反撃の代償
カナちゃんが左手で剣を拾い上げようとしたその時――
「……カナ、まだやれるか?」
か細い声がした。
地面に倒れていた悠馬が、全身の力を振り絞って立ち上がろうとしていた。
顔は血だらけで、右腕は不自然な角度に曲がっている。
それでも、瞳には諦めの色はなかった。
仲間を守ろうとする、強い意志の光があった。
私は待機室で、パス越しにその光景を見つめていた。
(悠馬……立ち上がったの……)
希望と不安が胸の中で渦巻く。
みんなが無事だった。
でも、この状況で何ができるというのか。
「悠馬……」
カナちゃんの声が震える。
仲間が生きていてくれた嬉しさと、これ以上危険にさらしたくない気持ちが複雑に絡み合っていた。
悠馬は歯を食いしばって完全に立ち上がると、左手に槍を握り直した。
右腕は使えないが、まだ戦える。
その気迫が、倒れている他の班員たちにも伝染していく。
「おい……まだ、死んでねぇぞ……」
「カナを……一人にするわけには……いかねぇだろ……」
「お姫様を……守らなきゃ……な……」
一人、また一人と、班員たちがよろよろと立ち上がっていく。
全身血だらけで、武器もまともに持てない状態。
それでも、最後まで戦おうとする意志だけは失われていない。
伯爵位悪魔は、その光景を興味深そうに見下ろしていた。
金色の瞳に、わずかな感心の色が浮かぶ。
「ほほう、まだ立ち上がるか。人間という種族の愚かさには、時として感銘を受けることがある」
悪魔の声は相変わらず飄々としているが、そこに僅かな敬意が混じっていた。
しかし、それは強者が弱者に示す、憐憫にも似た感情でしかない。
「だが、それが何になる?貴様らの力では、我の鎧に傷一つつけることはできまい」
悪魔の言葉は事実だった。
班員たちの攻撃は、すべて悪魔の装甲で弾かれてしまう。
圧倒的な格の差は、努力や根性では覆せない現実として立ちはだかっていた。
私は待機室で、両手を強く握りしめていた。
(みんな……無理しないで……でも、カナちゃんを一人にしたくない……)
複雑な感情が胸の中で渦巻く。
仲間たちの勇気に感動しながらも、これ以上の犠牲は見たくない。
でも、カナちゃんが一人で戦うのも耐えられない。
悠馬が血だらけの顔でカナちゃんを見つめる。
「カナ、あいつに致命傷与える方法、ないのか?」
その声には、最後の希望を託すような響きがあった。
カナちゃんは荒い呼吸を整えながら、左手で剣を握り直した。
右手はもう使えない。
脇腹の傷も深く、動くたびに激痛が走る。
それでも、仲間たちの期待に応えようとする気持ちは失われていない。
「魔力、めいっぱい込めれば……いけるかもしれない」
カナちゃんは私の魔力を大きく引き出そうとしている。
その感覚が、パス越しに私の心に響く。
私はできる限りの魔力を提供しようと、心の中で必死に祈った。
「でも、左手じゃ――うまく当てられる自信がない」
カナちゃんの心の動揺が、パス越しにびりびりと伝わる。
右手が使えない今、剣技の精度は大幅に落ちている。
魔力を込めても、肝心の一撃が当たらなければ意味がない。
それを聞いていた班員の一人が、ぼろぼろの体で声を上げた。
「それならいい案があるぜ。俺たちに任せろ!」
血まみれの顔に、それでも不敵な笑みを浮かべている。
死を覚悟した者だけが見せる、清々しい表情だった。
「お姫様のために手柄を用意してやるかぁ」
悠馬が、血まみれの顔で無理に笑う。
その笑顔が、痛々しくて、それでいて美しかった。
