バディとは
朝、教室のドアを開けた瞬間――空気が、昨日までとはまるで違っていた。
登校してきた私とカナちゃんに、クラス中の視線が一斉に集まる。その目つきに、緊張や敵意はない。むしろ妙に落ち着いていて、静かな熱っぽささえあった。
「最強ペア、来た」「おはよう、彼方」「やっぱり、あの二人はすごいよな」
小さな声があちこちで交差する。近くの席では男子がヒソヒソと、「昨日のイレギュラー、マジで倒したって本当か?」と話していた。
誰かが「あれって武器も何も持ってなかったんだろ?」「即席バディでしょ?普通じゃ無理だよ」なんて驚き混じりの声を漏らしている。
みんながどこか納得していて、「まあ、彼方ならやるよね」「最強だし、当然だよ」そんな雰囲気が漂っていた。
結局、彼方がバディを組めばこうなる。
そういう当たり前のムードだ。
女子たちは「結ちゃんも大変だったよね」「バディ組んだばかりであれってすごい」などと言いながら、私をちらちらと見てくる。
けれど私の目には、カナちゃんの背中ばかり映っていた。
彼方――カナちゃんは、いつもと同じような無表情で、誰に話しかけられても「うん」と小さく返事をするだけ。
それでも、ふとした拍子に私の方を見て、ほんの少しだけ口元が緩む。
(私だけが知っている、カナちゃんの表情だ)
昨日までの、あの孤独な背中はもうどこにもない。
誰も近寄ろうとしなかった、教室で一番遠い存在だった人が――
今はみんなの中にいる。
私は、心から思った。
(本当によかった。やっとカナちゃんが、みんなと同じ場所に立てたんだ)
休み時間。周囲は「これからバディとしてどうなるんだろう」「彼方の訓練、見てみたい」と好奇心を隠せないまま、カナちゃんをそっと遠巻きに観察していた。
以前のような視線は消え、「最強がやっと動いた」ことへの安堵と、「これからは安心だね」という期待が混ざっていた。
私はその輪の中にいるカナちゃんを見て――
ただただ、嬉しかった。
……でも、カナちゃん自身はどう感じているんだろう。
時折、俯きがちに手を握りしめている横顔を見て、私はそっと手を重ねた。
「カナちゃん、大丈夫?」
小声で囁くと、カナちゃんは小さくうなずきポツリと言った。
「うん……ありがとう」
その声が、昨日までよりも少しだけ柔らかくなっていた気がした。
ホームルームの途中、担任の先生が「彼方、結、職員室まで」と静かに告げた瞬間、教室の空気がぴたりと止まる。
誰もが納得した顔をする――バディとなったのだ。手続きや説明を受けるのは、ある意味当たり前のことだった。
廊下を歩きながら、私はそっとカナちゃんの歩調に合わせた。
「……呼び出されるなんて、なんだか不思議な感じだね」
私がぼそりと言うと、カナちゃんはちらりと私の顔を見て、ほんの少しだけ口元を和らげる。
「別に悪いことしたわけじゃないし、大丈夫だよ」
その言葉に、私は心が少しほぐれる。
案内されたのは、職員室の奥にある面談室だった。
向かい合うテーブルには、バディ担当の教員と庁の制服姿の職員。
書類と資料が山のように積まれ、場の空気はどこか公式で、どこか緊張感があった。
「――改めて説明します」
担当教員がゆっくりと口を開く。
「昨日は混乱の中、バディ成立と同時に悪魔と遭遇、そして討伐まで済んでしまったため、事後処理のため本来受けるはずだった制度説明や手続きが全く行われていませんでした。本日はその補足を丁寧に行います。」
「あなた方が、あの場に居合わせてくれて本当に良かった。もしそうでなかったらどれほどの被害が出ていたか……。改めて感謝を。ありがとう。」
私たちに感謝を告げると、教員がファイルをめくり、板書用の資料を私たちに見せながら話し始める。
「バディ制度は、都市防衛の根幹です。前衛と後衛がペアとなり、戦闘時に魔力をリンクさせ、役割を分担して悪魔に立ち向かう。前衛は前線で敵と戦い、後衛は魔力を送り続け、前衛の能力を維持・強化します。バディの適性は幼い頃に判定され、訓練と選考を経て最適な組み合わせが決まるのが基本です」
庁職員が静かに続ける。
「今回の君たちは、通常の訓練や配属前準備を経ず、悪魔との戦闘をされました。その場でバディを結成、しかも装備もなしにイレギュラーで現れた悪魔を討伐したことは、賞賛に値します。とはいえ、今後は他のバディ同様、訓練・寮生活・定期検査など全てのプロセスを受けてもらいます」
私はノートに必死でメモを取りながら、(これからが本番なんだな)と実感する。
カナちゃんは教員の話をまっすぐ聞いている――昨日までの孤立した最強とは違う、どこか柔らかな表情で。
教員が、ここで少し声を落とした。
