孤独
春が来た。制服も新しく、教室の窓からは柔らかな光が射している。
新しい学年、新しいクラス。周りには知らない顔が増えていた。
けれど、ボクの中では何も変わっていない。
クラスも 、席順も、どうでもいい。
――結局、ボクの居場所は変わらない。
始業式の朝。クラス替えの名簿には、自分の名前のほか、たくさんの知らないバディの組み合わせが並んでいた。
「昨年度のペアは原則継続。希望があれば変更申請を」と先生が説明する。
誰がどんなペアなのか、どんな能力なのか、ボクには関係がなかった。
席に座ると、隣の子が小さな声で「よろしく」と挨拶してくれる。
ボクも形だけ「よろしく」と返すけれど、その子の顔は数分後にはもう思い出せない。
バディの名前も、特徴も、記憶の底をすり抜けていく。
唯一、遥香だけはすぐわかる。前と同じ、少し強気な雰囲気。クラスのリーダー格。
彼女が誰とバディなのか、どんな日々を送っているのか、もう興味もない。
午前の課題。バディ単位で話し合って分担するグループワーク。
先生が、悪いが朝霧は単独作業で、と自然に言う。
他の生徒が一瞬だけボクの方を見るけど、それもすぐ目を逸らす。
最初のうち、数人が「困ったら言ってね」と声をかけてくれた。
ボクが「大丈夫、一人でできるから」と答えると、その後は誰も何も言わなくなった。
昼休み。教室の真ん中では、何人かが輪になってお弁当を広げている。
ボクは窓際で一人、おにぎりの包装をはがしている。
誰がどんな話をしているのか、声だけがぼんやり耳に残る。
何も考えられない。
遥香の姿はどこにいても見つかる。遠くで誰かに何か指示をしているのが、やけに印象に残る。
でもそれ以上は、どうでもいい。
放課後も、掃除や片付けはバディごとの作業。
「朝霧は単独で進めてくれ」とまた先生。
みんなも特に気にしたふうもなく、それぞれペアで黙々と作業を進めていく。
教室の端で机を拭いていると、ふと昔の自分を思い出す。
みんなと一緒でなければ寂しいなんて、いつから感じなくなったのだろう。
食堂の配膳台でトレイを受け取る。二人分のメニューを相談しているバディたちが何組も目に入る。
ボクは一人分だけ黙って受け取って、窓際のいつもの席に向かう。
遥香が何気なく言う一言。
「彼方はいつも一人で偉いよね」
その言葉も、もう刺さらない。
寮の廊下も静かだ。新しい部屋割りになっても、ボクの個室は端のほうのまま。
誰かの話し声や、笑い声が遠くから聞こえても、それはもう自分の世界とは関係のない音になっていた。
模擬戦の準備。グラウンドで準備体操をしていると、クラスメイトの名前がまた呼ばれている。
でも、その名前を覚えようともしない自分がいる。
「集団戦」「連携訓練」「協調」――全部、自分には関係のない言葉だ。
遥香は冷静な声で「彼方は一人で十分やれるから」と訓練の輪からボクを外す。
先生も、クラスのみんなも、それを疑問に思う様子はない。
輪の外で一人立っているボクを誰も見ない。
痛みも、孤独も、いつの間にか体の一部になってしまった。
夜、ベッドに横になって天井を見つめる。
静かすぎて、何も考えられない。
慣れたと何度も自分に言い聞かせる。
そうしないと、本当に壊れてしまいそうだった。
翌朝もまた、何も変わらない世界が始まる。
同じ教室、同じ窓際の席。
誰もが自分の役割だけを淡々とこなしていく。
名前も、顔も、声も、何も覚えていない。
孤独だけが確かな現実として、毎日の隙間を埋めていた。
春の空気が、少しずつ教室の埃を押し流していく。
それでも、ボクの世界はまるで止まったまま――
そんな感覚だけが、消えることはなかった。
夜の寮の廊下は、昼間とはまるで別の場所のようだった。蛍光灯の冷たい光も消え、足音さえ反響しない。
