悪魔
休日の朝、目が覚めると、隣の布団には結の気配。
同じ部屋、同じ時間、結が来てからの毎朝が少しずつ普通じゃなくなっていった。
「カナちゃん、今日は街に出てみようよ。お買い物したい」
結がいつもの調子で言う。
「……うん」
自然と返事をしていたけれど、正直お買い物という響きが、ボクにはまだどこか遠いものに感じられた。
支度の時間も、結が鏡の前で「このスカートどう?」と訊いてくる。
「似合う」と言いながら、自分は無難なジーンズにTシャツ。
「カナちゃんも、もうちょっと可愛い服着ていいのに」
「……うん、でも、これが落ち着くから」
財布には、いつもの最低限の中身だけ。
寮での生活は、だいたい学食で済ませる。
あとはどうしても面倒な日はプロテインバーだけ。
週末の買い物も、洗剤やシャンプーが切れたときくらい。
「何か食べたい」と思ったことも、「これが欲しい」とワクワクしたことも、結と出会うまでほとんどなかった。
歩きながら、結が嬉しそうに今日のプランを話してくれる。
パン屋さんでクロワッサンを買って、ベンチで食べて。
雑貨屋で可愛い小物を見て、本屋でお気に入りの作家の新刊を探す。
「カナちゃんのおすすめも教えて」
ふいにそう言われて、ボクは言葉に詰まった。
ボクのおすすめ――そんなの、何があるんだろう。
ふと思い出すのは、寮で寝転びながら食べた無味乾燥なプロテインバーばかり。
たぶん、他の人だったら味気ないとか可哀想って思うだろう。
「……おすすめって、あんまり……。プロテインバーとか」
「え、それだけ?」
結が目を丸くして笑う。
「ごめん、今まであんまりこれが好きって思ったことなくて」
「そっか。でも今日は、私のおすすめいっぱい食べてもらうからね!」
ボクは少しだけうつむいて歩いた。
帰り道、買い物袋を両手に、ボクと結は並んで歩いていた。
黄昏が路地を金色に染める。心はほんの少し浮かれて、今日のことを反芻していた。
ふとした瞬間、空気が急に重くなる。
背筋に悪寒。ボクの足が無意識に止まった。
路地の先――
授業で習った姿と同じ異形の“悪魔”が、何の前触れもなく立っていた。
「え……?」
結がボクの腕にしがみつく。
「カナちゃん……」
数秒前までの温もりは、嘘みたいに消えていた。
ボクは荷物を投げ捨て、結を背中に庇う。
「下がって、結」
悪魔は静かに動き出す。
武器――何か、黒く鈍いものを手にして。
ボクは一歩、前に出た。
「ここは、ボクが――」
咄嗟に跳びかかる。悪魔の腕を掴み、渾身の一撃を叩き込む。
だが、手応えはまるで石像を殴っているみたいだった。
拳を振るっても、蹴りを入れても、全く効いていない。
悪魔は機械のように動き続ける。
間合いを詰め、重い攻撃を繰り返してくる。
反射神経と技術で、何とか動きを止め、何度も壁に叩きつける――
だが、本当に何も効かない。
ダメだ。攻撃が……通らない 。
自分の体力はまだ残っている。
けれど、どれだけやっても悪魔は平然と立ち上がる。
「カナちゃん……!」
結の声が震える。
「大丈夫、絶対、守るから」
強がりだと自分でも分かる。でも、結だけは――絶対に、守らなきゃいけない。
どうして誰も来ないの? こんな場所、普通なら人も通るはずなのに……
でも、どこまで走っても誰の声もしない。誰も助けに来ない。
ここで倒れたら、結が――。
バディ。バディでなきゃ、悪魔に攻撃が効かない。
この状況で結としか組めない――
迷う暇なんてない。
でも、もしここで結まで失ったらという恐怖は、ずっと胸の奥にあった。
それでも、ボクが動かなきゃ、終わる。
――ふと、振り返ると、結がボクを見つめていた。
迷いのないまなざしで、ボクの手を取るように、そっと差し出す。
ボクは息を呑んだ。
……覚悟を決めるしかない。
ボクは全力で一歩引き下がり、悪魔に最後の蹴りを入れて距離を作る。
「手を取って」
喧騒の中、彼女の声だけが、ボクに届く。
あたりには悪魔の瘴気、すべてが圧倒的な敵意に染まっていた。
でも、不思議と結の声だけが鮮明に響いた。
結は優しく微笑みながら、まっすぐボクに手を伸ばしている。
今にも泣きそうな顔だけど、決意だけは強く感じた。
