てながら駆け抜けて行く。次第に、その風に別の臭いが混ざり始めた。

 僕らが到着した時、目指していた門は既に少し開き始めていた。緩んだ門の隙間から魔界独特の臭いを染み出し、その奥にこちら側を伺う魔物の気配を感じる。

 僕は門の前に立ち、門を隅々まで観察した。門の大きさとその形態から「重さ」を計り、どのくらいの力が必要なのかを推し量る。これを間違えると、門を閉め損ねたりするから要注意だ。

(結構「厚い」か…? とすると、全力で行かないと万が一ってこともあるな)

 僕は一度両目を閉じて神経を集中させると、今度は視線を門の中央に集中させた。右手をそこに向かってかざし、自分の意識を掌に注ぎ込む。掌が熱くなって、そこを中心として、僕の身体はぼんやりとした青白い光に包まれ始めた。自分の手が、まるで水風船に水を注ぎ込んでどんどん膨らませていくような感覚に包まれる。

(よし。気は満ちた!)

 僕は門の中央を見つめ直し、一点を定めると、そこに全ての焦点を合わせた。腹に力を込めると、身体の底から詠唱の言葉が立ち昇って来るようだ。言葉は僕の身体を巡り、そして口から溢れ出す。

「緩みし境界よ、元の姿に戻れ…」

 僕の言葉に、門が共鳴を始めた。オオオともウウウとも付かない、不思議な音が門を震わせた。

「歪みし空間よ、あるべき場所に戻れ…」

 ゴオオォォォアアアァァァ。

『…を……しも…』

 微かに地を這うような声らしいものが聴こえたが、ここで止めるわけにはいかない。そんなことをしたら、力が逆流して、門が大きく開いてしまう。

 僕は腹にグっと力を込めた。

「閉じよ! 魔界の門!」

『われ…、……ラを……よ』

 目に見えない声を裂く様に僕の掌から青白い光が照射され、門へと一直線に注ぎ込まれた。光は門の中央から門を包み込むように広がり、やがて門が振動と共に閉まり始めた。

 元からそんなに開いていなかったその門は、あっと言う間に閉じられた。ピタリと閉じられた門は静けさを取り戻すと、やがて空気に揺らめくように消え去った。

「……」

 しばらくの間、その場には沈黙が流れた。いつものジェニーの軽口やおどけた拍手は無く、しんと静まり返った森の中で、思い出したように風が動き始めた。

「…しら?」

 微かな声が聴こえたような気がしたけれど、僕の身体はまだ、水の上に浮いているかのような気だるい疲労感に包まれていた。身体の底が、何かに共鳴しているような感覚さえ感じる。

(何だったんだ、今のは…?)

 僕は、僕が閉じた門のことを考えていた。声は、あの中から聴こえた。『あれ』は、一体どういう意味だ…?

 その時、誰かが僕の肩を軽く叩いて、僕はハッとしてその方向を振り返った。

「大丈夫か? ダン」

 そこには、柔らかな面差しの中にも真剣な瞳で僕を見つめるアンガスが立っていた。

「体調でも悪いのか? 顔色が少し悪いが」

 アンガスの肩越しに、少し心配そうな顔をして僕を見つめるティアナが見えた。

 僕は二人に軽く微笑んで見せた。

「いいえ。確かに少し、疲れたけれど。でも、大丈夫です。ただ…」

 そう言い掛けて、僕は門のあった方向を見た。そこにはもう門の形跡は無く、ただ、木々が見えるだけだった。

「ただ、あの声が気になって…」

「声?」

 ティアナが眉間に皺を寄せながら僕に近付いてきた。

「何を聞いたの? ダン…」

 妙に真剣な声でそう尋ねるティアナの顔を見ると、彼女の表情もまた、真剣さを帯びていた。そんなティアナの様子に少し驚きながらアンガスを見ると、彼も食い入るように僕を見ている。

「え…? お二人には、聴こえませんでしたか? 多分、さっきの門からだと思うんですけど」

 僕がそう言うと、ティアナが眉間に皺を寄せた顔を僕に近づけながら、低い声で尋ねた。

「ダン。その声は、何て言っていたの…?」

 僕は記憶を思い返した。あの、途切れ途切れに聴こえた不思議な声。その声を脳裏に思い出しながら、僕は答えた。

「確か…。『鍵を持ちし者よ、我らにパンドラを与えよ』って」

「!!」

 途端に、ティアナとアンガスの顔が硬直し、二人の目が見開かれた。二人は無言でお互いの顔を見つめあうと頷き合い、アンガスの「行くぞ」と言う短い合図で、僕らは無言でその場を後にした。


