逃避する日々
葬式の日の朝は、なぜか異様に静かだった。
目覚ましが鳴るより前に目が覚めて、
ベッドの上で毛布を抱えたまま、しばらくぼんやりと天井を眺めていた。
外からは誰の声もしない。寮の中には、たぶん、私の他に誰もいないんじゃないかと錯覚するくらいの沈黙。
今日がどんな日なのか、考えることすら怖かった。
昨日の夜、カナちゃんはまだ小さな子供みたいに私にしがみついて泣き疲れて、そのまま眠った。
今は隣のベッドで丸くなって、静かな寝息を立てている。
この寝顔がどれだけ貴重なものか、どれだけ奇跡かを、本当は、私だけが一番知っている。
私はそっとベッドを抜け出して、制服に着替えながら鏡を覗いた。
目の下には深いクマ。顔色も悪い。でも、このくらいの疲れや不安なんて、カナちゃんの苦しみに比べれば、取るに足らない。
カナちゃんを起こすのは、できるだけ遅くにしようと思った。
少しでも、平和な夢を見せてあげたい。
寮の廊下を歩くと、みんな無言で、すれ違うたびに視線を避ける。
同じクラスの後衛たちは、みんな泣きはらした目で、それぞれバディを失った痛みを、隠しようもなく引きずっている。
紅葉の部屋の前を通りかかった時、中から小さな嗚咽が聞こえた。
ドアに手をかけようとしたが、やめた。
今の私には、紅葉を慰める資格がない。
カナちゃんが生きているという事実が、どんな慰めの言葉よりも残酷だから。
「……結はいいよね、カナちゃんがいるから」
背後で、誰かがそう呟いた気がした。
本当は聞こえなかったのかもしれない。
でも、私はどうしようもなく、その言葉に心がざわつく。
廊下の向こうで、陽菜が壁にもたれて立っているのが見えた。
髪は乱れ、制服もしわだらけ。
まるで魂が抜けたような表情で、虚空を見つめている。
私は声をかけようとしたが、陽菜が私に気づくと、露骨に顔を逸らした。
その瞬間の憎悪にも似た表情が、胸に突き刺さる。
(みんな、私を恨んでる……)
当然だった。
私だけが、この地獄を免れた。
私だけが、まだバディと一緒にいられる。
そのことを、みんな知っている。
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会場に着くと、空気はさらに冷え切っていた。
教室よりもずっと広い講堂の端に、遺影がずらりと並び、黒い服を着た大人たちと、涙で顔を腫らした後衛の生徒たち。
悠馬の遺影が、一番左端に飾られていた。
あの人懐っこい笑顔が、今は永遠に失われてしまった。
その横には康介、拓海、翔太の遺影も並んでいる。
私は思わずカナちゃんの手をぎゅっと握る。
カナちゃんは、どこか遠い場所を見るような目で、何も言わない。
その横顔には、深い罪悪感と自責の念が刻まれていた。
祭壇の前で、陽菜が泣き崩れていた。
康介の遺影を抱きしめ、声を殺して嗚咽している。
「康介……ごめん……ごめんね……」
その言葉が、会場に響く。
沙耶香は手を合わせて頭を垂れ、歩美は口を押さえて小さく嗚咽している。
誰も私と目を合わせない。
この空間の中で、たったひとりだけ喪失を知らない異物として立っている気がした。
そして、紅葉――
紅葉は悠馬の遺影の前で、静かに涙を流していた。
声を上げて泣くのではなく、ただ静かに、透明な涙が頬を伝い落ちている。
私は紅葉に近づこうとしたが、彼女は私に気づくとかすかに首を振った。
「一人にして……お願い」
その小さな声が、私の心を切り裂く。
(紅葉……)
彼女の悠馬への想いを、一番よく知っていたのは私だった。
恋の相談をしてくれた夜のこと。
「悠馬って本当に鈍感だから」と笑いながら話していた彼女の表情。
それが、もう二度と見られないということの重さ。
胸がチリチリと痛む。
だけど、その奥に、もっと複雑な感情が渦巻いている。
