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2/17

孤独

 春が来た。制服も新しく、教室の窓からは柔らかな光が射している。

 新しい学年、新しいクラス。周りには知らない顔が増えていた。

 けれど、ボクの中では何も変わっていない。

 クラスも 、席順も、どうでもいい。

 ――結局、ボクの居場所は変わらない。


 

 始業式の朝。クラス替えの名簿には、自分の名前のほか、たくさんの知らないバディの組み合わせが並んでいた。

「昨年度のペアは原則継続。希望があれば変更申請を」と先生が説明する。

 誰がどんなペアなのか、どんな能力なのか、ボクには関係がなかった。


 

 席に座ると、隣の子が小さな声で「よろしく」と挨拶してくれる。

 ボクも形だけ「よろしく」と返すけれど、その子の顔は数分後にはもう思い出せない。

 バディの名前も、特徴も、記憶の底をすり抜けていく。

 唯一、遥香だけはすぐわかる。前と同じ、少し強気な雰囲気。クラスのリーダー格。

 彼女が誰とバディなのか、どんな日々を送っているのか、もう興味もない。


 

 午前の課題。バディ単位で話し合って分担するグループワーク。

 先生が、悪いが朝霧は単独作業で、と自然に言う。

 他の生徒が一瞬だけボクの方を見るけど、それもすぐ目を逸らす。

 最初のうち、数人が「困ったら言ってね」と声をかけてくれた。

 ボクが「大丈夫、一人でできるから」と答えると、その後は誰も何も言わなくなった。


 

 昼休み。教室の真ん中では、何人かが輪になってお弁当を広げている。

 ボクは窓際で一人、おにぎりの包装をはがしている。

 誰がどんな話をしているのか、声だけがぼんやり耳に残る。

 何も考えられない。

 遥香の姿はどこにいても見つかる。遠くで誰かに何か指示をしているのが、やけに印象に残る。

 でもそれ以上は、どうでもいい。


 

 放課後も、掃除や片付けはバディごとの作業。

 「朝霧は単独で進めてくれ」とまた先生。

 みんなも特に気にしたふうもなく、それぞれペアで黙々と作業を進めていく。

 教室の端で机を拭いていると、ふと昔の自分を思い出す。

 みんなと一緒でなければ寂しいなんて、いつから感じなくなったのだろう。


 

 食堂の配膳台でトレイを受け取る。二人分のメニューを相談しているバディたちが何組も目に入る。

 ボクは一人分だけ黙って受け取って、窓際のいつもの席に向かう。

 遥香が何気なく言う一言。

 「彼方はいつも一人で偉いよね」

 その言葉も、もう刺さらない。


 

 寮の廊下も静かだ。新しい部屋割りになっても、ボクの個室は端のほうのまま。

 誰かの話し声や、笑い声が遠くから聞こえても、それはもう自分の世界とは関係のない音になっていた。


 

 模擬戦の準備。グラウンドで準備体操をしていると、クラスメイトの名前がまた呼ばれている。

 でも、その名前を覚えようともしない自分がいる。

 「集団戦」「連携訓練」「協調」――全部、自分には関係のない言葉だ。


 

 遥香は冷静な声で「彼方は一人で十分やれるから」と訓練の輪からボクを外す。

 先生も、クラスのみんなも、それを疑問に思う様子はない。

 輪の外で一人立っているボクを誰も見ない。

 痛みも、孤独も、いつの間にか体の一部になってしまった。


 

 夜、ベッドに横になって天井を見つめる。

 静かすぎて、何も考えられない。

 慣れたと何度も自分に言い聞かせる。

 そうしないと、本当に壊れてしまいそうだった。


 

 翌朝もまた、何も変わらない世界が始まる。

 同じ教室、同じ窓際の席。

 誰もが自分の役割だけを淡々とこなしていく。


 

 名前も、顔も、声も、何も覚えていない。

 孤独だけが確かな現実として、毎日の隙間を埋めていた。


 

 春の空気が、少しずつ教室の埃を押し流していく。

 それでも、ボクの世界はまるで止まったまま――

 そんな感覚だけが、消えることはなかった。



  夜の寮の廊下は、昼間とはまるで別の場所のようだった。蛍光灯の冷たい光も消え、足音さえ反響しない。

 ボクの個室のドアを閉めると、その向こうは現実から切り離された小さな箱庭になる。外から誰も入ってこない、ボクしか存在しない空間。


 

