不便な体
目が覚めた時、いつもの天井より、少しだけ高い白い天井が目に入った。その白さがどこか冷たく感じる。
ベッドの端に金属の柵があると、それだけで心臓が跳ねた。ほんの一瞬、拷問部屋の鉄鎖や、あの石の冷たさが肌に蘇る。何もないはずなのに、足や手の切断面が焼けるように痛んだ。
(……もう終わった。もう大丈夫。ここは結がいる病院だ)
そう何度も頭の中で呟かないと、身体が動かせなかった。
「おはよう、カナちゃん」
ベッドの隣に結が座っている。小さな椅子に、いつものようにちょこんと。眠そうな顔で、それでもボクのことだけをじっと見ていた。
「……おはよう」
声はかすれてる。左手の指はまだ上手く動かないし、右手は、もうずっと前から無い。布団の下は空っぽ。両足はとっくに――
ボクは、もう驚かなくなった。痛いのにも、動かないのにも、結の顔を見るだけで、なんだか大丈夫な気がしてしまう。
「今日、退院できるんだって」
結が嬉しそうに言う。
「へえ……やっとだね」
本当は、もっと早く寮に帰りたかった。誰かの目も、夜の静けさも、結が隣にいてくれれば、たいていのことは怖くなかったから。
結がテーブルからスプーンを取って、ボクにお粥を食べさせてくれる。
「はい、アーン」
ちょっと恥ずかしい。でも、もう慣れてしまった。左手は力が入らなくて、スプーンも持てないし、ボクがやると大惨事になるのを知ってるから、結はなんでもやってくれる。
「……もう自分で食べられるかも」
「ダメだよ。無理しちゃいけないって先生にも言われてるし」
結はふわっと笑って、スプーンで桃ゼリーをすくってくれる。
「……甘い」
「よかった」
何だか、全部が夢みたいだ。ベッドの上のボクは半分壊れたロボットみたいだけど、結がこうして隣にいてくれるなら、それだけで、他に何もいらない。
食べ終わったあと、ボクはちょっと聞いてみる。
「ねえ、結。リンク、ずっと繋いだままじゃダメかな。手とか足とか、ずっと出せたら……色々できそうなのに」
本音を言えば、不便だった。車椅子も嫌いじゃないけど、自分で立って歩きたい。魔力で手足を作って、ずっと使えるなら、元通りに近いはずだ。
結は一瞬、変な顔をした。
でもすぐに、いつもの優しい笑顔で首を横に振る。
「それは、ダメ。先生にも言われてるけど、ずっとパス繋いでると、体も頭も疲れちゃうし……カナちゃん、回復優先だから」
「そっか」
何となく、もう少しゴネてみようかと思ったけど、結が真面目な顔をすると何も言えなくなる。
結はボクが無茶しないように、ずっと目を光らせている。
退院の準備で、看護師さんや先生が入ってくる。みんな「よく頑張ったね」とか「これからが本番だよ」とか、優しい言葉をくれるけど、その目はどこか遠い。
哀れみ? それとも、何か……よくわからない。
結が車椅子を用意してくれる。ボクは自分でベッドから移ろうとするけど、うまくいかない。
「待って、私がやるから」
結の手はすごく慣れていて、ボクを肩から抱えて、ベッドの端までスルスル動かす。
「重いでしょ」
「全然。カナちゃん、すごく軽いよ」
そう言いながら、結はボクを車椅子に乗せる。恥ずかしいくらい全部やってもらって、でも、やっぱり助かる。
退院手続きの時、受付やロビーでいろんな人がボクたちを見る。
「……あの子が、生き残ったって」「すごいね、足も手も……」
ひそひそ話が聞こえる。ボクは気にしないふりをするけど、本当はちょっとだけ胸がざわざわする。
結がそっとボクの肩に手を置く。
「大丈夫、私がいるから」
その言葉が、今は一番の薬だ。
誰かに見られても、変なことを言われても、結が隣にいてくれるだけで、ボクは大丈夫だって思える。
玄関まで来ると、外の空気は想像以上に眩しかった。
「これから、ふたりの新しい日常だね」
結がそう言って微笑む。
「……うん。結がいてくれれば、何とかなると思う」
本当にそう思っていた。
たとえどんなに不便でも、どんなに痛くても、結と一緒なら大丈夫だと。
車椅子の振動、結の手のぬくもり。
失ったものはたくさんあるけど、今この瞬間、ボクには結だけがすべてだった。
病院の坂道を下るとき、結が背中を押してくれる。
「ね、結。無理しなくていいからね」
「無理してないよ。ずっと、カナちゃんのためにいたいから」
その声が、なんだか頼もしくて、でも少しだけ、怖かった。
こうして、ボクたちの「新しい日常」が始まる。
寮の部屋に帰ってきた日、ボクは正直、ほっとした。
病院のベッドじゃない、自分の布団――結が何度もシーツを換えて、枕も干してくれていた。
「おかえり、カナちゃん」
部屋に入った瞬間、結が小さな声でそう言ってくれる。
