歪な愛
カナちゃんが私のもとに戻ってきた日、私は、世界のすべてを手に入れたような気持ちだった。
最初は怖かった。
両足も、右手も、思うように動かない左手の指も、
ひとつも元通りにはならない現実に、胸がギリギリと締め付けられた。
だけど――
カナちゃんが「ありがとう、結」と笑ってくれるたび、
私は、その壊れた現実ごと全部愛すると誓った。
朝は、カナちゃんの寝顔を見るところから始まる。
まぶたの端に涙の跡。
静かに寝息を立てる横顔。
私は、声をかけるより先に、その髪をそっと撫でてしまう。
誰にも見せないカナちゃんの、無防備な表情――
この寝顔にふれていられるのは、世界中で私だけだ。
「おはよう、カナちゃん」
声をかけると、カナちゃんはちょっと不安そうに目を開ける。
私はすぐに、朝食の準備にとりかかる。
ベッドの上で、寝巻きを脱がせて、着替えさせて――
最初は少しだけ恥ずかしそうだったカナちゃんも、今はもう当たり前のように全部を私に任せてくれる。
お粥をすくって口元に運ぶと、カナちゃんは素直に食べてくれる。
「美味しい?」
「うん」
その一言が嬉しくて、ついもうひと口、もうひと口と食べさせてしまう。
「カナちゃん、ほら、もっと食べて」
「そんなに太ったら、結が困るよ」
冗談を言うときのカナちゃんの顔も、私は誰よりも知っている。
……だけど、全部が順調というわけじゃない。
トイレも、お風呂も、食事も、全部私がやる。
カナちゃんは最初こそ「自分でやる」って言い張っていたけれど、
左手が思うように動かない日は、どうしても私の手を借りるしかなかった。
トイレで失敗して、床を濡らしてしまったとき。
カナちゃんが何度も「ごめん」と繰り返して、うつむいて涙をこらえる姿を見たとき――
私は胸の奥が痛くて、たまらなく愛おしかった。
(だいじょうぶ、全部私がやるから)
この子には、もう何ひとつ背負わせない。
そう思うたびに、「大丈夫だよ」と優しい声で言いながら、心の奥ではこのまま一生、全部自分の手で世話したいとさえ思ってしまう。
夕方、寮の廊下を車椅子で押しているとき、カナちゃんが「ボク、結がいなきゃ何にもできないね」なんて言って、照れくさそうに笑う。
私は「それでいいの。全部私がやるから」と返す。
その言葉の中に、どれだけ独占欲と幸福が混じっているか、きっとカナちゃんは気付いていない。
お風呂でも、カナちゃんの体を洗うのは、最初は手が震えた。
でも今は、指の一本、髪の先まですべて自分のもののように扱う。
恥ずかしそうにうつむくカナちゃんも、私が「綺麗だよ」って言うと、少しだけ笑ってくれる。
……でも、時々、どうしようもなく怖くなる。
ある日、一緒にお風呂に入っていた時。
少し目を離した一瞬で、カナちゃんの体が滑って、水面に顔を沈めてしまった。
「カナちゃん!!」
私はパニックになって、すぐに浴槽から引き上げたけど、心臓が止まりそうだった。
「ごめん、ごめん、ごめんね……!」
何度も、何度も、泣きながら謝った。
カナちゃんは「だいじょうぶだよ」って笑ってくれたけど、本当は、私のほうが壊れそうだった。
――もし、私のせいでカナちゃんが死んでしまったら。
そんなことを考えるだけで、世界が全部黒く塗りつぶされてしまう。
だから、どんな些細なことも、絶対に手を抜かない。
起きてから寝るまで、全部全部、私がやる。
カナちゃんのために。
カナちゃんだけのために。
……それでも、やっぱり不安になる。
車椅子で段差に差しかかったとき、私の手が滑って、カナちゃんを落としてしまった。
「カナちゃん!!」
自分でも信じられないくらい取り乱して、涙が止まらなかった。
「ごめん、ごめん、ごめん……」
何度も謝る私に、カナちゃんは「ボク、平気だから」と笑ってくれた。
受け身を取って、どこも怪我してない――本当に、奇跡みたいな子。
でも、私は頭の中が真っ白になって、もし今ので死んでしまっていたら、という妄想だけがぐるぐる回って、どうしようもなかった。
その夜、カナちゃんが手を握ってくれた。
「結がいなきゃ、ボクはとっくに死んでたと思う」
「今度はボクが結を守る番だから」
そう言ってくれた時――
私は、また、全部この子に救われていると実感した。
でも――
やっぱり私は、カナちゃんの全部を独り占めしたい。
どんなに情けなくても、惨めでも、この子の一番近くにいられるなら、どんなことだって引き受ける。
