13 心
有希
「ん、んぅぅー」
暑さで俺は目を覚まし、仰向けのまま軽く伸びをする。全身に汗を掻いているようであり、半端ない不快感と、身体に不自然な熱を感じた。
軽くぼやけた視界と思考で見慣れない部屋の天井にハテナマークをぶつけながら考える。ふぁ、よく寝たな。今何時だ? 今日は何曜日で、バイトあったっけ? えーっと……ここはそもそも何処だ? 寝る前は何をしていて、何故俺はここにいる? そしてまだ五月の頭なのに滝汗をかくほどのこの暑さの正体はいったい……?
ハテナマークが乱立する。その熱さの原因はすぐ目の前にあった。
アリス
「んにゃぁ……ん。あっ、お目覚めでしゅかぁ? ご主人さまぁ」
有希
「え」
声のした方を見ると、俺の左肩を枕にして抱き着く猫耳がいた。その『抱き着く』の言葉通り、『添い寝』ではなく、『密着』といった方がしっくりくる。人間は寝ている間は熱を放出しようとして体温が高くなるため、こうも密着されると流石に熱い。それと、当たってるよ、柔らかいのが。といっても、そこまでは気にならないけど。
……あれ、なんだ? アリスの首筋に、二つの丸い……穴のような物が見える。黒子には見えない。痣、だろうか? まるで吸血鬼にでも噛まれたかのような……。
そんな事を考えていると、猫耳がこしこしと目を擦りながら、こちらを見上げていらっしゃるのに気付いた。またしても『必殺・上目遣い!』が炸裂し、俺は不意に鼓動が早くなるのを感じた。同時に体温も上昇する。
アリス
「あ、ご主人さまぁ……もしかしてぇ、今ドキドキしてましゅかぁ?」
有希
「!」
寝起きで上手く呂律が回ってないが、心臓のすぐ近くに頭をおいているからだろう。アリスには俺の心臓が暴れだしたのが聴こえているようだ。ちくしょう、このエロリコンめ、今すぐにお仕置きして――
アリス
「にゅふふ、やっぱり若い男の子はぁ、寝起きもいやらしさんでしゅかぁ?」
有希
「!!!」
……なん、だと……!?
有希
「おい……? 今何て言った? 若い男……?」
アリス
「うふふ、ご主人様は、いやらしさんです」
甘える様に抱き着いてきて『いやらしさん』を連呼するアリス。言われて嬉しい言葉ではなかったが、それ以上に聞き捨ててはならない言葉が、俺の頭の中を反芻する。
……男。アリスは今、俺の事を「若い男の子」と言った。その言葉の意味するところは、俺の正体をアリスが知っているという事に他ならない。俺が『さき』という女の子ではなく、『有希』という名の男である事を。名前まで把握しているかどうかは判らないが、確かに今目の前にいる女子高生が女の子ではない事を知っているのだ。
有希
「……お前、何か知ってるのか……?」
声が震える。
元に戻れるかもしれない。
そんな期待とは裏腹に、息を乱すものの影。
コイツが、俺と『さき』を入れ替えた張本人かもしれない。
何も答えずに、艶事を期待するかのようなとろんとした目を俺に向けるアリス。その大きく澄んだ瞳に、俺はどう映っている? 心は男だが、身体は小さな女の子。中身はどうあっても、今のままでは力も弱く、何も出来ないただの女の子なのだ。そんな半端な存在である今のこの俺に、アリスはいったい何を期待しているのか。
有希
「教えてくれ。何でもいい、俺にいったい何が起きてるんだ? 知ってることがあったら――」
アリス
「ご主人様は、ご主人様ですよ?」
俺の言葉を遮り、ニッコリ笑って言い放つ、猫耳のメイド。今となっては、その笑顔にも恐怖を感じる。同時に、怒りに似た衝動も込み上げる。
有希
「答えろっ! なんで俺と『さき』が入れ替わってるんだ! 誰がやった! お前か!? どうしたら元に戻れるんだ!」
起き上がってアリスの襟を掴み、激しく問い質す。普段から表面上は取り繕っても、心の内では感情の起伏が乏しい。そんな俺がここまで激情に任せた態度を取っていることに自分でも驚きだが、しかしどうしても止められない。一歩後ろから冷静に成り行きを見ている俺は、表面で怒声を上げてアリスを揺さぶっている『俺』を、理性で抑える事が出来なかった。
アリス
「おっ、おお、落ち着いて下さいご主人様っ! 落ち着いて、リビングで、座ってお話し致しましょうっ」