それだけで、胸の奥がふわっと軽くなった。
でも、現実はそんなに甘くなかった。
起き上がるのも、着替えるのも、トイレに行くのも、一人じゃ何もできない。
結がいなきゃ、朝だって夜だって、身動きひとつ取れない。
トイレは特にきつかった。
最初は「大丈夫、自分でやるから」って強がったけど、左手の指はまだ思うように動かないし、どうしてもタイミングがずれて――
気がついたら、下着もパジャマも全部濡らしてしまっていた。
「……ごめん」
俯いたまま、泣きたくなった。
情けなくて、恥ずかしくて、結にこんな姿見せたくなかった。
でも、結は全然顔色ひとつ変えず、
「大丈夫、事故なんて誰だってあるよ」って優しく言って、タオルで床を拭き、ボクの体を拭いて、新しい服に着替えさせてくれた。
「洗濯も私がやるから、気にしなくていいよ」
それでも、やっぱり心の奥がじんじん痛む。
(こんな生活が一生続くのかな……)
夜になると、余計なことばかり考えてしまう。
ベッドの上で、結の寝息を聞きながら、
もし結がいなかったら、ボクは何もできないなとか、結に全部やらせてばかりで、ほんとに申し訳ないなとか。
情けないとか、惨めだとか、そんな感情がぐるぐる回る。
翌日、結が「今日は一緒にお風呂入ろう」って言ってきた。
「ボク、ちゃんと座ってられるかな」
「私がついてるから大丈夫だよ」
そう言われて、バスルームまで車椅子を押してもらう。
お風呂の中、結が脱がせてくれて、体を洗ってくれる。
恥ずかしいのに、慣れないといけないって思った。
湯船は浅めにしてくれていたけど、足がない分、バランスが取りづらい。
「痛かったらすぐ言ってね」
結がそう言って、ボクをそっと支えながら湯船に沈めてくれる。
「ボク、自分で背中くらい洗えるよ」
「だめ。左手はまだ治ってないでしょ。今日は私が全部やる」
結はそう言って、スポンジでボクの背中や腕を優しく撫でる。
なんだか赤ちゃんになったみたいで、心がざらついた。
「じゃあ、ちょっと自分の体も洗ってくるから、カナちゃんはそこで温まってて」
結がそう言って、ボクから少し離れる。
湯船の中で、ボクはただぼんやりと湯気を眺めていた。
――あれ。
気がついたら、体が傾いていて、湯船の端にしがみつこうとしたけど、左手は思うように動かない。
そのまま、顔が湯に沈んだ。
――苦しい。
あ、やばい、これ……やばいかも。
息ができない。頭の中が真っ白になる。
顔が湯船に沈み、息が苦しくなると、あの拷問部屋で血にまみれて窒息しそうになった瞬間がフラッシュバックした。
喉が焼けるほど怖かった。
(やだ、もうやだ……結、お願い、そばにいて……)
「カナちゃん――!?」
結の叫び声がして、次の瞬間、両腕でボクを湯船から引き上げてくれた。
結に引き上げられることによってようやく、意識が現実に戻ってくる。
「ごめん、ごめん、ごめんね、ほんとにごめん……!」
結が震える声でボクの顔を何度も拭いてくれる。
「ほんとにごめん、カナちゃん、私、目を離して――」
結はボクの肩を抱いて、何度も「ごめん」を繰り返す。
「だいじょうぶ……ボクが勝手にぼーっとしてただけだから」
ボクはむせながら、苦しい息を何とか整えながら、なんでもない風に笑うしかなかった。
結はずっと泣きそうな顔で、ボクを抱きしめて離さなかった。
学校に行かなくていい――
その事実だけで、ボクの心は少しだけ軽くなった。
先生たちからは「しばらくは無理しないで」「彼方さんには今、休息と回復が何より大事です」と言われ、教室や廊下のざわめき、黒板の前に立つことも、試験のプレッシャーも、全部忘れていいと言われた。
最初は寂しいな、と思っていたけど――
実際は、寮の部屋で結とふたりきりの時間が、想像していたよりもずっと心地よかった。
朝は、結が「カナちゃん、おはよう」と優しく声をかけてくれる。
目が覚めたばかりのボクに、ゆっくりと着替えさせてくれる。
まだ上手く動かない左手も、結が支えて袖を通し、シャツのボタンも一つ一つ丁寧に留めてくれる。
朝ごはんも、口元までスプーンで運んでもらう。
「もっと食べて。カナちゃん、前より細くなっちゃったから」
「……そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
そう言うと、結はにこっと笑って、「でも、私が食べさせたいんだもん」と返す。
食後は、一緒にテレビを見たり、ベッドの上でマンガを読んだり。
寮の他の子たちが学校に行っている時間は、部屋の中が本当に静かだ。
外の世界が全部消えて、ふたりだけの時間が永遠に続く気がしてしまう。
おやつの時間には、結が冷蔵庫からプリンやフルーツを持ってきてくれる。
