神の息吹
残業で遅くなってしまった。
小鳥は、疲れた体で地下の駐車場に行く。エレベーターから降りると、外の暗闇よりは薄明かりの辺りに視界が開けて、思考は頼りなく、足は真っ直ぐに自分の車へと目指した。
早く家に帰ろう、それしか思っていなかった。寄り道せずに、早く――。
駐在している車は数台、まだ居残っている人がいるのか、それとも置きっぱなしでいるのだろうか。そんな他人の事情はどうでもよかった。小鳥は、車のキーを取り出し、開ボタンを押す。カチャ、という音が聞こえて、開いたのだと信じて車のドアを開けた。
ところがだ。全然違う予想外の事が起こった。
「!?」
運転席に誰かが乗っていた。見知らぬ男――ではない。よくご存じの、あの人。
「ぶ……」
声は出しきれなかった。寒気がして、冷や汗が飛び出た。部長!
そして空気を察したのだ、すぐに、幸いだった。
「ま、間違えました! 失礼しました!」
慌ててドアを閉めると、すぐさまその場を去った小鳥。近くに停めてあった車にぶつかりそうなほどの勢いでドアを開けて、運転席に座る。
今度は間違えず「正しい」自分の車に乗った。何を呆けていたのだろうか、確かに白い車で遠巻きに見たら似ているかもしれないが、よく見たら全然違う車種。疲れていたのよ、はぁ~、やってしまった……落ち込んでハンドルに覆いかぶさり、しばらく顔が上げられなかったが、部長が見ているかもと思い発進した。
部長とは、営業部の渡部強志、小鳥は経営サポート部なので、違う部署だった。あまり他部署の事は知らない。
けれどバッチリと目は合ったし、何も言わなかったけれど、深く印象づけてしまったに違いない。どうしよう、明日にお詫びにいこうか……いや、でも。
答えが出ないまま、そして何かに頭で引っかかりながら、地下から脱出した。外は暗く、小鳥を乗せた車はその中を突き抜けていった。
翌日、出社すると、同僚の来実から欠席連絡があって、と上司の俊原涼子が心配そうな顔をして言った。
暗い声で、一人暮らしだし、もし風邪とか熱中症とかで何かあったら……と溜息混じりに。そうですね、私も気にかかります、と小鳥は退勤後に様子を見てきますと決めてそう言った。
来実はどこにでもいる普通のOLで無茶するようでも大人しすぎるわけでもないが、暑い日が続くし、万が一という事もある、寄り道で行ってもいいかと仕事は早々に片づけて、来実の住むマンションに向かった。
一度、来た事があった。ピエモンテというマンションで3階の302号室、「ピエモンテ」とはイタリア北西部のアルプス山脈に位置し、有名銘柄バローロ、バルバレスコを筆頭にイタリア随一の高級ワインの産地として知られる地の事だが、来実に意味を聞いても「さあ?」としか返ってこなかった。
来実は広瀬来実という氏名だが、表札は出していなかった。記憶を頼りにインターホンを押した。するとすぐに足音が聞こえて、中から知らない女性が出てきたのだ。
「こんにちは、どなたです?」
若く、小鳥や来実とはそう変わらない年齢だろう、一見、優しそうだが。「同僚の、天根といいます」と名乗った。
「もしかして小鳥さん?」
「はい、そうです」
「あなたがそうなのね。私は姉の亜実です。来実の具合がよくなくて来ているの」
姉? いたんだ来実に。知らなかったと軽く驚き、姉の背後でリビングのテーブルにマグカップが2つ並んでいたのを見て、誰かいるのかなと思った。
「奥で来実は寝てるけど、よかったら上がってってよ、せっかく来たんですし。コーヒーでもどう?」
「えーっと……」
断ろうかと思ったが、何故だか躊躇した。何か、頭に引っかかる……このまま立ち去ってはいけない“何か”がある。それが何なのかを確かめたくて、小鳥は中に入る事にした。
「お言葉に甘えます」
「すぐ淹れるわね」
亜実は台所でコーヒー豆を取り出して用意し始め、奥に通らされた小鳥はソファに座った。寝室のドアが少し開いて中が見えたが、ベッドの上で来実は布団を被って起きてはこない、寝返りはうった。
「まあ、寝かしといて。疲れが溜まってそうだったから。風邪もひいてたみたいだし」
ドリップで淹れたコーヒーを持ってきてテーブルに置く。仕方ないなぁ、と亜実が苦笑いでいると小鳥も苦笑いで応えた。
香り立つコーヒーは美味しくて飲んだ事がない味で、何を使っているんだろうと聞いてみようとしたが、眠くなってきた。
あれ?
