新しい日々
今日は私にとって、たぶん一生忘れられない朝になる――そう直感していた。
転校なんてこの学校では滅多にないこと。
ましてやバディ育成学園の中途転入なんて、社会的にも制度的にもほぼ不可能。
それなのに私、結城 結は、「彼方さんのパートナー候補」として特別な許可を受けて、今日ここに来ている。
少し前、私は先生方からこう説明された。
「君だけが、朝霧彼方とバディの可能性を見せた。これは極めて稀なケースだ。新学期から2ヶ月間様子を見てきたが、状況は改善されていない。今後、彼方のバディ候補として、他の誰にも明かさず学校生活を送ってもらう」
転校前から、彼方さんについては色々聞いていた。
「並外れた前衛適性」「史上最強とまで言われた才能」
でも、それ以上に私の胸に残っていたのは「バディが組めず、ずっと一人で頑張っている」という噂だった。
どんな人なんだろう――
孤独で、でもきっと誰よりも強い。
噂話や先生の説明だけでは、本当の彼方さんは分からない。
でも、名前を聞いた瞬間からずっと、心がざわざわして仕方がなかった。
「顔も、声も、全部…今日やっと会える」
朝の支度をしながら、私の鼓動はどんどん早くなる。
制服のリボンがなかなか決まらなくて、鏡の前で何度も結び直す。
両親から「頑張って」と送り出され、駅までの道のりはずっと彼方さんのことを想像していた。
正直、学校に入るまでは緊張よりも「楽しみ」の方が大きかった。
でも、昇降口で生徒たちの流れに紛れていくうちに、だんだん胸が締め付けられるような不安に変わっていく。
もし私なんかじゃ、彼方さんの支えになれなかったら。
彼方さんが本当に望んでいるのは「自分のような存在」じゃなかったら。
不安も期待も全部抱えて、私は教室の前で立ち止まった。
彼方さんは本当に、どんな人なんだろう。
先生には「転校生のことは絶対に秘密」と釘を刺されている。
バディ適合者として来たことも、彼方さん本人には悟られないように、とも。
でも、それでも――
会う前から彼方さんは「特別」だった。
前に一度だけ写真を見せてもらったことがある。
少し困ったような瞳、大きな瞳と柔らかな髪。
「……本当に、可愛い……」
その時感じたのは、タイプとか、好みとか、そんな軽いものじゃ無い。
一目惚れってこう言うことなんだ、そう思うほど、思わず胸がぎゅっとなるくらいの、運命的なもの。
ずっと会いたかった人だった。
先生に呼ばれ、教室の前に立つ。
扉の向こうからは、生徒たちのざわめきがかすかに聞こえてくる。
手が震える。
深呼吸を一度、二度。
緊張で吐きそうになるけど、でも、やっと会える。
ずっと想像してきたその人に、本当に会える。
「結城 結さん、こちらへどうぞ」
先生に声をかけられる。
私は小さく返事をして、扉に手をかける。
その一瞬、胸の奥で静かに何かが弾ける音がした。
ガラリ――
教室の空気が、私に向かって静かに、ゆっくりと流れ込んでくる。
扉を開けた瞬間、教室の空気がピンと張りつめる。
全員の視線が一斉に私へと集まる。
こんなに多くの人に見つめられるのは初めてで、思わず手のひらが汗ばむ。
教壇の脇まで進み、先生に促されて一礼する。
目線の先、教室の右奥。
窓際の席に、一人だけポツンと座っている女の子がいた。
――あの子が、朝霧彼方。
思わず胸が跳ねた。
写真で見ていたよりも、何倍も可愛い。
ふわっとした髪、華奢な首筋、まっすぐな睫毛。
でも何より、どこか無防備な表情。
目元には薄く涙の跡が残っているようにも見えて、
「この子は、ずっとこんなふうに一人で――」
初対面なのに、なぜだか泣きそうになった。