(私だけが、カナちゃんを失わなかった――)
誰もこんなこと、口にしてはいけない。
自分がいかに恵まれているかなんて、本当は、死んでしまった誰かの前で絶対に思ってはいけない。
でも、それでも私は、この世界にひとりだけ取り残された幸福を噛みしめていた。
カナちゃんが、私の隣で生きている。
それだけで、他のすべてを失ってもいいと思ってしまう自分が、心の奥にどす黒く息を潜めている。
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式が始まると、校長の重々しい声が会場に響いた。
「今回の任務で、我々は貴重な生徒たちを失いました。彼らの勇敢な戦いを、決して忘れることはありません」
その言葉が、どこか他人事のように聞こえた。
大人たちにとって、私たちは戦力であり、統計の数字でしかない。
本当の悲しみを知っているのは、ここにいる後衛たちだけ。
一人ずつ、遺影の前で弔辞が読まれる。
悠馬について語る先生の声が響く中、紅葉がそっと立ち上がった。
彼女は祭壇に向かって歩き、悠馬の遺影の前に立つ。
「悠馬は……」
紅葉の声が震える。
「悠馬は、いつも仲間思いで、優しくて……鈍感で……」
最後の言葉で、紅葉の声が詰まった。
涙が止まらなくなり、彼女はその場に膝をついてしまう。
「私、伝えたいことがあったのに……伝えられなかった……」
その言葉が、会場の空気を一層重くした。
誰もが、紅葉の悠馬への想いを知っていた。
でも、もう永遠に、その想いが届くことはない。
私は立ち上がろうとしたが、カナちゃんが私の手を握って止めた。
「今は……そっとしておいてあげて」
カナちゃんの声も、震えていた。
紅葉は職員に支えられて席に戻ったが、その後はずっと顔を伏せたままだった。
葬式は、厳かな静けさの中で進んでいく。
名前を呼ばれるたび、誰かが嗚咽し、「どうして、あの子が……」という声が低く響く。
私は、どこにも居場所がない気がした。
隣で立っているカナちゃんの手だけが、唯一、私がこの世界に繋ぎとめられている証だった。
その温もりを失うことだけは、何があっても許せない。
たとえ、どれだけ他の子たちを傷つけてしまっても、私だけは、絶対にこの手を離さない――
そんな誓いのような独占欲が、静かに、でも確実に胸を満たしていくのを感じていた。
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式が終わり、人々が三々五々と会場を後にする中、私とカナちゃんは最後まで残っていた。
遺影の前で、静かに手を合わせる。
悠馬の写真が、相変わらず人懐っこく笑っている。
康介も、拓海も、翔太も、みんな生前の笑顔のままだった。
「みんな、ごめん……」
カナちゃんが小さく呟く。
「ボクが、もっと強かったら……」
私は、カナちゃんの肩に手を置いた。
「カナちゃんのせいじゃない」
でも、その言葉も、どこか空虚に響く。
会場を出ると、紅葉が一人で立っているのが見えた。
他の後衛たちは既に帰ってしまい、彼女だけが残されている。
私は紅葉に近づいた。
「紅葉……大丈夫?」
紅葉は私を見上げると、疲れ切った笑顔を浮かべた。
「結……カナちゃんを大切にしてね」
その言葉に、複雑な感情が込められているのを感じた。
祝福でもあり、諦めでもあり、そして少しの羨望でもある。
「紅葉……」
「私、しばらく実家に帰ることにした。学校には戻らない」
紅葉の声は静かだが、決意に満ちていた。
「悠馬のいない世界で、バディ制度を続ける意味がわからない」
その告白に、私は言葉を失った。
紅葉もまた、物語から退場していく。
友達が、一人また一人と、私の世界から消えていく。
