18 愛
『08 お母さん』と『10 牛』の間、『09 夢(弐)』の時の出来事です。夢を見ている間、実はこんなことがありました。
……砂嵐。壊れて映らなくなったテレビのような灰色の砂嵐が今、私の視界を覆っている。私にとっては苦痛でしかない、システムの外の世界。何故私が外に出なければならないのか。私は望んでない。望まれてもいない。誰にも、一度だって。光は外の世界も良いって言ってたけど、きっと嘘。……いや、やっぱり嘘じゃない。だって、光は嘘をつかない。嘘をつけない。本当に、外の世界も良いことはあるんだろう。ただそれは、光や幸にとっては、という意味で。
私にとっては、苦痛でしかない……。
◆
砂嵐が視界から消えていくにつれて、徐々に身体中の感覚が蘇ってくる。手に、足に、お腹に、胸に、背中に、首に、頭に。まるで心臓から飛び出ていった新鮮で酸素をたっぷり含んだ綺麗な血液が、身体中の血管を駆け巡っていくように。それと同時に、他の五感も次々と息を吹き返していった。まず感じたのは、ふんわりと香るシャンプーのような匂いだった。続いて顔面に触れている、鬱陶しい糸か何かの束と思われる滑らかな感触。それから身体の前面と手足に触れている、温もりを持った柔らかな感触。顔の直ぐ側から聴こえてくる、小さな吐息。最後に口の中に微かに残る、葡萄っぽいけど葡萄ではない何かの味。
そっと瞼を開ける。最初に目に入ったのは、“赤”だった。滑らかな曲線が数え切れないどころか視界いっぱいにはしっていて、シャンプーっぽい匂いもする。まるで髪の毛を目の前に置かれているような……って、これは本当に髪の毛のようだ。顔を離して状況を探る。五〜六畳程の狭い部屋に居るらしい。飾り気の無い質素な部屋で、黒と赤の二本の左利き用のギターが部屋の隅に立て掛けられている。その脇には黒くて古いROLANDのアンプ。小さなカラーボックスには教科書やバンドスコアが並んでいた。カラーボックスの上にも教科書が並べて積まれている。そして私はベッドの上に座っていた。
恐らく男の部屋だろうと思うのだが、意外な程に片付いていてカーテン以外は結構綺麗だった。しかし、誰の部屋か判らない。少なくとも我が家でないことは理解出来た。
よし、次。手足と胴に密着している温かくて柔らかい物体。目の前に髪の毛があることから、人間であると考えられるが。……密着しているということは、抱き着いているのか? 男の部屋で?
……男!?
「いやぁ!」
目の前の人間を思わず突き飛ばし、ベッドの隅に逃げた。壁に背中がぶつかり、逃げ場がないと悟って絶望的な気持ちになる。男の部屋にいる。男の部屋。男、男、男!
「嫌っ! 来ないで! いやぁ!」
喉が痛くなるほど思いっきり叫ぶ。身体の震えが止まらない。両腕で自分の身体を抱き締めて震えを抑えようとしたが、それは無駄な努力だった。
息が苦しい。あまりの恐怖に過呼吸を起こしかけていた。震える体で、尚も逃げ場を探す。しかし、自分が部屋の隅におり、目の前に人がいる。とても逃げられないと思ったが……?
「……サクヤ?」
目の前に蹲るのは、薄く色づいた赤い直毛で、四肢も胴も程好いくらいに脂肪がしがみついた小さな女の子だった。男ではない。朔耶は幸の愛娘であり、私にとって唯一、苦痛ではない存在だ。恐れるものではないではないか。子どもは好きだし、朔耶は私にとっても妹のような存在。いくら気が動転したとはいえ、朔耶をいきなり突き飛ばしてしまうような真似をした自分に対して、私は呪いの言葉を吐き掛けたくなった。
「あ……さ、朔耶。その、私……」
あぁ、私は朔耶になんてことをしたのだろう。突然突き飛ばされて、びっくりしている筈。朔耶、朔耶! 私は、決してそんなつもりじゃ……。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、此方を振り向いて少しの間呆然として。
朔耶
「愛姉ちゃん!」
朔耶は無邪気な笑顔で私に抱き着いてきた。
朔耶
「愛姉ちゃん、おはよっ! 何年ぶり?」
瞳をキラキラと眩しく輝かせ、ぎゅ〜っと強く抱き着きながら叫ぶ朔耶。私は息を飲み、その言葉に胸が熱くなった。
……今、私を『愛姉ちゃん』って読んだ? 覚えていたの? 三年前に会っただけの私を? あの頃はまだ身体が弱くて、歩けもしなかった朔耶が、私の名前を……!