思いっきり揺さぶられて、首が前後に行ったり来たりするアリス。これで落ち着いてなどいられない。何故ここまで感情が暴発しているのか、自分でもわからない。まるで自分ではない誰かが、俺の代わりに『さき』の身体を動かしているかのようだ。
……しかし、これでは話が進まないよな。アリスはちゃんと話すと言っているのだから、ここは素直に応じるべきか。そもそもこうやって声を荒らげても、何も得るものは無い。平静を欠いては正しい判断が出来なくなるし、こんなの俺らしくない。元に戻るためには、俺は俺でいなければ。
有希
「落ち着いたら話してくれるのか?」
アリスの襟を掴んだまま問いかける。
アリス
「ハ、ハィ、はぁ、ふう……落ち着きましたか、ご主人様?」
有希
「うん、落ち着いた」
そう言って掴んでいた手を離し、アリスの呼吸が収まるのを見守る。苦しそうに胸が上下しているのを見ていると、先程までの狂乱ぶりが甚だアホらしく思えてくる。何故あそこまで取り乱したのだろう? 物事には『始まり』があれば必ず『終わり』がある。俺たちの身に起きているこの現象にも、必ず『終わり』がやってくるはずなのだ。今の『十六歳の母』状態も、その内きっと終わる。何事も『永遠』なんて無い。……これはちょっと誤解を招きそうな言い方だな。でも、とりあえずずっとこのままって事はないはずだから、そう焦る事はない。もう少し気楽にいこう。
有希
「……大丈夫? ごめんね、取り乱しちゃって。私はもう大丈夫だから、行こっ」
アリス
「あ、はい。あの……ご主人様?」
有希
「ん、なに?」
アリス
「あの……言葉遣いが、女の子口調に戻ってます」
有希
「……あ」
◆
アリス
「ご主人様、ラズベリーティーはお嫌いじゃありませんか?」
有希
「んー、飲んだこと無い。どんな味?」
アリス
「ほぅっ……と落ち着くような、甘い香りがします。ラズベリーティーには収れん作用がありますので、軽い下痢、生理痛、歯肉炎、のどの痛みなどに良いんですよ」
着替えてリビングにやってきた俺は、アリスにお茶の準備を任せた。今度こそは!と、目を血走らせる勢いで訴えてきたからだ。俺も、お風呂に入れられてからのアリスの態度を見てると、もう襲われる心配は無いように思えてきたからな。たぶん大丈夫だろうと判断して、お茶を淹れる事を許した。
有希
「へぇー、なんだか良さそうだね」
アリス
「はい。それに『妊婦のハーブティー』と言われるだけあって、飲むと母乳の出が良くなりますし、何より子宮を刺激されますので、これからお子様をお産みになる女性におすすめです。ただ、妊娠初期に飲むのはいけませんが」
有希
「……」
アリス
「ご主人様もいっぱい飲んで、安産型になって下さいねっ」
有希
「……ごめん、飲む気無くしたから、別のにしてもらえるかな……」
眩い笑顔で言うアリスに、俺は溜め息混じりに呟く。これはもう、男として抵抗を感じる部分があるよね。元々これは俺の身体ではないし、そのうち『さき』にこの身体を返すことはわかっているが、それでも「母乳が出やすくなる」とか「安産型になる」とか言われたら躊躇い百パーセントだ。今のところ、誰の子も産むつもり無いし。……間違えた。「今のところ」じゃない。この先ずっと、だ。
アリス
「そうですか……。それでは、タンポポ茶などはどうでしょうか?」
有希
「タンポポ? タンポポをお茶にするの?」
初耳だなそれ。食べられるって話なら聞いたことあるような気はするが。
アリス
「はい。ダンディライオンとも呼ばれる、れっきとしたハーブティーです。タンポポは全部分が利用でき、一般的に若葉はサラダとして、花はワインに、根はコーヒーの代わりに使用されます。タンポポの葉には鉄分やビタミンCが多く含まれ、春に食べれば血液がさらさらになるといわれています。湯がくと葉の苦味が少なくなって美味しいですよ」
有希
「へぇー、じゃそれにしようかな」
アリス
「はい。あ、それから、タンポポ茶はヨーロッパでは『おねしょのハーブ』といわれるぐらい利尿作用が強いので、むくみ気味の方の強い味方なんです。低血圧の方にはおすすめ出来ませんが、母乳の出は凄く良くなるんですよ」
有希
「……途中まではよかったのに……」
なんなのだろう? アリスのやつ、さっきから超笑顔で、母乳が出やすくなるお茶ばかり奨めてくる。これらのお茶はアリスが準備したものか? それとも、この家の標準装備なのだろうか?
