班変更
秋になった。
中庭の紅葉は本当にきれいで、葉が舞うたびに制服の袖口が少しだけ冷たくなる。
朝、食堂の窓から外を見下ろすと、濃いオレンジ色や黄色の葉が風に転がっていくのが見えて、思わずココアをもう一口飲みたくなる。
この静かな季節が、私は嫌いじゃない――
けれど、今日はどうしても胸が落ち着かなかった。
新しい班分けの紙が掲示される日。
廊下には朝から、どこかそわそわした空気が流れていた。
教室のドアを開けると、ざわめきとため息、緊張した声が入り混じっている。
担任の先生が「順番に見て、必要以上に騒がないこと」と言っているけど、みんなはすでに前のめりだ。
私はカナちゃんの名前と、自分の名前を真っ先に探した。
たくさんの名前が並ぶ中で、すぐに目に飛び込んできたのは――遥香。
カナちゃんのすぐ隣に、その文字があった。
瞬間、心臓がちくりと痛んだ。
私は知っている。
遥香が、前にカナちゃんをいじめていたこと。
私が転校してきたとき、それはもう「当たり前」の現実だった。
「最強」だと噂されるカナちゃんは、なぜかみんなに距離を置かれ、教室でも寮でも静かだった。
遥香は、毎日カナちゃんを睨みつけたり、からかったり、わざと無視して孤立させる。
たまに目が合うと、わざと大きな声で他の子と笑い合う。
誰もカナちゃんを助けなかった。
私は、この子を絶対にひとりにしない、と心に誓った。
カナちゃんとバディになったとき、手を握られたとき、本当は私のほうが――守られていたのかもしれない。
この子の隣で、私は何度も自分の弱さやずるさに直面した。
――なのに。
新しい班で、またカナちゃんと遥香が一緒になる。
私は掲示板の紙を何度も何度も見返してしまった。
遥香の名前を見つけるたび、過去の教室の光景が一気に胸の奥によみがえる。
カナちゃんが何も言わず耐えていたこと、私は、どこかで「もう全部終わったはず」と思っていたのに、また同じ場所に戻された気がした。
「これでまた、何か嫌なことが起きないだろうか」
そんな予感ばかりが、胸の奥でぐずぐずと渦巻いていた。
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昼休み、食堂で。
カナちゃんは、班分けの紙を見ても特に気にしていない様子だった。
「遥香。よろしく」
明るく声をかけ、昔のことなんて全部水に流したみたいに、自然な笑顔を見せる。
私は、その横顔があまりにも眩しすぎて、なんだか少しだけ腹が立った。
――全部許せてるの? 本当に?
心のどこかで、そう問いかけずにはいられなかった。
遥香は、その声に一瞬だけ顔を上げたが、すぐに目をそらしてしまう。
「……うん」
か細い返事と曇った表情。
明らかに何かを引きずっている。
私は、その横顔をじっと見つめてしまった。
「遥香、大丈夫? 体調悪い?」
カナちゃんが心配そうに声をかける。
「だ、大丈夫……ちょっと、緊張してるだけ」
遥香は慌てたように手を振る。
私の胸の奥で、何かがざわつく。
(この子、カナちゃんの前だと、こんなに弱々しくなるんだ……)
昔のことを思い出す。
遥香がクラスでリーダー格だった頃、カナちゃんを冷たく見下していた頃。
あの時の遥香は、もっと堂々としていて、自信に満ちていた。
それが今は、カナちゃんの優しさ一つでこんなにも動揺している。
私は、自分でも驚くほど冷静に観察していた。
(遥香は、カナちゃんに対して罪悪感を抱いている。でも、それだけじゃない……)
「結、どう思う? 新しい班、うまくやっていけるかな」
カナちゃんが私に振り向く。
「……うん、きっと大丈夫よ」
私は微笑んで答えるけれど、心の奥では別のことを考えていた。
(私は、カナちゃんが他の誰かと親しくなるのを見ていたくない。たとえそれが、昔の仲間であっても……)