 僕はどうやら、見事に地雷を踏んでしまったらしい。

 その日、少し遠くの門を閉めに行っていたジェニーとマイクが戻ってくると、大人達は皆、「大事な話があるから」と言ってマイクの書斎に入ってしまった。

「何あれ。ところで、どうだったの? 門はちゃんと、一人で閉められた?」

 ジェニーがポテトチップスの大きな袋を左手に抱えてキッチンからやって来ると、僕にそう尋ねた。それに僕はただ黙って頷いた。ジェニーは首を傾げながらポテトチップスの袋を力一杯に開けると、ソファに座りながら数枚のポテトチップスを一度に摘まんで口の中に放り込んだ。

「じゃ、なんれあんわに、あわれてるのふぁなぁ~?」

 ジェニーがポテトチップスを頬張りながら視線を書斎のドアに移した。ここからは彼らの話し声は聴こえてこないが、何を話しているかは大体の見当がつく。つくけど、それが何故なのかがわからない。

 僕にだって、大人達が「何であんなに慌てているのか」見当も付かない。

「あのさ、ジェニー」

 僕はダメ元でジェニーに尋ねてみることにした。「ん?」と言いながら、ジェニーが顔を上げる。口の周りはポテトチップスのカスだらけだ。ジェニーの少し間の抜けた顔を見て、ほんの少し、僕の緊張が解けた。

「今日、僕が門を閉める時に門の中から変な声がして、それが『鍵を持ちし者よ、我らにパンドラを与えよ』って言ってたんだけど、それってどういう意味か、ジェニーならわかる?」

 僕の問に、それまでムシャムシャと忙しくポテトチップスを食べ続けていたジェニーがピタリと止まった。見開かれた大きな青い瞳に、僕の顔が映る。徐々にジェニーの顔が青ざめていく。

「えっ? ジェ、ジェニー?」

 僕がジェニーに問い掛けると、ハッと我に返ったジェニーが涙目になりながら喉を押さえた。

「み、みじゅ…」

「うわっ」

 僕は慌ててキッチンまで走ると、水を入れたグラスを持ってリビングに戻った。ジェニーはそれを勢いよく飲み干すと、「ぷはー」と言いながらソファの背もたれに身体を沈めた。

「大丈夫…?」

「うん…。サンキュー。あー、ビックリした!」

「僕も、ビックリしたよ…」

「あ、ゴメンゴメン。だって、ダンがいきなり、あんなこと言うから…」

「あれって、そんなに驚くこと? 僕がそう言ったら、途端にティアナとアンガスも固まっちゃったんだけど」

 僕の言葉に、ジェニーが「もっともだ」と言うような顔をして頷いた。僕には理由がわからない。

「ねえ」

 ジェニーが小声でそう言いながら僕に顔を近づけた。

「な、何…? っていうか、近いんだけど、顔…」

 妙に焦る僕にお構い無しで、ジェニーは僕と息が掛かるくらいの距離まで近付くと、息を殺しながら言った。

「ダン、どこまで知ってるの?」

「どこまでって…?」

 僕の問に、ジェニーはチラッと書斎のドアを見ると、今度はさらに僕の耳に顔を近付けて囁いた。

「『パンドラ』と『鍵』のこと」

 ジェニーの息が掛かった耳よりも、ジェニーの口から出された二つの言葉の方が気になった。

(『パンドラ』と『鍵』…? 箱じゃなくて、鍵…?)

 僕は自分の記憶の中を必死に検索してみた。でも、これといった情報は出て来ない。

「『パンドラ』って、あの、有名なギリシア神話の話だろ? 『鍵』ってのは、ちょっとわからないけど。そもそも、鍵なんて出てきたっけ、あの神話…? 箱の間違いじゃないのか?」

 僕の答えを聞いて、ジェニーは天を仰いだかと思ったら、今度は頭を抱え始めた。

「ああ、もう…。こりゃ、父さんと母さんが部屋から出て来るまで、待たないとダメね」

「はあ?」

 丁度その時、カチャリと言う音が聴こえて、書斎のドアが開いた。中から、葬式帰りのような神妙な顔をした大人達が出て来る。

(何が、起こってるんだ…?)

「ダン。ジェニー。こちらに来て座りなさい。話がある」

 マイクの言葉に促されて、僕らはマイクが座った丁度真正面の席に移動した。僕らが座るのを見計らって、ローラやジョアンおばあちゃん、ティアナとアンガスもそれぞれ腰を降ろした。

 リビングの中に少しの沈黙と、身を切るような緊張が張り巡らされる。息をしたら喉を掻き切られるんじゃないかとさえ思えた。

 やがて、マイクが一つ深呼吸をしてから、僕の名を呼んだ。

「ダン」

「は、い…」

 マイクの表情は、いつに無く真剣だ。声にも、いつもと違った緊張感がある。マイクは僕の目を真っ直ぐに見詰めながら口を開いた。

「君にこれから話すことは、君が門の番人の検定試験に合格したら、追々話そうと思っていたことだ。まぁ、ティアナとアンガスからは合格の内定が出されたから、今なら心置きなく話せるが。だが、この件は、時が来るまでは、例え相手が番人やハンターであっても、決して口外しないで欲しい。いいね?」