変だな、コーヒーって目が覚めるんじゃ?
どうして、私はここにいるんだろう……?
小鳥は、体が崩れて、ソファに寝転んだ。あれ? あれ?
午後7時。最後にスマフォを見た時がそうだった、今は何時何分……。
深い眠りへと小鳥は落ちていった。
眠らされたのか? 小鳥は気がつくと、森の中に居た。
鳥の地鳴きが聞こえる、風で葉のこすれる音がする、湿っぽい空気を感じる。小鳥が自分の手を見ると黒い土がべっとりと付いていて、ふと傍を見れば山盛りになった土があった。
この山は何だ? と訝しげに眉をひそめると、ぷんと匂いがした。これは何処かで嗅いだ事がある匂い、記憶に残る人工物の匂い……それは、そうだ、あの時に。
途端に寒気が走った。まさか、まさか。心臓の音が聞こえる、それは自分のだ、もしかして、と一気に焦り始めた小鳥がとった行動は、土を、地面を掘る事だった。
明らかに色が他と違う土を掘ってみれば、出てきたのは。「ひっ……」片手だった。ガタガタと肩と手が震えた。人の手、一体、誰の?
こんなに恐ろしいのに妙なものだ、小鳥は唾を飲みこみ、土を再び掃い、顔と思われる箇所まで行き着いた。「な……」小鳥にとって予想外の事態になった。
「く、くくく……」
うまく言えないもどかしさ、目を逸らして出てきた涙が下にポタリと落ちた。
(来実……!)
混乱した。何故、来実なの……? この匂いを嗅いだのは来実ではない、別の人だった。
(部長じゃなかった……! どうして……どうして、来実なの?)
目を開いた状態で、口は閉じていた。仰向けで、空を真っ直ぐに見ていた。覚えがある匂いは、来実ではなく、先日に車を間違ってドアを開けた際に嗅いだものだった。
だからこの“死体”は部長、渡部強志だと思い込んだのに。どうして。来実を殺したのは誰? 渡部? それとも……小鳥はもう一人の可能性に着いた。
(お姉さん……亜美さん)
私はどうしてここにいるんだろう、どうして生きているんだろう、何があったの、わからないよ……。
両腕をさすりながら、事実を受けようと試みた。落ち着くまで何時間かかっただろうか、手元には何も無く、でもここに居てもどうにもならないと、涙は乾いて口唇を舐めた。
「山……下りなくちゃ」
仕事帰りの服のままだった。汚れていて、裸足だった。着衣の乱れは無い、眠って、ただ運ばれたのか。犯人の意図がわからず苦しんだが、山を下りなければ、山を下りなければ、と繰り返し頭の中を巡った。
立ち上がるのに数分とかかったが、起立し、目の前の木にすがった。山を、下り、ないと……誰、かに、助けてもらわないと……覚束ない足取りで、下山を始める。道は無い、転ばないで、負けないで、落ち着いて、と自分にずっと言い聞かせ、ひたすらに下山していった。
もう勘に頼るしかないと、何十分とかかって、ようやく視界が開けてきたかと思われた頃、白いものが目に入った。
「あ……れは」
人の姿に見えた、小柄で、ゆっくりと近づいていくと、向こうもこちらに気がつき、小鳥を待っていてくれているのか、動きを停止していた。段々と様相が判ってくるが、白装束の小柄な少女で、髪は生えておらず丸坊主。異質ではあると感じた。
「あ、あの。こ、ここは何処ですか、その、私は……」
言葉が出てこず、相手からのリアクションに頼った。けれど、相手の少女は無言で、困惑している小鳥を見つめ、軽く頷く。
突如、小鳥の脳裏に“神の子”が浮かんだ。そうだ、神の子というフレーズがぴったりだ、と小鳥は、仕舞われていた記憶を思い起こした。
『神の息吹』
そう名付けられた水があった。来実がかつて、山で見つけてきた天然水。S県にある神高山で、来実が何故そこに行ったかは不明だが、歩いて登山した時に足を挫いて動けなくなってしまって困っていたら、水の音を拾い、川があるのかと顔を上げるといつから居たのか少女が傍に立っていて、両の手の平に汲んだ水を差し出して飲むように勧めていた。
訳が解らず、早く、と諭されて飲んでみると、みるみるうちに力が蘇ってきて、痛みも無くなり、スッと立ち上がる事ができた。奇跡か、と思った来実だったが、居たはずの少女は視界から消えていた。だが辺りを見渡しても、静かな音だけだった。
帰ろうか迷っていたら、微かに水の音を聞いた。足はもう大丈夫だろうと来実が向かった先には、小さいけれど、滝があった。もしやさっき口にした水は、これでは?
