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覚醒

 悪魔が部屋を出ていったあと、

 残されたのは、血と泥にまみれたカナちゃんの体と、パスの向こうでただ泣き崩れる私だけだった。


 静寂。

 誰の声も、息づかいも、もう響かない。

 けれどカナちゃんの胸は、かすかに上下している。

 普通なら、とっくに死んでいるはずの傷。

 人間の体じゃない。

 それでも――カナちゃんは、私とのパスが繋がっている限り、死ねなかった。


 私は何度も思う。

「いっそ、パスを切ってしまえば……」



 そうすれば、カナちゃんはもう苦しまなくて済む。

 死んだほうが、きっと――


 でも、できなかった。

 手が震えて、視線をそらせなくて、何度も「切ろう」と思うのに、パスは切れない。


 (だって、もし――もし、もう一度だけカナちゃんと会える可能性があるなら――)


 その希望だけを手放すのが怖かった。


 「ごめんね……ごめん、ごめん……」


 泣きながら呟くたび、

 自分がどれだけ醜いか思い知らされる。

 本当は、カナちゃんを楽にしてあげることが、一番のやさしさなのに。


 私は自分のことしか考えていない。

 まだ、カナちゃんと一緒にいたい。

 独り占めしたい。

 どれだけ壊れても、まだ私のカナちゃんでいてほしい。


 パスを切れば終わる地獄――

 それすら選べない自分に、心の底から絶望した。


 「カナちゃん……お願い、生きて……お願い……また、私のそばにいて……」


  沈黙の中、私はただカナちゃんの残骸のような身体を見つめ続けていた。

 血と泥と肉片。

 もう声も出せず、まるで人形のように横たわるだけのカナちゃん。

 生きているのが不思議――そんな言葉では追いつかないほどの、地獄の光景。


 私は、ずっと考えていた。

 (今なら……私がパスを切れば、この子はすぐに……)


 何度も、何度も、何度も心でつぶやく。

 パスを切れば、全部終わる。

 苦しみも、痛みも、もうこれ以上味あわせずに済む。

 きっとそれが救いだ。

 それがやさしさだ。


 ――でも、できない。


 手が震える。

「切る」と思うたび、涙が溢れて視界がぼやける。

 私は、パスの切断しようとするたび、すぐに別の恐怖に引き戻される。


 (カナちゃんともう二度と会えなくなったら……私の全部がなくなってしまう――)


 この絶望の中で、それだけは絶対に耐えられなかった。


 私は何度も何度も呪った。

 (私なんて、最悪だ。最低だ。カナちゃんを苦しめて、

 救ってあげる勇気もない。自分のためだけに――生かしてるだけ……)


 何度も、何度も。

 「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」

 涙が止まらない。

 自分がどれだけ醜く、哀れか、全部分かっているのに。


 ――なのに、私は、まだ切れなかった。


 パスを繋いだまま、ずっと、ぐちゃぐちゃに壊れたカナちゃんを、目を背けることもできずに、ただ見ていることしかできなかった。


 心の中は、何もかも濁って、どろどろに溶けていく。


 (誰よりもカナちゃんを愛してるはずなのに、本当は、私がいちばんカナちゃんを苦しめてる……私なんて、いなくなればいいのに……)


 「お願い、生きて……お願い、お願い……」

 ただ泣きながら、自分のためだけに、カナちゃんを縛りつけていた。



 パスの向こう――

 カナちゃんが失神したまま、どれくらい時間が経っただろう。

 私は涙も枯れ果て、ただ震える指先で繋がりだけを何度も確認していた。


 (ごめんね、ごめんね……)


 頭の奥で何百回も呟く。

 本当に死んでしまうかもしれない、

 でも、それでも私は――まだ、どうしてもカナちゃんと離れられなかった。


 そんなとき――

 ふいに、カナちゃんのまぶたが震え、

 かすかな吐息とともに目を開けた。


 パス越しに、弱々しくも微笑もうとするその顔が見えた。


「……あれ、結……いる?」


 私は一瞬、息を飲んだ。

 カナちゃんは、私にカナちゃんがどうやって伝わるのか何も知らない。

 言葉も声も、パス越しに聞こえていないはず。

 それでも、私がここにいること――見ていることだけは、なぜか分かってしまったようだ。


 「結……もしかして、これ……ずっと見てた?」


 (ああ、やっぱり……分かるんだ。全部、伝わっちゃうんだ……)