「はい、あーん」
「うん、おいしい」
甘やかされるのがクセになりそうだった。
夕方、窓から差し込む西日が部屋をオレンジ色に染めるころ、結が「ちょっとだけお散歩しよう」と言って、ボクを車椅子に乗せて寮の敷地を押してくれる。
春の風が気持ちよくて、車椅子の振動も悪くなかった。
「こうしてると、本当にボク、全部結に頼ってるな」
思わず言葉が漏れると、結はすごく優しい声で言う。
「いいんだよ、私は全部やりたいの。カナちゃんは、私に甘えてくれればそれでいい」
その言葉が、ボクの胸の奥にじんわり広がる。
夜になれば、結がボクをお風呂に連れていってくれる。
体を隅々まで洗ってくれて、髪も優しく撫でてくれる。
「どこか痛いとこない?」
「うん、大丈夫」
恥ずかしいのに、だんだんそれが“幸せ”に思えてくる。
結が「カナちゃん、綺麗だよ」なんて照れくさそうに言うから、ボクまで顔が熱くなった。
風呂上がりは、結が丁寧に髪を乾かしてくれる。
パジャマを着せて、ベッドに寝かせて、布団をかけてくれる。
「じゃあ、おやすみなさい」
「……待って」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
夜、静まり返った部屋で、結がボクの横に寝転ぶ。
ふたりだけの秘密の時間。
「カナちゃん、手、握ってもいい?」
「うん」
結がボクの左手を、優しく包み込んでくれる。
ドキドキが止まらない。結の顔が近づいてきて、そっとボクの髪を撫でる。
「カナちゃん、好きだよ」
「ボクも……結がいないと、生きていけないよ」
ふたりで布団の中、ぎゅっと抱きしめ合う。
結の指がボクの頬や首筋を優しく撫でてくる。
呼吸が熱くなる。胸が苦しくなる。
「キス、してもいい?」
「……うん」
結がそっと唇を重ねてきた。
それは、すごく優しくて、でもすぐに、熱が移ってくる。
キスの合間に、結がボクの身体を包むように撫でてくれる。
「大好きだよ、カナちゃん」
「……ボクも」
唇が重なり、身体がぴったり寄り添って、布団の中でふたりの体温が溶けていく。
それ以上のことは、なんとなく怖くて――でも、それでも「今だけは全部結に甘えていい」って、心から思った。
「カナちゃん……ずっと一緒にいようね」
「うん。ずっと一緒にいる」
その約束が、ボクにとっては生きる意味そのものになっていた。
昼下がり、結が「今日は外に出てみようか」と言ってくれた。
寮の庭は静かで、春の風が気持ちいい。
結はボクを車椅子に乗せて、ゆっくりと敷地の小道を押してくれる。
「景色、変わった気がするね」
「カナちゃんがいなかった間、花壇も掃除したし……また、みんなで集まれるようになるといいな」
結はそう言いながら、ボクの背中をそっと押してくれる。
途中、段差のあるところに差しかかる。
「ここ、ちょっと段差あるから気をつけて」
結が車椅子のハンドルを少し持ち上げようとした、その時だった。
――バランスを崩した。
「あ――!」
次の瞬間、ボクの体がふわっと宙に浮く。
(やば、でも……)
反射的に体を丸めて受け身を取る。
昔からこういう時だけは、何も考えなくても体が勝手に動く。
両足はなくても、肩と背中で衝撃を受け止めて、すぐに地面に転がった。
「カナちゃん!!」
結が叫んでボクのもとに駆け寄る。
ボクは、特に痛みもなく、服が少し汚れたくらいで済んでいた。
「だ、大丈夫。ボク、平気だから」
そう言うと、結はボクの肩を抱いて顔を真っ青にして震えていた。
「ごめん、ごめん……カナちゃん、ごめんね、ごめんね……!」
何度も何度も、震える声で謝る結。
「私、私、何やってるんだろう……もし今のでカナちゃんが死んでたら――」
結の手がボクの腕にしがみつく。
涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。
ボクは必死で笑ってみせた。
「大丈夫だよ、ボク、結構丈夫だし……受け身とか、昔から得意だったから」
「でも……!」
「本当に平気だよ。ね、見て。全然痛くないし、ちょっと服が汚れただけだから」
ボクは手を広げて見せる。
結はそれでも、泣き止まない。
「……私、全部やるって言ったのに、カナちゃん傷つけることばっかり……」
「そんなことないよ。結がいなきゃ、ボク、もうとっくに何回も死んでたと思う。だから、これくらい全然気にしてない」
ボクが無理やりでも明るく言うと、結はぐしゃぐしゃの顔のまま、小さく頷いてくれた。
「ありがと……カナちゃん……」
「ね、今度はボクが結を守る番。だからもう、そんなに泣かないで」
そう言って、ボクは結の手をぎゅっと握った。