「えっと……今日から、こちらに転校してきました。結城 結です。まだ分からないことだらけですが、よろしくお願いします」
用意してきた自己紹介の言葉が、緊張でちょっと震えてしまった。
けれど、彼方さんは顔を上げてくれなかった。
どこかぼんやりした目で、窓の外だけを見ていた。
教室のざわめきが静まる。
「転校生」なんて本当に異例中の異例。
みんなが私を値踏みするように見ているのを感じる。
先生が席を案内してくれる。
偶然なのか、それとも配慮なのか、私の席は彼方さんのすぐ隣だった。
椅子を引くと、かすかな音だけが響く。
緊張で手が震えそうになったけれど、ちらっと彼方さんを横目で盗み見てしまう。
近くで見ると、彼方さんの睫毛の影、少し色素の薄い髪、細い指先――全部が本当に綺麗。
でもその肌の下に、どこか消えそうな弱さが漂っている。
……やっぱり、ずっと一人でいたんだろうな。
ここまで噂が本当だったなんて。
休み時間になっても、彼方さんは席を立たない。
窓の外をただ眺めて、周囲の笑い声にも振り向かない。
私が「よろしくね」と小さく声をかけても、彼方さんは少しだけ瞬きをして、それっきり無言だった。
放課後、先生に呼ばれて「今日から彼方さんと同室ね」と告げられた瞬間、嬉しさと緊張とで、胸の奥で花火が弾けるみたいな感覚が一気に膨らんだ。
鍵を受け取って廊下に出ると、彼方さんがぼんやりと壁にもたれている。
どこか現実感の薄い、その横顔。
私は無意識に駆け寄って声をかけていた。
「彼方さん、一緒に行こう!」
彼方さんは小さくうなずくだけ。
でも、それだけで嬉しかった。
寮の廊下を並んで歩く。
「同室だなんて、本当にいいのかな」
私はずっとドキドキしていた。
部屋に入ると、想像よりも殺風景で、机の上にも本も飾りもほとんどない。
彼方さんはカバンを下ろすと、何のためらいもなく椅子に座って下を向いた。
それだけで、部屋の空気が少しだけ沈んだ気がした。
「荷物置く場所、ここでいい?」
と私が声をかけても、彼方さんは小さくうなずくだけ。
返事はあるのに、まるで心がどこにもいないような、そんな受け答えだった。
晩ご飯の時間。
私は内心わくわくして「一緒に食堂いかない?」と言いたかった。
でも彼方さんは迷いなく、引き出しからプロテインバーを取り出し、ただ静かに包装を剥いて、もそもそと食べ始めた。
……それだけ?
さすがにこれはまずい、と思った。
噂で聞いていたよりも、ずっと……
このままだと、死んでしまうんじゃないか。
「彼方さん、それだけじゃダメだよ! 一緒に食堂行こう!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
彼方さんは一瞬だけ顔を上げ、戸惑った表情を見せる。
その目には、何か警戒と諦めが混ざっていた。
「……ボクは、ここでいい」
でも、私は引き下がらない。
「よくない!」
笑顔を作って、手を引いた。
「私と一緒に行って? ね、お願い!」
彼方さんはしばらく迷った末、諦めたように立ち上がった。
歩幅も小さく、足どりも重い。
食堂に向かう間も、ほとんど無言だった。
食堂に着くと、バディたちが賑やかに並んでいた。
私はトレーを2つ受け取って、「これ、彼方さんの分!」と渡す。
「いただきます」と私が言っても、彼方さんは小さく「……いただきます」と返すだけ。
料理を口にしても、表情はほとんど変わらない。
ただ、最低限の量だけ淡々と食べ、すぐに箸を置いた。
「これ美味しいよ! ね、こっちも食べてみて!」
私は自分の好物をすすめてみるが、彼方さんはほとんど無反応。
味も何も感じていないみたいに、生きるために食べているだけ――そう言いたげな顔だった。
寮の部屋に戻ってからも、彼方さんはすぐベッドにうつ伏せてしまう。