奇跡を信じ、来実は水を持ち帰り、成分を調べても特別な事は無く普通の水だったにも関わらず、見えない何かに突き動かされているかのように働き、来実はこの水を商品化までしてしまった。
それが『神の息吹』であり、期間限定で世に売り出される。値段が、500ミリリットルで3千円する。果たして本当に身体などに効果が出るのか、怪しげなまま、まだ1本も注文が入ってきてはいないという。
その事を思い出して我に帰り。小鳥が髪の無い白装束の少女を見やると、やがて歩き出した。待って、と小鳥が追いかける形で後をついて行くと、立ち止まったかと思えば、振り向かずにある方向を少女は指さす。
「な、何?」
もっと少女に近づいて、横に。そして少女が見ろ、と無言で視線だけを向けていた先には、大きな穴があった。
「何が……」
恐る恐る足を進める。不安定な足場に気をつけながら、穴の中を覗くと「ひいっ」と悲鳴を上げた。
誰かが倒れていて、小鳥――白くなった自分の姿だった。
背筋が凍り反れて危うく後ろへ倒れそうになったのを踏みとどまり、カチカチと歯が鳴り、震えながら目を背けて背後の少女と目が合うと――ニヤリと笑った。
神だなんて――違う――化け物よ!
咄嗟に走り出した小鳥。恐ろしくて恐ろしくて、居ても立っても居られなかった。今に見たのは何――私と、私と、私。あれが私なら、ここにいる私は誰?
頭の整理がつかないまま、闇雲に走っていた。息が苦しくても平気だった。山を下っているのか戻っているのかが分からない。小鳥は大混乱で、山道に出た時もつまずき転んでしまっても、1台のバイクが通過してしまっても……動けなくなった。
(助けて……)
声にならない声がする、涙声だった。助けて、誰か、助けて、たすけて。祈りが通じたか、1台の軽自動車が走ってきた。
暗く景色がなりかけていて、ライトに気がついた小鳥は、お願いとまって……と気力を振り絞って、起き上がって車の進行を妨げた。
運転手からしたら、急でブレーキを踏む。そんなにスピードが出ていなかったおかげですぐに止まった。中に乗っていたのは男女のカップルで、運転していた方が男で車から降りた。
視界がぼやける中で小鳥は、男が何を言ってくるだろうと怯えた。40代半ばといったところの中肉中背、Tシャツに短パンで、キャップを被っていた。
「君は――」
「どうなってるの? ヒガシ!」
「ちょっと待ってて、えーっとね」
助手席に乗っていた女を制し、ヒガシと呼ばれた男がジロジロと小鳥を眺めると「ちょっと悪いんだけど」と前置きをして「ひとまず後ろに乗って。先に彼女を送っていきたいから」と断りを入れた。
小鳥は混乱が治まらないまま、男の言った通りに後部座席に乗った。不信感を露わにした女は、もう気にしていないのか前を向き、再び乗り込み運転を再開した男には何も言わず、一軒家に着いて女を降ろし「じゃあね」と別れて、住宅地を抜けたらやっと男が小鳥に話しかけてきた。
「お待たせしたね。それで君はなんなの? どうしてあそこに」
どんよりとして黙っていた小鳥とは裏腹に、明るい調子で話しかけてきた。おかげか、少し安堵している。
「私、私……今の自分の状況が、わ、分からなくて困っているんです」
ようやく落ち着いてきたものの、遡って考えてみても、さっぱりと分からなかった。
「俺も分からないからね。分かっている事は何か、何でもいいから教えてほしい。焦らなくても大丈夫だから。コンビニ寄って行こうか、コーヒー飲みたい」
男は田村ヒガシと名乗り、彼女と遊んできた帰りだったという。コンビニに着いてワンカップのコーヒーを飲んできた後で、停めていた車へと戻ってきた。
待たせたね、と笑顔を見せたヒガシに小鳥が頷くと、待っていた間に思い出してきた事を全て伝えた。
自分は、天根小鳥。同僚に見舞いに行き、そこで恐らくは姉貴と名乗る女に眠らされて、気がついたら山の中に居て、出会った不思議な少女に導かれるままに同僚の死体や自分の体を発見し、恐くなって逃げだして……と、そこまで。
いや、同僚の来実の死体は少女に会う前だ、と訂正しながら。説明しながら、小鳥は整理していった。