 昼間のボクは、完璧に慣れたふりを演じている。

 誰かと目が合っても、顔の筋肉は自然に笑う形をつくる。

 課題も掃除も食事も、全部一人で「大丈夫」と言い続けてきた。

 「さすが最強だよね」「彼方なら任せて安心」

 遥香のそんな声も、誰かの羨望や諦め混じりの視線も、もう心には届かないはずだった。


 

 本当は、すべてが嘘だ。

 慣れたなんて、全然。

 孤独に慣れたわけじゃない。痛みに強くなったわけじゃない。

 ただ、それしか選べなかったから、そう思い込まないと壊れそうだっただけ。


 

 自室の狭いベッド。

 カーテンを閉めると、壁の染みと、天井の小さな亀裂だけが見える。

 制服のまま布団に潜り込む。腕や膝がじくじく痛む。模擬戦の痣は薄紫色から赤黒く変色している。


 

 眠ろうとしても眠れない。

 何度寝返りを打っても、まぶたの裏に浮かぶのは今日の光景ばかり。

 みんなが集団でボクを倒して喜ぶ顔。

 遙香が「効率的」とか「合理的」と言ってボクを輪の外に押し出す声。

 食堂の窓際の席、どこにも届かない会話のざわめき。


 

 「……自分は慣れた、もう大丈夫」

 心の奥で何度も何度も繰り返しているうち、

 いつの間にか息が浅くなっていることに気づく。


 

 泣きたくなんてない。

 でも、手が勝手に枕を抱きしめていた。

 声は出さない。

 「誰か、助けて」

 本当に小さな、誰にも聞こえない声。


 

 けれど、その声さえ喉に詰まる。


 

 ――もし誰かに聞かれたら、もし誰かがこの部屋を覗いたら、絶対にそんな顔を見せられない。

 それはボクのプライド。最強でいたいという、ちっぽけな意地。


 

 昼間はどんなに苦しくても絶対に言えない。

 みんなの前では「できる」「大丈夫」としか言えない。

 遥香の前でだけは、何があっても決して弱さを見せないと決めている。


 

 だけど夜になると、それが限界になる。

 体の痛みも、胸の奥の空洞も、全部が誤魔化しきれなくなって、

 溢れ出す涙を自分の手で塞ぎながら、誰にも届かない「助けて」を何度も何度も呟く。


 

 壁越しのどこかから、誰かの小さな笑い声や物音が聞こえる。

 でも、ボクの声はどこにも届かない。

 この部屋の空気に吸い込まれて、消えていくだけ。


 

 不眠の夜が続く。

 眠れないまま、明け方になると窓の外がうっすら明るくなる。

 カーテンの隙間から差し込む光だけが、ボクがまだ「世界のどこか」にいると教えてくれる唯一の証拠だ。


 

 それでも朝はやってくる。

 目の腫れを制服の袖で隠して、洗面所で顔を洗う。

 鏡の前で、また慣れたふりで塗り直す。


 

 誰にも届かない「助けて」を、夜ごと心の底で繰り返しながら、

 昼間はまた、最強の自分を演じるしかない。


 

 孤独が慣れになり、慣れが嘘になり、嘘が心を蝕んでいく。


 

 「助けて」

 この一言だけが、世界で一番遠い言葉になっていた。



 学年が変わってから模擬戦の名簿に、朝霧彼方 vs 黒瀬悠馬、の名前を見るのは、もはや特別なことではなくなっていた。

 黒瀬――同じクラスだったか、その程度の認識しかない。

 毎週のようにこのカードが組まれるのは、教員が「学年トップ同士の鍛錬」と考えているからだろうが、ボク自身はただの決まった流れとして受け入れていた。


 

 体育館の床の冷たさ。

 体の節々にまだ治りきらない打撲の痛みが走る。

 でも、その痛みは、毎回ここで「自分がまだ生きている」と確かめるためのものでもあった。


 

 試合前、黒瀬が「お願いします」とだけ小さく頭を下げる。

 その声も表情も、正直なところ印象には残りづらい。

 何回目かの模擬戦。周囲のクラスメイトが遠巻きに見守るなか、ボクと黒瀬だけが床の中央に立つ。


 

 先生が「始め」と合図すると、悠馬は一切の迷いもなく前に出てくる。

 その突進は真っ直ぐで、力強い。

 初撃は大きく振りかぶった拳。

 ボクはそれを最短距離で躱し、カウンターで脇腹に蹴りを入れる。


 

