不思議な感覚
「転校生が来ます」と言われたその日、教室は騒然とした。
でもボクは、遠くから波音を聞いているような気分で、ノートに意味もない線を引いていた。
彼女は結城結――
先生の紹介で教壇に立ったその子は、目を丸くして自己紹介を終え、ボクの隣の席に座ることになった。
「彼方さん、よろしくお願いします」
「……はい」
淡々とした返事しかできない。
彼女は、その後も何度も「彼方さん」と名前を呼ぶ。
何か話しかけてくるたび、内心は戸惑いでいっぱいだった。
昼休みも、「彼方さん、一緒にご飯どうですか?」
放課後も、「今日の課題、手伝いましょうか?」
返事をする気力も湧かず、なるべく距離を取ろうとした。
けれど結城さんは、そのたびににっこり笑い、「隣、座ってもいいですか?」と席を詰めてくる。
そして、先生から告げられた――「今日から結城さんと同室になるから」
その言葉で、頭の中が真っ白になった。
人と同じ部屋で眠るのは、いったい何年ぶりだろう。
その夜も、彼女はベッドに入る前に「おやすみなさい」と言った。
ボクは布団をかぶって、ひとりで目を閉じていた。
翌朝。
まだ慣れない同室生活に戸惑いながら朝食に向かうと、彼女は当たり前のように隣に座る。
「ねえ、今日からカナちゃんって呼んでもいい?」
一瞬、頭が真っ白になった。
「え……」
その響きが、自分の名前なのにずっと遠くの音に聞こえた。
「カナちゃんって、すごく可愛いし、呼びやすいもん」
彼女は屈託なく言って、今までと同じ距離感で、ぐいぐいボクの懐に入ってくる。
食堂でも、教室でも、廊下でも――
もう「彼方さん」ではなく、「カナちゃん」と呼ばれる。
最初はむしろ困惑が強かった。
みんなの視線も気になった。
「私がカナちゃんの一番の味方になるからね」
「カナちゃん、ご飯ちゃんと食べてね」
「カナちゃん、放課後は一緒に課題やろ!」
彼女はずっとべったり隣にいる。
寝る前には「カナちゃん、おやすみ」と言われる。
――どうして、こんなにボクに構ってくれるんだろう。
空気は明らかに変わった。
けれど、ボクの心はすぐには変わらなかった。
人の優しさに、どう向き合っていいかも分からない。
ただただ、戸惑いと警戒と、ほんの少しのうれしさが入り混じったまま、ボクは新しい日常に放り込まれていた。
まだ、どこか現実感が薄い。
これがいつまで続くのか――
心の奥で、不安ばかりが膨らんでいく。
「カナちゃん」――
その呼び名は、遠い日の痛みと結びついている。
遥香にそう呼ばれ、孤独になり、裏切られた過去。
今のボクには、優しさも恐怖の一部だった。
模擬戦の日。
何人もの前衛が集団で向かってくる。
みんながバディ同士で声をかけ合う中、ボクはただ、ひとりで立っていた。
合図とともに戦いが始まる。
攻撃を捌き、受け流し、でももう体がついていかない。
殴られ、蹴られ、転がされ――
気がつけば、床に膝をついていた。
ぼんやりする視界。
最後の一撃を受けた瞬間、世界の音が遠ざかる。
誰かに肩を貸されて、保健室に運ばれた。
先生が氷嚢やガーゼを用意してくれる。
「大丈夫?」と形式的に尋ねられるたび、ボクは「はい」と小さく答えるだけだった。
ベッドの上、体も心もどこか現実感がなくて、
ただ天井を見て、ぼんやりと息をしていた。
「カナちゃん」
ボクの手を握る。
その手は冷たくて、でも温かかった。
「痛いところ、ない?」「本当に大丈夫?」
結は心配そうに何度も尋ね、ボクの髪をなでる。
いつもは強引な彼女の優しさが、このときばかりはただ眩しかった。
「すごく頑張ったね」
その言葉が、胸に沁みていく。
放課後、寮の部屋に戻った。
体の痛みも、頭のもやもやも、まだ何も晴れていなかった。