愛
「朔耶……!」
私は朔耶を力一杯抱き返し、再度その柔らかさと温もりを全身で感じた。
朔耶
「どうして、ずっと会いに来てくれなかったの? 朔耶、愛姉ちゃんのことずっと待ってたのに……」
愛
「……ごめんね朔耶」
私の悲鳴を聴いて駆け込んで来た女性を巧くやり込めて部屋から丁重に追い出し、また朔耶と甘々ムードを形成し始める。朔耶を後ろからキュッと抱き締め、朔耶の赤い艶やかな髪に顔を埋める。桃の成分配合っぽいシャンプーの匂いに、ほんのり香る汗が気味の良いスパイス。朔耶の身体についている脂肪はまるで赤子のそれで、マシュマロのような肌だった。
愛
「今は……朔耶のお母さんが頑張ってるでしょ? 皆でお母さんの事、頑張れって応援してるの」
この身体の持ち主『幸』は《解離性同一性障害》、所謂《多重人格》なのだ。幸は幼い頃から繊細な心の持ち主で、ちょっとした事でも深く心を傷つけることが多々あった。人が多重人格になる原因として最も多いのが『虐待』だが、幸は虐待など受けたことがなく、特に虐められたこともなかった。寧ろその愛らしすぎる容姿と小動物的か弱さ、うるうる輝く瞳には男女問わず“守ってオーラ”に撃沈していた。幸の場合、繊細過ぎる心が必要以上に感傷を与え、その度に解離症状に悩まされてきたのだ。
現在は基本人格の幸が主人格として動いている。危なっかしいことばかりだが、幸が成長するために必要だと光が言ったため、今は皆で見守る形になっている。幸自信も皆の応援を受け、少しずつ人生を前向きに捉えるようになってきた。昔は光が全部幸の世話をしていたようだが、朔耶が生まれてからは光は殆ど外に出なくなり、代わりに私や双子やその他が時々出て幸を安全な方へと導いている。稀に邪魔が入ることもあるが、それは乗り越えるべき試練だと、光は言った。そしてそういった試練を、危なげながらも全て乗り越えてきた。最近は自然なタイミングで統合と分離を繰り返し、“より良い形”を目指している。
朔耶
「また新しい人が来たね」
“新しい人”というのは、新たに生まれた交代人格、『有希』とかいう男の人格のことだ。
愛
「……そうだね。今度は男の人だよ」
朔耶
「……男のひとぉ!?」
驚愕に目を剥く朔耶。あいつは普通に男なんだけど……何をそんなに驚いてるの?
朔耶
「うそっ! あの人、とってもとっても女の子っぽいよ!? お母さんみたいに! それに朔耶のこと、ギュッてしてくれて、温かくて優しかった」
愛
「……!」
温かくて優しかった? 男が? ……嘘。そんなはずない。男なんて、ただ自分勝手で自己中で、生きてる価値無いのに。あいつをシステムに呼ぶのも、私は反対だった。いくら幸と珊瑚のお気に入りだからって、よりによって男を招き入れるなんて! 光が言うから渋々受け入れたけど、私は絶対に認めない。あんなやつはこのシステムには必要無い。そもそも、今まで上手くやってこれたじゃないか! 幸の自殺未遂も、破壊人格の発生も、私達だけで解決してきたのに。男なんて必要無い。私は絶対に認めない!
