僕の三十日戦争はこうして始まった。
『藍浦 碧 様
どうしてもお伝えしたいことがあります。
本日ホームルーム終了後、図書室(日本文学棚の前)にてお待ちしておりますので、くれぐれもお一人で、誰にも知られず気付かれぬよういらしてください』
梅雨らしく雨がシトシトと降っていた朝、登校して濡れた傘の雫を払って靴を履き替えようと下駄箱を開けたところ、上履きの上に薄いピンク色の封筒が乗っていた。
中を見れば封筒と同じ色をした二つ折りのカード、縁には波のようなラインが箔押しされていて、少し丸みを帯びた可愛らしい文字やこの封筒とカードを選ぶあたり、差出人は女の子だろうと予想する。
と同時に、毎週上履きを洗っていて良かったとも思った。
今日はたまたまタイミングがよく、普段乗る一本前のバスに乗り込めたから少し早く学校についたのだ。
そのおかげで、下駄箱はまだひと気もまばらだから挙動不審な僕を気にする人はいない。
ラブレターなんて初めて貰った。
いや、内容はただの呼び出しなのだからラブレターとは言えないか。
しかし、この流れだと漏れなく告白と思ってもいいよな?
誰にも内緒でこっそり来てとか、恥ずかしいからか?
どんだけシャイっ子なんだよ。
そんなふうに差出人のことを考えていると頬が勝手に緩んでくるから大変だ。
こんな締まりのない顔を友達に見られたら何を言われるか分かったもんじゃない。
握った手で口元を隠しつつ普段の顔でなければと思えば思うほど、口の端がどうしても緩んでくる。
どう見ても怪しい人だ。
時間はまだ余裕があるし、トイレに篭って思う存分ニヤニヤしてしまった方がいいだろうか。
女の子(仮)から手紙を貰ったのなんて初めてで、浮かれてしまうのもしょうがない。
その日はクラスメートから不審に思われないようにと頬をしきりに擦りながら、カードの差出人を思っては落ち着きない一日を過ごしたのである。
授業中に先生から注意されること六回、友達から怪しまれること二回、なんとかやり過ごしてやっとの放課後だ。
いつもは途中まで一緒に帰っている友達へ、今日は用事があるからと教室で別れる。
ゆっくりと帰り支度をしながらなんとはなしに人が減るのを待つが、土曜日だから授業は四限までだし、明日は休みということもあってかそう待たずに教室は数人を残すだけとなった。
何気ないふうを装いながら鞄を手に取り教室を出て、図書室のある二階へと下りて行く。
扉を開けて室内を見渡すと、ここもそう人は多くない。
指定された『日本文学』の棚を探しながら向かった先は、部屋の隅に設けられた場所で他のジャンルの棚と棚とで絶妙な死角になっていた。
これはますます興奮――でなくて、期待が高まるというものだ。
しかし、日本文学の棚へ着いたのはよいが、シャイっ子さんどころか誰もいない。
時間が早すぎたのだろうか。それとも遅くなってしまった? もしかして僕は担がれたのか?
呼び出されたから、てっきりシャイっ子さんは待ってくれているものだとばかり思っていただけに僕の落胆は激しい。
もしこれが冗談で、誰かがどこかで僕を見て笑っているのならばかなり恥ずかしい。
僕は情けないやら拍子抜けするやらで肩を落としながら帰ろうと踵を返した。
そこへ、静かな図書室らしく潜めた声で呼びかけられたのだ。
「二年一組出席番号一番の藍浦 碧君?」
「あ! はいっ! 僕が藍浦です」
返事をしながら声のした方を見ると、棚を挟んだ向こう側にシャイっ子さんが立っていた。
棚板と本の隙間から見えるのは、項を隠す染めていない艶やかな黒の髪だけ。
ゆいつ彼女をうかがい知れる声は少し高く、勝気そうな性格を想像させた。
棚を一つ挟んでいるのに、小声でもよく聞こえる。
「帰宅部で間違いはないわね? 誰にも気づかれずにここまでこれた? 誰にも言ってないわよね」
「はい、帰宅部の藍浦です。カードにはそう書いてあったので誰にも言ってませんし、たぶん気づかれてないと思いますけど」
彼女は未だに後姿のままで振り返ってくれないし、棚を指定しておきながら何で違う棚にいるわけ?
