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05 触ったんでしょ?

 ベッドのすぐ横の窓のカーテンの隙間からから朝陽が射し込む。ベランダ側の窓は数センチ開いており、そこから朝のまだ少し冷たい空気が押し込まれてくる(今は五月だが、基本的に寒がりだからな俺)。静かな……とは言い難い、何台もの自動車が家の前の道路を走る音が俺の右耳のみを刺激してきやがる。俺は『朝』というものを常にライバル視しており、毎日無意味な闘いを繰り広げて来たが、今日は調子が悪いのかなんなのか、一向に勝負が始まる気配すら無い。スースーと女の子らしい静かな寝息。ズズッ、ズズズッ、グゴガガガッて感じの三十路の鼾。外から聴こえる車の騒音と、すぐ傍から聴こえる有機生命体の口から発せられる騒音。戦場の最前線さながらに迷惑な大音響だが、それは非日常の中の、どんな強敵にも侵しがたい平和な一時だった。


 ……この三十路の鼾って、純か? それともうちの二十八になる兄貴のか?



 階下から足音が響いてくる。トスットスッ、とあまり荒々しくない緩やかな足音は恐らく純の妹さんか、又はうちの親父のものだろう。その音でノンレム睡眠からレム睡眠に引き上げられた俺は眠ったまま、夢を見ずにただそれらの音が右耳に侵入するのに任せていた。侵入者の大部分は三十路の鼾だった。


 ……うるさいな、この騒音発生機め! リアルにオッサンじゃねえかこの鼾。無呼吸症候群になってそのまま死ねばいいのに。


 足音が徐々に高度を上げてくる。階段を上ってきているようだ。まさか、起こしに来るのか? そういえば純は平日は学校だ。そろそろ起きた方がいいんじゃ……? ……俺も今日はバイトだ。



妹さん

「お兄ちゃ〜ん朝だよぉっ、起き……」


 そんな声が聴こえる。うん、やっぱり妹さんだったか。もう二十六になるはずなのに三十路のエロ兄をわざわざ起こしに来てくれるなんて……今なんか台詞が途中で止まらなかったかい? どうしたんだろう? 起きて確かめたいけど……起きれない。目を覚ます事ができないぞ。頭は殆ど覚醒してるはずだが、これはどうしたことか。


妹さん

「……女子高生連れ込んだの……?」


 なんか声に絶望が入り交じってるような気がする。なにがそんなにショックだったんだ? …………ん? 今女子高生って言った? え? 何それ? ……女子高生……!



 ガバッ!



妹さん

「…………」

有希

「…………」


 敵意は篭っていない、無言の対峙。純の家には何度か来たことがあるが、妹さんに会うのは初めてだ。……たまに純と間違われるだけあって、パッと見、又は遠目に見れば結構似ているかもしれない。


 妹さんは俺を見ている。それは確かなのだが、視線は微妙にずれてるな。そして今、急に敵意が篭ったように感じた。心なしか、胸の辺りを見ているような? 自分の身体を恐る恐る見下ろす。ワイシャツ、ミニスカート、紺のハイソックス、そして爆乳……!


妹さん

「…………」

有希

「…………♀」


 女子高生……俺だ……。



 互いに驚愕の表情を向ける俺と妹さん(爆乳に対して敵意あり)。ヤバい……これはヤバいよ。下手すりゃ警察沙汰だぞ(純が)。早く、早く説明して誤解を解かなければ……でもなんて説明したらいいのだろうか。


 その辺の床に視線を走らせる。純……あれ? 純はどこに行った?


「…………んん゛」


 お腹に何かが巻き付き、ビクッとしてそちらを見やる。


「グゴッ、ん……むゅ、……き」

有希

「…………」

妹さん

「…………」


 ひっ、ひゃくとうば~~~~ん!!!!!



    ◆



「申し訳ありませんでした」

妹さん

「……最低」

有希

「以下同文」


 とりあえず二人で純を(阿吽の呼吸で)フルボッコにしてから土下座させた。今、俺の左足の下に純の後頭部がある。ゴリゴリ。オラ、強制猥褻の罪で死刑にしてやるぞ。寝惚けて腕を俺の腰に回しただけだったらしいのだが、関係無いね。てゆーか俺の布団の中に入ってきた時点でゴキブリプレイの刑確定だろ。……ゴキブリプレイの内容はご想像にお任せする。まぁ、男の身体のままだったら別に一緒にベッドで寝ても気にしないが。……あ、待て、誤解しないでくれ。俺はそんな異常性愛者じゃないぞ!


