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第1話 すべては一切れのパンから始まった

 腹が減った。


 それが、僕の二度目の人生で最初に抱いた感想だった。


 いや、正確には違う。


 最初に思ったのは、たぶん「ここはどこだろう」だったはずだ。


 けれど、それを考える余裕がなくなるくらい、僕のお腹は盛大に鳴っていた。


「……お腹、すいた」


 口から出た声に、僕はぎょっとした。


 高い。


 明らかに、僕の声じゃない。


 慌てて両手を持ち上げる。


 小さかった。


 指は細く、爪の間には黒い汚れが詰まっている。腕もひどく痩せていて、袖口から覗く手首は折れてしまいそうだった。


「え……?」


 僕は二十四歳だった。


 日本で暮らしていた、ごく普通の社会人。


 少なくとも、昨日までは。


 最後の記憶は、仕事帰りの夜道だった。


 雨が降っていた。


 車のライトが見えた。


 それから――。


「……死んだ、のかな」


 不思議と、涙は出なかった。


 実感がなかったのだと思う。


 目の前には、知らない石造りの建物が並んでいる。


 道は舗装されておらず、ところどころに泥が溜まっていた。窓から突き出した木の棒には洗濯物が吊るされ、遠くからは鐘の音が聞こえてくる。


 そして、何より奇妙なのは匂いだった。


 焼きたてのパン。


 湿った石。


 馬の糞。


 煙。


 いくつもの匂いが混ざり合い、鼻の奥を刺激する。


 映画のセットにしては、あまりにも生々しかった。


「……外国?」


 そのときだった。


「Ehi! Ragazzo!」


 突然、背後から声が飛んできた。


 振り返ると、恰幅のよい男がこちらを睨んでいた。


 白い粉のついた前掛け。


 太い腕。


 そして、その手には大きな木の棒。


 男は何かを早口でまくし立てた。


 ほとんど理解できなかった。


 ただ、一つだけ分かった。


 怒っている。


「す、すみません!」


 反射的に頭を下げる。


 もちろん、日本語だ。


 男の眉間の皺が深くなった。


「……まずい」


 僕は逃げた。


 正確には、逃げようとした。


 けれど、足がもつれて盛大に転んだ。


「いった……!」


 石畳に膝を打ちつける。


 男が近づいてくる。


 殴られる。


 そう思った瞬間だった。


「Aspettate!」


 別の声が響いた。


 男の背後から、一人の少年が飛び出してきた。


 僕より少し年上だろうか。


 黒っぽい髪に、鋭い目。


 着ている服は僕よりずっと上等だったが、袖には白い粉がついていた。


 少年は男に向かって、何かを勢いよく話した。


 男が言い返す。


 少年も負けずに言い返す。


 僕には、ほとんど何を話しているのか分からなかった。


 ただ、少年が僕を庇ってくれていることだけは伝わってきた。


 やがて男は舌打ちし、店の中へ戻っていった。


 少年がこちらを向く。


「……大丈夫か?」


 不思議なことに、その言葉は理解できた。


 いや、正確には、意味が頭の中に流れ込んできた。


「え?」


 少年が首を傾げる。


「だから、大丈夫かって聞いてるんだ」


「あ……うん。ありがとう」


 僕はゆっくり立ち上がった。


 膝から血が滲んでいる。


 少年はそれを見て、少しだけ顔をしかめた。


「情けないな。あんなところで転ぶなんて」


「……ごめん」


「謝ることじゃないだろ」


 少年は呆れたように言った。


 それから僕の顔をじっと見つめる。


「お前、見ない顔だな」


「えっと……」


「名前は?」


 名前。


 そう聞かれて、僕は答えに詰まった。


 日本での名前は覚えている。


 けれど、なぜかそれを口にしようとすると、喉の奥で言葉が引っかかった。


 代わりに、一つの名前が浮かんできた。


「……ルカ」


「ルカ?」


「ルカ・ベルティ……だと思う」


「だと思う?」


 少年は怪訝そうな顔をした。


「自分の名前も分からないのか?」


「いや、その……ちょっと、頭を打ったみたいで」


 嘘ではない。


 実際、頭は混乱している。


 少年はしばらく僕を見つめていたが、やがて肩をすくめた。


「変なやつだな」


 そう言って、歩き出す。


 僕は慌てて声をかけた。


「あ、あの!」


「何だ?」


「ここって……どこ?」


 少年は足を止めた。


 そして、本当に信じられないものを見るような顔をした。


「……フィレンツェに決まってるだろ」


 フィレンツェ。


 聞き覚えのある名前だった。


 イタリアの都市。


 ルネサンス。


 メディチ家。


 ダ・ヴィンチ。


 頭の中で、いくつもの言葉が繋がっていく。


「……フィレンツェ?」


「ああ」


「イタリアの?」


「イタリア?」


 少年は首を傾げた。


「何を言ってるんだ。ここはフィレンツェ共和国だろ」


 心臓が跳ねた。


 共和国。