「ふうむ、そんな事が。何も聞いても分からんねえ(笑)」
医者が匙を投げるとそんな言い方をしそうだなと小鳥は吹っ切れたように笑えてきた。ヒガシは溜息をひとつ。コーヒーの口臭が辺りに漂う。
「今日はいつですか」
「2025年8月16日、あと4時間で日が変わるね」
「だとしたら、昨日の今日だわ。昨日の夕方、来実のマンションへ行った。それからほぼ一日、あそこで過ごした事になる。そんなに長い時間、寝ていたなんて信じられない」
かなり疲れが溜まっていたのかもしれないな、とも思ったが、それでも長すぎる、妙だなと感じた。
もう一度溜息を洩らしたヒガシは、衝撃の言葉を発した。
「俺はね、君が、もう死んでいるって事が、分かる人間なんだよ」
静まっていた。
隣に停車していたワンボックスカーがバックして去って行った。
まだ、静かに時が過ぎる。
「そうよ……」
沈黙を破り、素直に認め始めた自分がいる、小鳥は、無意識に忘れようともがいていたのかもしれなく、つう、と一筋の涙が頬を伝わる。
見たではないか、自分が穴の中で死んでいたのを。凝視したではないか。自分は誰と問いかけて、答えてもらえたではないか、この男に。
「私、眠らされたんじゃなくて、殺されたのね……」
合点がいった。さっきだって、通りかかったバイクがとまってくれなかった。乗っていた彼女さんだって何も話しかけてこなかった。気味が悪いから無視されていると思って黙っていたし、コーヒーも一人だけで飲んで……。
「私が、つまり、幽霊だって、知っていたのね」
「生まれつき、そういうのが見える人なの俺は。だから、ああまたかって思って、とりあえず彼女さんは普通の人で、俺がこんな体質なのをよくご存じだから、事情は察してくれていたから、先に家に帰ってもらったよ。心配しないで、よくある事だから」
物分かりが良すぎないかと安心と同時に面白くなってきていた。「ごめんなさい、もうおかしすぎて、どうでもよくなってきて」と小鳥は悲しくない涙が飛び出てきた。
「同情はする。ま、ドライブがてら、さっきの山に戻ってみようか。分からない時は原点に戻れ、これウチの会社の教訓のひとつ」
「そうね……」
まだ混乱から逃れられなさそう、と発進した車に身を委ねながら、そういえば温度は感じない、そうだっけ……と徐々に、自分が幽霊である事を自覚していった。
昼間とは違い、夜道は涼しく感じ、ポツポツと道沿いにある建物の横を通過し、小鳥は、ヒガシについてを聞き始める。
「ウチの会社は、まあ中小クラスだけど処遇に不満はない。今のところ、殺伐とはしてないね、時給が上がらないとか人手が足りないとか、まあ繁忙で苦しい時期もあるけど、給料もらえて雇ってもらえてるんだから、ありがたいと思わなきゃ。あ、俺は工場長やってます。何の工場かは、秘密」
言いたくないのか言えない事情でもあるのかは触れない事にした小鳥は、話題を変えた。
町を抜け、人の気配がますます寂しくなってくる。
「私、解決できないと、成仏できないのかな」
「よくあるのはね、この世に未練があって、解決できたらあの世に行くんだろうね。しかし君の場合はそれ以前に未練が不明、というか謎。しかも殺人事件に巻き込まれている可能性が高い訳だ。ここはオジサンが華麗に探偵役を、といきたい所だが、あいにく何も閃きません」
匙を投げないでほしいと口には出さなかったが、かといって巻き込んで申し訳なさが立ってくる。縮こまった小鳥にヒガシは、案を提示した。
「状況から推測していくと、君は殺された。犯人は、その、姉っていってる亜実さんだっけ、一番怪しい容疑者だ。そして君の死体を森へ運んだ。運んだのは亜実さんなのか、他に誰かと共謀したのか、君が同じ匂いを嗅いだっていう部長さん、渡部さんだっけ、そいつも怪しい。怪しい怪しい言っててもしょうがないから警察に一刻も早く調べてもらいたいとこだけど、このまま俺がそんな事を言い出したら、何でアンタそんな事を知っているのですかって追及されちまう。小鳥さんは、俺しか見えないからな」
「はい」