朔耶
「愛姉ちゃん……大丈夫?」
どうやら私の心の叫びが表情に出ていたようだ。余程恐い顔をしていたのかも。眉をハの字にしておずおずと話しかけてくる朔耶。男性恐怖症である私の事が心配なのだろう。三年前、幸が上級生の男に告白された事があった。私からすれば男なんてみんな同じだが、その男は周りの女子生徒には人気があったようで、歩くだけで熱っぽい視線を集めるような奴だった。そんな男に人気の無い校舎裏で告白され、幸は泣きながらその場から逃げ出した。それから一時期幸はスポットに出たがらなくなり、その時は学校には光が行き、家では私が朔耶の面倒を見た。
愛
「うん、ごめんね。大丈夫だよ朔耶」
それでも幸の母親が連れてきた客や仕事のパートナーである男共が来る度に、私は暴れたり泣き叫んだりした。それはもう熾烈なほどに。その時を限定して言えば、ある意味破壊人格と言えただろう。しかし男に反応して半狂乱に陥る私を、幸の母親は気にも留めなかった。その為私の意識の中には誰かに甘えたい部分(幸の属性)と冷静な部分(私)が同居し始め、甘えたかと思うと急に熱が醒める事が何度もあった。そうしているうちに新たに二人の人格が解離した。しかも基本人格の幸からではなく、交代人格である私から。単細胞生物のアメーバのように、同じ形で完全に二つ以上に別れる“分裂”ではない。私の中にある二つの属性が、私という個体の形を残したまま“分離”した、といったところだろうか。
微笑みながら「大丈夫」と言った事で安心したのか、朔耶は顔を綻ばせて一層強く抱き着いた。
一旦冷静になってみると、今自分がどんな状況になっているのかが検討もつかなかった。この部屋は誰の部屋で、さっき私の悲鳴を聞き付けて駆け付けてきた女性は誰なのか。まだ午後三時十五分で授業中の筈なのに、制服を着て学校で眠くなる授業を聴いてないのは何故か。学校が終わって四時半頃に迎えに行く筈の朔耶と一緒に居るのは何故か。……何故男の部屋なのか……!
今までスポットに出ていたのはあの男か、それとも昨日から姿を見かけていない幸か。
朔耶
「あっ、ここね、お母さん……じゃなくて、お兄ちゃんのお友達の部屋なの」
愛
「友達? あいつの?」
お兄ちゃんというのは、あの男の事を言っているのだろう。あの男は確か“自分の過去の記憶”を持っていたはず。昨日生まれたばかりの人格だから友達なんているはずないが、実在する人間を解離させたのだから、そういう事があっても不思議ではないだろう。ただ、何故友達の家の場所を知っているのだろうか? 偶然出会っただけか? それともあいつは日記やら小説やらに、自分の友達の家の住所を細かに記載していたというのか? 顔の写った写真とかも? 幸の記憶に無いものが交代人格の中にあるなんて事は絶対にない。つまり、幸はこの家があいつの友達の家であることを知っていた事になる。まさかそんなプライバシーな情報をオンラインで流す訳もないし、やはり幸が自力で知ったことに……最近幸は学校が終わるとよくバイクで何処かに出掛けていたらしいが、まさかストーカーなんてしてないだろうな……。
◆
愛
「メイド? 誰それ、どういう事?」
朔耶
「わかんない。朝はいなかったのに、帰ってきたらいたの……」
そう言って朔耶は何か恐いことを思い出したのか、俯いた顔が青ざめだした。垂れた赤い前髪がゆらゆら揺れている。……あまりの恐怖に振るえているらしい。
愛
「ちょっと朔耶、どうしたの? 何かあったの?」
朔耶
「……そのメイドさんに、お兄ちゃんが襲われたの……」
振るえながら搾るように声を出す朔耶。襲われたって、あの男だけ? どこも怪我らしい怪我は無いようだけど。っていうか、メイドに襲われたってどういう事?
愛
「……どんなふうに襲われたの?」
朔耶の瞳はいっそう恐怖に染まり、振るえが全く止まらない。
朔耶
「……ベッドに、押し倒されて……服を……」
愛
「…………」
……把握した。つまり、朔耶は虐待を受けたわけだな? 淫乱な行為を見せつけられるという、精神的な虐待。
蒼白な顔でそこまで言った朔耶は、もう何も言いたくないというように瞼と口をギュッと閉じた。まだ振るえている。六歳児には刺激が強すぎたようだった。あの男も、女の身体になって早々貞操の危機を迎えるとは思ってなかっただろう。しかも相手が女。それでここまで逃げてきたという訳か。そうとうな恐怖を味わった事だろう。同情の余地が無いわけではない。
しかし、それで男の家に来るのは絶対に間違ってる。さっきも言ったが、男なんて自分勝手で自己中で、生きてる価値なんて無い。せっかく危機から逃れてきたのに、ここで襲われたりなんかしたら……アイツ殺してやるからな。……いや、その前にアイツは朔耶の心にダメージを与える行為を阻止出来なかった。既に手遅れ。やっぱり駄目だな。光は失敗した。あの男は、このシステムに存在するべきではない。今度会ったらすぐに殺してやろう。男なんて、必要無いんだ!