カナちゃんが「甘えていい?」と聞くたび、私は「うん、もっと甘えて」と願ってしまう。
……このまま二人きりの世界で、他の誰もいなくてもいい。
この子が隣にいるだけで、私は幸せなのだ。
そして――
毎晩、布団の中でカナちゃんの髪を撫でながら、
「ずっと一緒にいようね」とそっと囁く。
カナちゃんが笑って「うん」と答えてくれるだけで、
私は、世界中のどんなものよりも尊いものを手に入れた気がした。
――私は、きっとどこかおかしくなってしまった。
毎朝、カナちゃんが目を覚ます瞬間を見ていると、胸の奥がじんじん熱くなる。
昨日より、もっと自分に頼るようになって、もっと無防備な顔を見せてくれる。
そのたびに、こんな姿、誰にも見せたくない。私だけが見ていればいい。
そんな風に思ってしまう。
本当は、思っちゃいけない。
カナちゃんは、あんなに傷ついて、もう自分じゃ何もできなくなってしまった。
そのことを悲しむべきなのに――
どうしようもなく、嬉しい。
――私だけが、カナちゃんを支えられる。
私だけが、全部を世話してあげられる。
他の誰も、ここまで手をかけてあげられない。
たぶん、誰も理解できない。
この幸福を。
……思っちゃいけないのに。
そう思うたび、胸がチクチク痛む。
(こんなの、ただの独占欲だ。人として間違ってる。こんな気持ち、カナちゃんに知られたら、きっと軽蔑される――)
けど、どうしても、心の奥で浮かんでしまう。
カナちゃんがトイレで失敗しても、お風呂で上手く体が動かなくても、夜、寂しくて泣きそうになっても、その全部を受け止めてあげられるのは――世界で私だけ。
(こうなったから、私はカナちゃんの全てを、何もかも見ていられる)
(朝から晩まで、息遣いも、食べ方も、寝顔も、苦しそうな時も、嬉しそうな時も――全部、私が見て、私が管理して、私が満たしてあげられる)
罪悪感と背徳の幸福感が、心の中でぐるぐると渦を巻く。
――カナちゃんが何もできなくなってくれて、本当は、嬉しかったんだ。
そんなこと、誰にも言えない。
でも、本当は、今日も明日も、この先ずっと――
この地獄みたいな幸せが、終わらなければいいとさえ思ってしまう。
……最低だ。
私は、きっと最低だ。
それでも、カナちゃんが「ありがとう」と微笑んでくれるたび、「結がいてくれてよかった」と言ってくれるたび、私はこの罪深い幸福から、抜け出せなくなっていく。
――ごめんね、カナちゃん。
私は今日も、君の全部を独り占めして生きている。
夜、カナちゃんが眠った後、私は静かにベッドの端に座る。
暗い部屋の中、カナちゃんの寝息が小さく響く。
呼吸のひとつ、体が寝返りを打つたびのわずかな動きまで、全部が愛おしい。
私は、ここまで誰かを必要としたことなんて、今までなかった。
なのに――
今の私は、カナちゃんの全てを手に入れて、その代わりに、もう二度と元には戻れない気がしている。
(本当は――こんな状況、悲しむべきなのに)
日中、カナちゃんは時々「ごめんね」と小さく呟く。
おむつを替えてあげる時も、着替えを手伝う時も、
どこかで「自分は迷惑をかけている」と思っているのが伝わってくる。
私はそのたび、胸の奥で罪悪感が疼く。
だけど、どんなに「申し訳ない」と言われても、
私は心のどこかで「もっと頼ってほしい」と願ってしまう。
(全部、私がやってあげたい。全部、私の手で管理したい)
(もし、他の誰かに触れられたら、それだけで壊れてしまう)
(今のカナちゃんの全部を見られるのは、私だけでいい)
――そう思った瞬間、
私は心の奥で嬉しいという感情が滲み出してしまう。
だめだ、って思う。
こんな考え、普通じゃない。
なのに、止められない。
昼間、カナちゃんが「結がいなきゃ何もできない」なんて冗談めかして言うたびに、私の胸の奥が、満ち足りた幸福感でいっぱいになる。
最低だって、自分を責めるけど――やっぱり嬉しい。
カナちゃんが苦しそうな顔をしても、それを癒してあげられるのが私だけなら、この関係は永遠でもいい、と思ってしまう。
――もしも、カナちゃんが私の手を離れて、どこか遠くに行ってしまったら。
それだけは、絶対に嫌だ。
私は、カナちゃんの全てを独り占めして生きている。
この幸せから、たぶん、もう二度と逃げられない。
――ごめんね、カナちゃん。
こんな私で、ごめんね。
だけど、今夜も私は、君の寝顔をずっと見つめながら、この甘い罪悪感に身を沈めてしまうのだ。
