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婚約者の彼があまりにもドアマットすぎた件

作者: Re:I P
掲載日:2026/06/27

 クラリスの婚約者であるエリオットは、災難な人生を歩んでいた。


 彼の人生における選択のほとんどは、ヴァルクレイ家という一族によって決められていた。公爵家の嫡男として生まれた以上、それは当然のことだと周囲は言う。


 けれど、当然だと言われたものが、人を傷つけないとは限らない。


 エリオットが、婚約破棄をし、あるいは婚約を結び直し、時には再婚に近い縁組みまで押しつけられてきたのは、ヴァルクレイ家のせいとも言ってよかった。


 彼自身が望んだ出会いなど、そこには一つもない。


 相手の令嬢を選んだのも、婚約の時期を決めたのも、破棄の理由を用意したのも、すべてヴァルクレイ家だった。


 そして、ヴァルクレイ家の悪質な点は、婚約を結んだ後、または結婚して離縁した際の財産の取り扱いにあった。


 普通、婚約には支度金が伴う。


 家同士の約束である以上、花束と指輪だけで済む話ではない。領地の一部から得られる収益、持参金、宝石、商会への出資権、時には鉱山や港の使用権まで、婚姻に向けた準備として両家で何かしらの動きがおこりうる。


 それ自体は珍しいことではなかった。


 問題は、ヴァルクレイ家がそれを“自分のものにする”ことに長けていたことだ。


 もちろん、正面から奪うわけではない。そんな分かりやすい悪事を働くほど、彼らは愚かではなかった。


 どうやら、過去にも婚約を結んで、相手の家から差し出された持参金や支度金を、夫婦の共同財産として扱っているようだった。


 結婚後であれば、妻が持ち込んだ宝石や証書、商会への出資権までも、家の運営に必要なものとして組み込む。


 そうして、いざ離縁となった時には、こう言うのだ。


 これはすでに夫婦の生活を支えるために用いられた財産である、と。


 当然、返還できるものとできないものがある。屋敷の修繕費、領地の管理費、使用人の増員費、社交費、投資の損失、契約手数料。いかにも正当らしい名目をいくつも並べ、最終的に返すべき財産を大きく削ってしまう。


 彼らは、夫婦間の財産を共同財産にすることで、離縁した際の分与の差分を多めに取っていたのだ。


 世間一般では、婚約、もしくは結婚して数年で財産を共同管理するなどということはほとんどない。


 少なくとも、まともな家ならば避ける。


 なぜなら、若い夫婦の関係はまだ不安定だからだ。婚約が破談になることもあれば、結婚後に性格の不一致が明らかになることもある。だからこそ、持ち込む財産は持ち込んだ側が管理し、勝手に動かせないようにするのが普通だった。


 けれど、ヴァルクレイ家はそこを突いた。


「公爵家に嫁ぐ以上、財産を分けたままでは信頼関係に傷がつく」

「未来の公爵夫人として、家の運営に関わっていただきたい」

「両家の結びつきを強めるためにも、共同管理の形が望ましい」


 そう言われれば、相手の家も断りづらい。


 家で冷遇されるのではないか。縁談そのものが流れるのではないか。せっかく得た公爵家との繋がりを、自分たちの慎重さで壊してしまうのではないか、と。


 そんな中での縁談だった。普通なら、断るべき案件なのだろう。


 少なくとも、まともな判断力を持つ家であれば、慎重になって当然だった。ヴァルクレイ家との縁談は、見栄えだけなら申し分ない。相手は一般的な公爵家であり、婚約者となるエリオットは、社交界では評判の良い青年だった。


 けれど、その裏にあるものを知っていれば、簡単に頷ける話ではない。


 まして、オートベル家は何も知らない家ではなかった。ヴァルクレイ家が過去に何をしてきたのか。噂程度ではあっても、父は知っているはずだった。


 それなのに、クラリスの家、オートベル家は、その婚約を承諾してしまっていたのだ。


 クラリスがその話を聞かされたのは、午後の茶の時間だった。


 父の執務室へ呼ばれ、いつものように向かいの椅子へ座る。机の上には、まだ封の新しい書類が重ねられていた。その一番上に、ヴァルクレイ家の紋章が押されているのを見た瞬間、クラリスは嫌な予感を覚えた。


