【第五回】 その先
・テーマ/憎悪
・禁則事項/会話文の使用禁止
時折、憎悪とは何であろうかと考える。
また、憎悪を維持し続ける事について。
憎悪について考える切っ掛けとなったのは、友人を通じて知り合った女性である。
彼女は際立って美しい容貌をしている訳ではなかったが、ふとした折に目を引く女性であった。
物を取る時の指の動きや立ち振る舞い、ピンと伸びた背筋と所作の美しさに自然と目が引き付けられた。
初めて会ったのは友人と酒を交わしている時で、偶然近くにいたからと急遽仲間に加わって酒を飲み交わした。
彼女とは互いの職場が思いのほか近く、それから暫しの時を経て再び偶然に街で出会い三度の偶然を迎えて以降、彼女とは思い出した頃に酒を、時にはお茶を飲み交わす仲へとなった。
あれは職場近くに美味しい喫茶店を見つけたからと彼女からの誘いを受けた日である。
仕事を終えた帰りに待ち合わせて寄った喫茶店で、互いの近況などを話しつつ珈琲を楽しんでいた時であった。
ふと言葉が切れて動きの止まった彼女を怪訝に思い、その視線の先を見てみれば、己の祖父母を惨殺した青年のニュースがテレビで流れていた。
あのニュースがどうかしたのだろうかと再び彼女へ視線を戻すと、彼女は艶やかでそして目を背けたくなるような歪んだ笑みを浮かべていたのだ。
実際に目を背けてしまった私に気付いた彼女は、取り繕った笑みを浮かべて謝った。
彼の青年は彼女の産んだ子供で、殺された祖父母は嘗ての夫の両親であると教えてくれた。
悲痛な出来事だというのに、なぜ彼女が笑っていられるのか戸惑っていると実は――と話し始めた。
彼女の話はこうであった。
嘗ての夫が憎くて憎くて仕方がなく、その憎しみをどうしても抑える事ができずに結婚をしたのだそうだ。
なぜ、元夫をそこまで憎んでいたのか、理由を尋ねてはみたが儚げな笑みを浮かべただけで答えてはもらえなかった。
それ以上は尋ねられず、今をもって理由は不明のままである。
しかし、夫婦となった以上は当然に肌を重ねる事もあろうだろう。
現に彼女は憎い相手の子を産んでいる訳だ。
憎しみを抱く相手と肌を重ねる事など可能なのだろうか? 少なからずの好意があったのではなかろうか?
そう不思議に思う私に彼女は、それも憎しみの糧となるのだと言った。
寧ろ彼女は憎し男の子供を産む事を望み、そして叶った。
無事に産まれた子供はすくすくと育つ。
子供が乳離れをすると彼女は早速仕事を始め、その留守の間は子供を憎い男の両親に預ける。
彼女は我が子、いや憎い男の子供を一度たりとも叱った事はなかったそうだ。
子供の望むままに物を与え、望むままに言う事を聞いてやる。
彼女は母ではなく、従者のように子供に付き従った。
子供の祖父母とて、可愛い初孫の我儘を嬉しそうに叶えてやっていた。
誰一人、子供を躾けてやる大人はいなかったのだ。
そして彼女は子供が小学生へ上がるのを期に離婚を申し出て、単身で家を出たそうである。
それ以降、彼女は夫にも子供にも会ってはいなかったが、状況だけは全てを調べさせていた。
全てを妻任せにしていた嘗ての夫は、それまで以上に家庭を顧みなくなった。
男の親とて母に見捨てられた子供は腫れ物であり、ますます子供を叱る機会を失う。
子供はやがて傍若無人な振る舞いが当然となって、望みが叶わなければ癇癪を起こし手を上げる。
暴虐非道に拍車が掛かる子供に対し、男の両親は子供の望みを無限に叶えるという悪循環。
彼女はその綻びがいつ決壊するのかと、心待ちにしていたのだそうだ。
そして、あの日のニュースで漸く彼女の望みは一つ叶ったのである。
彼女曰く、子供は復讐の道具であり、子供として愛情を抱いた事など一度もない。
道具が彼女の望む道具としてあそこまで育つのは運であったと言う。
運が良かったと彼女はその時、笑って言った。
彼女は、自分の人生の十数年を代償に、男の子供を祖父母に預け、うんと甘やかし育てるという復讐を選んだ。
一度も叱られた事のない子供がいずれ引き起こす何かを期待して。
己の手を汚さずして男の人生を潰す為だけに。
あの日、喫茶店で会った日を最後に彼女とは疎遠である。
憎悪とは何であろうか。
私には、彼女のように憎悪を十数年も抱え続ける事などはできない。
逆に、どのような事情があれば彼女のような憎しみを抱えて生きていられるのだろうか。
嘗ての夫は彼女へいったい何をしたのか、彼女を思い出してはその起因を想像する。
もし仮に、私が誰かに憎悪を抱いたのならば、その瞬間に手を下さずにはいられないだろう。
目の前で藻掻き苦しむようなものが良い。
そう例えば毒とか。
このご時世、金を出せば何かと都合がついてしまう便利さなのも考えものだと思う。
私は考える。
憎悪とは何であろうかと。
そうして私は今夜も、愛する妻のため特別に挽いた珈琲を淹れてやるのだ。