朔耶
「ねぇ愛姉ちゃん、あの男の人の名前、何て言うの?」
愛
「……有希」
朔耶
「ゆうきお兄ちゃんかぁ……。んふふっ」
愛
「……」
一頻り心の中で呪詛を唱え続けた後は、立て掛けてあるギターを使って朔耶と一緒に歌を歌ったり、ベッドに並んで寝て朔耶の話を聞いたりした。
◆
時間が過ぎるのは早く、すぐに夜の帳が降り始めた。私は朔耶を連れてちょうど近くにあったファミレスでご飯を食べた。朔耶はハンバーグ定食を頼み、私は何も注文しない。朔耶は幸や珊瑚とは違い、ちょっと心配になるほどの少食だ。外食に行くといつも半分以上残す。この辺りは幸ではなく私に似たのかもしれない。私も一般の幼稚園児と同じぐらいしか食べないし。珊瑚は大人の男と同じ量を食べ、幸と光なんかまるでギャ○曽根だ。お腹の中にブラックホールでも持ってるように、食物をどんどん胃の中へ放り込んでいく上、完食するまで手を止めない。ビュッフェ形式の店に行ったりすると、店側に被害が出てしまう。
いつものように半分以上残した朔耶のハンバーグ定食を私が頑張って胃の中で処分し、あまり客が(っていうか男が)増えない内に店を出た。
◆
部屋に着くと、お腹一杯になった朔耶は目がトロンとし始め、気付くと意識の半分以上が夢の世界に拉致されていた。小さくなった理性で、確り起きていようと努力しているのだろう。九割方目を瞑ったままむにゃむにゃ言っている。まだ十九時半だがここで起こすのも可哀想なので、そのままベッドに押したお……ベッドに寝かせ、タオルケットを掛けてあげる。完全に意識が刈り取られたようで、甘えた声で「お母さぁん……」と寝言を言う朔耶は、地上に舞い降りた天使のような可愛らしさを発揮していた。普段は六歳児とは思えないほどしっかりしている朔耶だが、外見は二歳から三歳くらいで、甘えるときはまるで人懐っこい子猫のようにベタベタだ。しっかりと気を張っていないと、その小さな愛らしい唇を奪ってしまいそうで、そんな考えが一瞬でも頭に浮かんでしまったことに私は大いに狼狽えた。
なっ! 何ですか今のゎ!? 今私、何だか、さっ、朔耶の……くちびる……あっだ、ダメ! 幸の娘である朔耶に、あぁでも、柔らかそうだにゃ〜。それにっ、今なら、誰も見てないし、ち、ちゅ……ちゅ〜、を…………きゃーーーー!!!
【愛の頭の中が混沌で意味が解らなくなったので、ここからは三人称でいきます】
モノローグでの口調が変わってしまうほどに動揺しながら朔耶の唇に自分のそれを近づけようとした愛だったが、触れる直前に弾かれたようにバッと身体を離し、頭を振って逃げるように部屋から出た。閉めた扉にもたれ掛かかって、そこで足が震えに負けて腰を落としてしまい、その場に座り込む。朔耶のあの柔らかそうな唇を思い出して、顔どころか全身が熱を持って朱に染まる。呼吸も荒く、思いっきり肩を上下させていた。
愛
「はぁ、はぁ……朔耶……」
熱い声が、誰もいない廊下に消えていく。ちょっとぐらい離れていても聴こえるのではないかと思えるくらい、心臓の音が大きく鳴っている。擬音で表すと
「ズダダダダダッ!」
といった感じで暴れまくっていた。その鼓動の激しさは例えるならガトリングガンのような凄絶さ。目に焼き付いた光景を頭から振り払おうとする度に無意識的にますます強くイメージされる、朔耶の可愛らしい桃色の唇は、愛を更なる混沌の彼方へと誘った。
たっぷり三時間、愛は自分でも気づかないまま自分を指で慰め、漸く熱が下がった頃には、床にギクリとする光景が広がっていた。急ぎながらも慎重にタオル的なものを探し、床と自分を綺麗に拭いて行為の証拠を完全に消す。自分はなんてことをしてしまったのだろうと、愛は今更ながらに後悔した。いたいけな幼女を、しかも幸の娘である朔耶を想像しながらやってしまった。今思うと、声も結構出ていたかもしれない。喘ぎながら、朔耶の名前を呼びまくっていたような気がする。当の朔耶は扉一枚隔てた向こう側。逆を言えば、愛と朔耶を隔てる物は“扉一枚だけ”なのだ。起きていれば、絶対に聴こえているだろう。不意に二筋の涙が頬を伝う。部屋に戻りたくない、朔耶の顔が見れない。絶望的な気持ちになりながら、愛はお山座りをして顔を膝に埋めた。