最期の瞬間まで、仲間との絆を大切にしようとする気持ち。
「なにやってんだよ、お前ら……!」
カナちゃんの声が震える。
仲間たちが何をしようとしているのか、薄々気づいてしまったから。
「いいからやれって!俺たち、もう助からねぇしさ」
「早くしてくれ、無駄死にしたくない」
「お姫様には、でっけえ手柄が似合うんだからな」
班員たちの声には、もう迷いがなかった。
自分たちの命を賭けてでも、カナちゃんに勝利のチャンスを与えようとしている。
その覚悟の重さが、空気を震わせていた。
私は待機室で、涙が止まらなかった。
(そんな……みんな、そんなことしちゃダメ……)
でも、彼らの決意は固い。
もう誰にも止められない。
悪魔は、その会話を聞いて小さく舌打ちした。
「つまらん。最期まで足掻くか」
だが、その声には先ほどまでの余裕が少し失われていた。
人間たちの結束力に、わずかながら警戒心を抱いているようだった。
班員たちは最後の力を振り絞って、悪魔の足元にまとわりつく。
剣をふるい、槍で突き、腕や脚にしがみつく。
一人一人の攻撃は弱くても、全員で連携すれば悪魔の動きを止められるかもしれない。
「何をする――」
悪魔が苛立ちを見せる。
小さな虫が群がってくるような鬱陶しさ。
一匹一匹は簡単に潰せるが、数が多すぎて完全に排除するのに手間取る。
悠馬も折れた腕を我慢して、必死で悪魔の膝を抱えて動きを止めた。
「今だ、カナ! 魔力、全部込めてぶっ放せ!!」
その叫びには、魂が込められていた。
仲間への信頼と、最後の願いが込められた、渾身の一声。
「……でも、そのままだと――みんなまで――」
カナちゃんの声が詰まる。
仲間たちを巻き込んでしまう。
自分の攻撃で、大切な仲間たちを傷つけてしまう。
その事実が、カナちゃんの心を締め付けていた。
「いいからやれ!このままじゃ全員死ぬだけだ!」
悠馬の声が響く。
「俺たちのことは気にするな!」
「お姫様らしく、派手にやってくれよ!」
「また今度、飯でもおごってくれよ……」
班員たちの声が、次々と響く。
誰もが死を覚悟している。
でも、その声には後悔はない。
仲間のために戦えることを、誇りに思っている。
傷だらけの仲間たちの顔。
誰もがもう助からないと悟っているのに、最期まで「お姫様」への冗談だけは忘れない。
その姿が、カナちゃんの心を激しく揺さぶった。
(やめてよ……やだ、ボクは、みんなを斬りたくなんかない――!)
カナちゃんの心の叫びが、パス越しに私の胸に突き刺さる。
私も同じ気持ちだった。
みんなを犠牲にしてまで勝利を得たくない。
でも、他に方法がない。
(カナちゃん……辛いよね……でも、やらなきゃ……)
その思いとは裏腹に、カナちゃんの体は動いていく。
左手で剣を構え、私の魔力を大きく引き出して集中する。
手は震え、心も壊れそうに揺れていた。
剣の刃が、これまでにないほど強く輝く。
青白い光が徐々に白く変わり、やがて眩いばかりの光となった。
空気が軋み、周囲の瘴気すらも押し流すほどの力。
「カナ、頼む、はやく……!」
悠馬の声が、だんだん弱くなっていく。
悪魔の力に押し切られそうになっている。
あと少しで、せっかくの拘束が解けてしまう。
みんなの叫びと、自分の涙と、苦しさと痛みと、世界の全てがぐちゃぐちゃに溶けていく。
カナちゃんの意識が朦朧とする中で、ただ一つだけ明確な想いがあった。
(ボクが、振り抜かなきゃ――結の元に帰れない!)