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放課後、カナちゃんが「結、明日から新しい班だね」と声をかけてくる。
「うん」と返しながら、私は窓の外の色づいた木々を眺めた。
冷たい風が吹き抜けるたび、心の奥がほんの少しだけざわつく。
「遥香のこと、気にしてる?」
カナちゃんが、私の表情を読み取ったのか、そっと尋ねてくる。
私は一瞬、言葉に詰まった。
「……少しだけ」
「大丈夫だよ。昔のことは昔のこと。ボクはもう、全然気にしてないから」
カナちゃんが、いつものように優しく微笑む。
でも、私は違った。
気にしていた。すごく気にしていた。
「カナちゃんは優しいのね」
そう言いながら、私の中で何かが渦巻いている。
(カナちゃんの優しさを、遥香はどう受け取るのだろう。また、カナちゃんを傷つけるようなことは……絶対にさせない)
晩秋の日暮れは早く、校舎の影が伸びて、寮へ帰る道はどこか湿っぽい。
班が発表された日も、私はずっと同じことばかり考えていた。
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寮の部屋。
カナちゃんは制服を脱いで、ベッドの上に座っている。
明日の準備をしながら、私は何度も鏡の前で深呼吸をした。
「大丈夫。大丈夫」
――自分に言い聞かせないと、すぐに胸がぎゅっと締め付けられそうになる。
「結、本当に大丈夫? さっきから、なんだか元気ないよ」
カナちゃんが、心配そうに私を見つめる。
私は振り返って、カナちゃんの顔を見た。
いつものように優しくて、人を疑うことを知らない瞳。
「ねえ、カナちゃん」
「なに?」
「もし、遥香が……また昔みたいに、カナちゃんに冷たくしたら、どうする?」
カナちゃんは少し考えてから答えた。
「そうなったら、その時はその時だよ。でも、たぶん大丈夫。遥香だって、きっと変わったと思うから」
私は、その言葉に何も言えなくなった。
カナちゃんは、本当に人を信じることができるんだ。
だからこそ、私が守らなければいけない。
静かな呼吸、柔らかな髪、何気ない日常の一瞬が、このまま永遠に続けばいいのに、と思った。
夜になると、不安が濃くなる。
布団の中でカナちゃんの背中に腕を回し、ぴったりくっついていないと、どこかへ連れていかれそうな気がした。
――カナちゃんが無事でいてくれるなら、それだけでいい。
私は、この子を、誰にも渡すつもりはない。
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新しい班での最初の出撃。
朝、私は後衛待機室の個室で、パス越しにカナちゃんを見つめていた。
リンクを繋ぐ瞬間は、毎回少しだけ緊張する。
世界が一度薄暗くなって、頭の中に新しい「窓」が開く。
その場の空気や、風の音、班員たちの仕草まで、全部が自分の頭の奥で確かに流れていく。
今日は曇っていた。
班のメンバーはみんな淡々と装備を整えている。
剣の手入れ、ベルトの締め直し、靴紐の結び直し。
誰もが自分の役割をよく分かっている動きだった。
カナちゃんは以前よりも自然体で、班員たちにも明るく声をかけている。
班のリーダーが「朝霧、頼りにしてるぞ」と笑い、他の班員が「無理すんなよ」と肩を叩く。
遥香はその輪からやや離れた位置に立っていた。
返事も曖昧で、みんなと目を合わせようとしない。
不器用なくらい、身体の向きがいつもずれている。
カナちゃんが「大丈夫?」と声をかけても、遥香は顔を伏せて「……うん」と小さく答えるだけ。
表情の陰りは、リンク越しでもはっきりと分かった。
私は待機室で、その様子を見守っていた。