有希
「もう、普通の紅茶でいいよ……」
アリス
「紅茶ですね、わかりました。入れ方はどうしましょうか? それとお味の方はレモンとお砂糖、どちらになさいますか?」
ポットや茶葉をてきぱきと準備しながら、こちらに顔を向けるアリス。お茶の入れ方なんて、庶民の俺に訊く事じゃないと思うんだが。
有希
「淹茶の方が手っ取り早いでしょ。それと、レモンと砂糖は両方をちょっとだけ入れてね」
アリス
「かしこまりました、ご主人様」
淹茶というのはポットなどの容器に茶葉を入れ、熱湯を注いで蒸らした茶葉を濾別して抽出する方法のこと。ティーパックなんかもこれに当たる。逆に沸騰している湯に茶葉を入れるのを煎茶という。俺は猫舌だから、煎茶だと熱すぎて飲めない。時間もかかるしな。
アリス
「あ、そういえばご主人様、今思い出したのですが……」
有希
「ん? なに?」
アリス
「もう六時を過ぎてます」
え? もう? えーっと、確か二時半ぐらいに交換日記を読んでた筈だから……アリスに抱き着かれながら三時間以上も寝ていたのか。確かに窓の外を見ると、茜色が徐々に空を覆い始めている。でも、それだけ?
有希
「六時がどうかしたの?」
アリス
「あの、朔耶お嬢様をお迎えに行く時間かと」
有希
「……」
有希
「…………」
有希
「……!!!!」
ぎゃああーーーー!! そういえばそうだ、何処の保育園も迎えの時間は六時頃だった! こんなとこでお茶飲んでる場合じゃねえ!
有希
「あぁんもうっ、もっと早く気付いてくれればいいのにっ。っていうか私なんでさっき気絶してたの!?」
アリス
「あ、それは……その、私が、押し倒して、それでご主人様が、後頭部を強打して……」
有希
「押し倒したぁ!?」
アリス
「ひぃっ!」
ティーセットを持ってテーブルに近づいたアリスは身体を竦め、カップをひっくり返しそうになった。
有希
「まったく、アンタは……性懲りもなくそんなことを……」
アリス
「うぅっ、ご主人様が、可愛すぎるのがいけないんですっ」
泣きそうな顔から一転、開き直って強めの口調で言い返すアリス。……その言い種はなんなんだ。可愛い人は、襲われても文句は言えないっていうのか?
有希
「で、押し倒した後はどうしたの?」
アリス
「ギクッ!」
だから口でギクッて言うなって。
有希
「で、どうなの?」
アリス
「……ちゅ〜……」
唇を指で触れ、恍惚とした表情をする。またコイツは幸せそうな顔しやがって。
アリス
「……今度は、ディープで……」
恐ろしいこと言い出しやがった。
有希
「させません!」
アリス
「……しました」
有希
「!!!」
……え? 『今度は』って、次はディープでやるっていう意味じゃなくて、もうディープでやったって事?
……そういえばさっき、口の中が妙にベタついていたな……お前の唾液のせいかぁ!
