復讐
暗く、冷たい石の部屋。
血と泥と、拷問の残滓が染みついた空気。
扉の外から、あの忌まわしい悪魔の足音が近づいてくる。
私はパス越しにカナちゃんを見つめていた。
あの悪魔――
この地獄を生み、カナちゃんの手足を奪い、心まで引き裂いた張本人。
カナちゃんはもう、以前のカナちゃんではない。
魔力の手足が、体から静かに溢れ、床に流れる血にまで新たな魔力の波紋が広がっていく。
(……くる。絶対に逃がさない――)
扉がきしみを上げて開く。
あの悪魔が入ってきた。
あの、冷たい目。
地獄の愉しみの続きとして、再び拷問の道具を手にしている。
「おや、おや……まだ意識が戻ったんですか? どうせまた――すぐに壊れるだけでしょうに」
カナちゃんは床に転がる体を、魔力の手で支え、ゆっくりと顔を上げた。
血まみれの髪の奥、瞳の奥に、青白い光が宿る。
「……もう、二度と、あんたには触らせない」
低い声。
喉が潰れ、血に濡れた声なのに――
その響きは凍りつくほど冷たかった。
悪魔はゆっくりと距離を詰めながら、カナちゃんの異形の姿を値踏みするように眺めた。
「ほう……なるほど。魔力の手足? 面白いですねえ。――だが、所詮は擬似再生。新しいおもちゃとして、どこまで保つか……」
カナちゃんは答えず、魔力の指をじわじわと開く。室内の瘴気が一瞬で震え、石壁に亀裂が走るほどの圧力が生まれる。
悪魔は気にも留めない。
「まだそんな元気があるなら、また研究の続きを……」
だが次の瞬間、カナちゃんの魔力の手足が一斉に伸びる。
空気を切り裂き、悪魔の腕を捉え、壁に叩きつける。
「……おや? ほう、面白い」
悪魔は愉快そうに笑うが、その目に走った一瞬の動揺を、私は見逃さなかった。
悪魔は咄嗟に瘴気の障壁を張る。だが、カナちゃんの魔力の腕はそれを容易く貫通し、悪魔の防御ごと腕を壁に叩きつけた。
悪魔が呻き声を上げ、即座にもう一方の手で瘴気の刃を生成し反撃する。
カナちゃんの魔力の手は空中で分岐し、刃を絡め取って逆に悪魔の指を捻じ切る。
その応酬のたび、床と壁が砕け、空気がびりびりと震えた。
「このっ――貴様ぁ!」
悪魔の声が、初めて怒りと恐怖を滲ませる。
カナちゃんの声は、静かに、氷のように冷たかった。
「……あんたの好きな拷問、全部返してあげる」
カナちゃんは、魔力の指を鋭利に、何本にも分かれさせる。
悪魔の足首、手首、喉――
一切の逃げ道を、完璧に封じる。
「もう、何もできないよ。今度は――私の番だ」
悪魔の顔に、初めて明確な恐怖が浮かぶ。
悪魔は笑おうとした。
「おやおや……復讐ごっこですか? でもね、あなたは私の……」
その言葉の途中、魔力の腕が悪魔の口を無理やり塞ぐ。
さらに魔力の指が顎をこじ開け、喉の奥にまで突き刺さる。
「んぐッ……」
そのまま首を壁に叩きつけ、舌を無理やり引きちぎる。
悪魔の顔が苦痛で歪み、血と瘴気が飛び散る。
「……しゃべらなくていい。あんたの声は、もう二度と聞きたくない」
カナちゃんは、かつて自分が受けた地獄を思い出しながら、一つずつ返礼を始めていく。
まずは、指。
悪魔の手を逆方向に折り、関節を砕き、一本一本、爪を剥がす。
「痛い? ボクは――何百回でも味わったよ」
その指先で、悪魔の骨を抜き取り、悪魔の手足もねじ切る。
絶叫できない悪魔の目が恐怖に見開かれる。
魔力の腕は、悪魔の腹を裂き、肋骨を一本ずつ丁寧に引き抜いていく。
「これで、少しは分かった? 痛みって、こういうものなんだよ」
悪魔はもはや呻くこともできない。
カナちゃんの魔力の手は、何本にも枝分かれし、全身の骨を抜き、関節を潰し、生きたまま体を崩壊させていく。
血飛沫と瘴気、絶望の叫びが部屋を満たす。
私は、パス越しにその一部始終を見ていた。
恐ろしかった。
だけど、心の底から――「もっとやれ」と、叫んでいる自分がいた。
悪魔の体は、もはや原形を留めない。
魔力の手足に引き裂かれ、骨も筋も――
かつて自分がカナちゃんに与えた拷問の全てを、何十倍にもして返されていた。
床に崩れ落ちる悪魔。
カナちゃんはその首を持ち上げ、顔を覗き込む。
「ねえ、最後に一つだけ――教えてよ」
魔力の手が、悪魔の脳天を貫く。
瘴気と血の中で、悪魔の瞳が白濁していく。
「……どんな気持ち? 自分が壊されていくのって、どんな気分?」
悪魔の答えはなかった。
その魂が、死よりも遅い速度で消えていく。
カナちゃんは静かに悪魔の頭を砕き、そのまま、地獄の主を完全に屠り去った。
パス越しに伝わるのは、救いにも似た、静かな開放感。