「だから、そう、まずは君でも来実さんでもいいから、死体を発見する事だ。俺がこれから山に行って、どちらでもいいから死体を確かめて、警察に見つけましたー! 来てー! って連絡して来てもらえれば、後は調べてもらえるよ」
なるほど、そうすればスムーズに事が運べるのか、と感心した。行き先が分からない迷路に閉じ込められて、立ち往生する所だった。
「ネカフェ行くかぁ」「ねか?」「俺だけね。ネカフェね。今から山行っても危険だよ。朝まで待って、明るくなったら探しに行くから。それまで24時間営業のネカフェでのんびり」
もうヒガシの頭の中はそれでいっぱいの様だった。スマフォで近辺のネカフェを探している。信号が青になると交差点を曲がり、しばらく道なりに走った。
「山には戻れるけど、問題はそれからだよなぁ、どこら辺に自分の死体があったか、思い出せそうかい」
それには曇り顔で、悲しくも答えられなかった。
「ここから最寄りのネカフェが結構遠いな。まあのんびりと行くか」「はい」
急ぎたい半分、諦めて休みたい半分といった所で、ヒガシの運転に任せる。車は暗い夜道を独走の様に走る。その間に小鳥には様々な想いが駆け巡る。
自分が死んだ事の恐怖や、絶望感。私、まだ24歳よ? 恋人もいないし、会社にはまだ2年しか勤めてない。どうしてこんな事に? お父さんお母さん、私、まだ死にたくないよ……。
涙を流す小鳥に気がつきヒガシが「ごめん、何もしてあげられなくて……」と悲しそうな顔をすると、小鳥は首を振り「いいの……あなたには関係ないはずだった」と、ただ泣く。
沈黙を何とかしようと試みたのか、ヒガシはラジオをつけた。聞いた事のあるメロディと、一日のニュースが坦々と伝えられた。そしてその中で驚いた事件があった。
「え……?」
耳を疑い、小鳥は困惑する。ヒガシも黙ってそれを聞いていた。
今日未明、男女数人が原因不明でバタバタと倒れ、緊急搬送されたというニュースだった。それが何と小鳥の勤めている会社内、もしくは関わっている会社から、合わせて40人ほどが病院に運ばれたらしい。
そして現在も原因が分かっておらず、集団食中毒か? と疑われていた。信じがたいニュースだった。
(水を、やめろ……)
「え?」
咄嗟に横のヒガシの顔を見ても「何だい?」と不思議そうにするだけで「いや、今……何か言った?」と聞いても「いいや」と返ってきただけだった。
(水を、やめろ……)
今度こそ、はっきりと聞こえた。
「誰? 何なの?」
「どうしたって?」
「今、確かに声が……老婆みたいな。水を、やめろって……」
俺には何も、とヒガシが難しい顔をすると、小鳥も難しい顔で頭を悩ませていた。
自分にしか聞こえなかった声に困惑していると、再び『神の息吹』の事を思い出す。水といえばそれしか思いつかないと溜息をついた。
ネカフェに着いて、ヒガシはそこで飲食したりネットで動画を観たりして過ごすと、明け方まで遊び疲れたのもあって寝てしまう。誰からも見えない小鳥だが、幽霊だから? 飲食もできないし眠くもならず、暇を過ごした。
幽霊って、どういったものだろうと試してみた事がある。触れるものと触れないものがある。いや違う、触れると思ったら触れるし、触れないと思ったら物をすり抜けてしまうらしい。妙なものだこのシステムは、と多くを学んだ。
暇だと思っていたが案外と退屈でもなく、気がつけば6時を回っていた。何時まで寝るのだろうと小鳥は動かないヒガシを上から眺めていた。
意識するとトントン、と肩を叩けたので「そろそろ起きませんか」と問いかけたが、反応しなかった。結局、ヒガシが目を覚ましたのは9時。疲れていたのだなーと小鳥は苦笑いをしてしまった。
とっくに夜は明けていて、昼にも近くなってしまった。すまない、と二度も三度も謝られてしまって、もういいですって、と萎縮する。
気を取り直して行こー! と車は現地の山傍に着いたが、何処かに停めよう、と周囲をウロウロとしているうちに、ヒガシの気が変わる。
「やっぱり、警察に任せるかなぁ」
「え?」