「クラリス、お前の縁談が決まった」


 その一言だけで、クラリスは何もかも察した。黙って頷くことはできなかった。


「お父様」


 クラリスは椅子から立ち上がった。


「何故、ヴァルクレイ家と縁談をしたのですか。彼らのことはよく知っているはずでは……!」


 言いかけたところで、父が口を開いた。


「確かに、あの家はろくでもない家だ」


 あまりにもはっきりとした言葉だった。

 父は書類から視線を上げ、娘をまっすぐ見た。


「だが、婚約者までもがろくでもないとは限らない」

「……エリオット様のことを仰っているのですか」

「ああ」


 父は短く頷いた。


「エリオット・ヴァルクレイ。公爵家の嫡男。あの家の看板にされ、都合のよい駒として扱われてきた男だ」

「それは……」


 クラリスは眉を寄せた。


「それは、同情するべき事情かもしれません。けれど、だからといって私がその縁談を受ける理由にはなりません」


 当然の反論だった。


 クラリスは冷たい人間ではない。エリオットが望まぬ縁組みを繰り返させられてきたのなら、それは気の毒だと思う。


 けれど、気の毒だから自分の人生を差し出すというのは違う。同情と結婚は、別のものだ。父はその言葉を否定しなかった。


「確かにそうだ。だが、ヴァルクレイ家のエリオットには才能があると見た。そうでなければ、あんな災難な世渡りはできまい。私は、そんな才ある人間は誰であれ、くだらない家の食い物にされて終わるべきではないと思っている」


 父の言葉に、クラリスはすぐには返せなかった。それは、善意のようにも聞こえた。


 けれど同時に、あまりにも当主らしい考え方でもあった。才能がある。使える。だから救う価値がある。父はそう言っているのだ。


「お父様は、エリオット様を助けたいのですか」「助けたい、という言葉は少し違うな。私は、あの家のやり方が気に入らない。そして、エリオット・ヴァルクレイという人間を、あの家の道具のまま終わらせるのは惜しいと思っている」

「それは、私を使って確かめるということですか」


 父はわずかに目を伏せた。


「そう聞こえるなら、否定はできない」

「お父様」

「だが、娘を安易に売るつもりはない。お前がエリオットを気に食わないと思うならそれでいい」


 父ははっきりと言った。


「この縁談を受けたと言っても、あちらの条件をそのまま呑むつもりはない。ヴァルクレイ家が持ち込んだ契約書は、婚約後ではなく 結婚後改めて協議した上で決めるという事にした」


「では……どのように……」


 クラリスが尋ねると、父は書類を閉じた。


「心配しなくていい。家のことは私に任せて、お前にはエリオットの真偽を見極めてほしい。会うタイミングは任せる」

「分かりました。ではそのように」

 