 悠馬は息を吐き、すぐに間合いを取り直す。

 身体能力も、瞬発力も、確かにトップクラス。

 だけど、ボクにはまだ届かない。

 彼の視線の奥に、何か訴えるような光を一瞬感じる。

 だが、ボクはそれを受け取る余裕がなかった。


 

 両者とも汗が滲む。

 悠馬の後ろでは、彼の後衛の少女――紅葉、という名前だっただろうか――が静かに見守っている。

 彼女の顔も声も、ボクにはほとんど印象がない。ただ、悠馬に魔力を送り続けている、その一点だけが目に映る。


 

 何度目かの組み手の中、悠馬が思いきり踏み込んできた。

 脛同士がぶつかり合い、瞬間、電気が走るような痛み。

 その痛みさえも、ボクにとっては「自分の輪郭」を思い出させるものだった。


 

 左肩に鈍い衝撃。悠馬の拳がかすった。

 思わず体勢を崩すが、すぐに反撃に転じる。

 無意識に、負けられないという感情が溢れてくる。


 最後は悠馬が膝をつき、肩で息をして見上げてくる。

 その目に悔しさと、わずかな充実感が宿っているのが分かる。


「ありがとうございました」

 悠馬は立ち上がり、もう一度深く頭を下げて立ち去っていく。

 紅葉が無言で肩を支えるようにそばに立つ。

 そのふたりが去っていく姿を、ボクはどこか現実感のない距離感で見送る。


 

 試合が終われば、また誰も話しかけてこない。

 悠馬も紅葉も、教室ではボクの世界の外側の住人だ。

 誰が誰と仲がいいか、何を話しているか、ボクには関係がない。


 

 模擬戦の後、保健室で自分の膝を冷やしながら、

 「また勝った」と呟いてみる。

 その言葉が、ほんの少しだけ胸の奥に重さを残す。

 最強でいるという事実――

 それだけが、誰からも必要とされない自分をかろうじて支えるものだった。


 

 夕暮れの教室、誰もいない窓辺で自分の手を見つめる。

 試合でできた新しい傷、古い傷跡。

 それらが全て「自分はここにいる」と必死で証明しようとした結果のように思える。


 

 放課後の廊下。

 悠馬と紅葉が誰かと話して笑っている。

 その声が遠くで響いているのを感じるだけで、ボクはただ、静かに寮の個室へと足を運ぶ。


 

 夜、また眠れない。

 ベッドの上で「勝った」という事実だけを何度も反芻する。

 でも、それは救いでも誇りでもなく、ただ、自分が「まだ壊れていない」という証明のようなものだった。


 

 身体の痛みと、勝利の感触。

 両方が混ざり合いながら、いつかは全部消えてしまうんじゃないかという不安が、心の底にゆっくりと沈んでいく。


 

 翌朝、体育館に貼り出された名簿にまた「朝霧 vs 黒瀬」の文字がある。

 

 その繰り返しの中で、ボクの世界はゆっくりと、けれど確実に摩耗していく。

 傷だらけの誇りだけが、どうしようもなく残っていた。


 休日の朝は、平日よりも重たい。


 起きても起きなくても、誰からも声はかからない。

 目覚ましを止めて、しばらくベッドの中で天井を見上げていた。

 何も考えたくなくて、何も感じたくなくて、ただ白い天井の染みをぼんやりとなぞっている。


 

 寮の静けさが身に沁みる。

 バディたちの部屋からは、ときどき笑い声や相談ごとの囁きが遠く響いてくる。

 でも、それは壁の向こうの別世界。

 誰かが廊下を走る音も、ボクの部屋の前だけは通り過ぎていく。


 

 午前中の課題を片付けるため、渋々机に向かう。

 ノートの文字を追っていても、頭の中に何も残らない。

 鉛筆の芯を折るたびに、無意味な溜息がこぼれる。


 

 必要最低限のレポートとプリントを終わらせて、

 机の端にぐしゃぐしゃと積み上げる。

「やることがなくなった」と思った瞬間、

 

 胸の奥が急に冷たくなる。


 

 昼食の時間になっても、食欲はまるで湧いてこない。

 寮の自販機の前に立ち、何を買おうか迷うふりをして、

 結局プロテインバーを1本だけ選ぶ。

 包装を剥いて、何も味を感じないまま噛み砕く。

 「ちゃんと食べなきゃ」と自分に言い聞かせるのも、

 最近はもう面倒になっていた。


 

