高位悪魔
――ドンッ!!
その音は雷鳴よりも重く、公園の中央が一瞬でえぐれた。
地面に巨大な亀裂が蜘蛛の巣のように走り、砂埃と瓦礫が舞い上がる。
木々が根こそぎ倒れ、遊具が歪み、ベンチが粉々に砕け散った。
「何――」
悠馬が息を呑む間もなく、すぐ近くにいた12年生の先輩が、何かに踏み潰されて、そのまま地面にめり込んだ。
骨の砕ける音。
肉が潰れる音。
血しぶきが周囲に飛び散る。
誰もが言葉を失い、空気が凍りつく。
班員たちの顔から血の気が引き、武器を持つ手が震えている。
私は待機室で、パス越しに伝わってくる異常な事態に息を詰めた。
(今の……何? 何が起こったの……?)
画面の向こうで、カナちゃんの心拍数が急激に上昇していく。
煙と砂埃の中から、ゆっくりと巨大な影が立ち上がる。
それは、これまでの悪魔とはまるで桁が違う存在だった。
人間の三倍近い巨体。
漆黒の重厚な鎧は、まるで夜そのものを纏ったかのように深く暗い。
胸部には紅い宝石がはめ込まれ、脈打つように光っている。
肩からは深紅のマントがたなびき、その裾は地面を這うように長い。
頭部は兜に覆われているが、その隙間から覗く瞳は金色に燃えている。
角が二本、兜の両側から湾曲して伸び、先端は鋭く尖っている。
口元から覗く牙は象牙のように白く、長い。
そして、その巨体から発せられる瘴気は、今まで感じたことのないほど濃密で邪悪だった。
空気が重くなり、呼吸が困難になる。
魔力の流れが阻害され、体の動きが鈍くなる。
「……ふむ。何か踏み潰してしまったか?」
巨体が地面からゆっくり立ち上がると、足元に広がる血の跡を見下ろす。
その声は低く、威厳に満ちているが、どこか飄々とした響きがある。
まるで虫を踏み潰してしまったことを、軽く詫びるような調子。
「まったく、新芽の季節は賑やかでよい」
悪魔は鼻で笑うと、金色の瞳で班員たちを見回した。
その視線は、まるで品定めをするかのように冷たく、残酷だった。
その声、風格、異様な圧迫感。
まるで山が歩いてきたようなただ者じゃない存在感に、悠馬も他の男子たちも、動くことすらできずにいた。
私は待機室で、画面の端が揺れるのを見て、胸の奥を握りつぶされるような恐怖を覚えていた。
パス越しに伝わってくるカナちゃんの恐怖が、私の心にも染み込んでくる。
(怖い……こんな化け物、今まで見たことない……)
でも、私にできることは何もない。
ただ見守ることしかできない。
カナちゃんを守ってあげたいのに、手を伸ばすことすらできない。
この無力感が、胸を締め付ける。
悪魔は見下ろすように一同を一瞥し、飄々と語り始める。
その口調は丁寧だが、そこに込められた軽蔑と優越感が、聞く者の心を凍らせた。
「この時期に新兵を実戦に入れるのは、噂通り真であったか。ほほう、なるほど。人間という種族の愚かさには、いつも感心させられる」
悪魔はゆっくりと歩きながら、班員たちを観察している。
その歩みは優雅で、まるで庭園を散策するかのような余裕がある。
「若き芽を摘むのは忍びないが、生存競争とはそういうものだ。恨んでくれるな」
そう言いながら、悪魔の口元に薄い笑みが浮かぶ。
その笑みは優雅だが、底知れない残酷さを秘めていた。
「――新兵如きが、伯爵位である我直々に相手をしてやるのだ。それだけで誉れと思え」
伯爵位。
その言葉が響いた瞬間、班員たちの絶望が一気に深まった。
誰もが格が違うと本能で悟る。
これは、勝てる相手ではない。
でも、カナちゃんだけは違った。
(……落ち着け、ボクなら倒せる。相手がどんな奴だろうと、正面から一対一なら絶対に負けない)
カナちゃんの心は驚きに染まりながらも、自分ならやれるという確信があった。
今まで数々の強敵を倒してきた自信。
仲間たちとの連携で培った経験。
そして、何より結がいるという安心感。
でも、目の前で仲間が一瞬で死ぬ光景、周囲が凍りつき、誰も動けない現実。
その落差が、カナちゃんの心に重くのしかかっていた。
地面には、さっきまでそこにいた先輩の面影はもうなかった。
伯爵位の悪魔が降り立った瞬間、ただ赤黒いシミが残るだけ。
血の匂いがパス越しにも感じられた気がして、私は思わず息を詰めた。
私は待機室で、両手を強く握りしめていた。
(助けてあげたい……カナちゃんを、みんなを……でも、私には何もできない)
カナちゃんが魔力を引き出すのを待つことしかできない。
この歯がゆさが、胸の奥で渦巻いている。
「――っ」
悠馬が一歩前に出ようとしたそのときだった。
悪魔が気にも留めない様子で、右腕をゆっくりと横に向ける。
その動きは重く、ゆったりしていた。
まるで邪魔な塵を払うかのような、何気ない仕草。
しかし、次の瞬間――
悪魔の腕から、見えない衝撃波が放たれた。
空気が歪み、地面が削れ、悠馬を含む班の男子たちが、まるで人形のように弾き飛ばされた。
「がああああ!」
「うわああああ!」
班員たちの悲鳴が響く中、彼らの体は宙を舞い、次々と地面や壁に叩きつけられた。
武器は手から離れ、鈍い音を立てて地面に転がる。
(うそ……みんな……!)