 こうして、二人はそれぞれの立場から、家の長として、もう一方は婚約者として、ヴァルクレイ家を探ることになった。



 ◇



 程なくして、クラリスとエリオットは、デートの約束を取り付けた。


 いわゆる、婚約者同士の顔合わせである。


 けれど、世間が想像するような甘いものではない。少なくともクラリスにとって、それはデートというより、相手を見極めるためにすぎない。


 場所は、王都の中央通りから少し外れた庭園付きの茶館だった。


 クラリスが到着した時、エリオットはすでに席についていた。それだけで、彼が時間に几帳面な人間であることは分かった。


 エリオット・ヴァルクレイは、噂通り整った青年だった。ただ、一つ意外だったのが、静かそうな人であった事だ。


 エリオットはクラリスに気づくと、すぐに立ち上がった。


「クラリス・オートベル様ですね」

「はい。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ。お会いできて光栄です」


 礼儀正しい言葉だった。あまりにも正しい。


 エリオットは給仕に茶を頼み、それからクラリスへ視線を向けた。


「お好みが分かりませんでしたので、こちらではなく、ご自分で選んでいただいた方がよいかと思いました」

「お気遣い、ありがとうございます」


 クラリスは茶の種類を選びながら、少しだけ意外に思った。


 婚約者との初めての茶会で、こんなに丁寧に親切をされたのは初めてだった。


「エリオット様」

「はい」

「率直に伺ってもよろしいでしょうか」


 クラリスがそう切り出すと、エリオットはわずかに瞬きをした。


「どうぞ」

「この婚約は、貴方のご意思ですか」


 給仕が離れた直後だった。


 エリオットはすぐには答えなかった。やがて彼は、手元のカップには触れないまま、静かに口を開いた。


「私の意思だと言えば、貴女は安心なさいますか」


 クラリスは目を細めた。


「安心するかどうかは、答えを聞いてから考えます」

「そうですか」


 エリオットは小さく息を吐いた。


「正直に申し上げます。私の意思ではありません」


 思ったよりも早い返答だった。取り繕うことも、婚約者らしい甘い言葉を並べることもしない。


「では、ヴァルクレイ家のご意向で?」

「従わざるを得ませんでした。私には元より自由なんてものはありませんので」

「それを、私にそのまま仰るのですね」

「偽っても仕方がありません。貴女はこの縁談を警戒しておられるでしょう。ならば、嘘を並べる方が不誠実です。おそらく、今後、実家がご迷惑をお掛けすると思うので、慎ましく生きようと思っています」


「慎ましく、ですか」


 クラリスは思わず聞き返した。


 公爵家の嫡男が、婚約者との初めての茶会で口にする言葉としては、あまりにも似つかわしくなかったからだ。


「はい。それに婚約を繰り返すという実家の御意向のお陰で、私は外へ出られるたびに殺されかけますから」


 あまりにも平然とした声だったため、クラリスは最初、その言葉の意味を取り違えたのかと思った。


「それは……」


 クラリスが言葉を返そうとした、その瞬間だった。視界の端で、銀色の細い光が走った。最初は、給仕の盆に反射した日差しのようにも見えた。だが、その光はあまりにも速く、あまりにも真っ直ぐに、こちらへ向かってきていた。クラリスがそれをナイフだと理解するより早く、エリオットが動いた。椅子が床を擦る音がし、次の瞬間、クラリスの身体はふわりと宙に浮いていた。


「失礼します」


 耳元でそう聞こえた時には、もう彼女の足は地面についていなかった。


 エリオットはクラリスを横抱きにしたまま、茶館の床を蹴り、庭園の石壁へ足をかけ、まるでそこに見えない階段でもあるかのように一気に屋根まで跳び上がった。


 風が頬を叩き、ドレスの裾が大きく揺れる。クラリスは反射的に彼の肩を掴んだ。下では陶器の割れる音が響き、先ほどまで二人が座っていた卓に、細身のナイフが深々と突き立っていた。


 屋根の上に着地したエリオットは、クラリスを抱えたまま周囲へ素早く視線を走らせた。その腕は驚くほど安定していて、跳び上がった時の衝撃すらほとんど感じさせなかった。それが余計におかしかった。まるで、令嬢を抱えて屋根へ逃げることにまで慣れているようだったからだ。


「すみません。高い所は苦手でしたか?」

「今、気にするところはそこではありませんわ」


 クラリスは思わず言い返した。声が少し震えたのは、恐怖のせいだけではない。突然ナイフが飛んできたことも、自分が抱き上げられたことも、屋根の上まで運ばれたことも、何もかもが一瞬の出来事で、頭が追いついていなかった。


「この通りです。素顔で出てしまえば、殺されかけてしまうのです。勿論、脅しの場合もありますし、本気の場合もあります。ただ、私は少々の体幹の良さと、少しばかりの運のおかげで生きながらえている訳です」


 屋根の上で、婚約者を抱えたまま言う台詞ではなかった。そもそも、体幹の良さと運で暗殺未遂をやり過ごしている公爵家の嫡男など、聞いたことがない。けれど、彼の腕は実際に揺れていなかった。突然屋根まで跳び上がったというのに、抱えられていたクラリスの身体に痛みはない。ドレスの裾が風に乱れた程度で、怪我一つしていない。