(遥香、やっぱり動揺してる……)
班のリーダーが「それじゃあ、出発するぞ」と声をかけると、全員が一斉に動き出す。
最初の現場は、住宅街の外れにある小さな公園だった。
瘴気の反応は弱く、下級悪魔が1体出現している。
「まずは様子見で行こう。朝霧、前に出てくれ」
リーダーの指示に、カナちゃんが頷く。
私は画面越しに、カナちゃんの背中を見つめていた。
いつものように頼もしくて、でもどこか心配になる。
カナちゃんが剣を構える。
悪魔がゆっくりと現れる。
班員たちが周囲を固める。
そして――戦闘開始。
カナちゃんの動きは、相変わらず美しかった。
一瞬で間合いを詰め、鮮やかに悪魔を斬る。
班員たちも、それぞれの役割を果たしている。
でも、遥香だけは違った。
攻撃のタイミングがズレ、班員のサポートにも乗り遅れる。
「遥香、右から来るよ!」
カナちゃんの声に、遥香は一瞬遅れて突きを放つが、狙いが外れて悪魔を取り逃がしそうになる。
班員がすかさずフォローして倒す。
「ごめん……」
遥香が小さく謝る声が、パス越しにも聞こえた。
「大丈夫、みんなでやれば平気だよ」
カナちゃんは、班員たちに微笑んでみせる。
遥香はそのまま顔を強張らせ、うつむく。
私は待機室で、パス越しにその一部始終を見守っていた。
右手で自分の指をぎゅっと握る。
胸の奥にじわじわと不安が広がる。
(遥香の動きが変……まるで、カナちゃんのことばかり気にしているみたい)
2体目、3体目と悪魔を倒していく中で、遥香の動揺は収まるどころか、ますます酷くなっていく。
カナちゃんが危険な場面に立つたび、遥香の動きが止まる。
まるで、見ていることしかできない自分を責めているかのように。
私は、その様子を見ていて、胸の奥で複雑な感情が渦巻くのを感じていた。
(遥香……まさか、カナちゃんのことを……)
「今日はこれで終了だ。お疲れ様」
リーダーが班員たちに声をかける。
カナちゃんが「みんな、お疲れ様でした」と笑顔で答える。
班員たちも、それぞれほっとした表情を見せる。
でも、遥香だけは最後まで顔を上げることができなかった。
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帰り道、班員たちは今日の成果について話し合っている。
「最初にしては、いい感じだったな」
「朝霧のおかげで、全員無傷だ」
「明日からも、このペースで行けそうだな」
カナちゃんは、遥香の隣を歩きながら、小さな声で話しかけていた。
「遥香、今日は緊張したんじゃない? 最初はみんなそうだよ」
遥香は、ちらっとカナちゃんを見上げてから、すぐに視線を逸らした。
「……うん。ごめん、足手まといになっちゃって」
「そんなことないよ。みんなで助け合えば、大丈夫だから」
カナちゃんの優しい声。
私は、パス越しにその会話を聞いていて、胸の奥がざわついた。
(カナちゃんは、本当に優しいのね……でも、その優しさが、時には……)
朝の光、班員の笑い声、剣の金属音、制服のすれる音。
そんな日常の積み重ねだけが、この不安を少しだけ紛らわせてくれる。
でも、私の心の奥では、ずっと同じことが響いていた。
(何も起こりませんように。このまま、平和に……)
私は、カナちゃんの周囲だけに集中して見守り続けていた。
遥香の表情、班員たちの会話、カナちゃんの笑顔。
すべてが、私にとっては大切な情報だった。
この子を守るために。
誰にも渡さないために。
私は、今日もまた、カナちゃんを見つめ続けていた。
でも、胸の奥に残る不安は、簡単には消えてくれなかった。
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夜、寮の部屋に戻って。
「結、お疲れ様」
