砕けた心
真嶋さんとは途中で別れた。この階層には極々弱い悪魔しかいないから、私一人でも大丈夫だと判断されたのだ。単独で残敵掃討を任されて、私は慎重に部屋を一つずつ確認していた。
(もう一部屋だけ……)
重厚な扉の前で、私は一瞬躊躇した。ハンドルに手をかけて――扉を押し開ける。
部屋に足を踏み入れた瞬間――リンクが、切れた。
沙織さんとの繋がりが、ぷつりと途切れる。
(え……? なに、これ……?)
私は困惑した。なぜ急にリンクが? こんなこと、今まで一度も……
そして、部屋の奥で見えた光景に、息が止まった。
かなちゃんが――服は破れ、体中傷だらけで、魔力の四肢を出しもせず床に転がっていた。
そして、かなちゃんは意識を保ちながら、ぼんやりとした目で天井を見つめ、時折小さく体を震わせている。
「かなちゃん……!」
私は急いで駆け寄ろうとして――背後で、ガシャンと重い音。
振り返ると、扉が閉まっていた。
私は慌てて扉に駆け寄り、ハンドルを回す。
開かない。
全力で引っ張っても、押しても、扉はびくともしない。まるで何トンもの重りが向こう側にあるかのように。
「開いて……開いてよ!」
私は必死に扉を押し続けたが、どうにもならなかった。
でも今は、そんなことより――
「かなちゃん!」
私は急いでかなちゃんに駆け寄った。床に散らばった破れた制服の切れ端を拾い上げ、震える手でかなちゃんの体に着せてやる。
「かなちゃん、大丈夫? 私よ、遥香だよ……」
かなちゃんの目がゆっくりと私の方を向く。焦点の定まらない瞳。
「はる……か……?」
「そうよ、私よ。もう大丈夫……」
でも、大丈夫なわけがなかった。
かなちゃんの全身は細かく震え続けている。左手だけの腕で、自分の体を抱きしめるようにして、小さく丸くなっている。
「もう無理……」
かなちゃんが意識朦朧としながら、断片的に呟く。
「ボクなんか要らない……汚された……」
私は一瞬、息が詰まった。
かなちゃんの口からそんな言葉が出てくるなんて、思ってもいなかった。
「……どういうこと? かなちゃん、何があったの?」
思わず問いかけると、かなちゃんは小さく首を振る。
「言えない……ボク、もう全部だめになっちゃった……」
「だめじゃない。ねえ、お願い、ちゃんと話して……」
私はできるだけ優しく、でもどうしても焦りが滲んだ声で、もう一度問いかけた。
「かなちゃん、傷だらけで……服も……何があったのか、教えてほしい。私、何も分からなくて、怖いよ」
かなちゃんは、左手で自分の体を抱きしめながら、小さく、震える声で言った。
「嫌なの……誰にも見られたくなかったのに……こんな姿、結にも、遥香にも見られたくなかった……」
「そんなこと――」
一度言いかけて、私は黙った。
かなちゃんの震えが伝わってくる。
どうしたら救えるのか分からない。でも、ここで突き放したら、本当に壊れてしまいそうだった。
「……ごめん、無理に聞こうとしちゃって。でも、私……かなちゃんを、こんなふうに苦しませたままにしておきたくない。だから……」
私はかなちゃんの手を包み込む。
「話せることだけでいい。かなちゃんが、どんなに傷ついても、私は絶対に味方でいるから、だからそんなこと言わないで」
私は必死にかなちゃんの手を握った。左手だけが残された手を、両手で包み込む。
その時、かなちゃんの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「結に……どう顔を合わせればいいの……」
「結さんはきっと分かってくれる。かなちゃんが悪いわけじゃない」
でも、かなちゃんは首を激しく横に振った。
「違う……違うの、遥香……」
声が震える。
「ボク……あの時……襲われてた時」