「あの……」
「無駄口は叩かない。質問は後で受け付けるわ。あなたに与えられた時間は五分よ。速やかに行動しなさい。まずは、夢野久作の本の奥を確認して」
シャイっ子さんは小声だけれど有無を言わせない口調だ。
何が何だかさっぱり分からないだけれど、取り合えずは言うとおりにと日本文学の棚を振り返る。
目の前には夏目漱石の名前が並んでいた。
思わず人差し指で辿っていると、シャイっ子さんから叱咤が飛んでくる。
「ユなんだから下に決まってるでしょ! お馬鹿さん!」
初対面の人にお馬鹿さん呼ばわりされた。
入学してから図書室なんて利用したことないし、夢野久作の位置なんて知らないんだけど……なんて言い訳ができる雰囲気ではない。
これ以上怒られないようにとその場でしゃがんで見てみれば、確かに一番下には夢野久作が並んでいる。
本を取り出して覗いた奥には、生徒手帳サイズの小さなメモ帳があったので取り出してみた。
「おめでとう」
本を戻して立ち上がる僕にシャイっ子さんが笑い混じりで囁く。
おめでとうって……。
「……まさかっ」
思わず声をあげそうになって既でで堪えた。
慌てて手元の手帳を見ると、その表紙には『部活費補助制度』と書いてある。
「そのまさかよ。明日の六月一日からあなたが一ヶ月ジョーカーよ。し、か、も。スペシャルジョーカー」
畜生、騙された! 愛の告白じゃないのかよっ!
思わせぶりな手紙出しやがって! 身も心も清く美しい僕の純情を返せっ!
「部費争奪戦の切り札であるジョーカーに一ヶ月任命されました。詳細はその手帳に書いてあるから熟読しておいて。あと、次のジョーカーへの引継ぎについては、生徒会から何らかしら接触してくるのでそれに従ってね。何か質問はある?」
「……名前だけ知ってますけど、実際にルールとか詳しくは知らないんです」
今度こそ本当に僕はがっくりとうなだれて肩を落とした。
部活なんて面倒だから帰宅部であるというのに、こんな隠れイベントがあるなんて知らなかった、知ってたら他の学校にしたのかもしれないのに。
とは言っても今更なので頑張らなければならない。
部外者にとっては平穏な日常の水面下で、熱く戦う連中がいるのだという噂だけなら知っているけれど、実際どういった戦いなのか今までの僕には無縁だったので知らないのだ。
まさか、この僕が当事者になるなんて思いもしなかったし。
「そうね……クラブの予算は生徒の自主性を育てるという学園の方針から、生徒会が一任されていることは知っているかしら? あらかじめ学園から割り振られた予算を元に二月末に行われる予算会議で詳細が決められるの。当然クラブ側もより多くの予算確保に乗り出してくるわけなんだけど、その会議でいちいち論じていたら埒が明かないでしょ? 速やかに予算を確定するために、各クラブへ生徒会から試練を与えられているのね。それがジョーカー。ひと月に一人、一年で十二人のジョーカーを生徒会が帰宅部の生徒からランダムに選んでいるの。ベースとなるクラブ予算費はそう多くはないのだけれど、ジョーカーを獲得することでその予算が増えるってわけ。流れはお分かり?」
よどみない彼女の言葉を頭の中で反芻しながらぎこちなく頷く。
要は部費をかけた鬼ごっこで、僕は一ヶ月間逃げ続ければいいのだ。
激しく面倒なんだけど……って、あれ?