ボクの個室のドアを閉めると、その向こうは現実から切り離された小さな箱庭になる。外から誰も入ってこない、ボクしか存在しない空間。
昼間のボクは、完璧に慣れたふりを演じている。
誰かと目が合っても、顔の筋肉は自然に笑う形をつくる。
課題も掃除も食事も、全部一人で「大丈夫」と言い続けてきた。
「さすが最強だよね」「彼方なら任せて安心」
遥香のそんな声も、誰かの羨望や諦め混じりの視線も、もう心には届かないはずだった。
本当は、すべてが嘘だ。
慣れたなんて、全然。
孤独に慣れたわけじゃない。痛みに強くなったわけじゃない。
ただ、それしか選べなかったから、そう思い込まないと壊れそうだっただけ。
自室の狭いベッド。
カーテンを閉めると、壁の染みと、天井の小さな亀裂だけが見える。
制服のまま布団に潜り込む。腕や膝がじくじく痛む。模擬戦の痣は薄紫色から赤黒く変色している。
眠ろうとしても眠れない。
何度寝返りを打っても、まぶたの裏に浮かぶのは今日の光景ばかり。
みんなが集団でボクを倒して喜ぶ顔。
遙香が「効率的」とか「合理的」と言ってボクを輪の外に押し出す声。
食堂の窓際の席、どこにも届かない会話のざわめき。
「……自分は慣れた、もう大丈夫」
心の奥で何度も何度も繰り返しているうち、
いつの間にか息が浅くなっていることに気づく。
泣きたくなんてない。
でも、手が勝手に枕を抱きしめていた。
声は出さない。
「誰か、助けて」
本当に小さな、誰にも聞こえない声。
けれど、その声さえ喉に詰まる。
――もし誰かに聞かれたら、もし誰かがこの部屋を覗いたら、絶対にそんな顔を見せられない。
それはボクのプライド。最強でいたいという、ちっぽけな意地。
昼間はどんなに苦しくても絶対に言えない。
みんなの前では「できる」「大丈夫」としか言えない。
遥香の前でだけは、何があっても決して弱さを見せないと決めている。
だけど夜になると、それが限界になる。
体の痛みも、胸の奥の空洞も、全部が誤魔化しきれなくなって、
溢れ出す涙を自分の手で塞ぎながら、誰にも届かない「助けて」を何度も何度も呟く。
壁越しのどこかから、誰かの小さな笑い声や物音が聞こえる。
でも、ボクの声はどこにも届かない。
この部屋の空気に吸い込まれて、消えていくだけ。
不眠の夜が続く。
眠れないまま、明け方になると窓の外がうっすら明るくなる。
カーテンの隙間から差し込む光だけが、ボクがまだ「世界のどこか」にいると教えてくれる唯一の証拠だ。
それでも朝はやってくる。
目の腫れを制服の袖で隠して、洗面所で顔を洗う。
鏡の前で、また慣れたふりで塗り直す。
誰にも届かない「助けて」を、夜ごと心の底で繰り返しながら、
昼間はまた、最強の自分を演じるしかない。
孤独が慣れになり、慣れが嘘になり、嘘が心を蝕んでいく。
「助けて」
この一言だけが、世界で一番遠い言葉になっていた。
学年が変わってから模擬戦の名簿に、朝霧彼方 vs 黒瀬悠馬、の名前を見るのは、もはや特別なことではなくなっていた。
黒瀬――同じクラスだったか、その程度の認識しかない。
毎週のようにこのカードが組まれるのは、教員が「学年トップ同士の鍛錬」と考えているからだろうが、ボク自身はただの決まった流れとして受け入れていた。
体育館の床の冷たさ。
体の節々にまだ治りきらない打撲の痛みが走る。
でも、その痛みは、毎回ここで「自分がまだ生きている」と確かめるためのものでもあった。
試合前、黒瀬が「お願いします」とだけ小さく頭を下げる。
その声も表情も、正直なところ印象には残りづらい。
何回目かの模擬戦。周囲のクラスメイトが遠巻きに見守るなか、ボクと黒瀬だけが床の中央に立つ。
先生が「始め」と合図すると、悠馬は一切の迷いもなく前に出てくる。
その突進は真っ直ぐで、力強い。
初撃は大きく振りかぶった拳。
ボクはそれを最短距離で躱し、カウンターで脇腹に蹴りを入れる。