ベッドに横になっていると、結が隣にやってきた。
「こっち、おいで。ねぇ、ぎゅってしていい?」
訳が分からず、「え、なんで……」と困惑と警戒が入り混じる。
でも、結は迷わずボクを優しく抱きしめてくれた。
「大丈夫、大丈夫だよ。カナちゃんは凄いよ。ずっと頑張ってたんだね、えらいよ」
そのたびに、頭をなでて、背中をさすってくれる。
ボクの体は最初は強ばっていた。
それでも、だんだん力が抜けて、涙がじわじわあふれてきた。
「なんでこんな……分かんない……」
自分でもどうして泣いているのか分からない。
結は「私がいるから、絶対離れないから」と何度も繰り返す。
ついに抵抗をやめて、結にすがるように泣いた。
子どもみたいに、抱きしめられて泣いた。
気がつけば、結の布団の中だった。
頭を撫でられ、背中をさすられて――
心がじんわり温かくなっていく。
「……ありがとう……」と、小さくつぶやいた。
涙と安堵、全部が混ざって、いつの間にか眠ってしまった。
朝までぐっすり眠ったのは、いつ以来だっただろう。
目覚めたとき、結はまだ隣で静かにボクを見守ってくれていた。
(この人のそばにいても、もう裏切られないのかな……)
初めてそんなことを、ほんの少しだけ思えた夜だった。
あの夜、結の腕の中で泣き疲れて眠ってから、何かが少しずつ変わり始めていた。
最初は、ただ疲れて、泣いて、眠っただけだった。
朝になって結の温もりの残る布団で目を覚ましたとき、自分が本当に「誰かと一緒に寝ていた」ことが信じられなかった。
それから毎晩のように、同じ布団に潜り込む日々が続いた。
きっかけはいつも、夜になって布団に入る瞬間だった。
結が当たり前のように「おいで」と手を広げる。
ボクはぎこちなく、でもどこかほっとしながら、その腕の中に収まる。
結の体温。
静かに撫でてくれる手。
背中をさするやさしい動き。
「大丈夫だよ。カナちゃんは頑張ってるよ。何も悪くないよ」
その声が、夜の静けさにぽつぽつ落ちていく。
最初の数日は、ただただ戸惑いと警戒が強かった。
体が強張ったまま、涙だけがあふれる。
「こんなことされていいんだろうか」
何度も自分に問いかけていた。
だけど、何日も繰り返すうちに、心の奥の氷が少しずつ溶けていった。
眠る直前、「今日は泣かずに眠れるかな」と思う夜も増えてきた。
それでも、結の指先が髪や頬をなぞれば、やっぱり涙が出てしまう。
でも今は、恥ずかしいとか惨めとかじゃなく、泣いても受け止めてくれる人がいることの安堵が、確かにあった。
朝になれば、結がそっと手を握って「おはよう」と笑う。
その声が、だんだん自分の中で日常に変わっていく。
まだ怖い。でも、もう疑うことはできなくなっていた。
昼間の世界も、少しずつ色を変え始めていた。
食堂で「これ美味しいよ」とすすめられ、半分無意識に口に運ぶ。
以前なら味も分からなかったはずなのに、最近は「あ、甘いな」「ちょっと美味しいかも」と思えることがある。
教室でも、結が隣にいると心が落ち着く。
それに気づくたび、胸の奥がざわざわして、自分がこんなにも「人に甘えることを欲していた」なんて、今さらながら驚く。
放課後、課題を並んでこなす。
ときどき「疲れてない?」と声をかけられると、なぜか顔が熱くなる。
「大丈夫」とそっけなく返すのが精一杯。
でも、そんなやりとりも、今はどこか居心地がよかった。
夜になると、結の「今日はどんな日だった?」という優しい問いかけ。
「特に何もなかったよ」とつい返す。
でも結は「カナちゃんがいるだけで私は嬉しいよ」と笑ってくれる。
その言葉にじんわり胸が温かくなる。
夢の中では、いまだに遥香の影が現れることもある。
