2度目の出撃
朝、目が覚めるとまだ右手の指がじんと痺れている。
肋骨も深く息を吸うと、奥の方でぴりっと痛む。
もう何日も経ったはずなのに、身体はなかなか言うことを聞いてくれなかった。
ベッドの上でじっと呼吸を整えていると、隣で結がこちらを覗き込んでくる。
「おはよう、カナちゃん。大丈夫?」
結の声は、いつもよりゆっくり優しくて、それだけで心が少し落ち着く気がした。
「うん……多分、今日は昨日よりマシ」
口に出してみても、右手の痛みはちゃんと現実のまま残っている。
手をグーに握ってみる。指が思うように動かない。
でも、完全に力が入らないわけじゃない。
力が、ほんの少しだけ戻ってきていた。
制服のボタンを左手で止めていると、結がさりげなく手伝ってくれる。
「ほら、無理しなくていいよ。今日は慎重にね」
結の指が、ボクの手をそっと包む。
食堂までの廊下は、数日前までのあの絶望と重苦しい空気が嘘のように静かだった。
ちらちらとボクを気にする生徒の視線を感じる。
みんな、まだ死の重さを抱えたまま、どこか遠くを見ている。
けれど、結だけは変わらずボクの隣で歩いてくれる。
出撃の朝――
結は玄関の前で「何かあったら絶対に無理しないで」と何度も念を押した。
「右手のこと、先生にも伝えてあるから……班の子にもちゃんと話して。カナちゃんが困ったら、みんなで助け合うから」
ボクは小さくうなずき、班の集合場所へ向かった。
今日は、瘴気の弱いエリアの巡回任務。
前回みたいな恐怖や緊張は不思議なほどなかった。
むしろ、今の自分にとってはこれがちょうどいい試練なのかもしれない。
班のリーダーが気を遣って声をかけてくれる。
「無理すんなよ、朝霧。右手、ほんとにやばかったら言ってくれ」
「ありがとう、平気。左手だけでも意外と何とかなるから」
最初の現場は、ただの廃ビルだった。瘴気の気配は薄く、下級の悪魔が1体、のそのそと姿を見せた。
(右手をかばう……左手だけでどう動く?)
みんなと目配せをしながら、ゆっくりと間合いを詰めていく。
戦闘というより、リハビリのつもりで慎重に動いた。
悪魔が向かってくる。
ボクは左手だけで剣を握り、真正面から一歩も引かずに立った。
手の感覚は不安定で、剣の重さが肩にずっしりとのしかかる。
それでも、「負けるはずがない」と心のどこかで思えた。
「いける!」
班員が声を上げる。
ボクは悪魔の動きだけに集中した。
タイミングを見計らい、左手で思い切り切りかかる――
刃は少しだけ浅く、腕の筋肉が引きつる。
でも、一発で仕留めきれなくても焦らない。
後ろから班の仲間がサポートに入ってくれる。
「朝霧、もうちょい!」
「任せて!」
悪魔の動きが鈍ったところで、ボクが踏み込んで左手一本で首をはねた。
悪魔の体が崩れ落ちる。
誰も死なない。
誰も怪我をしない。
みんな、ほっとしたように息をついた。
「朝霧、すげえな。右手、ほんと大丈夫か?」
「……まあ、ちょっと痛いけど、思ったよりなんとかなる」
自分でも信じられないほど、その一言が心の奥からすっと出てきた。
帰り道、結が駆け寄ってきた。
「おかえり、カナちゃん! 本当に大丈夫だった?」
「うん、結のおかげで大丈夫だった」
と笑う。
――本当に?