「少々の体幹の良さで、私を抱えたまま屋根に跳び上がれるものなのですか」

「私は騎士の訓練を心得ていますので、一般的な方よりは動けるかと」


 そう言って、エリオットはようやくクラリスを屋根の上へ下ろした。そして、瓦の傾斜を確かめるように片膝をつき、少し遅れて腰を下ろした。


「場が冷めてしまいましたね。今日はお開きにしましょう。これ以上ここにいては、貴女にも危険が及びます」

「でしたら、今度は家で開きましょう。そちらの方が息をつけるでしょう」

「はい。機会があれば是非お願いします」


 エリオットはそう言って、静かに頭を下げた。


 婚約者同士の初めての顔合わせとしては、あまりにも騒がしい終わり方だった。


 けれど、クラリスは不思議と後悔していなかった。彼がヴァルクレイ家の悪意そのものではないことは、今日の短い時間で分かったからだ。




 ◇




 オートベル家へ戻った頃には、空は夕方の色に変わり始めていた。


 馬車を降りると、屋敷の使用人たちがいつもより慌ただしく動いていた。茶館で起きた騒ぎは、すでに護衛を通じて父の耳に入っていたらしい。玄関先で待っていた侍女は、クラリスの姿を見るなりほっとしたように息を吐き、怪我がないかを何度も確認した。


 実際、怪我はなかった。ドレスの裾が少し乱れ、髪飾りが一つ緩んだだけだ。だが、身体が無事であることと、心が平静であることは別だった。


 父の執務室へ向かうと、扉の前で家令が控えていた。


「旦那様がお待ちです」


 クラリスは頷き、扉を叩く。中に入ると、父は机の前に立っていた。普段なら書類に目を通しながら話す人だが、その時は違った。机の上の書類は閉じられ、視線はまっすぐクラリスへ向けられている。


「怪我は大丈夫か?」

「ありません。エリオット様に助けられました」


 クラリスが答えると、父はほんのわずかに息を吐いた。


「座りなさい」


 クラリスは言われた通り、向かいの椅子へ座った。父も腰を下ろす。しばらくの間、部屋には沈黙が落ちた。窓の外では、庭の木々が夕風に揺れている。


 父が口を開いた。


「それで、どうだった?」

「紆余曲折あったものの、良い方でした。それに私は今日、助けられましたから」


 父は一度だけ瞬きをした。


「それはそれは良かった。やはり、見込んだ男だったな」

「私も彼となら、より良い関係を築けそうです」


 クラリスがそう言うと、父はしばらく娘の顔を見ていた。軽い気持ちで口にしたのではないことを、確かめているようだった。


「分かった。では、彼を夕食会に呼びなさい。ここでだ。私も同席しよう」




 ◇




 そうして、数日後、オートベル家では夕食会の準備が進められていた。


 クラリスは自室で身支度を整えながら、鏡の中の自分を見つめた。選んだのは、派手すぎない淡い青のドレスだった。


 やがて侍女が扉を叩き、静かに告げる。


「クラリス様。ヴァルクレイ様が到着なさいました」


 クラリスは一度だけ頷き、部屋を出た。


 玄関広間へ向かうと、父はすでにそこにいた。普段より少しだけ格式のある装いをしているが、表情はいつも通り穏やかだった。その隣に立つクラリスの前で、扉が開かれる。


 エリオットは父へ深く一礼した。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます。オートベル卿」

「よく来てくれた、エリオット殿。先日の件もある。道中に何もなかったか」

「はい。お心遣い、感謝いたします」


 エリオットは次にクラリスへ視線を向けた。


「クラリス様。先日はご迷惑をお掛けしました」

「怪我はありませんでしたから。心配なさらないで」


 そう言って、一同は食堂へと向かった。


 食堂には、すでに三人分の席が整えられていた。招かれた客はエリオット一人だけである。大人数の晩餐ではなく、あくまで婚約者を迎えるための私的な夕食会だった。


 けれど、屋敷の空気は普段よりも張りつめている。


 扉の外には護衛が控え、給仕の人数も必要最低限に抑えられていた。料理も茶も、すべてオートベル家の厨房で用意されている。先日の茶館での一件があった以上、父が警戒を強めるのは当然だった。