でも、目が覚めて隣に結がいると「ああ、もうひとりじゃない」と思える瞬間がある。
それでも、誰かに甘えることへの怖さや恥ずかしさは、すぐには消えない。
無理に手をつなぐのはまだ苦手で、結にぎゅっとされると、やっぱり胸がドキドキして息苦しくなる。
でも夜がくれば、自然と結の布団に潜り込んでしまう自分がいる。
結は当たり前のように「おいで」と言ってくれて、
「よしよし」と頭を撫でてくれる。
それだけで、全部が許されたような気持ちになった。
ほんの少しずつだけど、
ボクの孤独の鎧は剥がれ始めていた。
毎日が新しい色で塗り替えられていく。
昨日よりも今日、今日よりも明日――
世界が、そして自分自身が、少しずつ変わっていく。
そんな実感が、今は何よりも怖くて、でも、なぜか嬉しくて――
その狭間で、ボクは毎日を生きていた。
結と同じ布団で眠る毎日は、ボクにとって初めての安らぎだった。
だけど、それはどこか夢の中のことのようで、現実感が薄い。
毎朝目を覚ますたび、「本当にこんな日々が続いていいのか」と不安になる。
そんな中、遥香の視線が日に日に冷たくなっているのを感じていた。
廊下ですれ違うとき、「また結城さんとべったりね」という声が聞こえる。
食堂でも、教室でも、遥香はボクと結を見るたび、何か言いたげな表情を浮かべていた。
ある日の模擬戦。
体育館の中央に並ぶ前衛――その中に遥香の姿を見つけた。
今日もいつものように、複数対一の集団戦。
ボク一人に対して、遥香を含む数人の前衛が挑む形だった。
無表情でボクを見る遥香。
その目は、かつてボクと一緒に走り回っていた頃の優しさとはまったく違う色をしていた。
開戦の笛。
ボクと遥香が正面からぶつかる。
いつもなら遥香は後方で指示を出すことが多いのに、今日は真っ先にボクの前に出てきた。
遥香の攻撃は、いつもより鋭く、激しかった。
それをどうにか受け流しながら、ボクは心臓が嫌な音を立てるのを感じていた。
他の前衛たちとの連携の隙を縫って、遥香が接近してくる。
攻防の最中、すれ違いざまに遥香が小さく呟く。
「最近のカナちゃん、ほんとに弱くなったよね」
「また負けて結城さんに慰めてもらうの? 負けちゃったよー、えーんって」
刺すような声。
ボクの心がぎゅっと縮こまる。
「甘えてるカナちゃんは、私の知ってるカナちゃんじゃない」
「……あんたは最強なんでしょ? 強くなきゃ意味ないじゃん」
その言葉は、笑いながら投げつけられたものじゃなかった。
本気で、心からボクを突き放すような、冷たさと痛みがあった。
反論できなかった。
悔しさも、悲しさも、言葉にならない。
なぜか、身体が重くなって、遥香の一撃を避けきれず転がされた。
床に膝をついた瞬間、耳の奥で何度も遥香の言葉がこだまする。
「負けてもまた結城さんに泣きついて、慰めてもらえばいいんじゃない?」
ボクはうつむき、汗と涙が混ざった顔を隠した。
結は観客席でずっとボクを見ていた。
遠くから「カナちゃん、大丈夫?」と声が聞こえる気がしたけれど、
ボクは振り向くことができなかった。
模擬戦が終わり、退場の合図が鳴る。
遥香は何も言わずにボクの横を通り過ぎていった。
その横顔は、どこか寂しそうで、でも冷たいままだった。
ほんの少しだけ、遥香の唇が震えているのが見えた。
何か言いたげだったけど、遥香は結局そのまま、何も言わずに去っていった。どうしてか、その背中がとても遠く感じられた。
体育館の端で膝を抱え、小さくなったボクのもとに結が駆け寄る。
「カナちゃん! 大丈夫?」
ボクは返事ができないまま、結に抱きついてしまう。
「今日もすごく頑張ったね」「偉かったよ」「よしよし」