まだ右手も、肋骨も、痛みは消えない。
でも、結がいることで少しだけ「大丈夫」を信じられた。
その夜、結はお風呂も着替えもすべて手伝ってくれた。
何もかも自分でできるようにならなくてもいいんじゃないか、このままずっと結に甘えていられたらどんなに楽だろう――
そんなことを考えながら、ボクは深い眠りに落ちた。
任務は、驚くほど静かに、淡々と続いた。
ここ数日の出撃は、前回の地獄とは別世界のようだった。
現場の瘴気も薄く、出てくる悪魔も下級か貴族位でも男爵クラス。
不意打ちもなく、誰かが血を流すことも、叫ぶこともない。
班のメンバーは、最初の頃はボクの顔色や右手ばかり気にしていたけど、討伐を重ねるごとに「朝霧なら大丈夫」という空気ができてきた。
自分自身、まだ右手の指は曲がりづらいし、全力で剣を振れば肋骨がひりついた。
でも、班員のサポートや、何より「無理せず冷静に動く」癖が身についたおかげで、戦いに慎重さと粘り強さが生まれた気がした。
男爵クラスの悪魔と向かい合うときも、あの伯爵悪魔に比べれば、こんなのはなんとも無い。という感覚があった。
怖さが完全に消えたわけじゃないけど、手の震えや息苦しさは、だんだん遠くなっていった。
班の男子たちが口々に言う。
「朝霧の左手、マジでキレッキレだな!」
「すげーよ、怪我してるのに全然余裕じゃん!」
茶化しながら肩を叩いてくる。
「大丈夫、大丈夫。無理はしないから」
そう返すボクの声が、ほんの少しずつ元の自分に近づいている気がする。
討伐のあとは、班のみんなでささやかな戦果を喜び合い、「誰も死ななかった」ことを本気で噛みしめている。
帰還したあとの結は、ますます甘やかしに拍車がかかっていた。
「お疲れ様、カナちゃん。右手、無理しなかった? 服、脱ぐの手伝うね。ご飯もちゃんと食べてね、今夜はおかゆじゃなくて大丈夫そうだよね?」
そう言いながら、結は髪を梳かし、指先までクリームを塗ってくれたり、お風呂上がりにはストレッチまでしてくれる。
正直、全部自分でできるようになってきていたけど、「せっかくだから」と甘えさせてもらう時間が、最近は素直に心地よくなってきていた。
夜、結が枕元祈っている。
「明日も何事もありませんように」
小さく手を合わせてから、ボクの背中にくっついて眠ってくれる。
「今日もカナちゃんが生きて帰ってきてくれて嬉しい」
その囁きだけが、心の底まで沁みる。
眠りに落ちる直前、自分があの時の地獄から少しずつ遠ざかっていることに気づく。
(もう、みんな死ななくていい。今の自分なら、ちゃんと守れる。もし次に何かが起きても、もう負けない)
右手はまだ痺れている。
肋骨も完全には癒えていない。
それでも、生きている実感が、体と心に戻ってきていた。
何日かこんなふうに平和な出撃が続くと、自分でも驚くほど、心と身体が少しずつ軽くなっていった。
朝は痛みとともに目覚めても、起き上がる動作は前よりずっとスムーズだった。
肋骨がギシギシと主張するたびに、「まだ治りきってないんだな」と自分に言い聞かせる。
けれど、呼吸が浅くても「今日はどうやって動こう」と頭を切り替えられる自分がいる。
食堂に行くと、顔見知りの班員たちが自然に挨拶してくれる。
「おう、朝霧。今日もよろしくな」「無理すんなよ」
以前よりはるかに柔らかい声とまなざし。
ボクも自然に笑い返せるようになっていた。
班での実戦も、みんなで動けば怖いものはなかった。
この前は瘴気の濃いエリアで男爵クラスの悪魔が二体現れたけれど、仲間たちがうまく連携し、ボクは右手をかばいながら左手だけでフォローに回った。
決して派手な動きじゃない。
だけど、どんな強敵が出ても「次はどうする?」とみんなで相談しながら動ける。
それが心強かった。
(前みたいに一人で全部抱え込もうとしなくていい。仲間と連携すること、自分の弱さをちゃんと伝えること――
それが、今の自分を守る一番の力になる)
討伐が終わった帰り道、「朝霧、いい動きだったな」「さすがに経験値が違う」そんな言葉をもらいながら歩く時間に、前より少しだけ普通の学生になれた気がした。
学校に戻ると、以前よりも気楽にみんなと話せる。
陽菜や沙耶香、歩美とは、廊下ですれ違ってもまだ目線すら合わせてくれない。それはもうしょうがないことだと思う。心を寄せ合ったバディをボクのせいで失ってしまった。その事実は揺るぎないものだから。
彼女たちの瞳にまだ悲しみや喪失の影が色濃く残っていた。それでも、少しずつ日常に戻ろうとしているのが伝わってきた。
寮の部屋に戻れば、結が待っていてくれる。