 エリオットも、その違和感には気づいたようだった。


「随分とお気遣いいただいたようで、恐縮です」「客を招くなら当然のことだ。先日の件がある。君をこの屋敷へ招いた以上、危険な目に遭わせるわけにはいかない」

「私のために、そこまでしていただく必要は」

「君は今日、我が家の客だ。客を守るのは、この家の役目だ。遠慮する必要はない」

「……そうですか。改めてありがとうございます[


 エリオットは深く頭を下げた。


 クラリスは、その横顔を見ていた。彼は丁寧に振る舞っている。けれど、どこか居心地が悪そうでもあった。警戒されることには慣れていても、守られることには慣れていない。そんなふうに見えた。


 やがて料理が運ばれ、夕食会は静かに始まった。話題は、王都の近況や季節の話といった他愛のない話だった。


 やがて、食事が半ばまで進んだ頃だった。


 エリオットは手元のグラスを静かに置いた。音はほとんど立たなかったが、その仕草で彼が会話の流れを変えようとしていることは分かった。クラリスも父も、自然と彼へ視線を向ける。


「本日はお呼びいただき、ありがとうございます」


 エリオットは改めてそう言った。


「ここまでの厚遇をしていただくと、何か裏があるのではと勘繰ってしまいます。よければ、本題に入りませんか?」


 父は少しだけ目を細めた。


「ずいぶん率直だな」

「申し訳ありません。ですが、私には、何もないまま厚意だけを受け取ることに慣れがありません」


 エリオットは静かに答えた。


「それに、オートベル家ほどの家が、何の意図もなく私を招くとは思えません。先日の件へのお気遣いだけなら、見舞いの手紙で十分だったはずです」

「そうだな。では、早速本題に入ろうか」


 そう言って、父は手元に置いていた封筒を開いた。中から取り出されたのは、契約書のような一枚の紙だった。


 父はそれを、エリオットの前へ差し出した。


「読んでみなさい」


 エリオットは一礼してから、その紙を受け取った。


 食堂に緊張が落ちる。クラリスは、父が何を渡したのかすぐには分からなかった。けれど、エリオットが文面を読み進めるにつれて、その指先がわずかに強張るのを見た。


 彼は最後まで目を通し、それからゆっくりと顔を上げた。


「……これは」


 エリオットは、すぐには言葉を返さなかった。紙を持つ指先に、ほんのわずか力が入っている。


「君を、オートベル家への婿養子として迎えたい」

「……私をですか」

「そうだ」


 父は頷いた。


「私はクラリスをヴァルクレイ家へ嫁がせるつもりはない。あの家に娘を差し出すために、この縁談を受けたわけではないからな」


 クラリスは、父の横顔を見た。


 予想していなかったわけではない。けれど、こうして本人の前で明言されると、改めてその重さが分かる。


 父は最初から、ヴァルクレイ家に取り込まれるつもりなどなく、むしろ逆で、エリオットを、こちらへ引き抜くつもりだったのだ。


「エリオット殿に関する大方の事情は聞いている。私としては、娘と結婚を前提とした婚約を結んで欲しい。そのための条件として、君にはオートベル家の婿養子になってもらいたい」


 エリオットは困惑しているようであった。


「……何故、そこまで」

「娘の婚約者になるというのも理由の一つではあるが、君に価値があると見たからだ」


 その言葉に、エリオットは顔を上げた。


「価値、ですか」

「ああ。誤解しないでほしいが、哀れだからという意味で言っているのではない。君は、ヴァルクレイ家の中で潰されるには惜しい人間だ。先日の茶館の件も聞いた。今日の振る舞いも見た。君は自分の置かれた状況を理解しているし、周囲への配慮もできる。危機への反応も早い。不幸なのは、あの家の者であるという事だ」


 父は続けて話す。


「もちろん、これは命令ではない。私達からのお願いだ。君が望まないなら、この話は進めない。オートベル家の名を使って君を縛るつもりはない。そんなことをすれば、ヴァルクレイ家と同じになる。あくまでも君の意思を尊重したい」