結の声はあたたかくて、優しかった。
だけど、遥香の言葉が耳の奥で何度も何度も反響する。
(ボクは最強じゃなきゃダメなんだ。甘えて泣いて、慰められて――そんなの、ボクじゃない……)
結はボクを責めず、何も聞かず、ただぎゅっと強く抱きしめてくれる。
その腕の中で、また涙がこぼれる。
「大丈夫だよ」「カナちゃんは何も悪くない」「ずっとここにいるから」
夜、結のベッドで、彼女の胸元に顔をうずめて泣いた。
「ごめんね、また負けちゃった」
「いいんだよ、私はカナちゃんが頑張ってくれればそれだけで嬉しいよ」
その言葉が、嬉しいのに、どこか苦しかった。
寝返りを打ちながら、心の中で遥香の言葉が何度も何度も蘇る。
(甘えてるカナちゃんは、私の知ってるカナちゃんじゃない)
(ボクは、どんなボクならよかったんだろう)
「最強のカナちゃん」だけを求めてくる遥香。
「どんな自分も全部受け止めてくれる」結。
二人の間で心が引き裂かれる。
結の温もりにすがりながら、ボクはどうすればいいんだろう――
そう思いながら、涙が止まらなかった。
その夜、結と同じ布団に潜り込み、ずっと黙って天井を見ていた。
結はボクの髪を撫でながら、やがて静かに口を開いた。
「……カナちゃん、今日の遥香さんの言葉、ひどすぎるよ。あんなこと言われて、辛くなかった?」
ボクは少しだけ目を伏せて、何て答えればいいか分からなかった。
「ううん、ボクが……弱いから。遥香は、昔から正直な子だったし」
「でも、あんな言い方――わざと傷つけるようなこと、許せないよ」
結の声は珍しく苛立ちが混じっている。
「……違うんだ」
ボクは思わず言葉を挟んでいた。
「遥香は……ボクが弱いとき、そばにいてくれたこともあったし、強くなきゃダメだって思わせてくれたのも遥香だから……」
「でも、今のカナちゃんは、もう一人で頑張らなくてもいいんだよ?」
結の手がぎゅっとボクの指を握る。
「遥香さんがどう思っても、私はカナちゃんが泣いても、甘えても、全部大好きだよ」
胸の奥が熱くなった。
「……でも、遥香は私のこと見捨ててないんだと思う」
「え?」
「たぶん、本当に嫌いなら何も言わない。何も言ってこないほうが、きっと……一番辛い」
結は言葉を詰まらせて、少しだけ黙った。
「カナちゃんは優しすぎるよ」
「そんなことないよ」
思わず否定する。でも、結は小さく首を振った。
「遥香さんは、きっと自分の中の理想のカナちゃんしか認めたくないんだよ」
「……うん」
「それがどんなに辛いことか、遥香さんには分からないのかな」
ボクは、遥香のことを責められると、なぜか胸が痛くなる。
「ボクが、ちゃんとできてれば……遥香にも嫌われなかったのかな、って」
「そんなことない!」
結は今までで一番強くボクを抱きしめる。
「カナちゃんは、カナちゃんでいいの! 私はそう思う」
その言葉に、涙がじわっとにじむ。
「……ありがとう」
声が震えてしまう。
しばらくの沈黙。
部屋の暗がりの中で、ボクは結のぬくもりに包まれて、
どんな自分でも受け入れてくれる人がそばにいる幸せを、じんわりとかみしめていた。
遥香の声も、結の温もりも、どちらも自分の一部のような気がして、でも、今夜だけは甘えていいんだと思えた。
「おやすみ、カナちゃん」
「おやすみ、結……」
涙はもう、少しだけしか出なかった。
その夜、眠るまで結はずっと頭を撫でてくれていた。
何度も何度も「大丈夫」「大好き」と言い続けてくれた。
だけど、遥香の言葉は朝になっても胸の奥に残り続けていた。
甘える自分も、強い自分も、本当はどちらも自分なのに――どうしてもその両方を、許してあげられない
ボクは、また一歩、悩みの深みに沈んでいくのを感じていた。