 はい、と頷こうとして、僕はピタリと動きを止めてマイクを見た。

「それは、ジェイクに対しても、と言う意味ですか…?」

 僕の問に、マイクは少し肩から力を抜いて苦笑しながら首を横に振った。

「ああ、いや。ジェイクとアルは既に知っていることだ。だが、だからと言って、例えあの2人の前だとしても、ここ以外の場所ではこれから話すことを口外しないと約束して欲しい」

 事は、僕が思っていたよりもよっぽど重要らしい。

 僕は座り直して背筋を伸ばすと、深呼吸をしてからマイクに言った。

「…わかりました」

「うむ。それでは、話すよ。少し長くなるけどね」

 そう言うと、マイクは静かに語り始めた。

 それは、僕が知っていた神話とは少し違った、「神話」と言う名で覆い隠された、番人達の始まりの歴史―。


---------------------------


 太古の昔、神族と魔族がこの大地の覇権を争い、勝利を手にした神族は彼らの持つ力を利用して空気を歪め、そこに作った魔界という別の世界へと魔族を追いやった。

 全てを追いやった後、神族はこの世界と魔界を完全に隔離しようと試みたが、どうやってもそれは成功せず、大きな穴が魔界とこちらをつなぐ接点として残ってしまった。

 魔族が再び争いの種を撒き散らすことを恐れた神族は、その場所に巨大な門を作って穴を塞ぎ、魔族がこちら側に入ってこられないようにした。門は神族の力と『鍵』を以って強固に閉じられ、それで全てが終わると誰もが思っていた。

 神族は門番にある男を任命し、その役目はその子、そして孫へと受け継がれていった。

 時は流れ、門の持つ本来の意味を、誰もが忘れ始めていた。


 ある時、何代目かの門番の男が、神殿で一人の巫女に一目惚れをした。娘の名はパンドラ。彼女は大勢いる巫女達の中でも、飛び抜けて美しい女だった。

 男はパンドラを何とか自分の妻に迎えようとしたが、彼女は一向に彼の結婚の申し出に応えようとはしなかった。

 そこで彼女の興味を引くために、男はパンドラに門を見せた。

「この門は私の一族が神より賜りし門。我が一族はこの門を代々守ることを誇りとして生きています」

 パンドラは男に、その門の先には何があるのかと尋ねたが、男は代々「開けてはならぬ」と申し伝えられているだけで、その先にあるものが何なのか、全く知らなかった。パンドラは目の前にそびえる壮麗な細工を施された巨大な門に心を奪われた。

 門に魅せられたパンドラは門番の男と結婚した。毎日の生活の中で、パンドラは門の話を男から少しずつ聞き出していった。それによって判ったことは、門は神の力によって固く閉ざされていることと、鍵は門番が持っていると伝えられているが、男はその鍵を見たことが今までに一度もないと言うことだった。

 神の力で封じられ、あるはずの鍵がどこにあるのかもわからない。しかし、その事実はパンドラの妄想を掻き立てるだけだった。

(そこまでして封じられているものだ。あの門の美しさから言って、きっと中には素晴らしいものが隠されているに違いない。私はそれを、この目で一度でいいから見てみたい。そして、できるなら、それを私の物にしたい)

 結婚して巫女ではなくなったものの、パンドラは毎日神殿に通い、祈りを捧げ、神殿で下働きをしながら神殿に保管されている古書を読み漁った。そして、彼女は見つけた。

『鍵は、門番の血』

 神は門を封じる時に、神の愛した女の血を使った。生贄となる前に、女は神との間に男子を産んでいた。成人するまで神によって育てられたその息子こそが、番人の始祖であった。

「何だ。簡単なことじゃないの」

 パンドラは家に帰ると、門番に酒を振舞った。酔い潰れそうになった門番に、パンドラは「門が見たい」とねだり、二人は門へと向かった。男は、パンドラが隠し持ったナイフには気付かなかった。

 門の前で、パンドラは男を刺した。赤い血が一面に飛び散り、まるで門に赤い花が咲いたようだった。 男の返り血を全身に浴びながら、パンドラは笑顔で門に向かって両手をかざした。かつて、この国一番の巫女と讃えられたパンドラの力は衰えることなく、門は彼女の呼び掛けに応え、封印は解けた。

 重い音を立てながら開いた扉の向こうから、黒い霧が湧き起こり、魔族たちがなだれ込み、世界は闇に包まれた。

 異変に気付いた神は、すぐさまに事態の収拾に努めたが、全ての魔族を門へと追いやる間に、地上では争いが盛んになり、犯罪が溢れ、多くの血が流された。

 神族が再び魔族を門の向こうに追いやることに成功したが、一度封印の解けた門は再び鍵によって封印されることは不可能だった。そこで、神は閉じられた門を打ち砕いた。砕かれた門は沢山の大小様々な種となった。神がそれらを空中にばら撒くと、門の種は風に乗って世界中へと散らばった。