その想いが、パス越しに私の心に響く。
私は涙を流しながら、心の中で叫んだ。
(カナちゃん、帰ってきて……絶対に帰ってきて……)
叫びと涙を飲み込んで、カナちゃんは左手で剣を振り抜いた。
叫びにも近い息を吐きながら、カナちゃんは左手に私の魔力を全て注ぎ込んだ。
剣の刃が不自然に震え、空気が軋むほどの光がほとばしる。
周囲の空間が歪み、現実そのものが悲鳴を上げているようだった。
「みんな――ごめん、ごめん――!」
涙と嗚咽、すべてを詰め込んだまま、カナちゃんは仲間たちごしに悪魔めがけて、絶叫とともに剣を振り下ろす。
「はああああああああ!!」
刹那、空間が切り裂かれた。
剣から放たれた魔力の奔流が、まるで雷のように空気を切り裂く。
光の刃が悪魔の甲冑を砕き、悠馬たちの体を貫き――伯爵位悪魔の巨体をも貫通した。
時が止まったような静寂。
そして――
「ぐああああああ!!」
悪魔が初めて苦痛の声を上げた。
金色の瞳が驚愕に見開かれ、口から黒い血が溢れ出る。
胸部の装甲が大きく砕け、その奥の肉体が深々と裂けている。
致命傷だった。
悠馬も、仲間たちも、最期まで「やってみろ!」と叫んでいた。
「カナ、お姫様には……でっけえ手柄が似合うんだからな――!」
「……へへ、また今度、飯でもおごってくれよ……!」
「お姫様、最高だったぜ……」
血を吐きながらも、彼らの顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。
最期の瞬間まで、仲間への愛情を失わなかった。
すべての声が、剣撃とともに飲み込まれ、視界が白く弾け飛ぶ。
悪魔の巨体が、ゆっくりと膝をついた。
腹部から、まるで爆発のように黒い血と魔力の残滓が噴き出す。
「馬鹿な……この我が……新兵如きに……」
悪魔の声が、初めて動揺を含んでいた。
プライドが傷つけられた屈辱と、死への恐怖。
絶対的な存在だと信じていた自分が、敗北するなんて。
「だが……貴様らも……道連れだ……」
悪魔が最後の力を振り絞って、爆発的な瘴気を放出しようとする。
自分が死ぬなら、敵も道連れにしてやる、という悪意。
しかし――
その前に、悪魔の巨体が完全に崩れ落ちた。
致命傷が深すぎた。
最後の悪あがきをする余力すら残されていない。
「……見事だった……新兵よ……」
最期の言葉を呟いて、伯爵位悪魔は息絶えた。
その巨体は黒い霧となって消散し、重厚な鎧だけが地面に残された。
(倒した……?――でも、みんなが――)
その場に残ったのは、砕け散った悪魔の鎧、血まみれの仲間たち、そして呆然と立ち尽くすカナちゃんだけ。
カナちゃんは剣を落とし、その場に膝をついた。
左手も、もう動かない。
全身が傷だらけで、意識も朦朧としている。
でも、一番辛いのは体の痛みではなかった。
仲間たちを自分の手で斬ってしまった。
守るはずだった人たちを、自分が殺してしまった。
その事実が、心を引き裂いていた。
「悠馬……みんな……ごめん……」
カナちゃんの声は、嗚咽に変わった。
勝利の実感はない。
ただ、大切なものを失った喪失感だけがあった。
私は、待機室で両手で顔を覆いながら、何も声が出せなかった。
全身が震え、涙で息が詰まり、パス越しに伝わるカナちゃんの痛みと絶望が心にこびりついて離れなかった。
(こんなの、守ったことにならない……!)
(カナちゃん、一人にしてごめん……何もできなくて、ごめん……)
カナちゃんの手も、心も、この瞬間、血と涙でぐしゃぐしゃだった。
勝利したはずなのに、誰も喜べない。
生き残ったはずなのに、誰も笑えない。
これが、戦争の現実だった。
これが、バディたちが背負わなければならない十字架だった。
遠くから、救援隊の足音が聞こえてくる。
でも、もう遅い。
救うべき人たちは、もうこの世にいない。
カナちゃんは血だらけの手で顔を覆い、声にならない嗚咽を続けていた。
その姿を、私はただ見つめることしかできなかった。
(カナちゃん……帰ってきて……お願い、私のところに帰ってきて……)
パスの向こうで、カナちゃんがゆっくりと立ち上がる。
足元には、仲間たちの血が広がっている。
その上を歩いて、救援隊の元へ向かわなければならない。
一歩、一歩。
重い足取りで。
生き残った者の責任を背負って。
戦いは終わった。
でも、本当の苦痛は、これから始まるのだと思った。
物語の最後はちゃんとハッピーエンドなので、安心してくださいね!