私は待機室の個室で、立ち上がったままパス越しに叫びそうになった。
班の男子たちは、一撃で壁際まで吹き飛ばされ、武器ごと地面に叩きつけられた。
悠馬は何とか受け身を取ったが、腕から血を流し、顔を顰めている。
他の仲間は全員、呻き声すら出せずに倒れ伏している。
「……どうして、こんな」
私の視界は涙で滲みそうになる。
(みんな、立ち上がって……お願い、立ち上がって……)
でも、祈ることしかできない。
ただ見ていることしかできない自分が、憎くて仕方がない。
悪魔は倒れた班員たちを見下ろし、つまらなそうに首を振った。
「やれやれ、これでは話にならんな。もう少し楽しめるかと思ったのだが」
その時、一人だけ立ち上がる者がいた。
カナちゃんだった。
倒れ伏した仲間たちをかばうように前に立つその姿。
瞳は強張っているのに、どこか冷静さを失わない光が残っている。
剣を握る手は震えているが、それでも確実に柄を握っている。
(ボクが……やるしかない。ボクしか、残っていない。こんな奴に、絶対にみんなを殺させるわけにはいかない)
悪魔はまるで観察でもするようにカナちゃんを見下ろす。
金色の瞳が、興味深そうに細められた。
「ほう、まだ立てる者がいるか。面白い」
悪魔の声に、わずかな関心が混じる。
「仲間を守るために立ち向かうか。――実に愚直で、見事だ」
その声にはまったく焦りも怒りもない。
ただ、狩り場で珍しい虫を見つけたような、軽い興味と退屈が混在している。
カナちゃんは自分の呼吸を一つ、二つと整える。
パス越しに伝わる鼓動は速いのに、カナちゃんの思考はどこか透明で冷静だった。
(結、見ててくれ。……ボクは負けない。ボクはボクを信じるしかない)
私は待機室で、涙を必死にこらえていた。
(カナちゃん……一人で戦わせて、ごめん……)
カナちゃんが私の魔力を引き出そうとするのを感じる。
でも、それを調整することも、効果的に使わせることもできない。
ただ、カナちゃんの判断に委ねるしかない。
この無力感が、心を引き裂く。
カナちゃんの足元に、悠馬が必死に手を伸ばそうとする。
「カナ、……下がれ……あいつは……格が違う……」
血を流しながらも、悠馬は必死に警告しようとする。
「無理だよ、悠馬。ボクがやるしかないんだ」
カナちゃんの声は震えているが、決意に満ちていた。
私は待機室で両手を固く握りしめていた。
自分の無力さが歯がゆくてたまらない。
(守るって誓ったのに……何もできない……)
悪魔は、わずかに口の端を吊り上げると、挑発するように語りかけた。
「見せてみろ。新兵の意地とやらを」
その声には、明らかな嘲笑が込められている。
まるで子供の遊びに付き合ってやるような、上から目線の余裕。
班の仲間は全員倒れ伏し、現場には、カナちゃんと伯爵位の悪魔だけ。
血の匂い、絶望的な静寂、そしてカナちゃんの背中だけが唯一、まっすぐに立っていた。
(みんなが見てる。絶対に、ここで負けるわけにはいかない)
カナちゃんの視線が一瞬だけ、どこか遠くを見た。
それは、パスの向こうにいる私を意識した瞬間だった。
(結――お願い、ボクに力をちょうだい)
その想いが、パス越しに私の心に響く。
私は涙を拭いながら、心の中で叫んだ。
(カナちゃん、私の魔力、全部使って……絶対に負けないで……)
悪魔の巨体が重たい足音とともに迫る。
一歩、一歩。
その度に地面が軽く震え、瘴気がより濃くなっていく。
カナちゃんは一歩も退かず、私の魔力を大きく引き出して剣に込めた。
刃が青白い光に包まれ、瘴気を切り裂くような鋭い輝きを放つ。
「はあああああ!」
カナちゃんは気合いとともに、真っ向から刃を振るった。
魔力を込めた剣が、風を切って悪魔に向かう。
伯爵位の悪魔も面白そうに、右手でカナちゃんの剣を受け止めた。
素手で、だった。
ガキィン!