 その頃、パンドラは壊滅した町に一人、取り残されていた。神は彼女を拾うと、彼女と彼女が宿していた門番の子供に「門の番人」となることを義務付け、門を閉じるための技を教えた。

 その日から、パンドラとその子供は、各地に散らばった門の種から生まれた門を閉じながら世界中を彷徨う宿命を負うことになった。パンドラの罪と力は、母から娘へ、娘からその娘へと、その血を以って繋がれていった。

  

 パンドラによって殺された門番の魂は、『鍵』の力を秘めたまま彷徨っているのだと言う。

 鍵の力は表裏一体。

 その力は、門を開ける力にも、閉じる力にもなりうる力。

 破滅の力にも、希望の力にも、なりうる力。

 鍵は転生を続け、来るべき時にはパンドラと出会うだろうと伝えられる。


  ---------------------------------------


「パンドラの箱に最後に一つ残った希望っていうのが、実は門番の魂で…。そしてそれが、僕の中に…?」

「まぁ、君の聞いた声と照らし合わせると、そういうことになるのかな」

 穏やかに話すマイクとは反対に、僕の心臓はバクバクと速い音を立て、額にはイヤな汗が滲み出ていた。

(何だ、それ…? 僕は。僕は…?)

「その、故事を元に考えると…。僕は、将来的に生贄にされることもありうる、と。そういうわけですか?」

「させない」

 僕のすぐ隣から、ジェニーの凛とした声が響いた。僕が横を向くと、ジェニーの青い瞳が真っ直ぐに僕を見ていた。

「そんなこと、私が絶対にさせない。私が『パンドラ』になっても、私は絶対にダンを死なせない」

「ジェニー…」

 ジェニーの決意に満ちた瞳を見ながら、ふと、僕はあることに気付いた。

「えっ? 君が『パンドラになっても』って、どういうこと?」

 困惑しながらマイクとローラを見ると、二人は「困ったな」という顔をして僕を見ていた。

「あら? まだ話してないの?」

 呆れ顔でティアナがそう言いながら、首を傾げた。

「ああ。ダンが番人として認められたら、と思っていたからね。それに、ジェニーが18になるまで、まだ1年以上あるし」

 マイクが苦笑しながらそう言うと、ローラが困ったように微笑みながら頷いた。

「じゃ、じゃあ…。もしかして、ローラがパンドラの子孫?」

 僕の問に、ローラが頷いた。

「ええ、そうよ。私の家系は、18になるとパンドラと呼ばれ、自分の娘が18になってパンドラを継ぐまで続くの。来年の夏にジェニーが18になったら、パンドラがジェニーに移るのよ」

「『移る』…?」

 ああ。何だか、わけのわからない話になってきた。だけど、ローラはニッコリと微笑むと僕に言った。

「ええ。全てのパンドラから生まれた女の子がパンドラになっちゃったら、大変なことになるでしょ? この世界がパンドラだらけになっちゃうわ。だから、誰が決めたのかは知らないけれど、この世でパンドラとしての力を持つ者はただ一人、いればいいの。娘が沢山いる時は、その中から一番力の強い娘を選んで、その子が18になるとパンドラを受け継ぐようにするの。今のパンドラは私だけれど、来年からはジェニーになるわ。そうしたら―」

 ローラの顔が途端に真剣になって、僕は息を飲んだ。

「その時は、ジェニーのことを宜しくね、ダン」

 どう、答えたらいいのか、僕にはわからなかった。一体、僕は何者なんだ? 僕に彼らは、何を望んでいるんだ? 僕は、何を信じればいいのだろう? ただ、生贄にされる日を待つためだけに生かされるのか…? 何だ、それ…?

 僕の中で、何かが奥の方で砕けた。

 急に喉が渇いて、目の前が霞んだ。目の前にいるはずのマイクとローラの顔が空気に溶ける。

(ああ、まただ―)

 そう、『また』始まった。ここしばらくは、この発作も出てはいなかったのに。

 頭が重くなって、真っ直ぐ座っていられない。

「あ、ちょ、ちょっと! ダン! しっか―」

 ジェニーの声が、少しずつ遠ざかっていった。


 昔から、何か事あるごとに僕はこの「発作」を繰り返した。

 別に、身体に異常があるわけじゃない。異常があるとすれば、それは僕の心の中だ。

 母さんに真冬の森の中で置き去りにされた時。母さんの「お友達」に殴られた時。酔っ払った父さんにビール瓶を投げ付けられた時。姉さんと彼女の友達に襲われた時。

(僕だけ、どうして…? 僕が一体、何をした…?)