言いにくそうに、でも必死に言葉を絞り出す。
「痛くて、怖くて……でも……でも、途中で……」
言葉が途切れる。
「体が……反応しちゃったの……」
私の心臓が止まりそうになった。
「だから……だから結に顔向けできない……ボク、最低だよ……あんな目に遭ってるのに、感じちゃって……」
かなちゃんの自己嫌悪と絶望が、痛いほど伝わってくる。
「かなちゃん……」
「結は……結は純粋で、優しくて……汚されたボクなんか、もう愛してくれるはずない……」
かなちゃんは左手で顔を覆って、肩を震わせて泣いた。
私は胸が張り裂けそうになる。
これが、かなちゃんを一番苦しめているものなんだ。
体を傷つけられたことよりも、心を汚されたと思い込んでしまったことよりも――自分の体が反応してしまったという事実が、かなちゃんを絶望の底に突き落としている。
「そんなことない。結さんは――」
「遥香も……ボクなんかと一緒にいちゃダメ……」
かなちゃんが私を見つめる。その瞳には、深い絶望と自己否定しかない。
「ボク、もう汚れてる……誰の隣にもいちゃいけない……」
私は再び扉を見やった。重厚で、なぜか開かない扉。
(私たちは……ここから出られない……?)
部屋の中は異様な静寂に包まれている。外の音も、何も聞こえない。
まるで、この空間だけが世界から切り離されたように。
「ねえ、かなちゃん」
私は静かに言った。
「もしかしたら、これが最後になるかもしれない」
「え……?」
「この扉、重たすぎて開かないの。私のリンクも切れちゃって……理由は分からないけど」
かなちゃんが私を見つめる。
「そんな……遥香まで……ボクのせいで……」
「違う。かなちゃんのせいじゃない」
私はかなちゃんの肩に手を置いた。
「だからこそ、今のうちに言わせて」
私はかなちゃんの顔をまっすぐ見つめた。
「汚れたボクなんか捨てて、って言ったけど……私はそんなこと思わない」
「遥香……」
「私は、かなちゃんが好きだから。昔から、ずっと。だから全部受け止める」
かなちゃんの目が見開かれる。
「昔の約束も覚えてる。小学生の時、校庭の隅で秘密基地作ったでしょ? あの時、『これからもずっと一緒だよね』『うん、絶対だよ』って……」
私の声が震えた。
「本当は、バディを組めなくて悔しかった。結さんが来て、かなちゃんを奪われたと思って、すごく嫉妬した……」
「はるか……」
「でも、かなちゃんが幸せそうだから、我慢してた。私なんかより、結さんの方がかなちゃんには相応しいって……」
涙がこぼれそうになる。
「だけど今、こうして二人きりになって……やっぱり私、かなちゃんのこと諦められない」
かなちゃんが震える声で言う。
「私なんか……こんな体で、こんなに汚れてて……体も心も壊れてて……」
「そんなの関係ない」
私は強く首を振った。
「かなちゃんは、かなちゃんだよ。どんなことがあっても、私の大切な人に変わりはない」
「でも……結は……私が感じちゃったことを知ったら……」
「結さんだって、きっと同じ気持ちよ。かなちゃんのこと、心配して……」
「無理だよ……」
かなちゃんの顔がくしゃくしゃになる。
「そんな目で見られるくらいなら……もう死んじゃいたい……」
その言葉に、私の心は凍りついた。
「死ぬなんて言わないで!」
私は思わず大声を上げた。
「かなちゃんが死んだら、私はどうすればいいの? 結さんはどうなるの?」
「でも……」
「死なせない。絶対に死なせない」
私は涙を流しながら、強く言い切った。
「遥香が……全部忘れさせて……この記憶、全部消して……」
かなちゃんが縋るような目で私を見つめる。
「忘れさせない」
私は即座に答えた。
「え……?」
「忘れなくていい。痛みも、苦しみも、屈辱も、全部抱えたまま生きよう。私が一緒にいるから」