カナちゃんが、いつものように優しく微笑んでくれる。
「お疲れ様。今日は、どうだった?」
私は、できるだけ自然に尋ねる。
「うん、まあまあかな。遥香がちょっと緊張してたみたいだけど、慣れれば大丈夫だと思う」
私は、その言葉に小さく頷いた。
でも、心の中では別のことを考えていた。
(遥香の緊張は、単純な緊張じゃない。もっと深いところから来てる……)
「カナちゃん」
「なに?」
「遥香のこと、どう思う?」
カナちゃんは少し考えてから답했다。
「昔のこと、すごく後悔してるんだと思う。だから、今度は仲良くやりたいって思ってるんじゃないかな」
「そうね……」
私は、曖昧に答える。
でも、私が感じているのは、それだけじゃなかった。
遥香がカナちゃんを見る目の中に、何か別の感情を感じ取っていた。
それが何なのか、まだはっきりとは分からない。
でも、確実に言えることがあった。
私は、カナちゃんを誰にも譲るつもりはない。
たとえ相手が昔の仲間であっても。
布団の中で、カナちゃんの背中に腕を回す。
温かい体温と、規則正しい呼吸。
この幸せを、誰にも奪わせはしない。
明日も、私はカナちゃんを見守り続ける。
そして、必要なら――守り抜く。
私は、その決意を胸に、深い眠りについた。
翌日の出撃。
私は待機室で、いつものようにパス越しにカナちゃんを見つめていた。
今日の現場は、市街地から少し離れた森の中。
瘴気の濃度がやや高く、中級悪魔の出現が予想されている。
班のメンバーは昨日よりも慣れた様子で、それぞれ装備を整えていた。
会話にも余裕が生まれ、冗談を言い合う声も聞こえる。
でも、遥香だけは相変わらず緊張した面持ちだった。
「今日も頼むぞ、朝霧」
班のリーダーがカナちゃんに声をかける。
「はい、任せてください」
カナちゃんが元気よく答える。
私は、その明るい声を聞いて、少しだけ安心した。
でも、胸の奥の不安は消えない。
森の中は、秋の落ち葉で足元がふかふかしていた。
木々の間を縫って歩く班員たち。
瘴気は確かに濃く、空気がよどんでいる。
「気をつけろ、この辺りから本格的な瘴気エリアだ」
リーダーが警告する。
カナちゃんが先頭に立ち、慎重に歩を進める。
他の班員たちも、それぞれ武器を構えて続く。
遥香は最後尾で、時々立ち止まっては周囲を見回していた。
まるで、何かに怯えているかのように。
「遥香、大丈夫か?」
班員の一人が声をかける。
「だ、大丈夫です……」
遥香の声は震えていた。
私は、パス越しにその様子をはっきりと見ていて、嫌な予感を覚えた。
遥香の顔色、震える手、カナちゃんを見つめる目――全部が手に取るように分かる。
昨日以上に、遥香の状態がおかしい。
(まさか……この子、カナちゃんに対して……)
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瘴気の濃い森の中、空気はねっとりと重たく、風が葉を擦る音もどこか湿っている。
班の全員が肩を寄せ合いながらも、それぞれが装備を再確認していた。
カナちゃんは前に立ち、慣れた手つきで剣の柄を握り直す。
私は、その姿を見守っているだけだ。
班のメンバーの顔、遥香の表情、そのどれもがパスを通じて頭の奥に流れ込む。
「行くよ、みんな」
カナちゃんの声が、思ったより落ち着いて響いた。
リーダー役の男子が「了解」と答え、班がひとつにまとまる。
最初に現れたのは下級悪魔だった。
鮮やかな色の瘴気をまとい、のろのろと這い寄ってくる。
カナちゃんは瞬時に間合いを詰め、鋭く剣を振るう。
「右から来るよ!」
班員の一人が叫び、カナちゃんが応じる。
敵の動き、班員の立ち位置、連携の速さ。
みんなが訓練通り、危なげなく敵を倒していく。
だが、遥香だけは動きがぎこちなかった。