 そう思う度、僕はここに来る。

 ここは、砂漠の真ん中。

 まだ幸せだった頃に、母さんに読んでもらった「星の王子様」の絵本がよっぽど印象に残っていたのだろう。よく考えたら、母さんに絵本を読んでもらったのは、あれが最初で最後だったような気がする。

 砂漠の真ん中で、僕は一人だ。周りには、何も無い。

 「星の王子様」には色んなキャラクターが出てくるけど、僕の砂漠には、僕以外何も無い。

 ―オマエハ、ヒトリダ

 ―ダレモ、オマエノコトナンテ、シラナイヨ

 僕の頭の中に、声が響く。

 わかってる。わかってる。わかってる…。

 そう呪文のように唱えながら、膝を抱えて砂の上に座る。膝の間に顔を埋めると、大抵はいつも、そこで目が覚めるんだ。

 でも、今日は違った。

「ここに、いるよ?」

 ずっと、探していた声が聴こえる。

「ずっと、ここにいるよ?」

 手に、暖かな温もりを感じる。

「だから、帰ってきて」

 どこに? 僕の家は、どこにも無い。

「帰ってきて、ダン…!」

 声に導かれるように、僕は顔を上げた。そこには誰もいなくて、砂漠が広がるだけだったけれど、何故だか僕は、そこから出るための出口を知っていた。

「今、行くよ」

 誰に言うでもなく、そう呟くと、僕は砂漠の中を歩き始めた。白くて強い光が遠くに見えて、僕は眩しい光に目を細めながら、その中にどんどん入って行った。

 大丈夫。手にはまだ、温もりがある。この手が、僕をきっと導いてくれるから。


「あ、気が、付いた…?」

 震えるような小さな声が聴こえて、僕は声のする方に顔を動かした。首を動かしながら、僕は自分が横になっていることに気付く。

「ぁあ…?」

 声が擦れて、変な声が出た。

「水、持って来るね?」

 ぼやける視界の中で、ジェニーらしい人影が動いて去って行った。僕の手から、温もりが薄れて消えた。

「あ…」

 待ってくれと言おうとしたけど、声が出なかった。喉がカラカラに渇いていて、ヒューヒューと変な空気音が出るだけだ。

(よりによって、ジェニーの前で倒れたのか…? 最悪だ)

 重い身体を動かすのを断念して、僕は軽く目を閉じた。

(何年ぶりかな、これ…)

 最後に倒れたのはいつだったか、思い出そうとして、止めた。そんなことをしても、思い出したくないことを思い出すだけだから。

 しばらくして、ドアを申し訳程度にノックした後、ジェニーが入って来た。

「はい、お水」

「あり、がと…」

 ジェニーに助けてもらって身体を起こしながら、水を飲んだ。冷えた水が、砂漠を潤すように僕の身体に染み渡っていく。その感覚が気持ちよかった。

 飲み終わると、ジェニーの暖かな手が僕の額に触れた。

「熱は…。無いみたいね」

「病気じゃ、ないから」

「うん。アンジーさんから、聞いた」

「え?」

 いつの間に、僕の義母から僕の話を聞いたんだろうと疑問に思っていると、ジェニーが申し訳なさそうな顔をして、僕に言った。

「ごめん。父さんとアンガスは呼吸も心拍数も問題無いから大丈夫だって言ってたんだけど、何か、大変な病気だったらどうしようかと思って。でも、ダンの家に連絡するのはイヤだったから、ダンの部屋を無断でちょこっと探して、この間ダンがもらってたアンジーさんのカードを見つけて、それで、電話したの。勝手に色々しちゃって、ごめんなさい」

「そう…。ううん。構わないよ」

 アンジーが父と一緒だった最初の頃は、僕の発作は無かった。でも、しばらくして父の酒癖の悪さが悪化して、アンジーに乱暴をするようになった後、一度家で倒れた。その時に、アンジーが「放っておけ」と言う父を無視して、僕を病院へ連れて行ってくれたことがあった。

 ある意味、アンジーは僕のこの発作のことを、唯一「正しく」知っている人だ。

「アンジーさんがね…」 

 そう言いながら、ジェニーが僕の手を握った。

「アンジーさんが、『ダンの手を放さないであげて』って。『薬よりも、こっちの方が効く』って言ってたけど。どう、かな…?」

 半信半疑なジェニーの表情が可愛くて、僕は少し笑った。

「あ、もう…」

 ジェニーは一瞬、膨れっ面をしてみせたが、すぐに得意気な顔をした。

「笑顔が出るってことは、効いたってこと。だよね?」

「さあ、どうかな…」

「もう。素直じゃないなぁ…」

 ブーと言いながら唇と尖らせるジェニーは、僕が出会った頃から変わっていない。この、表情をコロコロ変える女の子は、その存在がどれだけ僕を救ってきたか、全く知らないでいる。