スマホも開かず、音楽も聴かず、ただ布団の上に沈んでいる。
私は自分のベッドの上で、「好き」よりも先に「苦しい」が胸に迫ってくるのを感じた。
(……思った以上だ。ここまで何も反応がないなんて)
初めて隣で過ごす彼方さんの一日を見て、私は噂で聞いていたが、想像以上に限界だったんだと悟った。
夜になり、「おやすみ」と声をかけても、返事はわずかに唇が動くだけ。
その目は、遠くのどこかを見ていた。
(この人は、本当に今にも壊れそうだ……)
好きで、好きで、どうしようもなく心惹かれる。
だけど、それ以上に「何とかしたい」「何かしなきゃ」という焦りが募っていく。
どうすれば、この人に生きている意味や楽しみを思い出させてあげられるだろう。
自分ひとりの力で、果たして何かできるのか。
不安と決意が同時に胸に渦を巻いた。
眠れないまま、彼方さんの背中をじっと見つめる。
明日はもっと話しかけてみよう。
もっと彼方さんの好きなものを見つけよう。
絶対にこの子を独りにしない。
そう自分に誓いながら、私は夜が明けるのを静かに待った。
私だけが知っているバディ候補という秘密。
この子の隣に座る理由も、先生や親が何度も「絶対に言わないで」と念を押してきたことも、全部今、胸の奥で絡み合って重くなる。
でも――
やっぱり私は、朝霧彼方のことが好きだ。
まだ話したことも、笑いかけられたこともないのに、この距離で彼女を見ているだけで、胸が熱くなる。
(……もっと近づきたい。触れたい。この人に、寂しさ以外の感情を思い出してほしい)
――絶対、諦めない。
この距離で、絶対に朝霧彼方を独りにしない。
そう心の中で誓いながら、
私はまた、彼方さんの横顔をそっと見つめていた。
深夜、寮の部屋は静まり返っていた。
月明かりがカーテンの隙間から差し込み、彼方さんの寝顔を淡く照らす。
私はベッドの上で、目を閉じてもなかなか眠れなかった。
頭の中をぐるぐる回るのは、今日一日で感じた「想像以上の限界」だった。
彼方さんは食事も反応も、最低限生きているだけ――
こんなにも表情も気力もない子だったなんて、正直思っていなかった。
今日の自分じゃ、全然ダメだ。
何とか元気にしてあげたい。笑顔を見たい。
それがどれほど難しいことかを、身をもって思い知らされた。
そのとき、隣のベッドから小さな声――
「……たすけて……やだ……やめて……」
すすり泣くような寝言だった。
私は全身がぎゅっと冷たくなった気がした。
きっと、日中よりも夜の方が、彼方さんの孤独や痛みは深いんだ。
涙が自然と溢れてきた。
(私が、絶対に守る。絶対に、絶対に……)
翌朝になっても、その寝言が耳から離れなかった。
私はベッドから起きると、そっと彼方さんの方を見た。
目の下のクマ、窪んだ頬、心ここにあらずの表情。
今日こそ、もっと一歩近づきたい。
もっとこの人の「日常」に、自分を溶け込ませたい。
朝食の時間、思い切って声をかけた。
「ねえ、私、今日からカナちゃんって呼んでもいい?」
彼方さんはぽかんと私を見つめる。
その一瞬の無防備な表情がたまらなく可愛い。
私は思わず続けた。
「だって、彼方さんじゃ他人行儀だし……。カナちゃんって、呼びたいな。そっちの方が絶対可愛いもん」
彼方さんは、しばらく黙って、やがて少しだけ頷いた。
その仕草すら、ガラス細工みたいに繊細で、
壊してしまいそうで怖いと同時に、愛しさでいっぱいだった。
食堂で並んで朝ご飯を食べる。
私は当然のように「カナちゃん、これ美味しいよ!」とどんどん話しかける。
返事は小さい。でも、その声を聞けるだけで一日が明るくなる気がした。
その中で、早乙女遥香がこちらを鋭く振り返った。