 「ごめんね、こんな姿……見せちゃって……。きっと、つらかったよね……。ボクのこと、責めないでね。ボク、大丈夫だよ。……ほんとに、全然大丈夫だから」


 私は声にならない声で、首を横に振った。

 だめだよ、そんなこと言わないで。

 本当は大丈夫なわけない。

 腕も、足も、もう無いのに。


 「耐えられなくて、パスを切っちゃうんじゃないかって、ちょっと心配だったけど……ちゃんと繋がっててくれて、ありがとう」


 その笑顔は、痛みに泣きそうなくらい歪んでいて、

 それでも無理やり明るさを作って、私のために微笑んでくれていた。


 (やめてよ、やめてよ、そんなふうに、私を気遣わないで――私なんて、何もできなかったのに……)


 「腕も足もなくなっちゃった。……どうしようかなあ。

 ――あはは、涙が出ちゃうくらい、すごく痛いや」


 カナちゃんは、笑いながら、でも、その目には大粒の涙がこぼれていた。

 私の中の何かが、音を立てて壊れていく。


 「ごめんね、結。ボク、本当はすごく弱いのに、強がっちゃって、ごめん」


 私は、ただただ首を振って、何も言えない、何もできない自分を、ますます憎まずにはいられなかった。


 (やめて、お願い。そんな優しいこと言わないで。私のせいで、こんなになってるのに……!)


 私は両手で口を覆い、声を殺して泣いた。

 カナちゃんの優しさが、何よりも重い罰として、私の心をズタズタにしていく。



 カナちゃんが目を開けてから、何分、何時間、どれほど経ったのか――もう分からない。

 時間の感覚なんてとうに消えて、パス越しにただ、カナちゃんの存在と痛みだけが絶え間なく流れ込んでくる。


 それなのに、カナちゃんは呼吸をするたび、ひどく浅く弱い声で、何かを語りかけてくる。


 (……結。いるよね、そこに……ごめんね、ずっと見ててくれて。ボク、全然ダメだ……強いふりして、何も守れなくて……それでも、君がいてくれるだけで、まだ……死ななくて済んでる)


 (ほんとうに、ありがとう。こんなボクのこと、ずっと繋いでくれて――ボクのほうこそ、君のこと、守ってあげたいのに)


 私は息が詰まった。

 パス越しに「会話」なんてできないはずなのに、カナちゃんの独白が、心の奥に直接流れ込んでくる。


 (……あのね、結……君が“切って”くれたら、ボク、もう楽になれるのかもしれないな……でも、君が繋いでてくれるなら、ボク、何度でも起き上がるから)


 (泣かないで。君が悲しむの、ボクはすごく嫌なんだ。ボクは大丈夫だから、――ね、君は自分を責めなくていいんだよ)


 涙が止まらなかった。

 私は、心の中で何度も「ごめん、ごめん、ごめん」と叫びながら、でも、どうしても、カナちゃんから離れられなかった。


 カナちゃんは、痛みで顔を歪めながらも、それでもどこか安らかな微笑みを浮かべていた。


 (ボクね、思い出すんだ。最初に君と手を繋いだときのこと。あの時、君が隣にいてくれるなら、どんなに痛くても、怖くても、全部耐えられるって思ったんだ)


 (結、君がボクを見ててくれるなら、どんな地獄でも――ボク、君のために、生きるよ)


 パス越しに言葉が滲み、まるで心臓に直接手を突っ込まれるような熱と苦しさが、どんどん私を満たしていく。


 私は自分の胸を掴み、体を丸め、それでも、切れない、ことが唯一の救いだった。


 カナちゃんの脳裏で、また記憶のかけらがちらつく。


 (結……ごめんね。君にこんな姿見せたくなかったんだ。本当は、君がつらいとき、君が泣いてるとき、ボクのほうから、ぎゅっと抱きしめてあげたかった)


 (腕も足もなくなっちゃったから、もう何もできないけど――気持ちだけは、君にずっと……)


 「カナちゃん……やめて、やめてよ……! そんなふうに……私のことなんか……!」


 私は声を殺して泣き続ける。

 どれだけ自分を罵っても、どれだけもう切ってあげてと頭で願っても、心はそれを拒み続ける。


 ――それでも。


 パスの共鳴率がどんどん上がっていくのが分かる。

 まるでカナちゃんの鼓動と自分の鼓動が、ひとつの命になって溶け合うみたいに、思考も感情も、痛みも、全部区別がなくなっていく。


 (君と一緒にいるためなら、どんなに苦しくても、ボク、何度でも立ち上がる。――だから、お願い、君もボクのことを嫌いにならないで)