更に二時間が過ぎた頃、愛の目の前にある勝手口の扉が開いた。涙に体力を奪われて微睡みかけていた愛は、扉が開く音に顔を上げた。
目を疑った。
最初に愛が知覚したのは、眼鏡。縁が紺色で、だいぶ長い間使っているのだろう、ネジが緩んでガタガタになっているところまで見えた。その次に、黒い髪。肩に触れる程度のボサボサした黒髪が外の風に揺れていた。そして最後に、顎に点々と見られる髭。目の前に現れたのは、男だった。
愛
「……………………ィャ」
それは拒絶の言葉だったが、声が小さすぎて男の耳には届かなかった。
純
「有希? お前何してるんだこんなところで? 部屋ん中入ればいいのに」
不思議そうな顔をする男。半袖のYシャツにボロボロのジーンズという格好で、手には教科書等が入った鞄と何故かケーキが入っていると思われる箱を持っていた。その箱が愛の大好きな洋菓子店の物だったのだが、愛の頭にはそれを気にする余裕が完全に無くなっていた。
愛は振り返り、立ち上がるのと同時にドアの取っ手に手を掛け、目にも留まらぬ早さで部屋の中へ逃げ込んだ。しかし扉が完全に閉じる前に鍵を掛けてしまったため、ガンッという音と共に扉が強く跳ね返り、取っ手は愛の手から離れてしまった。跳ね返っていった扉の向こうに男の姿を見た愛は更に混乱し、「……なんでっ、なんでっ?」と小さく呟きながらベッドの隅へと逃げ込んだ。
朔耶
「んん……愛姉ちゃぁん? どぉしたのぉ?」
ベッドの揺れで目を覚ました朔耶が、手首の辺りで目を擦りながら間延びした声で言う。愛はそんな朔耶の声には気づかず、朔耶が居ることさえも忘れて、隅で縮こまって震えていた。
愛
「……ャ……ィヤダ……ィャ」
気が触れたように拒絶の言葉を繰り返す愛。朔耶はそんな愛の挙動を見て男性、つまりこの部屋の主が帰ってきた事を悟った。部屋の入り口を振り返ると、思った通り男の人が一人立って此方を見ており、その眼鏡の向こうにある瞳は朔耶と愛の間を何度も往復していた。
愛の気を鎮めるには男性に一旦外に出てもらわなければいけないのだが、自分の部屋であるのに部屋の主を追い出すというのは流石にどうだろうか。
どうするべきか悩んでいる朔耶と訳が解らず首を捻っている男を尻目に、愛は前触れ無く呼吸を止めた。それに気付いた朔耶は振り向くが、既に意識を手放していた愛を見てため息をついた。
朔耶
「……愛姉ちゃん、帰っちゃったんだね」
言葉を獲得した頃から幸が解離する様を見てきた朔耶は、人格が入れ替わる瞬間を大概は見て察知出来る。大抵は眠った時に自然に入れ替わるが、何か大きなショックを受けたり、又は必要に応じて故意に入れ替わる事もある。愛の場合は『気絶』という場合がほとんどだったため、朔耶の目にも特にわかりやすかったのだ。
純
「ねぇ、あの……どゆこと?」
純が朔耶に話しかける。純にしてみれば親友が廊下で座って泣いており、自分の顔を見ていきなり逃げ出して顔面蒼白で震えだしてその上気絶したのだから、まったく状況が理解出来ない。それに、見知らぬ幼女が自分のベッドで寝ていたところも気になる。
朔耶
「あ、お兄ちゃ……お母さんのお友達ですか? お母さんって時々、じょーちょふあんてーになるらしいんです」
これは一々説明するのが難しい上に面倒くさいと思った朔耶が、幸の解離を第三者に手っ取り早く一言でしかも曖昧なまま伝える為の最終手段。しかし普段から使っているため、最終ではなく常套手段となっているが。朔耶のように小さな子どもが情緒不安定という言葉を知る筈がないので、聞いた人は皆「……そうなんだ……」で終わり、それ以上は追求しなくなるのだ。が、
純
「…………お母さん?」
朔耶
「え? あ、はい。お母さんです」
純としては親友の様子も気になるが、それ以上に聞き捨てならない言葉が聴こえてしまい。
純に質問責めにされ、『お母さん』と言ってしまった事を心底後悔した朔耶だった。