目が合う。早乙女遥香は一瞬、表情を曇らせたようだった。
(……あの子が、カナちゃんをこんなふうにした“原因”だって聞いている)
私は心の奥で、早乙女遥香に対してわずかな敵意すら感じていた。
でも、それ以上に大事なのは今、私がカナちゃんの一番近くにいること。
周りの目も早乙女遥香の反応もどうでもよかった。
私はカナちゃんを守りたい。
カナちゃんが元気になること、それが最優先だった。
カナちゃんは、最初は困惑していたが、私が何度も名前を呼ぶうちに、ほんの少しだけ表情が和らいだ気がした。
(きっと、あと一歩――いや、あと百歩くらい踏み込まないと、この子には届かないんだろう)
だから私は、甘やかしのギアをもう一段上げる。
昼休みも、放課後も、ずっと隣にいる。
「何か食べたいものある?」「今夜は一緒にお茶しよ?」
普通の友達の距離なんて気にしない。
誰よりも近く、誰よりも深く。
私はカナちゃんを包み込みたい。
この気持ちだけは、絶対に譲れなかった。
ここ数日、私は「カナちゃん」にとにかくべったりくっついて過ごした。
朝起きたら「おはよう」と抱きつく。
食事も放課後も、帰り道も、全部「一緒がいい」と隣に座る。
誰かに遠慮する気も必要も全然なかった。
クラスの空気も、遥香の鋭い視線も、全部気にしなかった。
それでも、カナちゃんの心の壁はなかなか崩れなかった。
少し表情が柔らかくなることはあっても、相変わらず最低限生きているだけのような日々。
夜になれば毎晩のように、隣のベッドから「……たすけて」「やだ……」と寝言が聞こえ、私はただ静かに涙をこらえるしかなかった。
そんなある日、私はカナちゃんの模擬戦を見学することになった。
体育館の端から、初めて「本物の戦い」を目撃した。
カナちゃんは複数人の前衛に囲まれ、無表情のまま殴られ、蹴られ、何度も転がされていた。
防御も反撃もどこか機械的で、誰にも届かない孤独さだけが滲み出ていた。
やがて、バディたちの集団攻撃で倒され、床にうずくまるカナちゃん。
私は呆然と立ち尽くした。
そして思わず、駆け寄って「カナちゃん!」と叫んでいた。
保健室で手当てを受けるカナちゃんの横で、私はそっと手を握った。
小さな手は、氷みたいに冷たかった。
夜、部屋に戻ると、カナちゃんは放心したような顔でベッドに横たわっていた。
私はどうしても放っておけなくて、自分のベッドに彼女を引っ張り込んだ。
「こっち、おいで。ねぇ、ぎゅってしていい?」
カナちゃんは最初はびっくりして「え、なに……なんで……」と困惑と警戒を滲ませる。
私はそれでも構わず、そっとカナちゃんを抱きしめ、頭を撫でる。
「大丈夫、大丈夫だよ。カナちゃんは凄いよ。えらいえらい、よしよし……」
ただそれだけを、何度も何度も。
カナちゃんの体は、最初はこわばっていた。
でも、しばらくすると小さく震え始め、やがて、すすり泣きが私の胸元に伝わってきた。
私はそのまま、ぎゅっと優しく抱きしめて離さなかった。
頭をなで、背中をさすり続ける。
「何で、なんで……」
カナちゃんはパニックになりかけて、何度も小さな声でつぶやく。
「なんでこんな……分かんない……」
でも私が「大丈夫、私がいるから。絶対離れないから」と繰り返すと、カナちゃんはついに抵抗をやめて、ぽろぽろと涙を流した。
その夜、私はカナちゃんと同じ布団に入り、ずっと頭をなでていた。
カナちゃんは泣き疲れたのか、やがて私の腕の中で深く静かに眠った。
寝顔は初めて見るくらい穏やかで、すうすうと小さな寝息を立てていた。
私はそっと彼女の頬にキスを落とした。
(この人を絶対に幸せにしてみせる)
そう心に誓いながら、私は朝までずっと、カナちゃんのぬくもりを感じていた。