金属と金属がぶつかり合うような轟音が響く。
しかし、悪魔の手は傷一つついていない。
まるで鋼鉄でできているかのような硬さ。
(速い、でも――負けない!)
武器と武器がぶつかり合う轟音が、パス越しに私の鼓膜を震わせる。
悪魔の一撃は重いが、カナちゃんはギリギリで受け流し、体重を乗せて剣を押し込む。
しかし、悪魔は微動だにしない。
「ほほう、なかなかの威力だ。だが――」
悪魔が軽く手首を返すと、カナちゃんの剣が弾かれた。
その反動で、カナちゃんの体勢が大きく崩れる。
「甘いな」
悪魔の左手が、カナちゃんの脇腹に向かって伸びる。
掌打の要領で、容赦なく打ち込まれた一撃。
「がっ――」
カナちゃんの体が宙に浮き、数メートル後ろに飛ばされる。
地面に転がりながらも、なんとか剣だけは手放さなかった。
私は待機室で、パス越しに伝わる衝撃に息を呑んだ。
(カナちゃん! 大丈夫? 立って、お願い……)
カナちゃんは荒い息をつきながら、よろめきながらも立ち上がる。
脇腹を押さえ、血が口元から流れている。
それでも、瞳の光は失われていない。
「ボクは、絶対にここで負けない!お前みたいなやつに、仲間を殺させない!」
その叫びには、魂が込められていた。
悪魔は感心したように頷く。
「良い目をしている。だが、現実を知るがよい」
今度は悪魔の方から攻撃を仕掛けてきた。
巨体からは想像できないほどの俊敏さで、カナちゃんとの距離を一気に詰める。
右手の拳が、カナちゃんの顔面に向かって振り下ろされる。
カナちゃんは剣で受け止めようとするが――
ガギン!
剣が大きく撓み、カナちゃんの腕に激痛が走る。
力の差が圧倒的すぎる。
「ぐう……」
カナちゃんは歯を食いしばって耐えるが、足が少しずつ後ろに押されていく。
このままでは、完全に押し切られてしまう。
しかし、カナちゃんは諦めなかった。
剣を横に流し、悪魔の攻撃をいなしながら、反撃の機会を窺う。
私の魔力を引き出し、足に込める。
一気に横に跳び、悪魔の側面に回り込んだ。
「そこだ!」
剣を振り上げ、悪魔の鎧の隙間を狙う。
刃先が鎧に触れ――
ガキン!