 現代のイタリアではない。


 そんなはずはない。


 僕は震える声で尋ねた。


「……今って、何年?」


 少年は、とうとう僕の頭がおかしくなったと思ったらしい。


「本当に大丈夫か、お前」


「お願い。教えて」


 少年は面倒くさそうに息を吐いた。


「主の年、一四九〇年だ」


 世界が静かになった。


 一四九〇年。


 五百年以上も昔。


 僕はゆっくり周囲を見渡した。


 石造りの家。


 荷車を引く男。


 長い衣服を着た女性たち。


 そして、建物の隙間から見える、巨大な赤い屋根。


 フィレンツェの大聖堂。


 サンタ・マリア・デル・フィオーレ。


 写真で何度も見たことがある。


 でも、こんなに近くで見るのは初めてだった。


「……嘘だろ」


 思わず呟いた。


 少年が眉をひそめる。


「何が?」


「いや……何でもない」


 僕はもう一度、自分の手を見た。


 小さな手。


 痩せた腕。


 汚れた服。


 どうやら僕は、五百年以上前のイタリアで、子供になってしまったらしい。


 しかも、どう見ても裕福な家の子ではない。


 むしろ、かなり貧しい。


 その事実に気づいた途端、お腹が鳴った。


 ぐううう。


 少年が僕を見た。


 僕も少年を見た。


 沈黙。


 それから少年は、ぷっと吹き出した。


「お前、本当に変なやつだな!」


「……笑わないでよ」


「腹が減ってるのか?」


「……うん」


 正直に頷くと、少年は少し考え込んだ。


 そして、懐から小さなパンを取り出した。


「ほら」


「え?」


「食えよ」


 丸くて、少し硬そうなパンだった。


 焼き色は濃く、表面には粉が残っている。


「でも……」


「いらないのか?」


「い、いる!」


 慌てて受け取る。


 一口かじった。


 硬い。


 けれど、噛むほどに小麦の香りが広がった。


 塩気はほとんどない。


 それでも、驚くほどおいしかった。


「……おいしい」


 思わず呟く。


 少年は得意げに笑った。


「そうだろ」


 僕はパンを両手で持ちながら、頭を下げた。


「本当にありがとう」


「大げさだな」


「でも、助かったから」


 少年は少しだけ照れくさそうに顔を背けた。


 そのときだった。


 僕の視界の端に、奇妙な光が浮かんだ。


 淡い金色の文字。


 空中に、薄い板のようなものが現れている。


 そこには、こう書かれていた。


 ――《歴史の断片》


 ――対象との接触により、記録の一部を閲覧できます。


「……え?」


 僕は目をこすった。


 文字は消えない。


 少年が不思議そうにこちらを見る。


「どうした?」


「い、いや……」


 その瞬間、少年が僕の肩を軽く叩いた。


 すると――。


 視界が白く染まった。


 巨大な大理石。


 その前に立つ、一人の青年。


 鑿を振るう手。


 削り落とされる石。


 そして、白い石の中から姿を現す、堂々たる男の像。


 次々と映像が流れ込んでくる。


 僕は思わずよろめいた。


「おい!」


 少年が腕を掴んでくれる。


 映像が消えた。


 代わりに、最後の文字だけが残った。


 ――《歴史の断片を確認》


 ――未来の記録:ダビデ像。


 僕は息を呑んだ。


 ダビデ像。


 あの有名な彫刻。


 ルネサンスを代表する、ミケランジェロの傑作。


 まさか。


 そんなはずはない。


 僕は恐る恐る、目の前の少年を見上げた。


「あの……」


「何だよ」


「君の名前、まだ聞いてなかったよね」


 少年は胸を張った。


「ミケランジェロ」


 心臓が止まりそうになった。


「ミケランジェロ・ブオナローティだ」


 少年は、当然のようにそう名乗った。


 僕は口を開いたまま、何も言えなかった。


 歴史の教科書に載っている名前。


 美術館で何度も見た名前。


 世界中の人が知っている、あの天才。


 その本人が、今、僕の目の前に立っている。


「……どうした?」


 ミケランジェロが不思議そうに首を傾げる。


「いや……」


 僕は震える声で答えた。


「なんでも、ない……」


 嘘だった。


 なんでもないわけがない。


 僕は、五百年以上前のイタリアに転生した。


 そして、最初に出会った少年が――。


 未来のミケランジェロだった。


 僕は手の中に残ったパンを見つめた。


 まだ、半分も食べていない。


 けれど、この一切れのパンが、僕の人生を大きく変えることになる。


 そのときの僕は、まだ何も知らなかった。


 もちろん、ミケランジェロも。


 僕たちの出会いが、やがてフィレンツェだけでなく、イタリア全土の運命を変えていくことなど。


 知るはずもなかった。


 ――これは、歴史に名前を残さなかった僕と、歴史に名前を刻んだ天才たちの物語。


 その最初の一日は、たった一切れのパンから始まった。

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