有希
「もう許さない! 私が帰るまでに覚悟しておきなさい!」
アリス
「! ……あっ」
そう言って俺はバッグをひっ掴んで外へ飛び出した。アリスへのお仕置きよりも、今は朔耶を迎えに行かなければ。
アリス
「こっちですご主人様!」
有希
「はっ? え、ちょ、ちょっと、何処行くの!?」
駐車場へ向かって走っていた俺の腕を掴み、反対方向へ引っ張りだしたアリス。完全に出遅れた筈なのに、全くタイムロスせずに靴を履いて走っていた俺に追いつくなんて、いったいこの猫耳はどんな脚力をしてるんだ。しかもよく見ると、両足履くのに一分くらいかかりそうな意味のわからない靴を履いている。男の俺には、履き方すら想像も出来ないし、形状を言葉で説明するのも多分無理だろう。部屋の中では裸足だった筈だが、どんな魔法を使ったらこの早さで追いつけるのか、この猫耳メイドはつくづく理解出来ない。
アリスに手を引かれてやってきたのは、家の裏手にある一台分の小さなガレージだった。家の表側しか見てなかったから、こんなところに車庫があるなんて全然気付かなかった。
中にあったのは、グラン・ツーリスモ・オモロゲート、所謂GTOだった。クーペタイプで小さいが、かなり改造が施されているのが一目で解る。普通とはだいぶ違って、何て言うか……トラ○スフォ○マーみたいな形になっているからな。誰の車だろうか。『さき』のお母さんか?
アリス
「行きますよ、乗って下さいご主人様!」
有希
「あ、うん……ええ!? これアリスの車!?」
嘘だろ、なんで猫耳つけたエロメイドが、こんなのに乗ってるんだよ! あり得ねえ!
俺はアリスに無理矢理助手席に押し込まれ、言われるままに変な形のシートベルトを締め、暗澹たる気持ちでベルトにしがみついた。こんな改造車に乗る人間は、スピード狂であると相場が決まっている。こんな可愛い顔をしてはいるが、この車に乗るということは、アリスもきっと俺の心臓を縮ませるような運転をするに違いない。
乗り物酔い、しないかなぁ……。
アリス
「あ、それとご主人様っ!」
有希
「今度は何!?」
アリス
「また言葉遣いが女の子口調になってました! 私の前では遠慮は無用です!」
有希
「……あ」
◆
由利
「こんにちはぁ、二神さ……どうかしたんですか?」
有希
「はぁ、はぁ、はぁ……お、お気になさらず……」
空も橙色に染まり、俺の顔色が蒼白を超える限界ギリギリの頃に目的地に到着した。朔耶の通う保育園はそれなりの規模で、ちゃんとした駐車スペースがある。何台分かは……ちょっと待って、今それどころじゃないから。ヤバい、マジで吐きそうだ……。
アリスに車から出ないことを厳命し、一人やってきた俺を待っていたのは、俺の元クラスメートの由利だった。昨日も由利が迎えてくれたが、今日の勤務は遅番なのだろう。降園で少なくなった園児達の面倒を一人で見ていた。
有希
「はぁ、はぁ……由利先生、お一人ですか?」
由利
「あ〜、一応美代子先生もいるんですけどぉ、『用事を思い出した〜!』って、どっか行っちゃいました。すぐ戻るとは言ってましたよぉ」
相変わらず間延びしたしゃべり方をする由利。由利からすれば『さき』は五歳も年下なわけだが、ちゃんと敬語を使ってるんだな。若い保護者さんとはすぐに仲良くなりそうだが、公私はきっちり分けられているようだ。ちょっと安心。
有希
「そうなんですか」
由利
「はぃ……というわけで、さきちゃ〜ん、明後日の日曜日一緒に遊びに行こーよぉ」
有希
「……えぇ?」
……前言撤回!
由利
「だってさきちゃん、いつも忙しいって断るでしょ〜? たまには遊ぼーよぉ。朔耶ちゃんも一緒にさぁ」
有希
「あー、えっと、あの……」
……どうやら誰も見ていないと、由利はこういう態度になるらしい。しなだれかかる様に軽く抱き着いてきて、上目遣いに猫なで声で誘う由利。俺としては、由利は一度は好きになった女性だ。俺を『有希』だと認識していないとはいえ、こんなことをされると流石にドキドキする。由利の外見は特別可愛いという訳ではない。ただ、なんていうか……フェロモン、いや、むしろエロモン。そう、そんないやらしい気分にさせてしまうような物質を大量に放出しているようなのだ。
しかし、明後日か……クラス会は明日だから、明後日は特に用事は無い……よな? うーん……行ってもいいかな? いいよね?