「今日はどうだった?」
「みんなで動いたら余裕だったよ。右手も、ほとんど痛まなかった」
「本当? じゃあ、明日はちょっとだけごちそうにしよっか。カナちゃん、何が食べたい?」
結は毎日、ボクの好きなものをいくつも覚えていて、夕食をリクエストすると、「うん、任せて!」と本当にうれしそうにしてくれる。
何気ない会話のひとつひとつが、今のボクにはとても大切だった。
お風呂のあと、髪を乾かしてもらっていた。
「あの時は、もう一生こんな日常は戻らないと思った」
そうつぶやくと、結はボクの髪に指を絡める。
「絶対に、もう離れないから」
その言葉が、どれだけボクの心を守ってくれているか、今はもう、隠さずに伝えている。
夜、ベッドの上で結と並んで眠る。
「大丈夫、きっと明日もいい日になる」
そう思える自分が、ここにいる。
(だけど……)
ほんの少しだけ、またあの日が戻ってくるんじゃないかという不安も、心の隅に残っていた。
それでも――
今は、ただこの平穏に身を委ねていたかった。
穏やかな日々がさらに何日か続くと、「戦うこと」そのものに、また意味を見出せるようになってきた気がした。
出撃の朝。
起き抜けの体はやっぱり痛いし、右手は思うように握れない。
でも、制服の袖を通す動作ひとつにも「今日は自分のペースでできるはず」という確信が生まれてきていた。
鏡の前で髪を整えるのも、最近は結の手伝いを断らずに、むしろ「結の手があると気持ちが落ち着くな」と甘えてしまう。
任務では、みんながそれぞれ役割を理解し、声を掛け合い、危険な場面ではボクが率先してカバーに入り、誰かが躊躇えば「任せて」と声をかけて前に立つ。
この役割が今の自分には自然だった。
寮の部屋に戻ると、結がテーブルに新しい紅茶と焼き菓子を用意して待っていてくれた。
「今日も無事でよかった」
「うん、みんなのおかげ」
そんなやりとりの中で、ボクは自然と笑みがこぼれる。
「カナちゃん、最近顔が明るくなったね」と結が言う。
「……うん。きっと結が毎日、そばにいてくれるからだよ」
「それがボクの生きがいだから」
結の指先がそっとボクの髪を撫でる。
夕食も、入浴も、寝る前のちょっとしたお喋りも、一つひとつが心をほぐしていく。
夜になると、ふとした瞬間に胸の奥がざわつく。
――本当に、こんな日々が続くのかな。
でも、ベッドに入って結と手を繋ぐと、その不安はすっと消えていった。
「また明日も、無事で帰ってこようね」
「うん、絶対大丈夫」
そんな約束をして眠る。
その夜は、悪夢を見ることもなかった。
日々の中で「生きている」ことが、ようやくご褒美のように思えるようになった。
それから、数カ月が経っていた。
夏に大怪我を負い、右手も肋骨も痛みに苦しんでいたはずなのに、気づけばもう、何もかもが「昔の話」になっていた。
最初のうちは「本当に動くのか」と慎重に指を動かしていた右手も、今では強く握っても全く痛まない。
肋骨に残っていた違和感もすっかり消え、全身どこを動かしても引っかかりや鈍さはなくなった。
鏡の前でストレッチをしてみても、昔と同じ柔軟な体がそこにある。
ベッドの上で思い切り伸びをしたとき、「もう完全に元通りだ」と心の底から思えた。
出撃も、日常の延長線のように自然になった。
任務では男爵クラスの悪魔たちが現れても、班のメンバーと力を合わせてあっさり倒すことができる。
前みたいな孤立感も、誰かがいきなり死んでしまうような凍りつく恐怖も、もう日常の中にはなかった。
「カナちゃん、今日は楽勝だったね!」
結が嬉しそうに声をかけてくれる。
「うん、みんなとも息が合うし、今ならどんな悪魔が来ても負ける気がしない」
そう笑って答えられる自分がいた。
クラスの空気も柔らかくなっていた。
朝、教室に入ると
「朝霧、おはよう!」
声をかけてくる男子も女子も、前よりぐっと増えた。
昼休みには班の仲間とお弁当を囲んでいる。
「あの時は本当にやばかったよな」
「いや、朝霧の回復力は異常だろ」
笑いあうことも増えた。
みんなの中に「死」の記憶はまだ残っているけれど、それでも前を向いて「生きている」ことを素直に喜べる日々が戻ってきたのだと思う。
夜、ふたりでベッドに並び横になる。
「今日もお疲れ様」
「明日も一緒に頑張ろうね」
当たり前のように手を繋いで眠る。
この日常が、「特別な奇跡」だということは知っている。
だからこそ、何気ない会話や小さな笑顔のひとつひとつが、かけがえのない宝物だった。
(こんな日々が、ずっと続けばいい――)
心からそう思いながら、ボクは眠りに落ちた。