こんな状況の中でさえ、ボクは躊躇してしまう。
この手を取れば、もう後戻りできない――
結の命まで背負うことになる。
もし、また失敗したらどうしよう。
もし、結まで傷つけてしまったら。
弱さと迷いが、心の奥で渦巻いている。
「カナちゃん……」
結の手が、ほんの少しだけ震えている。
それでも、彼女は一歩踏み込んできた。
痺れを切らしたのか、結はボクの手を引っ張って、勢いよく抱きしめる。
「私たちなら大丈夫」
そう言いながら、ボクの顎を掴んで、結はボクにキスをした。
「へぁ?」
状況がよく飲み込めない。目の前の結の顔が、すぐそこにあった。
「契約にキスはつきものでしょ?」
結は舌をペロっと出し、少しだけ茶目っ気を混ぜながらも、真剣な目でボクを見つめる。
「今のあなたならあんなのどうってことないでしょ? だから、私を守って。あなたは私が守るから」
結はもう一度ボクの手をしっかりと握りしめる。
その瞬間、全身にものすごい熱が走った。
魔力が、結の体からボクへ、ボクから結へと一気に流れ込んでいく。
いままでにない膨大な魔力が、心も体も満たしていく。
息を吐くたびに、体の奥からエネルギーが噴き上がる感覚があった。
「これが……バディ契約……?」
思わず息を呑む。
最強と呼ばれたときでさえ感じたことがない、二人分の魔力の奔流。
世界の全てが、鮮明に視界に入り、心臓の音さえ別人のもののようだった。
悪魔が、もう一度、禍々しい武器を振り上げて襲いかかってきた。
けれど、契約の瞬間から――
ボクと結の間には太い魔力のパスが通っていた。
意識を向けるだけで、底なしの魔力がどこまでも引き出せる。――それがバディという存在なんだと、初めて本能で理解した。
全身の血管を駆け巡る熱い流れ。
結の存在を身体の芯で感じながら、ボクは一歩、前へ出る。
悪魔の一撃を真正面から受け止める。そして反撃。
その瞬間、さっきまでまったく通らなかった攻撃が、
今は信じられないほど明確に「効いて」いるのが分かった。
「……これが……」
共鳴率――
たった一度手を繋いだだけで、ボクと結の間の回路は限界なく膨れ上がった。
二人でひとつになる、というのはこういうことなんだ。
悪魔の動きが、スローモーションのように見えた。
拳を打ち込むと、悪魔は壁まで吹き飛び、地面にめり込む。
その程度で済ませているのは、初めてで加減が分からないからだった。
「カナちゃん、すごい……!」
結が壁際からボクを見つめる。
ボクは軽く手を振った。
「結、動かないで。ボクが全部やるから」
「……うん!」
再び悪魔が立ち上がり、瘴気を撒き散らす。
でももう、怖くなかった。
魔力の奔流は枯れるどころか、意識するだけで底知れず膨れ上がっていく。
次の瞬間、悪魔がこちらに突進してくる。
ボクは地を蹴り、体をひねってその攻撃をかわす。
自分でも驚くほど軽い。
再度、拳を振るう。
まるで空気のような手応え――けれど、悪魔はそのまま地面に沈み、
瘴気が一瞬で霧散する。
これで、もう終わりだった。
疲労も、魔力を消費した感覚もない。
やろうと思えば、まだ何十体でも倒せる。確かにそんな実感があった。
初めての契約と戦闘。
心も体も、どこかまだぎこちなくて、
緊張と高揚のせいで、胸の鼓動がうるさい。
倒れた悪魔の残骸を見下ろし、ボクは小さく息を吐いた。
「結、大丈夫だった?」
「うん! カナちゃん、やっぱりすごいね」
結は駆け寄ってきて、ボクをぎゅっと抱きしめた。
少しだけ戸惑いと、確かな自信。
これが本当のバディなんだと、今、初めて実感できた。
静けさが戻った路地で、ボクと結はしばらく黙って立ち尽くしていた。
倒れた悪魔の残骸は、瘴気の抜けた今ではただの黒くて重いゴミにしか見えなかった。
それでも、ついさっきまで死の気配そのものだった存在だ。
妙な感覚が抜けない。
「……どうする?」
結がそっとボクを見上げる。
「一応、回収して持ち帰らなきゃいけないと思う」
言葉にしてから、自分でも不思議だった。
まるで掃除当番の感覚だ。
でも、実際これを放置しておくわけにはいかない。
ボクは片手で悪魔の残骸を引きずりはじめた。
コンビニ袋を持つような気分で、黒い肉塊を道の端にずりずりと運ぶ。