有希
「あ、じゃぁ、いきま――」
アリス
「ご主人様、日曜日は母の日です。朔耶お嬢様がお料理を振る舞って下さる筈では?」
有希
「……あっ、そういえばそうだった」
あーそうだったか、明後日は母の日か。そういえば昨日、「お母さんはゆっくりしててー!」って朔耶に言われたっけな。危ない危ない、忘れるとこだったよ。
……ん?
有希
「あれ、アリス? 私、『来ないで』って言ったよね?」
アリス
「……っ!」
有希
「車で待ってるように言ったよね?」
アリス
「……(ガクガクブルブル)」
有希
「それと、なんで朔耶が料理作ってくれること、知ってるのかなぁ?」
アリス
「はぅぅ……っ」
俺が詰め寄れば詰め寄るほど、アリスは小さくなっていく。終いには園の玄関から外に出て、砂場に座り込んで『ご主人様好きご主人様好きご主人様好き』などと書きなぐっていた。俺はそれを見てゆっくりとアリスに歩み寄り、アリスが書いた字を全部踏みつけて消した。ついでに軽く指も踏んでやる。悲鳴(喜声?)が聴こえたけど無視。
有希
「すいません、えと、そういうわけで、明後日はダメなんです……」
由利はポケッとした顔で俺とアリスに視線を送る。無理からぬ反応だ。秋○原でもないこんな辺鄙なとこでメイドのコスプレなんて、滅多に見られるものじゃないからな。俺もアリスに会うまでは二次元でしかメイドを見たことがなかった。やはり流石の由利も、珍しい生物としてアリスに興味を持つのは当然か。だが、あまり近づかれると困る。背後から「……ハッ! 帰ったら、ご主人様のお仕置き……ハァハァ」なんて声が、小さく聴こえてくるから。今の台詞が由利の耳に届いていないことを、切に願う。
有希
「ホントにごめんなさい。また今度誘ってくださ――」
由利
「……すげぇ〜、リアルメイドさんだぁ!」
スゲースゲー言いながら、歩み寄ってチョロチョロとアリスを観察する由利。それに気付いて、直ぐ様立ち上がって慌てて衣服を整え姿勢を正し、ニコッとお仕事スマイルを見せるアリス。同様にニッコリする由利。更にニッコリアリス……この二人、放っといたら勝手に仲良くなりそうだな。由利って、何気に百合の才能あるし。てゆーか家にメイドがいるとか、恥ずかし過ぎて誰にも言えねーよ。しかも放っとけば『さき』までその被害を被る事になるんだから、それだけは避けたいところ……待てよ、逆にここで由利と仲良くなって、色々と助けて貰おうかな。協力者が純だけじゃちょっと心許ないし、アリスは危険すぎる。女の子的な知識は女の子に訊く、そういう意味で由利はうってつけの相手だ。高校時代は女扱いされなかったって言うし、それってつまり、男心を少しは判ってるって事だよな。実際純と下ネタ話で盛り上がってる所を目撃したこともある。元々俺は由利とは仲が良かったから、何も問題はない。逆に俺が『有希』だという事をばらしてしまった方が、後が楽になるかも……。
アリス
「ご主人様、せっかくですから、由利様もご招待なさっては如何ですか? 由利様も朔耶お嬢様の作る料理、楽しみでしょう?」
由利
「あー、それがいーよー! ね、さきちゃん、そうしよっ!」
俺にメイドが憑いている事にはなんら突っ込まない由利。
有希
「え? あー、うん……そうですね。じゃぁ――」
由利
「イェーイ! さきちゃんの家! さきちゃんの家!――」
由利が跳び跳ねて喜ぶ。アリスはそれを見てニコニコしながら、時折こちらにちらりと目を向ける。どういう意味の視線なのかは解らないが、どうせまた善からぬ事を企んでいるに違いない。アリスと一緒だと常に警戒しないといけないから、気が休まらないな。
保育室に行くと、子ども達がテレビを観ていた。『しまじろ○』だ。恐竜の国にやって来たしまじ○う達が、元の世界に戻るために恐竜達に協力を頼んでるシーンだ。