有希

「お前には前科があるんだ。思い知らせてやるぞ」


 そう。去年の文化祭で女装したとき、俺はこのクズにお尻を触られた事がある。しかも二回も。さらにスカートを捲ろうとまでしやがって。あの時は男だったからな。ギャグで済ませてやったが、今は状況が違う。


有希

「てゆーかお前床で寝てた筈だろ。……もしかして何かしたのか?」


 途端に鳥肌が立ち、着衣が乱れてないかを調べる。シャツ、スカート、靴下、ネクタ……あれ?


有希

「……ネクタイは?」

妹さん

「……ネクタイってアレ?」


 ……何故昨日まで締めてた筈のネクタイが部屋の反対側に!?


「……イヤ、そのままだと苦しいだろうなと思って……」


 足の下から声が聴こえる。白々しい言い訳を……。あ、ネクタイを外したってことは……


有希

「……触った?」


 足にビクッと振動が伝わる。ハイ確定。お前は死刑だ。誰がどう口出ししてこようとも、もう俺の決意は揺るがないぞ。ひま○り保育園で飼ってるインコの餌にしてやろうか、それともゲイの噂で有名な夜中の与○公園に放り出してやろうか? ゴキブリよりはましだろう。


「……触ってないです」

有希

「触ったね?」

「……触ってな――」

有希

「触ったよねぇ?」

妹さん

「触ったんでしょ?」

「……触りました」



    ◆



 純のおかげで妹さんと仲良くなれた俺は、これから仕事だという妹さんを二人で送り出し、部屋に戻ってスカートの形を気にしつつベッドに座る。妹さんには

「酒飲んじゃって運転出来なかったから泊めてもらった」と言っておいた。とりあえず納得してくれたようであり、一先ず安心かな。



 純は俺の前で着替え始め、上下を脱いでから最初にジーンズを穿き始めるまでたっぷり五分以上かけた。相変わらず四肢は細いが、ビール腹は短大時代と比べてちょっとだけ引っ込んでる気がする。最近は飲んでないのかな? それとも、殴りすぎて凹んだまま元に戻らなくなったか。

 俺が何も言わずにまじまじと見ていたからか、


「……お前ちょっとは女の子らしくさぁ、ここは恥じらいとかってのを見せるところじゃないのか?」


 ……つまり、そうしろと言いたいんだな? 俺に『女の子』を演じろと。こいつは俺を自分好みに調教しようとか思っているのかもしれん。懲りない野郎だな。


有希

「誰に言ってるの?」

(ガクガクブルブル)


 純の野望はあっさりと打ち砕かれた。



 携帯の待受画面を見ると、今日は木曜日らしい。時間は八時前。待受画像は二匹の可愛い子猫だった。普段の俺ならまだまだノンレム睡眠で『朝』との戦いに向けて最終調整を行っている頃だが、今日から暫くは『朝』に奇襲をかけて、コテンパンにした挙句に地を嘗めさせる必要がある(今日は妹さんに起こしてもらったが、そこはツッコンでくれるなよ?)。何時ものように昼まで寝ていては(火曜日〜日曜日は大概八時半に起きる)、全く以て時間の無駄だ。純のエロに一々付き合ってるのもかなりのタイムロスだけど。


 これから俺は元の身体に戻る方法を探す訳だが、ただ探すだけではいけない。方法が見つからずにこの状態が長引く事も考えて、そうなった場合の『生き方』というものも重要だ。とりあえずは純の部屋に居候するのが基本作戦A。その他は必要に応じて随時展開していく。


 元の身体に戻るのが遅れるようならバイトもしなければ。ただ何もせずに純の厄介になるのは俺の気が済まない。働かざる者なんとやらだ。それに友人宅を転々とするのはめんどくさいからな。今までやってたバイトをそのままやればすぐに主力になれるだろうし。平日も出勤させてくれたら最高なんだが……。



    ◆



「気をつけて行けよ。今のお前危なっかしいから」


 風呂にも入れてもらえたし、仕事に行く前に妹さんから服も貸してもらえたし(上衣のサイズを物凄く気にしていた)、昨日俺を撥ね飛ばした御兄さんからもらった燃料代で財布の心配はする必要がない(『さき』の財布は最初から諭吉さんで込み合っていたが、勝手に使いたくはない。なんでこんな大金持ってんだ?)。妹さんから借りた服は黒のチュニックに膝丈のデニムで、純のお母さんに「可愛い!」って言ってもらえた。顔の事なのかファッションの事なのかはわからないが。そういうお母さんも実はこっそり妹さんの服を借りていたようで、その若々しいファッションから「純にもう一人妹さんが!?」と驚愕するほどだった。……一瞬だけ見ればそう感じる。間違ってもじろじろ見ないことをお勧めするよ。