カナちゃんは、ただ静かに、床に座り込む。
私は、涙が止まらなかった。
「おかえり、カナちゃん……おかえり」
――拷問の地獄に終止符が打たれた瞬間だった。
森の奥。
赤く枯れた葉の上に、瘴気と冷たい風が渦巻く。
血と泥の跡は、もう薄れているのに、この場所だけは、あの日の地獄が染みついたままだった。
私は、カナちゃんの視界で、その場所を見つめていた。
魔力の手足はまだ青白く、体を包み込んでいる。
全てが終わって、ようやく帰ることを思い出した――
そんな静かな、だけど痛々しい足取りだった。
森の広場には、ただひとり、小さな影が座り込んでいた。
遥香。
髪はぼさぼさで、制服も泥と涙でぐちゃぐちゃ。
頬はこけ、目の下にクマができて、眠れていないことが、見なくてもわかった。
カナちゃんが近づいても、遥香は最初、全く気付かなかった。
ただ、何かをつぶやき続けている。
「ごめん、ごめん、ごめんなさい……全部私のせいだ……私が、私がいなかったら……私がちゃんとしてたら……なんであの時、ちゃんと……ごめんなさい、ごめんなさい……」
その声は、森の風に溶けて、何度も何度も繰り返される。
カナちゃんが、静かに声をかける。
「――遥香」
遥香はびくりと肩を震わせ、顔を上げる。
その瞳に、カナちゃんの異形の姿が映った瞬間、とめどない涙が溢れ出た。
「……カナちゃん……カナちゃん! ごめん、ごめん……!」
遥香は、足元によろめくように崩れ落ち、這いつくばりながらカナちゃんにしがみつく。
「私が……私が全部悪いの! ごめんなさい、ずっと……小さい頃からずっと、カナちゃんのこと、ずっと……ずっと好きだったのに、何もできなかった……バディになれなかったからって、酷いこと、いっぱい言って……自分だけが苦しんでるみたいな顔して……全部、私のせいだよ、こんなことになったの……!」
カナちゃんの魔力の手が、そっと遥香の背中を支える。
遥香は、涙と嗚咽でしゃくりあげながら、何度も何度も謝る。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! カナちゃんが攫われたのも、私がちゃんとしてなかったから……任務の時も、上の空で……私、役に立たなくて……何もできなくて……結にも、カナちゃんにも、ずっと酷いことして……本当に、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
カナちゃんは、魔力の手で遥香の肩を抱き、ただ静かに見下ろす。
私はパス越しに、その光景を見守りながら、どこまでも静かで、どこまでも優しい、そんなカナちゃんの赦しを感じていた。
遥香は、土と涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、しゃくりあげて何度も謝り続けていた。
その肩を、カナちゃんの魔力の手がそっと包み込む。
「……いいよ、遥香。許してあげる」
その声は驚くほど優しく、静かだった。
絶望の淵から帰ってきたはずなのに、どこか懐かしくて、昔と変わらないそんな響きだった。
遥香は顔をあげて、しがみつくようにカナちゃんを見上げる。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔で、それでも「許されたい」と祈るみたいな眼だった。
カナちゃんはほんの少しだけ微笑んだ。
「遥香は、ずっとボクのこと好きだったもんね。……知ってたよ、全部ね」
その一言に、遥香はさらに大粒の涙を零した。
「う、うそ……本当に……?」
「うん。本当。……遥香の目、いつもボクのこと見てたから。バディになれなくても、何にもならなくても、ずっと、ボクの1番でいたかったんでしょ? ……嬉しかったよ」
遥香は、子どもみたいに泣きながら、何度も「ありがとう」「ごめんね」と繰り返す。
私はパス越しに、その光景を見守っていた。
胸の奥が、少しだけじんわりと熱くなる。
それでも、どこかさみしさも滲んでいた。
――カナちゃんは、傷だらけで、異形の姿のまま、誰よりも優しく、誰よりも強く、遥香の全部を受け止めていた。
もう、過去のいじめも、嫉妬も、何もかもが、ここで静かに赦されていく気がした。
遥香との静かな和解のあと、カナちゃんはふと私のことを思い出したかのように空を見上げる。
「ごめんね遥香。結に会いに行くね」
優しく微笑んだ。
私はパス越しにその言葉を感じて、心臓が跳ねるほど嬉しかった。
ずっと、ずっと、ただ待っていた。
何もできず、ただ、信じて、祈り続けていた。