 そうか。僕はもしかしたら、ジェニーと会えなかったら、きっと心の中のあの砂漠に行ったきり、戻ってこられていないのかも知れない。僕が今、こうしていられるのがジェニーのお陰だとするなら、僕がジェニーにしてあげられることは―。

「ジェニーなら、いいよ」

 僕の言葉に、ジェニーはキョトンとした顔をして僕を見た。

「へ? 何が?」

「ジェニーのためになら、僕は(にえ)になってもいい」

 途端に、ジェニーが険しい顔になった。

「…バカなこと、言わないで」

 はっきりと言われたその言葉には、明らかに怒りが込められていた。

「門なんて、こちら側から開くもんじゃないわ。閉じ続けるためのものよ。私は始祖の業を背負ってるけど、ダンはそれに縛られることは無いと思う。ダンは、ダンだもの」

「でも、僕は…」

 門番の、魂を持つんだろう? 『鍵』なんだろう?

 そう言い掛けた僕の唇に、ジェニーの指が当たって言葉を遮った。

「いい? 私は、ダンを『鍵』にしたりしない。例え何万の人たちがそれを望んでも、私はダンを守る」

「でも―」

 神は門番の始祖の血を使って、門を封印した。それが出来れば、門の番人が新月の度に門を閉め続ける必要は無いんじゃないか?

 そう、言いたかったけれど、ジェニーの悲しそうな瞳を見て、僕は口をつぐんだ。ジェニーもわかっているんだ。ジェニーだけじゃなく、多くの人たちがそれを知っている。

 ジェニーはちょっと肩をすくめながら言った。

「協会には、ダンが『鍵』だってこと、知られちゃうと思う。でも、今は昔と違うわ。昔は門が一つだったから、それを封印すれば事は済んだけど。今はあちこちに出るから、それをいちいち封印してたら、私達の身体がもたないよ。だから―」

 そう言いながら、ジェニーは僕の手をぎゅっと握り締めた。

「ダンは、ダンのままで…。そのままで、私の側にいて?」

 僕の、ままで。

 そうだね。僕は、一番大事なことを、忘れていたよ。

 小さな頃から、ずっと思ってた。ジェニーの側にずっといることができたなら、僕はどんなに幸せかって。それを君は、許してくれるんだね?

「…うん」

 そう言って小さく頷くと、ジェニーが安心したように微笑んだ。

 この手をずっと、放したくない。そう、強く思った。


   ---------------------------------------


 ダンの番人検定試験から、気が付けば三週間が過ぎていた。

 あれから変わったことと言えば、まず、ティアナとアンガスが去ってから4、5日して、ダンに番人の証明書が送られてきた。証明書は運転免許証みたいな感じで、政府の鷲のエンブレムが偉そうにプリントされた台紙に名前が印刷されて、写真が入ってる。写真の上には、さらに御大層にエンブレムが押してある。かなり「俺って特別?」って全身でアピールしているカードで、正直な話、持ち歩くのが恥ずかしい。

 まぁ、持ち歩いてるからって、誰に見せるわけでもないんだけど。でも、番人の仕事をする時は、必ず持ってなくちゃいけないんだよね、これ。門って、時々変な所に出来るから。そういう場所にある門を閉めるのに、侵入した先で、万が一警察に逮捕でもされたら見せなさいってことらしいけど。でも、私は今まで、そんなヘマは一度もしたこと無いけど。って、これじゃまるで、私って泥棒みたい?

 ティアナとアンガスはうちを去る前に、父さん達と私とダンの今後について、何やら色々と話し合ってたみたい。協会にどう報告するかとか、来年の私の引継ぎをどうするかとか、ダンと私は一緒にしておいた方がいいのか、それとも離した方がいいのか、とか。

 私はダンを私と離すのには猛反対した。私の先祖がしたことで、どうして私の人生にまであれこれ言われなくちゃいけないの? 冗談じゃない。


 違う大きな変化といえば、ダンの義理のお母さんのアンジーと、最近は電話で話したり、週末に会ったりするようになった。ダンのことで電話してから、心配したアンジーが私の携帯に電話を掛けてきたりして、それから何となく世間話とかするようになって、気が付いたら何か、友達みたいになってた。

 先週末も、ダンと一緒にアンジーの家にブランチに招待されて行ってきた。アンジーが今、娘さんのキャリーと一緒に住んでいる所は小さなアパートだけど、とてもキレイに整頓されていて、キャリーの描いた絵が壁に貼られていたりして、とてもかわいい部屋だ。

 その日は天気が良かったから、みんなで近くの公園に食事を運んで、そこでピクニックをすることにした。

 昔からダンに懐いていたキャリーはダンに会えるのが嬉しいらしくて、ずっとダンにべったりと付きまとっている。学校の女の子達がそうするのはムカつくけど、キャリーは子犬のようで可愛らしくて、もう、「どんどん構ってやって下さいまし」ってこっちが言いたくなるくらい、カワイイ。ダンも何だか、キャリーと遊んでると楽しそうだし。