悠馬は息を吐き、すぐに間合いを取り直す。
身体能力も、瞬発力も、確かにトップクラス。
だけど、ボクにはまだ届かない。
彼の視線の奥に、何か訴えるような光を一瞬感じる。
だが、ボクはそれを受け取る余裕がなかった。
両者とも汗が滲む。
悠馬の後ろでは、彼の後衛の少女――紅葉、という名前だっただろうか――が静かに見守っている。
彼女の顔も声も、ボクにはほとんど印象がない。ただ、悠馬に魔力を送り続けている、その一点だけが目に映る。
何度目かの組み手の中、悠馬が思いきり踏み込んできた。
脛同士がぶつかり合い、瞬間、電気が走るような痛み。
その痛みさえも、ボクにとっては「自分の輪郭」を思い出させるものだった。
左肩に鈍い衝撃。悠馬の拳がかすった。
思わず体勢を崩すが、すぐに反撃に転じる。
無意識に、負けられないという感情が溢れてくる。
最後は悠馬が膝をつき、肩で息をして見上げてくる。
その目に悔しさと、わずかな充実感が宿っているのが分かる。
「ありがとうございました」
悠馬は立ち上がり、もう一度深く頭を下げて立ち去っていく。
紅葉が無言で肩を支えるようにそばに立つ。
そのふたりが去っていく姿を、ボクはどこか現実感のない距離感で見送る。
試合が終われば、また誰も話しかけてこない。
悠馬も紅葉も、教室ではボクの世界の外側の住人だ。
誰が誰と仲がいいか、何を話しているか、ボクには関係がない。
模擬戦の後、保健室で自分の膝を冷やしながら、
「また勝った」と呟いてみる。
その言葉が、ほんの少しだけ胸の奥に重さを残す。
最強でいるという事実――
それだけが、誰からも必要とされない自分をかろうじて支えるものだった。
夕暮れの教室、誰もいない窓辺で自分の手を見つめる。
試合でできた新しい傷、古い傷跡。
それらが全て「自分はここにいる」と必死で証明しようとした結果のように思える。
放課後の廊下。
悠馬と紅葉が誰かと話して笑っている。
その声が遠くで響いているのを感じるだけで、ボクはただ、静かに寮の個室へと足を運ぶ。
夜、また眠れない。
ベッドの上で「勝った」という事実だけを何度も反芻する。
でも、それは救いでも誇りでもなく、ただ、自分が「まだ壊れていない」という証明のようなものだった。
身体の痛みと、勝利の感触。
両方が混ざり合いながら、いつかは全部消えてしまうんじゃないかという不安が、心の底にゆっくりと沈んでいく。
翌朝、体育館に貼り出された名簿にまた「朝霧 vs 黒瀬」の文字がある。
その繰り返しの中で、ボクの世界はゆっくりと、けれど確実に摩耗していく。
傷だらけの誇りだけが、どうしようもなく残っていた。
休日の朝は、平日よりも重たい。
起きても起きなくても、誰からも声はかからない。
目覚ましを止めて、しばらくベッドの中で天井を見上げていた。
何も考えたくなくて、何も感じたくなくて、ただ白い天井の染みをぼんやりとなぞっている。
寮の静けさが身に沁みる。
バディたちの部屋からは、ときどき笑い声や相談ごとの囁きが遠く響いてくる。
でも、それは壁の向こうの別世界。
誰かが廊下を走る音も、ボクの部屋の前だけは通り過ぎていく。
午前中の課題を片付けるため、渋々机に向かう。
ノートの文字を追っていても、頭の中に何も残らない。
鉛筆の芯を折るたびに、無意味な溜息がこぼれる。
必要最低限のレポートとプリントを終わらせて、
机の端にぐしゃぐしゃと積み上げる。
「やることがなくなった」と思った瞬間、
胸の奥が急に冷たくなる。
昼食の時間になっても、食欲はまるで湧いてこない。
寮の自販機の前に立ち、何を買おうか迷うふりをして、
結局プロテインバーを1本だけ選ぶ。
包装を剥いて、何も味を感じないまま噛み砕く。
「ちゃんと食べなきゃ」と自分に言い聞かせるのも、
最近はもう面倒になっていた。