「遥香……そんなの……」
「かなちゃんが汚れてるなら、私も一緒に汚れる。かなちゃんが苦しいなら、私も一緒に苦しむ」
「そんなこと……できない……」
「できる」
私は泣きながら笑った。
「だって、好きだから。本当に、本当に好きだから」
「はるか……」
「かなちゃんが笑ってくれるなら、私は何だってする。かなちゃんの痛みを半分でも背負えるなら、喜んで背負う」
「ボクなんかのために……そんな……」
「なんかじゃない!」
私は強く言い返した。
「かなちゃんは、私が一番大切に思っている人。世界で一番強くて、優しくて、かっこいい人」
「でも、もうボクは……」
「変わらない。何があっても変わらない」
私はかなちゃんの手をさらに強く握った。
「傷ついても、壊れても、汚されても……かなちゃんはかなちゃん。私の大切な人」
かなちゃんの瞳から、また涙がこぼれた。でも今度は、絶望だけじゃない。
「本当に……? こんなボクでも……?」
「本当に」
私は微笑んだ。
「一人で抱え込まないで。私がいる。結さんもいる。みんなでかなちゃんを支えるから」
かなちゃんが泣きながら、震える左手を私に向かって伸ばした。
「はるか……ありがとう……」
私はその手を、ぎゅっと握り返した。
その瞬間――
電流のような何かが、私たちの間を駆け抜けた。
(え……?)
心の奥に、新しい回路が開く感覚。いつもの様なあの、暖かくて力強い繋がり。
「これ……何?」
かなちゃんも驚いた顔で私を見つめている。
「分からない……でも……暖かい……」
そして、その新しいリンクがさらに広がっていく。
別の回路と繋がる――遠くにいる結さんへと繋がる、三重の絆。
(三人で……繋がってる……?)
私たちの間に流れる暖かいエネルギー。心と心が直接繋がるような、不思議な感覚。
かなちゃんの絶望が、少しずつ和らいでいくのが分かった。
結さんの安堵と驚きが、遠くから伝わってくる。
――かなちゃんへの愛情。どんなことがあっても変わらない、深い愛情。
「ボクたち……繋がってる……」
かなちゃんが呟く。
「うん……三人で……」
私も、この奇跡的な繋がりに心を震わせていた。
三人の想いが混じり合い、互いを支え合う。
かなちゃんの痛みを、私と結さんが分かち合う。
私の愛情を、かなちゃんと結さんが受け取る。
結さんの純粋な愛を、私たちが感じ取る。
この繋がりがあれば、もう一人じゃない。
そして、リンクによる強化があればあの重い扉を開けることができる。
私は、重厚な扉をゆっくりと開き始める。
廊下の光が、部屋の中に差し込んでくる。
まるで、私たちの絆が扉を開いたみたいに。
「行こう、かなちゃん」
かなちゃんは、魔力を四肢へ巡らせて、いつもの様に魔力で手足を形成する。
私はかなちゃんの体を支え、一歩ずつ扉に向かう。
かなちゃんの歩みは覚束ないけれど、さっきまでのような絶望は消えていた。
「遥香……ありがとう……」
かなちゃんの声は、まだ震えていたけれど、希望の響きがあった。
「お礼を言うのは私の方だよ。やっと、本当の気持ちを伝えられたから」
「でも……結に……」
「大丈夫。結さんも分かってくれる。この繋がりがあるから」
私たちは、新しい絆と共に、絶望の部屋を後にした。
廊下に出ると、遠くから足音が聞こえてくる。
きっと、結さんや他の仲間たちが、私たちを探してくれているのだろう。
三人の心が繋がった今、私たちはもう孤独じゃない。
かなちゃんの傷は深いし、これからも苦しむことはあるだろう。
でも、私たちが支える。三人で一緒に乗り越えていく。
どんな困難が待っていても、この絆があれば大丈夫――
そう信じて、私たちは歩き続けた。
光の差す廊下を、希望に向かって。