「重要なのは、リンクの仕組みです」
「後衛が魔力を送り込むだけがバディの全てではありません。リンクが成立すると、後衛は前衛の状態――魔力残量や疲労、体調や精神の変化などを感知できるようになります。この感知の深さはペアごとに大きく違い、相性や共鳴率が高いほど、より繊細に、時には前衛の痛みや恐怖までリアルタイムで伝わる場合があります」
庁職員が資料の図を示しながら補足する。
「例えば、一般的なバディでは魔力の流れが弱くなったちょっと疲れているかな程度の変化しか分からないことが多い。一方、強く共鳴しているペアでは、前衛が傷ついた瞬間の衝撃、精神的な動揺強い恐怖や怒りまですぐに伝わることがあります。このため、共鳴度の高いペアはメリットも大きいが、後衛側の精神的・肉体的負担も無視できません。稀にですが、前衛のケガや精神的ショックがリンクを通じて後衛に強く跳ね返る事例もある。互いの信頼とケアが何より重要です」
教員は真剣な表情でこちらを見つめた。
「どんなバディでも、後衛は前衛の異変を必ず何らかの形で察知できます。けれどその感じ方や伝わり方はペアごとに全く違います。今後訓練を受けながら、自分たちのリンクの癖を少しずつ理解していってください」
「それと、もしも異変を感じた時は必ず相談すること。無理を重ねれば、どちらか一方だけでなく、両方が深刻なダメージを負う危険があります」
このリンクの話を聞いて、私はふとカナちゃんの横顔を見る。
不安と期待がないまぜになった。
制度説明はさらに続いた。
寮生活のルールや、共同生活の注意点、訓練や現場配属の流れ――
すべて1つずつ、抜けも曖昧さもない説明だった。
「君たちのようなバディは前例がありません。でも、二人とも自分だけの形で支え合えば、どんな壁も越えられるはずです」
最後にそう言われ、私は小さく頷いた。
説明が終わり、サインや書類に記入しながら、
(これから本当に、カナちゃんと二人の物語が始まるんだ)
胸の奥が少し熱くなる。
「……行こうか」
カナちゃんが小さく言い、私は「うん」と返した。
廊下に出ると、朝のざわめきとは違う、静かな未来が待っていた。
面談室での説明が終わり、カナちゃんと二人、静かに教室へ戻る。
昼休み。廊下も教室も、いつも通りのざわめきに満ちていた。
私たちが席につくと、一瞬だけ周囲の会話が止む。
でもすぐに、みんなは昼食の準備やおしゃべりに戻っていく。
私たちはバディになる前から同じ部屋で暮らしていて、元からクラスのちょっと特別な組み合わせとして見られていた。
今さら何かが大きく変わるわけじゃない。
近くの男子が、ふざけた口調で「結局、前からバディみたいなもんだったろ?」と声をかけてくる。
「ちゃんと正式に組めて良かったな。変な噂も消えるだろ」
苦笑いしながら言うので、私も「うん、これで堂々とバディって言えるね」と返した。
カナちゃんは、そんなやりとりにも特に表情を変えず「……実感、ないな」とぽつりと言う。
それでも、机の下でこっそり私の袖を引いた。
みんなも、たぶん同じ気持ちだ。
クラスでも有名な変わり者同士が、やっと本来の形になっただけ。
すでに生活も寮の部屋も、ずっと一緒だったから。
何もかもが特別に思えた昨日の夜より、今日の教室はずっと静かだ。
私はそれを、むしろ心地よく思う。
「すごいことが起きても、結局いつもの日常は変わらない」
――そんな当たり前の安心感に包まれている。
昼食を食べながら、私はふとカナちゃんを見た。
少しだけ表情が和らいでいる。
「結、これからもよろしく」
小さな声でそう言われて、胸がじんわり熱くなった。
私は思う。
昨日までの全部が、このためにあったんだって。
放課後。
教室には帰り支度のざわめきが広がり、窓の外には茜色の光が差し込んでいた。
カナちゃんと私は、いつものように隣の席で静かに荷物をまとめていた。
昼休みの時と同じように、みんなは「最強ペアだ」とか、「やっぱり当たり前なんだよね」といった軽い話題を口にしている。
それでも、全体の空気は少しだけ落ち着いて、今まで通りの「日常」がまた戻ってきたようにも感じられた。
私はカナちゃんの横顔をちらりと見て、(これからは、もっと穏やかな毎日が始まるといいな)と、小さく息をつく。
その時――
ふいに背中の奥がざわり、と冷たくなった。
何かが、私たちを見ている。
ゆっくり顔を上げると、教室の一番後ろの窓際。
遥香が、机に両手を置いたまま、こちらをじっと見つめていた。
その視線は、「羨望」「悔しさ」「あきらめ」だけでは言い表せない、もっと濃くて、刺さるようなものだった。
(……どうして、あんな顔で私たちを見ているの?)