誰も見ていない。
普段なら通学帰りの人や自転車が行き交う時間のはずなのに、
まるで世界から切り離されたみたいな静けさ。
ふと、足元に悪魔の血が染みをつくる。
それを踏まないように気をつけながら歩く自分が、どこかおかしくて――
不意に笑いがこみ上げた。
「どうしよう、変な気分」
「私も……何だか、夢みたい」
二人して顔を見合わせ、苦笑した。
悪魔の残骸を住宅街の端まで運び、スマホで連絡を入れる。
「緊急対応要請」「イレギュラー発生」「討伐済」
定型文を機械的に打ち込む手はどこか現実味がなく、
画面に映る報告の文字だけが、自分たちが本当にやったのか分からないまま過ぎていく。
返事は「至急担当者が回収に向かう」「現場待機せよ」のみ。
それでもボクはもう、何も怖くなかった。
結がボクの腕をぎゅっと抱いてくる。
「カナちゃん、帰ったら一緒にお風呂入ろう」
「うん。……うん?」
一瞬だけ、返事をした後で自分の言葉に気づき、思わず顔が熱くなる。
結はその隙を逃さず、ニヤリと笑う。
「ダメ? 今日くらいご褒美いいでしょ?」
「え、あ……いや、別に……」
すっかり言葉に詰まってしまうボクの横で、結は腕を組んで寄り添ってくる。
なんだか、戦闘よりずっとドキドキする。
ほどなくして、制服姿の事後処理班が到着した。
現場確認や簡単な事情聴取――
「バディ契約を結んで、即時に一般悪魔を討伐」「異常はなし」
作業員たちは慣れた手つきで残骸を回収していく。
ボクは結と並んで、ただその作業を眺めていた。
さっきまでの非日常が、まるで嘘だったように、事務的な空気に呑み込まれていく。
処理班の一人が「帰宅していい」と告げる。
結が「カナちゃん、手、握って」とさりげなく手を差し出してきた。
ボクは恥ずかしさを隠すように、そっと指を絡める。
道すがら、結はずっと隣で嬉しそうだった。
「カナちゃん、初めての実戦、どうだった?」
「うーん……思ったより、怖くなかったかも。
でも、変な感じ。自分じゃないみたいだった」
「すごく頼もしかったよ。ほんとにかっこよかった」
ボクはうまく返せず、ただ「……ありがとう」とだけ呟いた。
寮に着くと、夕飯の時間にはまだ少し早い。
「とりあえず、お風呂、先にしちゃう?」
「う、うん……」
脱衣所で並ぶと、緊張が一気に高まる。
結は慣れた様子でシャツを脱ぎ、さっとタオルを巻いてボクの方を振り返る。
「ほら、カナちゃんも早く!」
「ま、待ってよ……」
手元がもたつく。
こうして間近で結の素肌を見るのは、初めてだった。
お風呂場は湯気で曇っていて、結が先に浴槽に滑り込む。
「カナちゃんも、おいで」
「……うん」
思い切って湯に浸かると、すぐ隣で結が嬉しそうに肩を寄せてくる。
照れくささと心地よさが入り混じって、顔が熱いのはお湯のせいだけじゃない。
しばらく他愛もない話で盛り上がる。
「戦ってるとき、どうだった?」
「カナちゃんと繋がってるって思ったら、全然怖くなかった」
「ボクも、結がいたから頑張れた」
自然と指を絡めて、肩を寄せ合う。
湯船の中で結が小さく囁く。
「これからも、ずっと一緒に戦って、ずっと一緒にお風呂入ってもいい?」
「うん……うん?」
照れながらも、ボクはしっかり頷いた。
「言質取りましたー。明日からカナちゃんは私と一緒にお風呂に入ること!」
結してやったりというように、ニヤリと笑う。
「ちょ、ちょっと待ってよ。毎日は、その、恥ずかしいし……」
尻すぼみになって最後は消えそうな声で抗議する。
「カナちゃんは、私と入るの嫌?」
「嫌じゃないけど……」
「じゃあ、決まりね!」
結の強引さに押し切られる様に、新たな習慣を決められてしまう。けれどもそんな結の強引さも、全然嫌じゃなくて、むしろ嬉しかった。
お風呂を出て髪を乾かし合い、
パジャマに着替えてから、今夜のごはんを一緒に作る。
夕食も、いつもの何倍も美味しく感じた。
夜、布団の中。
今日一日の出来事を思い出しながら、
「おやすみ、結」「おやすみ、カナちゃん」と、
二人で顔を寄せ合って眠りにつく。
明日もまた、結と一緒に――
そう思いながら、ボクはそっと結の手を握った。