カナちゃんの魔力の手足が、森を切り裂くように地面を這い、私のいる後衛待機室まで、音もなく疾走していく。
――そして、その扉が開いた。
カナちゃんが、あの地獄から生きて帰ってきた。
私はもう、涙も声も止まらなかった。
「カナちゃん……! カナちゃん……!!」
私は駆け寄り、その異形の体を、ぎゅっと抱きしめた。
血と泥、瘴気の匂い、でも――
ぬくもりは、確かに、確かにそこにあった。
カナちゃんも、魔力の腕でそっと私の背中を包む。
「……ただいま、結」
私は何度も、何度も「おかえり」を繰り返した。
そのたびにカナちゃんの瞳が揺れて、でも、力強く微笑み返してくれた。
だが、その体は限界だった。
血の気の引いた顔、失われた手足の痛み、そして――異常なまでの魔力消耗。
私はようやく、冷静さを取り戻すと、すぐに非常ボタンを押し、医療班を呼びつけた。
「誰か! 救急搬送――! 今すぐ、カナちゃんを!」
すぐに医療スタッフが駆け込んできて、カナちゃんの異形の姿に目を見開きながらも、プロフェッショナルな動きでストレッチャーを用意し、点滴や魔力安定の装置を接続する。
「生きてるのが奇跡だ……! 急げ、心拍数低下してる――!」
「魔力回路も限界だ、すぐ手術室を――!」
私はカナちゃんのそばを離れず、手を握ったまま搬送に付き添った。
(絶対に、もう二度と離さない――)
涙で視界が滲みながら、私は祈るように、カナちゃんの命を見守り続けた。
「……カナちゃん」
私はベッドの脇に座ったまま、言葉を探す余裕なんてなかった。
名前を呼ぶだけで、涙が、どうしようもなく零れてしまう。
カナちゃんが、私を見て、笑った。
「結、泣きすぎ。ほら、また顔くしゃくしゃになってるよ」
その声が、この世で一番懐かしくて、優しくて、ずっと夢見ていた音だった。
私は唇を噛んで、こらえようとしたけど、すぐに崩れてしまう。
「だって……だって、もう……カナちゃんに、もう一度おかえりって言える日が来るなんて……思ってなかったから……」
カナちゃんは、残った左手で、ぎこちなく、でも精一杯の力で私の手を握ってくる。
「ただいま。ごめんね、心配かけて。でも――ね? こうしてちゃんと帰ってきたよ。結に会いたくて、どんなに痛くても、どんなに怖くても……ボク頑張ったよ」
私はうなずいて、声にならない声で「ありがとう」と何度もつぶやいた。
カナちゃんは少しおどけた顔で言う。
「ねえ、結。褒めてくれてもいいんだよ? ほら、さすが最強って」
そう無理やり笑ってみせる。
私の胸が痛んだ。
(こんなに、こんなに強がって、本当は、いっぱい怖かったのに――それでも、私のために、帰ってきてくれた)
「カナちゃん……ずるいよ……」
カナちゃんは、きょとんとして首を傾げる。
「え、なにが?」
「そんなふうに、全部、明るく笑って……私が泣いてるのに、カナちゃんが笑顔でいたら……私、本当にどうしたらいいかわかんないよ……」
カナちゃんは、少しだけ困った顔で、それでも、また優しく微笑んだ。
「結が泣いてくれて、ボクは嬉しいよ。ずっと、誰もボクのことなんかで泣いてくれなかったから」
私は、カナちゃんの手を両手で包み込んだ。
「私は、カナちゃんのためなら、何度でも泣くよ。何度でも、おかえりって言うから――絶対に、もうどこにも行かないで」
カナちゃんは、しばらく黙って、私を見つめていた。
そして――
「うん。もう絶対、どこにも行かない」
私は、嗚咽をこらえながら、何度も何度も「ありがとう」と繰り返した。
カナちゃんの手を両手で握りしめて、私は顔を近づけた。涙で視界がぼやけて、カナちゃんの笑顔が滲んでいる。
「もう、どこにも行かないで」
私の声は、震えて、かすれていた。
カナちゃんは一瞬だけ戸惑ったように私を見つめ――
次の瞬間、何も言わずに、私の頬にそっと手を添えてくれた。
2人の距離が、ゆっくりと、音もなく縮まる。
私の涙が、カナちゃんの頬にひとしずく落ちた。
カナちゃんは、その雫を拭うように、壊れかけの指先でそっと撫でてくれた。
そのまま、どちらからともなく――
唇が、ふれあった。
やさしくて、切なくて、幸せなキスだった。
涙の味も、カナちゃんの体温も、全部ぜんぶ、そこに詰まっていた。
離れるのが惜しくて、私は、カナちゃんの首に腕をまわした。カナちゃんもまた、残った手で私の背をぎゅっと抱きしめ返してくれる。
「……おかえり」
唇を離して、私はもう一度つぶやいた。
「ただいま」
カナちゃんの声が、私の耳に静かに響いた。
この瞬間――
やっと、2人だけの世界が帰ってきた気がした。