 食堂に行くこともない。

 食券を持つ手が、どこか遠い自分のものみたいだった。

 窓の外は晴れているのに、空の青さも、木漏れ日も、

 ボクの世界には入ってこなかった。


 

 午後はベッドに転がったまま、何度も寝返りを打つ。

 スマホを開いても、誰からも通知はこない。

 アプリのアイコンをぼんやり眺めて、すぐに電源を落とす。


 

 本当はどこかに出かけたい。

 誰かと話したい。

 そう思う瞬間もあるけれど「どうせ自分なんか」と心の中で呟いて、また仰向けになる。


 

 夕方になると、部屋の中の影が伸びる。

 どこにも行くあてはないまま、ただカーテンを少し開けて、遠くのグラウンドで遊ぶバディたちを眺める。

 その声も、姿も、全部が遠い世界の出来事の様に感じられる。


 

 夕食も食べる気がしなくて、またプロテインバーをもそもそと噛み砕く。

 冷たい水を飲んで、喉を通る感覚だけで「まだ生きている」と確認する。


 

 日記を書こうとしたけれど、何も書くことがなかった。

 「今日も何もなかった」

 そう文字にしてみて、あまりに空虚すぎてノートを閉じる。


 

 夜になっても眠くならない。

 天井の染みを見つめる。

 部屋の隅のホコリが、街灯の明かりでぼんやり浮かび上がる。


 

 誰かの声も、音楽も、

 どこにも、ボクの居場所、はなかった。


 

 夜が深くなればなるほど「自分は本当に透明なんじゃないか」と思えてくる。


 

 布団にくるまって、泣くほどのエネルギーもない。

 ただ目を閉じて、朝が来るのを待つしかなかった。


 

 そのまま、休日が静かに終わっていく。

 明日が来ても、きっとまた同じ一日が始まる。


 

 「こんな毎日を、あとどれだけ続ければいいんだろう」


 

 心の奥に沈んでいく自分の声も、もう誰にも届かないと分かっていた。



 

 次に目覚めたとき、世界はもう月曜日になっていた。

 同じ制服、同じ廊下、同じ寮の空気。

 他のバディたちは、連れ立って朝食や登校をしている。

 自分だけが、その流れの外側にいることを改めて実感する。


 

 教室に入ると、やっぱり誰もボクを見ない。

 窓際の席、ノートとペンだけを机の上に並べて、

 周囲のざわめきや会話は遠くの波音のようだった。

 「今日も何もない」

 そう心の中で呟く。


 

 朝礼前、いつも通りにぼんやりと黒板を眺めていた。

 どこかで誰かが笑っている。

 その声も、もうボクには何の意味も持たない。


 

 やがて時間になり、先生が教室に入ってきた。

 生徒たちのざわめきが少しだけ収まる。

 先生は、普段よりもわずかに張り詰めた声で話し始めた。


「みんな、席についてください」


 

 指示に従い、生徒たちは次々に自分の席に座る。

 けれど教室の空気には、いつもよりも微かな緊張があった。


 

 先生は出席簿を手にし、教室を一度ゆっくりと見渡した。

 その目に、いつもとは違う慎重さと、少しの覚悟が宿っていた。


 

「今日は、朝礼の前に特別な連絡があります」


 

 教室が静まる。

 その言葉を聞いた瞬間、周囲のざわめきがピタリと止まった。


 

「みんなも知っている通り、うちの学校はバディ制度の下で特殊な教育課程を組んでいます。だから、学年途中の転校や転入は、原則として認められていません。……でも、今日は例外です。非常に特殊な事情があり、今日から新しい生徒がみんなのクラスメイトになります」


 

 一瞬、教室の中の空気が固まる。

 それが「転校生」だと気づいた時、全員が無意識にざわめきを飲み込んだ。

 「転校生」――この学園でそれがどれだけ異常な事態か、誰もがわかっていた。


 

 ボクはといえば、その説明もどこか他人事のように聞いていた。

 “どうせ自分には関係ない”――

 そんな気持ちが胸の奥に薄く渦巻いている。


 

 先生は黒板の前に立ち、教室の入口のほうへ顔を向けた。


「じゃあ、入って――」


 

 その一言で、教室の空気がさらに一段階重くなる。


 

 ほんの一瞬、世界の時間が止まったような静寂が流れた。


 

 ガラリ、と、教室のドアが開く音が響いた。



 

 

 

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