 痛みも、涙も、ぜんぶ混ざって――

 カナちゃんも私も、壊れる寸前の心のまま、ただ、何も言わず。

 「ありがとう」「ごめんね」「だいじょうぶ」「だいすき」

 そんな想いだけを、何百回も、何千回も心で伝え合っていた。


 そしてそのたびに、共鳴率が、――今までで一番、強く、激しく、深くなっていくのを、私は確かに感じていた。



 心の奥底――共鳴率がこれ以上ないほど極限に達し、もはやどこまでがカナちゃんで、どこまでが私かすら曖昧になる。

 鼓動、熱、痛み、涙、愛しさ、すべてが、爆発するみたいに私の中にあふれ出していた。


 そのときだった。


 カナちゃんの体から、――見たことのないほど“膨大な魔力”が、まるで生命そのもののように溢れ出してきた。


 (なに――? この力――)


 パス越しに感じる魔力は、普段の何十倍も強く、光も、熱も、風も、すべてが空間を満たしていく。


 カナちゃん自身も、うっすらと涙を流しながら――

 けれど、どこか悟ったような微笑みを浮かべている。


 (カナちゃん……?)


 私は息を詰めた。

 血まみれで、傷だらけで、腕も足もないはずのカナちゃんの体が、ゆっくりと、しかし確かに、何かを形作っていく。


 ――カナちゃんの魔力が、肉体の切断面から青白く発光し、形のない“手”や“足”のようなものが、もやもやと伸びていく。


 最初は、ただの光の粒だった。

 それが次第に“腕”や“脚”の形を取り、

 やがて、まるで普通の四肢だったときのように、自然に――魔力の手足がそこに生えているのが分かった。


 (カナちゃん――!)


 その瞬間、私は胸が張り裂けるほどの衝撃を受けた。

 人間としての限界を超え、痛みも絶望も涙もすべて、生きたい繋がりたいという想いと才能が、魔力という奇跡に姿を変えていく。


 カナちゃんの指が、もう一度、見えない空気を握った。

 足が床を踏みしめるイメージが、波紋のように私の中にも広がる。


 (――すごいよ、カナちゃん……!)


 涙が止まらなかった。

 絶望の底から、こんな奇跡を生み出せるのは、この子しかいない――心の底から、そう思った。


 パスの中で、私とカナちゃんの心がまた強く、深く繋がった瞬間だった。

  カナちゃんの身体からあふれ出した魔力の手足――それは、ただ腕や脚の形を模したものではなかった。


 指先も、掌も、腕の長さも、関節の位置さえも、意思ひとつで自在に伸び縮みし、まるで生きている光そのものが、空間に新しい骨格と筋肉を作り出す。


 最初は、私もただ呆然と見つめるだけだった。


 (これ――こんなもの、人間の体じゃない……!)


 でも、その異様さの奥には、美しさと希望と、絶対の強さが確かにあった。


 カナちゃんは、自分の魔力の手をじっと見つめ、ゆっくりと指を開いた。

 光の指が、何度も開閉し、手首が、肘が、空間を滑るように伸びていく。


 普通の人間なら、骨や筋肉の限界で決してできない――そんな動きが、今のカナちゃんには当たり前になっていた。


 腕の長さを自由に伸ばし、指を何十本にも増やすことも、脚をしなやかにしならせて一気に跳躍することもできる。

 それどころか、魔力の手足は、意思一つで何本にも枝分かれし、鋭利な槍のように変形していく。



 私は、息を呑んだまま新しいカナちゃんを見ていた。


 もう、誰にも止められない。

 あの悪魔でさえ、この力を見たら、

 恐怖に震えるしかないだろう。


 カナちゃん自身も、その自由を自分のものとして受け入れていく。


 (これなら、絶対に――絶対に、あいつにも負けない……!)


 その想いが、パスを通じて私の中にもどんどん膨らんでいく。

 恐怖よりも、希望よりも強い絶対の確信――私は、カナちゃんがまた立ち上がる瞬間を、心から待ち望んでいた。

 

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