食い入るように画面を見つめる子ども達。しま○ろう達を持ち上げて運ぼうとする翼竜に向かって、がんばれーがんばれーと可愛い声援をあげる。遂に翼竜は飛び上がり、し○じろう達は元の世界に戻ることが出来た。そして画面が黒くなる。あ、放送じゃなくてビデオだったのか。考えてみたら、この時間に○まじろうは放送してなかったな。
由利がビデオを片付けていると、一番後ろに座っていた朔耶が俺に気付いた。
朔耶
「お母さーん!」
パッと立ち上がって俺に飛び付いてくる朔耶。俺はその場で膝をつき、小さな朔耶を後ろにひっくり返りそうになりながら抱き止める。そのまま暫くキャッキャウフフした後、朔耶を抱き上げて朔耶のカバンを手にとる。首に回された小さな腕はぷにぷにと柔らかく、俺の目の前で靡く髪からは純の家のbi○ristaのいい匂い。その表情は、どこぞの吸血鬼の妹様のように純粋で無邪気だ。
あーもう、可愛いなこんちくしょう。なんかもう、一生こうしていたくなる。このままお持ち帰りしたいぜ。って、これから一緒に帰るん……あれ? お持ち帰りって、何処にだ? この姿になった今、実家には帰れないってのに……。
そう思うと、ちょっとだけ心が痛んだ。今朔耶の目の前にいるのは、本当の母親ではない。男だ。顔も名前も知らない、一切繋がりの無い他人が、母親のフリをして……最低だ。俺は朔耶を騙している。『さき』はまだ目を覚まさないのに、この身体を体よく利用して、朔耶に嘘をついて勝手に側にいて……
朔耶
「……お母さぁん……グスッ、うぅ」
有希
「え? ちょっと朔耶!? どうしたのいきなり」
アリス
「お嬢様!?」
急に涙を流し始めた朔耶。
有希
「大丈夫? どこか痛いの?」
朔耶
「……(フルフル)」
俺の問いに、首を横に振る。どこも痛くない? じゃぁなんで?
アリス
「あぁっお嬢様が! ど、どど、どうしよう!!」
有希
「……お前はちょっと落ち着け」
アリス
「イタッ!」
アリスに軽くグーで突っ込んで黙らせ、朔耶に向き直る。まだ嗚咽を漏らしている朔耶に気付いて他の子ども達も群がってくる。
「どーしたのー?」
「さくやなんでー?」
「だいじょーぶー?」
と声をかけてくる子ども達に、大丈夫だからと言い、朔耶を抱き直して職員室に連れていく。後ろから由利とアリスもついてきて、困ったように様子を伺っている。
有希
「ね、どうしたの朔耶? 何かあったの?」
朔耶を園児用の椅子に座らせ、目線を合わせて訊ねる。少しは落ち着いてきたようだが、それでも目から流れ落ちる滴は止まっていなかった。
朔耶
「だって、だって……お母さんが……」
有希
「え? お母さん?」
俺が自分を指差して訊ねると、首をコクンと縦に振る朔耶。……俺のせい? 俺、何かしたのだろうか? 来るのが遅かったからか?
朔耶
「だって、お母さん、悲しい、から。朔耶の、せい、でしょ?」
「「「…………」」」
一同、声を失った。
朔耶
「朔耶が、いるから、グズッ、お母さん、大変……」
有希
「…………」
由利
「朔耶ちゃん……」
アリス
「お嬢様……」
朔耶は俺の感情を敏感に察知し、それを自分のせいだと思ったようだ。何故俺の気持ちが解ったのかは判らないが、これは朔耶のせいではない。俺のせいだ。全ての非は俺にあり、朔耶も『さき』も悪くない。
有希
「ううん、朔耶のせいじゃないの。大丈夫。お母さん、大丈夫だから」
朔耶
「……お母さぁん!」
有希
「ごめんね朔耶」
朔耶をしっかりと抱き締める。朔耶の小さな身体から温もりが伝わり、先程の心の痛みが溶解していく。
アリス
「うっ、うぅ……お母さーん!」
有希
「えっ!? ちょっ、何してんのアリス!」
何故かアリスが号泣気味で後ろから抱き着いてきた。
由利
「あっ、私も! お母さーん!」
有希
「なっ! 由利先生まで!?」
由利は逆に超笑顔だった。
職員室の外から投げ掛けられる、子どもを迎えに来たお母さんと、こっそり帰ってきていた美代子先生の怪訝な視線が痛かった。由利、後で美代子先生に怒られるだろうな。