攻撃のタイミングがズレ、班員のサポートにも乗り遅れる。
「遥香、左側!」
カナちゃんの声に、遥香は一瞬遅れて突きを放つが、狙いが外れて悪魔を取り逃がしそうになる。
班員がすかさずフォローして倒す。
「ごめん……」
遥香が小さく謝る声が森に沈む。
「大丈夫、みんなでやれば平気だよ」
カナちゃんは、班員たちに微笑んでみせる。
遥香はそのまま顔を強張らせ、うつむく。
私は待機室で、パス越しにその一部始終を見守っていた。
右手で自分の指をぎゅっと握る。
胸の奥にじわじわと不安が広がる。
鼓動が遅くなり、空気が冷たくなっていくのが分かった。
(このまま何事も起こらなければいい。今日は、何も変なことが起きませんように)
私は心で祈るように願いながら、カナちゃんを見ていた。
森の中を進む班の姿が、私の視点に映る。
左右の草むらには、さっき倒した悪魔の残骸が転がっている。
前を歩く班員たち。
遥香は最後尾で、顔色が悪く、会話にも入らない。
カナちゃんは道の先を慎重に確かめるように歩いている。
「焦らなくていいよ、みんなでやれば大丈夫だから」
そうカナちゃんが遥香に声をかける。
遥香は黙って、ほんのわずかうなずいた。
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それから30分ほどで、班は順調に3体の悪魔を討伐した。
みんなの動きも慣れてきて、会話にも余裕が生まれている。
「このペースなら、予定より早く終わりそうだな」
リーダーが満足げに言う。
「朝霧のおかげで、全員無傷だ」
他の班員も安堵の表情を見せる。
カナちゃんは照れくさそうに頭をかく。
「みんなのサポートがあるからですよ」
でも、遥香だけは最後まで緊張を解くことができなかった。
カナちゃんが戦うたびに、まるで自分が戦っているかのように身体を強張らせ、息を詰めている。
私は、テレビを見るように鮮明にその様子を把握していて、胸の奥で複雑な感情が渦巻くのを感じていた。
(遥香の様子が、昨日よりもおかしい。カナちゃんを見つめる目が、まるで……)
風が強くなり、木の葉がざわめく。
森の奥で、何かが踏み鳴らすような重い音が響いた。
カナちゃんが「……何か来る」と小さく言う。
その声に班員たちも動きを止める。
空気が一気に張り詰めるのが分かった。
映像の端で、木立の奥に影が差し込む。
ぼやけた輪郭、それでも一目で他の悪魔とは違うと分かる異物感。
私は無意識に息を呑む。
班の空気が、見えない何かに凍りついた。
「この瘴気……今までと全然違う」
班員の一人がつぶやく。
森の奥で枝がざわめき、落ち葉がひときわ大きく舞う。
カナちゃんの視点が前方に向きを変える。
そこに見たこともない悪魔が現れた。
人間と変わらない背格好なのに、まるで森全体を一瞬で支配したかのような圧。
誰かが「え……」と短く声を漏らす。
班のメンバーが、次々とその場に膝をつく。
誰も叫ばない。誰も逃げ出さない。
まるで一瞬で意識が遠のいたみたいに、ばたりばたりと地面に崩れ落ちていく。
カナちゃんが叫ぶ。
「みんな、どうしたの!? 起きて!」
けれど声は森に吸い込まれ、班員たちは誰ひとり動かない。
遥香だけが硬直し、顔を引きつらせて立ち尽くしていた。
その肩が小さく震えているのが、容易に見てとれる。
悪魔は無表情のまま、ゆっくり全員を見下ろした。
その目は、他のどんな魔物よりも冷たく、観察をしている。
敵を見ているというよりは、実験動物を見るような目だった。
(何、この悪魔――)
私は、心の中で繰り返すしかできなかった。
逃げられない、動けない、叫んでも何も届かない。
カナちゃんの肩越しから、森の奥へすべてが吸い込まれていく感覚だけが残る。
カナちゃんは剣を構え、皆んなを庇うように一歩だけ前に出る。