食堂に行くこともない。
食券を持つ手が、どこか遠い自分のものみたいだった。
窓の外は晴れているのに、空の青さも、木漏れ日も、
ボクの世界には入ってこなかった。
午後はベッドに転がったまま、何度も寝返りを打つ。
スマホを開いても、誰からも通知はこない。
アプリのアイコンをぼんやり眺めて、すぐに電源を落とす。
本当はどこかに出かけたい。
誰かと話したい。
そう思う瞬間もあるけれど「どうせ自分なんか」と心の中で呟いて、また仰向けになる。
夕方になると、部屋の中の影が伸びる。
どこにも行くあてはないまま、ただカーテンを少し開けて、遠くのグラウンドで遊ぶバディたちを眺める。
その声も、姿も、全部が遠い世界の出来事の様に感じられる。
夕食も食べる気がしなくて、またプロテインバーをもそもそと噛み砕く。
冷たい水を飲んで、喉を通る感覚だけで「まだ生きている」と確認する。
日記を書こうとしたけれど、何も書くことがなかった。
「今日も何もなかった」
そう文字にしてみて、あまりに空虚すぎてノートを閉じる。
夜になっても眠くならない。
天井の染みを見つめる。
部屋の隅のホコリが、街灯の明かりでぼんやり浮かび上がる。
誰かの声も、音楽も、
どこにも、ボクの居場所、はなかった。
夜が深くなればなるほど「自分は本当に透明なんじゃないか」と思えてくる。
布団にくるまって、泣くほどのエネルギーもない。
ただ目を閉じて、朝が来るのを待つしかなかった。
そのまま、休日が静かに終わっていく。
明日が来ても、きっとまた同じ一日が始まる。
「こんな毎日を、あとどれだけ続ければいいんだろう」
心の奥に沈んでいく自分の声も、もう誰にも届かないと分かっていた。
次に目覚めたとき、世界はもう月曜日になっていた。
同じ制服、同じ廊下、同じ寮の空気。
他のバディたちは、連れ立って朝食や登校をしている。
自分だけが、その流れの外側にいることを改めて実感する。
教室に入ると、やっぱり誰もボクを見ない。
窓際の席、ノートとペンだけを机の上に並べて、
周囲のざわめきや会話は遠くの波音のようだった。
「今日も何もない」
そう心の中で呟く。
朝礼前、いつも通りにぼんやりと黒板を眺めていた。
どこかで誰かが笑っている。
その声も、もうボクには何の意味も持たない。
やがて時間になり、先生が教室に入ってきた。
生徒たちのざわめきが少しだけ収まる。
先生は、普段よりもわずかに張り詰めた声で話し始めた。
「みんな、席についてください」
指示に従い、生徒たちは次々に自分の席に座る。
けれど教室の空気には、いつもよりも微かな緊張があった。
先生は出席簿を手にし、教室を一度ゆっくりと見渡した。
その目に、いつもとは違う慎重さと、少しの覚悟が宿っていた。
「今日は、朝礼の前に特別な連絡があります」
教室が静まる。
その言葉を聞いた瞬間、周囲のざわめきがピタリと止まった。
「みんなも知っている通り、うちの学校はバディ制度の下で特殊な教育課程を組んでいます。だから、学年途中の転校や転入は、原則として認められていません。……でも、今日は例外です。非常に特殊な事情があり、今日から新しい生徒がみんなのクラスメイトになります」
一瞬、教室の中の空気が固まる。
それが「転校生」だと気づいた時、全員が無意識にざわめきを飲み込んだ。
「転校生」――この学園でそれがどれだけ異常な事態か、誰もがわかっていた。
ボクはといえば、その説明もどこか他人事のように聞いていた。
“どうせ自分には関係ない”――
そんな気持ちが胸の奥に薄く渦巻いている。
先生は黒板の前に立ち、教室の入口のほうへ顔を向けた。
「じゃあ、入って――」
その一言で、教室の空気がさらに一段階重くなる。
ほんの一瞬、世界の時間が止まったような静寂が流れた。
ガラリ、と、教室のドアが開く音が響いた。