 クラリスは、その言葉に小さく頷いた。

 そこは、最も大事なところだった。


 エリオットを救うためだとしても、本人の意思を無視して人生を決めるなら、結局は別の家が彼を縛るだけになる。それでは意味がないのだ。


「もし、君が望むなら、ヴァルクレイ家が反発しようと、社交界で何を言おうと、オートベル家が君を受け入れよう」


 エリオットは、紙を握りしめそうになって、途中で指の力を抜いた。


「……私がオートベル家に入れば、ヴァルクレイ家は黙っていないと思います」

「だろうな」


 父はあっさりと言った。


「だが、それは君が心配することではない」

「ですが」

「君一人を守れないほど、オートベル家は弱くない」


 その言葉だけで、十分だった。


 オートベル家は、ヴァルクレイ家に怯えているわけではない。むしろ、ヴァルクレイ家の方がオートベル家との縁を欲している。だからこそ、この婚約は成立した。父は最初から、相手の狙いを見抜いた上で、逆にその縁を利用するつもりだったのだ。


「私は、実家の意向には全く興味がありませんでした」


 エリオットは、静かにそう言った。


「何を命じられても、どうせ私の意思など関係ありません。婚約も、破棄も、外出も、社交の場で誰と話すかさえ、すべて家の都合で決まっていました。どうせ変えられないのなら、せめて波風を立てずに従っていた方が、周囲に迷惑をかけずに済むと思っていたのです。ですが、今日のお話は違う事が分かりました。私にどちらが良いか選べと仰っているのですね」

「そうだ」


 父は短く答えた。


「ならば、私は選びます」


 エリオットは、まっすぐ父を見た。


「オートベル家の婿養子として迎えていただけるのであれば、その話をお受けしたいと思います」

「本当にそれでいいの?」

「はい、未練はないです。どうぞよろしくお願いします。迷惑をかけないようにします」


 クラリスは少し笑いながら話す。


「そんな事を言わないで。この家の誰もが貴方を迷惑だなんて思ってないわよ。困った時は私達に相談するようにしてくださいませ」

「……分かりました。努力します」

「約束して下さい」

「はい。約束します」




 ◇




 それからの動きは早かった。オートベル家はすぐに正式な書類を整え、王都の役所と王宮の認可を取りつけた。エリオット本人の署名も、クラリスの署名も、オートベル家当主である父の署名も揃っていた。そこに不備は一つもなかった。


 そして双方で契約が交わされ、エリオットは正式にオートベル家の婿養子となった。


 婿養子になるということは、この国では生家との縁を切ることを意味する。少なくとも、エリオットのヴァルクレイ家に対する今後の財産や家政に関する権利は完全に消える。


 血の繋がりが消えるわけではないが、家の者としての所属は変わる。つまり、今のエリオットはヴァルクレイ家の人間ではない。オートベル家の人間だった。


 その知らせが届いた途端、ヴァルクレイ家は激怒したという。どうやら何度も抗議の使者を送ってきたらしい。


 けれど、その奥にあるものが、愛情でも親心でもないことは明らかだった。彼らにとってエリオットは息子というより、便利な看板だったのだ。婚約を結ばせ、相手の家から財産を引き出し、離縁となれば共同財産という名目で削り取る。そのための、金のなる木だった。


 そして、その木はもう彼らの庭にはない。


 今のエリオットは、ヴァルクレイ家とは無縁である。彼の名を使って新しい婚約を結ぶことも、彼の妻となる令嬢の持参金を取り込むことも、彼を理由にオートベル家の財産へ手を伸ばすこともできない。


 彼らの抗議はオートベル家に門前払いされていた。


 オートベル家は、ヴァルクレイ家よりも格上であり、力でも後ろ盾でも劣っていない。


 彼らがどれだけ声を荒げようが、意味はない。


 むしろ、その騒ぎによって、彼らがエリオットをどのように見ていたのかが露わになった。息子の幸福を案じる言葉より先に、失われる利益を嘆く言葉が出るという、彼らの有り様が、すべてを証明していた。


 こうして、ヴァルクレイ家は徐々に衰退していった。


 新たな縁談は途絶え、過去の契約を見直す動きも広がり、かつて彼らに近づいていた家々も少しずつ距離を置くようになった。都合よく使っていたエリオットの名を失ったことで、ヴァルクレイ家はもう以前のようには立ち回れなくなったのだ。


 そして二人が正式に結婚する頃には、ヴァルクレイ家の名は、王都の社交界からひっそりと消えていたのだった。

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