「でも、結のことは恨んでないよ。カナちゃんが生きていて、良かった。本当に」
紅葉はそう言って、私の手を軽く握った。
「ただ、私には耐えられない。この世界にいるのが」
私は、紅葉を抱きしめたかった。
でも、それをする資格が自分にあるのかわからなかった。
私だけが幸福を保っている。
それが、どれほど残酷なことか。
「紅葉……また、いつか……」
「また、いつか」
紅葉は微笑んで、踵を返した。
その後ろ姿が、会場の出口に消えていく。
もう二度と、恋の相談をしてくれることはないだろう。
もう二度と、悠馬の話で盛り上がることもないだろう。
紅葉という友達も、私の人生から消えていった。
カナちゃんが、私の手を握り返す。
「結……大丈夫?」
私は首を振った。
大丈夫なわけがない。
でも、同時に、カナちゃんさえいれば他はどうでもいいという想いもあった。
「帰ろう、カナちゃん」
私たちは、静かな夕暮れの中を歩いて寮に戻った。
友達たちが次々と去っていく中で、私とカナちゃんだけが残された。
それは悲しいことのはずなのに、どこか安堵している自分がいることに、私は気づいていた。
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葬式から帰ったカナちゃんは、一言も話さずにベッドに潜り込んだ。
制服も脱がず、靴下も脱がず、シーツの上で小さく丸まって、ひたすら背中を向けている。
私はその背中に、どう声をかけたらいいのかわからなかった。
無理に何かを言うと、カナちゃんが壊れてしまいそうで、ただそっと、ベッドの端に腰を下ろした。
部屋の時計の針がやけに大きな音を立てて進んでいく。
窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと薄暗い青に変わっていく。
カナちゃんは微動だにしない。
「カナちゃん、着替えようか」
私はできるだけやさしく、ささやいた。
でも、返事はない。
ほんの少しだけ、毛布が震える。
それを見て、私はそっと隣に座り、カナちゃんの髪をやさしく撫でた。
「今日は何もしなくていいよ。全部、私がやるから」
そう言いながら、私は自分の胸の奥にひんやりした感情が湧いていくのを感じていた。
(カナちゃんだけがいればいい。他の子たちがどうなっても、私は、カナちゃんさえ生きていてくれたら――)
でも、そんなことは絶対に口には出せない。
ただ、黙ってカナちゃんの背中を撫でるだけ。
何も食べていないだろうカナちゃんのために、お粥を作ってスプーンで口もとに運ぶ。
ほんの少しだけ唇が開いて、子供みたいに受け取るカナちゃんの仕草が、なぜだか、たまらなく愛おしかった。
「ゆっくりでいいから、全部食べようね」
「……うん」
か細い声で、カナちゃんが返事をした。
私はそれだけで、胸の奥が熱くなった。
食べ終わったあと、着替えも全部手伝ってあげて、髪を梳かして、熱いタオルで顔を拭いて――全部、全部、私の手でやってあげる。
(こうしている時だけは、本当に世界にカナちゃんしかいないみたいに思える)
他の誰かの悲しみなんて、どうでもいい――
そんな自分に気づいて、ほんの少しだけ、罪悪感が胸を刺した。
でも、それすらも、カナちゃんの肌のぬくもりで、すぐにかき消えてしまう。
夜が深くなると、カナちゃんは私の腕の中で静かに眠った。
寝顔は穏やかで、昼間の苦悩が嘘のようだった。
私は、カナちゃんの髪を撫でながら思った。
このまま、二人だけの世界が続けばいい。
外の現実なんて、どうでもいい。
友達たちが去っていくのは悲しい。
でも、同時に、カナちゃんを独占できることへの密かな喜びもあった。
その矛盾した感情を抱えながら、私も静かに眠りについた。
明日からも、この静かな共依存の日々が続くことを願いながら。