 そんな感じで上衣に胸を締め付けられつつ、それでもちょっとだけ上機嫌だった俺だが、先程の純の言葉(「今のお前危なっかしいから」)で思い出した事がある。身体が思うように動かない、と昨日感じたこと。俺は九歳の頃から「PKC」と呼ばれる運動障害を患っている。動作開始時に得体の知れない発作を起こすのだ。手足の筋肉が俺の意思に反して勝手に動き、酷いときは顔面の筋肉もひきつる。普段は《カルバマゼピン》という抗てんかん薬を飲んで発作を抑えているが、この身体ではどうだろうか。PKCは非常に稀な障害だし、男女比率は男性側に傾いている。まさか『さき』がPKCを患っているとは思えないし、俺の持病がそのままこの体でも連続するとは思えないのだが、一応その辺りも配慮しなければ。


 しかし、「気をつけて行けよ」か……。純って実はいい奴なんだよなぁ。エロが無ければサイコーだったのにな。


有希

「大丈夫よぉ。眠ったまま運転出来る男だぜ俺は」


 実際にバイクで居眠り運転をして、気付けば曲がり角をキレイに曲がっていた事が一度あったのだ。


「いや、そっちじゃなくてな」

有希

「?」


 なんとなく言いにくそうな雰囲気を醸し出しながら呟く純。なにやら解らんけど、とりあえず心配してくれてるのは伝わるから良しとしよう。


有希

「じゃ、行ってきまーす」

「おう。あんまり歩道に近寄るなよ」

有希

「……はぁ?」


 側溝につっこむなって言ってるのかな? んん? ワケわからん。



    ◆



 昨日は結局『さき』と話す事は出来なかった。携帯の電源を切っていたのか、それとも真夏のビアガーデン並みの人混みの中にでもいたのか。ビアガーデン会場はマジで圏外になるからな。(ギリギリ未成年だったくせに)ビール飲みながらサークルの部長とメールで緊急サークル会議を開いていたのだが、送信も受信も一苦労だった。



 我が家に付いたのは朝の八時五十分頃。高校生の起床時間は最低でも八時半だし、俺も普段は八時半に母に起こされる。『さき』も流石にもう起きているだろう。なのに未だに連絡がつかないのはどういう事だ? 俺の携帯壊したりなんかしてないだろうな。



 ピンポーン ピンポーン



 インターホンを一度だけ押し(一度で二回鳴るタイプ)、バッグを後ろ手で持つ。黒い玄関扉の真ん中には磨りガラスが嵌められており、ざらざらした視界の向こう側の様子がほんのちょっとだけ窺える。影が動き、窓から射し込む朝陽を遮った。誰かがこっちに来るな。……てゆーかこの服、胸が苦しい。巨乳って、何気に辛いな。



「ハィ?」


 玄関を開けたのは母だった。所々混じりつつある白髪を最近染め出した母は既に仕事着に着替えており、表には出さないがなんとなく焦っているような、息子の目にはそう映った。普段母は十時半に家を出るのだからまだまだ余裕があるはずだが、一体どうしたのだろう?


有希

「あの、今、有希さんはいますか?」


 そう、今日の目的はそっちだ。俺の身体に入り込んだ『さき』に会うため。でなければ話が始まらない。ちょっとの間でもいい、若しくは今日はバイトをサボタージュさせてでも……。


「……あの、有希は今病院にいて……」

有希

「……え?」


 思わず声が漏れた。病院だと? どうして?


「なんか実際に見ていた人の話だと、バイクを運転していていきなり横に倒れて気を失ったみたいなのよ」

有希

「…………」


 ……それってつまり、身体が入れ替わった瞬間に俺も『さき』も同時に気を失って倒れたという意味で、打ち所の問題で俺はすぐに目覚めた。だが『さき』はその逆で未だに目を覚まさないと。


 ……こいつは由々しき事態というものではないか?


 俺は総毛立った。この状況に既視感を覚え、頭が一瞬真っ白になる。もう三年半も前になるか。朝早くに鳴り響く救急車のサイレン。明るい性格の担任がホームルーム後に突然溢した涙。千羽を超えた数えきれない程たくさんの、想いが届かなかった千羽鶴。もうあんな思いはしたくない。ましてや俺の身体を持った、まだ十六歳の少女。これからもっともっと面白くなっていく、先の長い人生が待っているのだ。数十年の内のたった三年間に詰められた濃い高校生活。部活をしたり恋をしたり、進学或いは就職して、結婚して…………。



 そんな一つの人生を、絶対に喪う訳にはいかなかった。


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