視界の中心に、小さな背中が映る。
悪魔は倒れた班員や遥香には一切目もくれず、まっすぐカナちゃんの方へと歩み寄っていく。
「やだ、やだやだやだ……」
遥香が小さくつぶやく。
その声もすぐに掻き消される。
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「もうそろそろ研究も終わりで、サンプルも必要ないんですがねぇ……」
悪魔が初めて口を開いた。
その声は静かで、どこか楽しげだった。
カナちゃんは床に這いつくばり、必死に顔を上げる。
目は充血し、唇にはまだ血が滲んでいる。
悪魔は無表情のままカナちゃんの前に立った。
カナちゃんが剣を振り上げるが、悪魔はまったく身じろぎせずに腕を伸ばし、カナちゃんの剣を掴む。
「ぐっ……!」
カナちゃんの呻き声。
カナちゃんの体が地面に叩きつけられる。
背中を強く打ち、息が詰まる。
土埃が舞い、世界が一瞬、茶色に霞む。
私は体ごとびくりと震え思わず目を瞑る。
けれど視点はカナちゃんに縛りつけられたまま、脳内にその光景を映し出される。
悪魔は何度も何度もカナちゃんを引きずり、地面に打ち付け、腕を掴んだまま、何の前触れもなく立たせる。
カナちゃんは苦しげに顔をしかめ、泥にまみれたまま、また剣を握ろうとする。
「一応、王が万全を期せと言うのでもう少し、サンプル採取でもしましょうか」
ぼそりと愚痴をこぼし、カナちゃんの手首を乱暴に捻る。
骨が鳴る音が、パス越しでもはっきり分かった。
私は息を詰めて、身體をこわばらせるしかできない。
カナちゃんが痛みに顔を歪めても、悪魔は興味なさげに肩を持ち上げ、また土の上に放り出す。
「この個体はずいぶんと丈夫ですねぇ。今まで研究したどの個体よりも。流石我が王。全てお見通しですか。まだ研究せよということですね。」
悪魔は今度はカナちゃんを踏みつけ、つま先で無造作に蹴り上げる。
カナちゃんが口から血を吐く。
私は1人叫ぶしかない。
「やめて……やめてよ……!」
「早速持ち帰って耐久テストをしなければ」
悪魔は、カナちゃんの体を肩に担ぎ上げ、そのまま森の奥へ歩き出す。
「いや! ……連れて行かないで。私のカナちゃんを連れて行かないで!」
揺れる木々、無感情な横顔、肩にぶら下がるカナちゃんの手足、地面に残る班員たちや遥香の姿を見送る。
血と泥にまみれた髪が肩で揺れるのを、私はただ見ていた。
どれだけ叫んでも、何もできない。
「いやだよ、カナちゃん。ちゃんと帰ってくるって言ってたのに……」
地獄の現場に、私は観察者として縛られ続けていた。
悪魔がカナちゃんを運び去るあいだ、ただ、ただ見ていることしかできなかった。
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森の奥で、悪魔がカナちゃんを担いで歩いていく。
私は、パス越しにその一部始終を見続けるしかなかった。
悪魔の肩に投げ出されたカナちゃんの体。
血と泥にまみれた髪が、歩くたびに揺れている。
「やめて……やめてよ……! カナちゃんを連れて行かないで……!」
私は待機室で一人、叫んでいた。
でも、私の声はカナちゃんには届かない。
パス越しに見ることしかできない。
揺れる木々、無感情な横顔、肩にぶら下がるカナちゃんの手足、地面に残る班員たちや遥香の姿を見送る。
血と泥にまみれた髪が肩で揺れるのを、私はただ見ていた。
どれだけ叫んでも、何もできない。
「いやだよ、カナちゃん。ちゃんと帰ってくるって言ってたのに……」
地獄の現場に、私は観察者として縛られ続けていた。
悪魔がカナちゃんを運び去るあいだ、ただ、ただ見ていることしかできなかった。
次はちょっとハードな話なので、お気をつけて......