「あの、参考までにわざと捕まったりとかって……」
「お勧めしないわ。ジョーカーの証であるその手帳は一ヶ月間、肌身離さず持ち歩くことが原則。体操着に着替えるときもね。どうするかは自分で考えて。もちろん、手を抜いてさっさと捕まってしまったほうが楽だと思う人がいるでしょう。でも、捕まったジョーカーがどうなるのかは……あなたも、今月の始めにも流れた悲惨な放送は聞いたでしょ?」
彼女はやはり背を向けたままだったけれど、その哀れみのこもった言葉に僕はしっかりと頷いた。
二年五組某氏の赤裸々なプロフィールが、昼休みのあいだ予鈴が鳴るまで放送され続けていたのだ。
生まれたときからのエピソードに始まり、幼稚園時代の初恋、小学校時代のお漏らし事件、中学時代では振られた回数やその状況までもが事細かに、いったいどんなイジメなんだよと。
むしろ、どうやってそれらの情報を集めてきたのか、生徒会が恐れられている所以でもある。
なにせ、今月の分を入れて僕が聞いた放送は六回だ。
「うっかり家に忘れたとか、授業の移動で鞄に入れっぱなしだったりなんて言い訳も通用しないわよ、その手帳GPS搭載だから」
「マジっすか?!」
思わず食いついた僕に、彼女はそっけなく肩をすくめた。
「冗談よ。とは言っても、生徒会と科学部がかなり懇意にしているらしいから、何か手は打ってあるんじゃない? でなければ、こんな面倒なこと強制させたりしないでしょ?」
言われてみればごもっともである。
が、その辺は裏の裏を掻く心理作戦なのかもしれないが、試してみるには校内放送というリスクは大きいと思う。
それに、生徒会とか科学部って妙に金持ってそうだから、本当に小型のGPSが埋め込まれてるかもしれないし。
「ジョーカーのペナルティや心得なんてことも手帳に書いてあるわ。で、その手帳を奪われて生徒会へ提出されたらアウトよ」
「だいたいの流れは分かりました。それで、スペシャルジョーカーって何ですか?」
「ああ、それはね。通常のジョーカーに比べて、配当率が高いのがスペシャルジョーカー。なんと、三倍! スペシャルがいつ回ってくるかは生徒会の気分次第、というよりもプールされていた予算が貯まったから放出するというのが本当のところらしいけれど。まぁ、スペシャルであろうとなかろうとジョーカーの数で部費が増えるし、彼らの熱意に大差はないけれどね。身包みはがされないように気をつけて?」
以前、柔道部と思わしきむさい先輩方に囲まれて、制服を剥がされている男子生徒を見かけたことはあったがそういうことだったのか。
恐ろしい。
「五分経ったから私は行くわ。あなたは更に数分待ってから図書室を出るように」
「え、何でですか?」
だいたい、何でこんなスパイゴッコみたいなことをしているんだ?
「やだ、一緒に帰りたいの?」
思わずとばかりに彼女が笑いながら聞き返してきた。
一瞬、振り返りそうになったときに見えた耳の形がちょっと可愛いなんて思っちゃったりして。
「いや、そういうわけじゃ……えっと」
「冗談よ。まぁ、どこから情報が漏れてるのか知らないけれど、私が今回のジョーカーと接触するかもって気づいている人もいるのよね。だから、念には念を入れて、ね? こんなことであなたも初日から捕まりたくはないでしょ?」
「はぁ、気を使ってもらってすいません」
「……できれば放送であなたの恥ずかしい過去なんて聞きたくはないし? 無事に今月を乗り切ったら、今度こそちゃんと顔見て話もしたいし? あなた、結構タイプだしー……まっ、健闘を祈ってるわ」
え? えっ?! 今なんと?! もう一回言って、もう一回!
慌てて本棚へへばりついた僕が最後に見れたのは、「じゃあね」の言葉とともにひらひらと揺れる彼女の白い指だった。
こうして、僕と全クラブ部員による三十日戦争の幕は開いたのある。
短編企画 しずくとつむぐ
『高校二年生のある梅雨の日。放課後、図書室の日本文学の棚前に呼び出された僕は、
名前も知らない女の子から告白された』というシチェーションの短編作品を投稿。
主催者 そうじたかひろ 様の告知
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