「一晩、考えていたんだけどね。俺は都会っ子育ちだから、こういう山中とか慣れてないし、君の死体達だって何処にあるのか、何時間かかるのか見当すらつかない……すまないね、期待させちゃってて申し訳ないけど」
山という自然を前にして怖気づいたと小鳥は正直ガッカリしたが、それは自分勝手な思いだとヒガシに対して怒りは湧いてこなかった。
「ありがとう。いいの、ここまで付き合ってくれて嬉しかった。赤の他人なのに、ほんと、ごめんなさい……」
待避所らしき場所に車を停めると、ヒガシは警察を呼んだ。山が好きでソロキャンプしようとやって来たら死体を見たという事にして、恐怖のあまり逃げ帰ってきたと言い訳を並べた。
そんなので誤魔化せるのかとハラハラしたが、警察で捜索が始まり、地元民も協力してくれて夕方までかかった。
だが期待とは裏腹で、小鳥と来実のどちらも死体を発見する事が出来なかった。責められる様にヒガシは警察署まで連れて行かれ、解放された頃にはもう夜の7時をまわり日が沈んだ後だった。
見つからなかったね、とコンビニに停めた車の中でコーヒーを飲みながらヒガシは弱々しく笑った。「ごめんなさい……」何度と謝った事だろう、数えていない。
「死体が出てこない以上、事件にはならない。分かるね?」
ヒガシは疲れきった顔をしていた。相手を傷つけない言葉を探しながら話していた。
「思っていた以上に皆さん協力してくれた。俺らも、懸命に探した。穴が2つ……こう考えるしかない、穴は、消えてしまった」「そんな……」
「それか、幻覚でも見たか、見せられたか、だ――」
見たものが全部、夢だったのだろうか、幽霊でも見るのだろうか。水をやめろという声も、私は、死んでいるという事も夢なら――。
「水をやめろ、か」
飲み終えた缶を脇のポケットに入れると、シートベルトを締め出した。
「思い当たるのは、『神の息吹』の販売の中止です」
「何だそりゃ」「かくかくしかじかです」「誰が言ってんだよう」
2人の間を遮るのは、ラジオの放送だった。男女が倒れて食中毒かと疑われた事件の続報となり、運ばれた40人のうち2人が死亡、原因の特定にはまだ至っておらず、懸命な処置が現在も続いているとの事。
「呪い……」
つい小鳥は呟いてしまった。
「まさか水を飲んだせいで……」
「バカな。冗談、偶然だろ」
「そうよ、検査では、何の異常も無かったもの」
本当に信じていいよね? 来実、と小鳥は祈った。
暗い顔の小鳥に、ヒガシは「一度、君の自宅や会社に行ってみよう」と提案を持ちかけた。驚く小鳥に「こうなったらとことん付き合うから」と発進させる。
まずは自宅だね、と住所を聞いたヒガシはナビで検索、ルート案内を開始しますと聞いた後、車は約1時間をかけて目的地へと問題なく着いた。
来たものの中から施錠されているので生身のヒガシは入る事が出来ず、小鳥は幽霊のおかげで中にはすり抜けて入る事が可能で、一人で手がかりを探索する事になったが、中に干したままの洗濯物、シンクには桶の中に使ったままのコップ等の食器があり、異常な事は発見出来なかった。
来実さんのマンションにも行ってみよう、とヒガシが言い出してくれて向かい、着いたら同様に自分だけが壁を通リ抜けて中の様子を伺ったが、無人で、静かだった。
夜は進み深夜だった。今から会社に行っても仕方ないと諦め、翌日になったら来訪しようと決めて、最寄りのネカフェで連日過ごす事になった。
安らかに寝てしまって小鳥はヒガシにお礼を言った。今まで散々だったでしょうけど感謝しています、ありがとう田村ヒガシさん、私、あなたみたいな善い人の事、忘れない――。
小鳥は笑顔で、場を離れていく。今まで、ありがとう――そしてこれからは、自分で何とかする。
泣かずに、小鳥は会社ではなく、自宅に自分だけで戻ったのだった。
孤独だ。帰りたい――。
小鳥を動かすもの、それは解放への願いだった。訳の分からない事続きから、解き放たれたかった。
誰もいない、それでいいの。ひとりで、考えながら、絶望しながら、生きて、違う、死んで――。
迎えてくれる人なんていない、そう信じて、小鳥は自宅に、壁抜けて入って行った。
(え……?)