夜、灯りを落とした静かな部屋で、私はベッドの隣で、カナちゃんの寝顔を見つめていた。
何もできないこの子。
パスを繋いでいなければ、満足に移動すらできない。
私が全部やらなきゃ、何もできない――
その現実が、どうしようもなく、私の中の何かを掻き立てる。
(私だけが、カナちゃんを支配できる。この子の全部が、私のもの――)
その幸福と背徳感で、胸の奥が熱くなる。
カナちゃんは、無防備に眠っている。
呼吸がかすかに揺れて、時折、寝言のように私の名前を呼ぶ。
この寝顔に、この体に、私だけが触れていい。
私はそっと、カナちゃんの頬を撫でる。
小さな吐息。
指先が、髪を、額を、唇をなぞる。
カナちゃんが目を覚ます気配はない。
私は、堪えきれずにカナちゃんの唇に自分の唇を重ねる。
キスをすると、
カナちゃんが微かにうめき声を漏らす。
その顔が、たまらなく愛おしくて――
私は、さらに強く唇を重ねていく。
ゆっくりとパジャマのボタンを外す。
カナちゃんの肌が、月明かりの中で白く浮かび上がる。
首筋に、肩に、私は幾度もキスを落とす。
「……ゆい?」
カナちゃんが、かすかに目を開ける。
その瞳に、私はきっと、どうしようもない欲望を宿したまま見つめ返していた。
「ごめんね、カナちゃん。ちょっとだけ、私に甘えて――」
そう囁いて、私はその身体を自分の腕に抱きしめる。
カナちゃんは抵抗しない。
できるはずもない。
私は、カナちゃんの手を自分の頬に当てて、そのまま自分の体に引き寄せる。
唇を塞いで、
首筋にキスを繰り返して、胸元に顔を埋めて、その温もりを、匂いを、全部、私のものにする。
カナちゃんの声が、震えて小さく漏れる。
「……結衣、苦しい、よ」
私は、その声にますます心が熱くなる。
「だいじょうぶ。全部私がやるから。私だけが、カナちゃんの全部をもらっていいんだよね」
囁きながら、私はカナちゃんの身体を自分の腕で覆い、何度も、何度も、唇を重ねていく。
指先で、カナちゃんの体温を確かめながら、自分の胸に、その体を抱きしめる。夜の静けさの中で、カナちゃんの息づかいだけが、はっきりと聞こえる。
「……好きだよ、カナちゃん。全部、全部私のものだよ」
私はそう囁いて、この夜、カナちゃんの全てを抱きしめた。
朝、窓から差し込む光がカナちゃんの髪を照らしている。
私は、その横顔を眺めながら、胸の奥がまだ熱く疼いているのを感じていた。
――やっと、全部手に入れた。
カナちゃんの肌のぬくもり。
唇の柔らかさ。
夜通し抱きしめて、何度もキスして、触れて、声を聞いて、世界のすべてを自分だけのものにしたような気がした。
なのに。
胸の中に、ひどく重たいものが沈んでいる。
(私、やりすぎちゃった……)
(カナちゃん、嫌だったかな……)
思い返すたび、罪悪感と自己嫌悪で、喉の奥がきゅっと締めつけられる。
――カナちゃんを、無力なまま抱いてしまった。
何もできないこの子を、
私の欲望のままに独り占めしてしまった。
私の隣で、カナちゃんがゆっくりと目を開ける。
昨日の夜より、少しだけ曇った顔。
「……おはよう、結」
声が、かすかに震えているような気がした。
私は、何も言えなくなる。喉が、胸が、息苦しくなって、涙が出そうになる。
「ごめんね、カナちゃん。私……やりすぎちゃって、ごめん……」
気づいたら、私はうつむいて謝っていた。
カナちゃんは、しばらく黙ってボクを見ていた。
その顔は、どこか悲しそうで、それでも微笑んで――
「……結なら、何されても嬉しいよ」
そう言って、ボクは小さく笑った。
でもその笑顔は、昨日までの無邪気なものとは違って、少し曇って見えた。
その表情に、私は胸がぎゅっと苦しくなる。
(もしかして、私がいなくなったら、カナちゃんは生きていけないから、そう言ってるだけなんじゃないかな……)
頭の中で、罪悪感と不安がぐるぐると渦を巻く。
けど、それでも――
(……曇った顔も、やっぱり可愛いって思ってしまう私は、本当に、もう壊れてしまったんだな)
カナちゃんの目が潤んでいても、その手が私の腕にしがみついてくれるだけで、私は救われてしまう。
――最低だ。
私がいなきゃ生きていけないカナちゃんに、全部甘えて、全部求めて、全部、独り占めして、満たされてでも、苦しくて、怖くて、やっぱり嬉しくて。
壊れてしまった私の心は、今日もこの子のそばで、誰にも言えない幸福と罪悪感の中、溶けていく。