 ダンと一緒にキャッチボールをして遊ぶキャリーを見ながら、私とアンジーはピクニックシートの上で寝そべりながら、他愛も無い世間話をしていた。アンジーはよく、ダンの学校でのことやうちでのことを聴きたがる。きっと、自分が家を出た後の時間を埋めようとしているのだと思う。オジサンのせいで結果として離婚になったけど、アンジーとダンは、親子として上手くいっていたのだろうなぁ、と思う。

「それで、ダンは最近妙にモテるんで、困ってるんですよぉ~」

 私がちょっとふて腐れながらそんな話をすると、アンジーはケラケラと笑った。アンジーはうちの母さんと違って下町っ子って感じで、気さくで気取った所が一つもない。そこが私は好きなんだけど。

「そうね。ダンは、ダンのお父さんの若い頃に似て、男前になってきたわね」

「えっ? あのオジサンが、お、男前っ?」

 私ははっきり言って、小さい頃にダンのお父さんを見たことが無い。初めて会った時には、もうすでにビール腹で無精ひげを生やした、スケベで暑苦しいオジサンだったのだ。

「ええ。私が出会った頃は、ダンよりもうちょっと肉付きがいい感じで、かっこよかったわよ。じゃないと、私だって惚れて結婚しないわよ~。アハハ」

「はぁ。そうですか…」

「あら。男は顔と身体と甲斐性よ?」

「顔と、かっ、身体…?」

「あらぁ~。身体は重要よ?」

 アンジーは最近、私の事を女友達と思っているらしく(いや、それは嬉しいんだけど)、話が突然「深夜のガールフレンド・トーク」になることが多々ある。この短い間で、私も少し女子力のレベルアップをさせていただいた。とは言っても、早い話が耳年増になってるだけな気はするけど。でも、アンジーに言わせると、「知識も重要」とか…。

「まぁ、あの人も、結婚当初は3つ揃えだったんだけどねぇ~。男って、どうして結婚すると、嫁に対する態度がずさんになるのかしら~? 最初の旦那もそうだったわ~」

 こ、これは、どう相槌を打ったらいいんだろう?

「は、はあ。勉強になります…」

 恐縮する私に、アンジーが明るく笑って言った。

「あら。ダンは大丈夫だと思うわよ? 多分…」

「ええっ! えっと、えーーっと…」

「あら。そういう仲じゃないの?」

 アンジーが「信じられない」と言う顔をして私と遠くでキャリーとじゃれているダンを見比べた。

「そ、それが…」

「だって、今、一緒に住んでるんでしょ?」

「それはそれ、これはこれですっ!」

 私がそう言い切ると、アンジーはふうっと溜息を吐いた。

「…あなたも、苦労するわねぇ」

「はぁ…」

 私達はしばらくの間、無言でダンとキャリーが芝生の上で転がっている様子を見ていた。もはや、キャッチボールじゃなくなってる。

「ほら、あの子って、苦労してきちゃったじゃない?」

 ポツリと、アンジーが言った。

「私ね、あの家を出る時、本当はダンも連れて行こうと思ったの。ダンも、私に懐いてくれてたし。でも、あの頃の私は、キャリーを守ることで精一杯で…」

 遠くで、キャリーがゴムボールをダンに向かって笑いながら投げ付けている。ダンがわざと逃げ回っていて、その様子が何だか微笑ましい。

「大人って、勝手よね。私は、あの子を助けてあげられなかったのに、今はただ、それを許して欲しいって思ってるんだもの」

 アンジーは寂しげにそう言ったけれど、私にはわかる。

「ダンなら、許してくれますよ」

「そう?」

 私はアンジーに向かって頷いた。

 その時、「休憩~」と言って笑いながら、キャリーとダンがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。

「はあー。疲れた~。キャリーがなかなか開放してくれなくてさ」

 そう言いながら、ダンが私の隣にゴロリと横になった。

「はい、水」

 ペットボトルに入った水を手渡すと、「サンキュー」と言いながらダンが少し身体を起こしてボトルを開けた。つい、ダンのTシャツの下で動く肩の筋肉に目が行ってしまう。肩幅も、随分と広くなっちゃったな。

「ん? どうしかした?」

 何も言わない私が変だと思ったのか、ダンが顔を上げて私を下から見上げた。その表情が妙に、こう、何だか「色っぽい」って言うか…。

(その視線は、反則~~!!)