遥香の目には、強い“呪い”にも似た熱があった。
今にも言葉をぶつけてきそうで、けれど、彼女は一言も発しなかった。
私は思わずカナちゃんの袖に指をかけそうになったけれど、カナちゃんはいつも通り鞄の中を整理していて、まだ何も気づいていない。
遥香は、私とカナちゃん、二人を一度だけ強く睨みつけると、そのまま鞄を掴み、教室のドアへ歩き出す。
誰とも目を合わせず、友達の呼びかけにも答えず――ひたすら静かに、教室を後にした。
私は、その姿を見送ることしかできなかった。
(――遥香……何を、考えているの?)
ざわめきの中、遥香の残した強い視線の余韻だけが、いつまでも胸の奥でじりじりと疼いていた。
寮の部屋に戻ると、窓の外にはすっかり夜が降りていた。
夕食を終え、制服を畳み、ベッド脇の椅子に座る。
小さな部屋の中は、昼のざわめきから解放された、静かな時間に包まれていた。
カナちゃんは、いつもより表情が明るい気がした。
私が紅茶のティーバッグをカップに沈めていると「結、今日もありがとう」なんて、自然に声をかけてくれる。
「どうしたの、急に?」
私がそう返すと、カナちゃんはほんの少し恥ずかしそうに笑った。
「……いや、こういうの、前はうまく言えなかったからさ」
冗談めかして、でもどこか本音の混じった声音だった。
湯気の立つカップを手渡し合いながら、ふと今日一日のことを思い返す。新しいスタート、みんなの反応、遥香の視線――
私はおそるおそる、
「あのさ、さっき教室で……遥香が、ずっとこっち見てたよね」
と切り出した。
カナちゃんは肩をすくめて、わざと大げさにため息をつく。
「まあ、あの子、前からちょっと不器用だし」
そして、こちらをちらりと見る。
「結に嫉妬してるんじゃない?」
からかうように言った。
「え……嫉妬?」
私は思わず聞き返す。
「そう。だって、ボクのこと大好きだったし」
カナちゃんはさらりと続ける。
その言葉は、本当に冗談みたいに軽やかだった。
けれど、その奥に、どこか本物の気配――昔の痛みも、今の余裕も、全部が混じっているような気がした。
私は苦笑して、首を横に振る。
「いや、それはないよ。遥香、私にだってずっと意地悪だったし……カナちゃんにも、きつく当たってたじゃん」
「だから、それが好きってことなんだって」
カナちゃんは、今度は本当に笑ってみせた。
「ほら、子供っぽいやつ。……なんか、わかる気がするでしょ?」
私は、少しだけ胸がざわつく。
(もしかして本当にそうだったのかな……でも、信じられない)
そんなことを思いながらも、今こうしてカナちゃんと穏やかに話していることの方が、ずっと大事だった。
「ねえ、カナちゃん」
「ん?」
「なんか、今日のカナちゃん、すごく元気だね」
私がそう言うと、カナちゃんは紅茶を一口飲んで、ちょっと照れくさそうに答える。
「うん。……多分、今が一番普通に生きてる気がする」
「普通に、って?」
「そう。孤立してた頃とか、バディになる前の自分には、もう戻れないなって」
そう言って、ぽつりと、でも力強く続けた。
「結がいるから、ボクは大丈夫なんだと思う」
「……ありがとう」
私は、紅茶の湯気越しにカナちゃんの瞳を見つめ返した。
しばらく無言で、お互いのカップを持ったまま、夜の静けさを味わった。
部屋の窓から、遠くの街灯がぽつぽつと灯るのが見える。
廊下の向こうからは、他のバディたちの笑い声や物音がわずかに聞こえてくる。
「結、これからも、よろしくね」
カナちゃんが改めて言う。
「うん、私も……ずっと一緒にいたい」
その言葉が、胸の奥にじんわりと広がった。
外の闇は深くなっていくけれど、この小さな部屋の中だけは、あたたかい灯りに包まれていた。