しかし、やはり歯が立たない。
鎧が異常に硬く、魔力を込めた剣でも傷一つつけられない。
悪魔が振り返ると同時に、バックハンドでカナちゃんを薙ぎ払う。
「うわあああ!」
再びカナちゃんの体が宙を舞い、今度は木に激突して地面に落ちた。
私は待機室で、両手で口を覆っていた。
涙が止まらない。
(カナちゃん……もうやめて……逃げて……)
でも、カナちゃんは立ち上がる。
血だらけになりながらも、まだ戦う意志を失っていない。
ふたりの戦いは、血を撒き散らす激しい応酬になった。
悪魔の腕が唸るたび、カナちゃんは紙一重で身を捻り、反撃を叩き込む。
しかし、ダメージを与えられるのは悪魔の方だけ。
カナちゃんの体は次第に傷だらけになっていく。
私は待機室で、パス越しに伝わるカナちゃんの痛みに耐えかねていた。
(私が代わってあげたい……なんで、なんで私じゃダメなの……)
けれど――
地面に倒れている悠馬たちの方へ、悪魔がゆっくりと歩み寄った。
「さて。まだ生きている者がいるな。――片付けてしまおうか」
その声に、カナちゃんの顔が青ざめる。
「やめろ!!」
カナちゃんは悪魔の前に飛び出し、倒れた仲間をかばう。
両腕を広げ、必死に盾になろうとする姿。
――その瞬間、悪魔の視線がきらりと冷たく光った。
「愚かだな」
巨体が一気に右足を振り上げる。
カナちゃんが仲間の前に庇うように立った、その隙を突いて――悪魔の膝がカナちゃんの脇腹をえぐり上げた。
「がっ――あああッ!!」
喉を突き破るような絶叫が、私の全身を貫いた。
痛みと衝撃に、カナちゃんの身体が宙を舞い、地面に転がる。
私は待機室で、椅子から立ち上がったまま、パス越しに響く叫び声に震えていた。
(カナちゃん! カナちゃん!)
涙が止まらない。
何もできない自分への怒りと、カナちゃんへの心配で、胸が張り裂けそうになる。
(痛い、痛い、息が……できない……!)
カナちゃんの意識がパス越しに流れ込んでくる。
肋骨が折れ、内臓が損傷している感覚。
呼吸するたびに激痛が走る。
悪魔が悠馬たちに再び手を伸ばそうとしたのを見て、カナちゃんは転がりながら必死に腕を伸ばし、地面を這って剣に手を伸ばす。
「やめろ……!まだ……ボクがいる!」
その声は血を吐きながらの、か細い叫びだった。
それでも、仲間を守ろうとする意志だけは失われていない。
だが、その手が剣の柄に触れた瞬間――
伯爵位悪魔が巨体でカナちゃんに歩み寄り、重たい足でカナちゃんの右手を無造作に踏み潰した。
「ぎィ――ッ!!」
空気を引き裂くような絶叫。
「ああああああッ!!」
耳を突き破る絶叫がパス越しに脳を揺らす。
骨の砕ける音、肉の潰れる音、すべてが私の心に突き刺さる。
私は――何もできなかった。
後衛待機室の個室、静かな空間で、私はただ、カナちゃんの叫び声だけを浴び続けていた。
(どうして……なんで……助けてあげられないの?)
カナちゃんの右手は血にまみれ、指が不自然な方向に折れ曲がっている。
呼吸も荒く、喉を振り絞るような嗚咽が何度も響く。
そのたびに私の胸の奥が、鋭い痛みで締め付けられる。
私はただ、手を握りしめ、泣くしかなかった。
(私が代わってあげたい……私が痛い思いをすればいいのに……)
痛みなんて、本当は全然伝わってこない。
でも、カナちゃんが苦しむたびに、私の中身がどんどん削れていく。
心が、魂が、少しずつ砕かれていく。
「カナちゃん……ごめん、ごめん……!」
声に出しても、誰にも届かない。
私の役目は、ただリンクを切らずに見ているだけ。
安否を確認するだけ。
その現実が、地獄のように重い。
(絶対守るって誓ったのに、何もできないなんて……)
剣を左手で拾おうとするカナちゃん。
右手はもう使えない。
それでも必死に立ち上がろうとする姿。
その強さが、余計に胸を裂いた。
――私が代わってあげたい。
そこにいられるなら、何でもするから。
どうして私じゃなくて、どうしてカナちゃんばかりがこんな目に遭うの。
涙が止まらなかった。
耳を塞いでも叫び声は止まず、パスだけが途切れなく、絶望だけが積み重なっていく。
カナちゃんの意識が朦朧としている。
右手の指は、もう握ることすらできない。
だけど、左手はまだ動く。
脇腹の痛みは呼吸するたびに電気が走るけど、意識はひどく澄んでいた。
(右手はもう使えない。でも、まだ戦える。このくらい――このくらいじゃ、折れない)
その想いが、パス越しに私の心に響く。
私は待機室で、涙を流しながら心の中で叫んだ。
(カナちゃん、もう十分だよ……もう、逃げて……)
でも、カナちゃんは立ち上がろうとする。
左手で剣を握り、悪魔と向き合おうとする。
その時だった――