思わぬ事の連続ではあるが、再びに小鳥を襲う、安上がりなソファに座っていたのは、いるはずがない女だった。
「俊原……さん」
茫然と、目の前の現実を受け入れようと心の中で、もがいていると、呼ばれた俊原涼子はちょうどスマフォをテーブルの上に置き寝てしまった様で、ソファを陣取ってしまっていた。
見た事がない機種のスマフォが置いてあったので、ここで俊原は誰かと連絡を取っていたのか、私のスマフォは何処かへ行ってしまったから、探しに行けたらいいけどと落ち着いてきたのを皮切りに、俊原のスマフォ画面を覗く。
どうやら誰かとラインをしていたのだろう、画面には中途半端なメッセージが幾つもあった。
『計画は順調です イブキ様
あとは天根を始末するだけ
ほんと一体、幽霊のくせにどこほっつき歩いてんだか、だねー』
長い文章が綴られていた。
計画? 順調? 私を始末? 私が、死んで(殺されて)? 幽霊だと、知っている?
“見える人と、見えない人が、いる――”普通なら、幽霊は見えない。田村には見えた。では、この女、は――。
パチッと俊原涼子の目が開いた。そして気配を感じとり、小鳥の方を見る。確信した――この女には、“見えて”いる。
「何故私がここにいるの……でしょ」薄く笑う。「混乱してるわよね。当たり前よね。お話します」と言った。
来実が水を持ち帰ってきた事から事は始まる。『神の息吹』と商品化された水は、期間限定で販売された。
衛生面では何の問題もなく、普通の水だった。そしてある日、水の事とは関係がなく、事件が起きる。
渡部が、来実とのデートの途中で口論となり、殺害してしまった、と。そして山中で埋めてきたんだ、と。来実から欠席連絡を受けたというのは嘘で、本当は渡部から相談を受けていた。
「強志は、元彼。もう何の関わりもないと切ってた。けど突然そんな事を言われて……動揺したわ。結局、私は強志の事を完全に断ち切れなかったのかしら……分からないけど、その時、私に“自首”っていう言葉も感情も出てこなかった。こんな奴なのに何故か助けてあげたいと……それで」
誰かに見られたか? と聞いた所、天根に見られた、と言った。それで小鳥を殺さねば、と思った。
何も知らない小鳥を来実の住むマンションにおびき寄せ、隙をみて殺そうと渡部と共に待ち構えていた。
誤算だったのは、亜実がいた事だった。姉が泊まりに来ているだなんて……まずい、こいつも、いっそ……! と覚悟をしていると、意外な事を言い出した。「イブキ様のツカイよ、私は」と――はあ? 何の事やらと事情を聞いた。
山の神、イブキ様。生まれてからずっとオツカイしてきた、来実と一緒に。来実は山で遭難して水に救われた、なんて話をでっち上げていたが、全部が嘘だった。
目的は商品として、世に広める事。その為に飲料メーカーに来実は就職したんだし、やっと販売は、されたし。
後は一本でも多く、お客様を増やして仲間を増やすだけ。
「仲間……って?」
ゾワッ、と嫌な予感がした。「イブキ様の血よ」「血!」
「イブキ様の血は赤くないの。色は水と同じよ。無色透明」
増々寒気がする。
「血を体内に入れ、循環する。そうやって支配された体は、イブキ様のものになるの」
何言ってんだコイツ。
「あなたも飲んだでしょう? もう遅いわ、イブキ様の支配からは逃れられない」
そんな……。
「話の続きね。亜実さんが自らの素性を晒した事で、お互いに協力し合う事になった。山中に埋めた来実。これから来る天根さん(小鳥)を殺して、後で山へ隠しに行く事。全てを亜実さんにお願いする事にした。私はもう、職場へ戻って何でもない風にただ水をどんどん売るだけ……面倒は無いわ」
そうだろうか。渡部部長が裏切るなんて事もないだろうか。目の前の解放感だけしか頭にないのではなかろうか……と考えていた所で、俊原の目が鋭く小鳥を見る。何故あなたがここにいるの、と言わんばかりに。
小鳥が覚えているのは、山の中。マンションで眠くなり、気がついたらそこにいて、傍には来実の死体があった。私はいつから体を失い、幽霊となっていたの?