 顔が火照ったように感じるのは、絶対に日差しのせいだけじゃないと思う。

「ふーん」

 咄嗟に顔を背けた私に、何やら意味ありげな声を出すと、ダンは少し身体をずらして、側に置いてあったピクニック・バスケットをこじ開け、その中に入っていた余っていたサンドイッチを取り出して食べ始めた。それを見たキャリーが、ダンの真似をしてサンドイッチを食べ始める。

「あらあら。よっぽどいい運動だったのね」

 アンジーが笑いながらキャリーのコップにレモネードを注ぐ。

「だって、ダンって足が速いんだもん。全然、追いつけなかった~」

 キャリーが楽しそうにそう言うと、ダンが笑いながら「脚の長さが違うからな」と言って笑った。

 私達はしばらくの間、のんびりとピクニックを楽しんでいた。

「あ…!」

 ふと、ダンが小さく声を上げて息を飲んだ。

「? どうかした?」

 私がダンが凝視している方向に目を向けると、遠くに、こちらを見ながら何やら話しているカップルが見えた。男性の方に見覚えはないけれど、女性の方は、何となく見覚えがある。

「あれは、クリス…?」

 アンジーが少し緊張したような声でダンにそう尋ねると、ダンが頷いた。

「うん。あいつ、こんなところまで足伸ばしてるのか。厄介だな」

 クリスと言うのは、ダンの血の繋がったお姉さんだ。確か、3つくらい年上だったような記憶がある。美人ではないけどグラマラスな印象が強い人で、見かけたことは数えるくらいしかないけど、余りいい噂は聞かない。だって、「お酒やタバコをやっている」っていう程度の話じゃないんだもの。

「アンジー。そっちには多分、直接ちょっかいをかけては来ないと思うけど…。念のため、しばらくの間は戸締りとか、気をつけて?」

 ダンがそう言うと、アンジーは頷いた。

「ええ。そうするわ」

 家に帰る車の中で、私はダンに何故、アンジーにクリスのことで注意を促したのかと尋ねてみた。

「クリスって、昔から手癖が悪いんだ。アンジーがうちにいた時も、何度かアンジーのジュエリーを盗んで、それを売って小遣いにしてたし。今だって高校を1年もしないうちに中退して以来、ずっと働かないでフラフラしっ放しだからね。アンジーがこの近辺に住んでるっていうのを知って、それを黙って見逃すようなヤツじゃないから」

 前から思っていたけれど、ダンは自分の血の繋がった家族に対して、かなり辛口のことを言う。そうなった理由は色々知っているけれど、きっとダンのことだから、当たり障りがなさそうなことしか、私には話してくれていないと思う。まぁ、全部を聞いても、多分、私には何も出来ないだろうけど。

 そんなことを思いながら運転していたら、ダンの実家が遠くに見えた。相変わらず、人が住んでいるとは思えないような家だ。ダンがうちに引っ越してから、ますます廃墟っぽくなったような気がする。

 ダンの家の前を通り過ぎる間、私達はずっと無言だった。

 私の家では、母さんが相変わらず台所で何かを焼いているみたいで、甘い匂いが玄関まで漂っていた。

「あら、二人とも。おかえりなさい。今日は、チョコレートケーキにしてみたんだけど、今すぐに食べるかしら~?」

 チョコレートケーキはダンの好物だ。きっと、今日はアンジーと会うってわかってたから、張り合ったのね、母さんなりに…。

「母さん。私達、まだお腹一杯で、今は何も食べられる状況じゃないけど…?」

 私がそう言うと、隣でダンも申し訳なさそうに左手で胃を抑えながら頷いた。

「あらぁ~。残念。じゃ、これはディナーの時のデザートにしましょ」

 クルっと身体を軽やかに反転させながらキッチンに戻っていく母さんの後姿に「ありがとう」と声を掛けた。後で「母さんの料理が最高!」とかってフォローを入れておこうかな。最近、私がアンジーと仲良くしているのが、母さんはどうやら少し悔しいらしい。でも、焼もち焼かれても、ねぇ…?

「さて、と。じゃ、私、一旦部屋に戻るね?」 

 そう言って二階の自分の部屋に戻ろうと階段を昇ろうとしたら、ダンに呼び止められた。

「何?」

 振り向いた瞬間、目の前が真っ白になった。

 正確には、白プラス、公園で付いたと思われる泥が少しと芝生の青汁も少々…。加えて、汗の臭い。

 何が起こってるのかよくわからなくて、周りを見ようとしたけれど、身体が何かに縛られてて、かなりのロックオン体制で動けない。

(え? ええ? 何これ?)

 耳に直接、心臓の音が響く。でも、私の心臓の音とは、少しずれてる。

(あれ? これって、ダン…?)

 そう思っていると、頭の後ろの方からダンの声がゆっくりと響いた。

「今日は、サンキュー。楽しかった」

「え? あ、うん。私も…」

 ロックオンが少し解除になって、心臓の音と白がゆっくりと遠ざかる。あれほど驚かされたのに、こうやって離れると、少し寂しく思ってしまうのは何故だろう?

「じゃ、また後で」

 ダンがちょっと照れたような顔でそう言って、サッと階段を駆け上って行ってしまった。

 何だったんだろう、今の…。


 それから六月の最後の週が終わり、私達は高校最後の夏休みに突入した。

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