「眠ったんじゃない。殺したの。正確に言うとコーヒーに入れた睡眠薬で眠らせて、じわじわと首を絞めて殺したの。それから山に運んで……ああ、強志がベッドの中に隠れていて、亜実さんと彼で運んだのね。私は関わってはいない。やったのは2人。山中へ埋めて、2人は帰ってきたはず」
では私は土の中から這い出して? いや、もう死んでいるから、そこで幽体だけが動き、来実を何らかの理由で見つけ、今に至る……訳か。
整理がついた、だが。
「こんなに会話が出来るなんて、涼子さんてすごい。幽霊とこうやって普通~に喋っているんですよ?」
「イブキ様のおかげよ。私も水を飲んで、目覚めたの」
何に!? 小鳥は渋い顔をした。
「真の愛に。慈愛よ」
訳が解らないんですけど。
「見えるものと見えぬもの。今まで見えなかったものを見る力を得た。素晴らしい水の御力だわ」
話が怪しい方向になってきた。話は分かった、でももう戻れない、私は死んでしまった。車を間違えてしまった事がいけなかった。殺されて、探しても出てこなかった、見つけられなかった2つの死体。
私も、来実も、何処へも行けず、この世を彷徨う。きっとそれは、苦しい。それを思うと泣けてきた。
来実、何処にいるの? 見つけてよ。それと、田村さん……。
段々と頭が働き出して、腹が立ってきた。私を殺した2人、いけしゃあしゃあと自らは手を汚さず生きているこの女に。
その時、声が聞こえた。「恨むな!」と、誰?
「疲れたわ。帰って休ませて頂戴。それと、私達を恨んで、フクシュウしようとしても無駄。私達は水を飲み、イブキ様の血を受け継いでいる。要は、守られているって事。下手に手を出すと、全てはあなたに返っていくわよ」
どういう理屈で言っているのか全く分からない。呆れてしまって、せっかくの怒りの炎も消失した。
「じゃあね。ホホホ」
疲れた。幽霊なのに。
5日後、食中毒の原因は特定不能で、あやふやなまま、収束していった。死亡者は3人に増え、残った37人は、順調に回復しているとの事だった。
毒と水は関係していたのか? 偶々、なのか? 謎に包まれたまま、終わりそうだった。
小鳥の捜索願いが出され、見つからないまま、時が過ぎた。
「水をやめろ、か……」
60代半ばの男は、水を飲みながら、記憶を辿った。本物の幽霊を見て話したのは、一度きり。まさかこの世の人ではないなんて。よく写真では一緒になるが、うわー、触れないんだ、足もあるんだと、怯えるどころか楽しんだ。
あの子は何処へ行ってしまったのだろう。何度か山にもこそっと行ってみたが、烏が鳴いていたくらいで、何も見つけられなかった。やはり死体と穴は消えてしまったのか? それともそもそも、なかったのか。誰か知っている者は、いないのか。
いる。神だ。きっと白装束の少女が、全てを知っている。けれど、何処にいるんだ?
ここよ
声がして、振り向く。けれど、誰もいない。
頭に片手を上げて、触ってみた。
ここに……
違った、胸に。
手、足、腹……自分の体のあらゆる所に。自分は、“支配”されているのだった。もう、逃げられない。
違うの……違うの……助けて……
か弱しい声で、“神”は、言った。助ける? 俺が? 神を?
(このままでは……終わってしまう……)
終わる……。
何が……?
(歴史が)
<END>
このままでは終わってしまう。
企画が(泣)。
ご読了ありがとうございました。
企画作ですが終了当日に投稿。何やってんでしょう。
何やかんやで間に合ってよかったです今回も。。。
後書き裏話はブログで☆