初めての実戦
実戦が目前に迫った夜、寮の部屋は静まりかえっていた。
窓の外では風がカーテンを揺らし、校舎の灯りがかすかに見える。
私はベッドの上で膝を抱えながら、じっと目を閉じて呼吸を整えていた。
カナちゃんは、私の隣で髪をとかしながら「明日だね」とぽつりと言った。
「うん、ついにだね」
自分の声が少しだけ震えているのが分かった。
明日からは本物の戦いが始まる。
訓練や模擬戦じゃない、誰かが本当に傷つくかもしれない世界。
そう思うと、どこか遠い場所へ放り出されるような不安があった。
でもカナちゃんは、そんな私の顔をじっと見て、小さく笑った。
「大丈夫。結がいればボクは負けない」
「本当に、そう思ってる?」
「もちろんだよ。……それに、ボクだけじゃない。結がいるなら、みんなも安心していられる」
自信満々に言い切るその横顔が、少しだけ頼もしくも見えた。
夜が深くなると、寮の廊下も静かになった。
私はカナちゃんの布団にそっともぐり込む。
カナちゃんは驚きもせずに、その腕で私を抱き寄せた。
「……怖くなった?」
「ちょっとだけ」
「大丈夫。……ずっと隣にいるから」
その言葉に、私の胸の奥がじんわり熱くなる。
私たちはずっと一緒だ――そう思いたかった。
それでも、不安が消えたわけじゃない。
(……カナちゃん、明日も私の隣にいてね。絶対に、絶対に帰ってきて)
しばらくしてカナちゃんの寝息が静かに響きはじめると、私はそのぬくもりに包まれたまま、ようやく目を閉じた。
心臓の鼓動がゆっくり落ち着いていく。
カナちゃんの存在が、夜の静けさのなかで頼りなくも確かだった。
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朝になり、カーテン越しに光が差し込んできた。
「結、起きて」
カナちゃんが私の頬を軽くつつく。
私は眠たげな声で「……うん、おはよう」と返す。
少しだけ夜の不安が薄れている気がした。
支度をして、制服に袖を通す。
カナちゃんが隣にいるだけで、不思議と勇気がわいてくる。
寮の廊下を歩くと、他のバディたちもそれぞれの準備をしていた。
みんな少し緊張した面持ちで、「おはよう」「今日もよろしく」と声を掛け合っている。
陽菜や沙耶香、歩美たちも、制服の襟をきちんと直して背筋を伸ばしていた。
「結、頑張ろうね」
「うん、みんなも絶対無事に帰ってきて」
それぞれのバディで励まし合う。
誰もが、今日という日の重さを分かっていた。
私はカナちゃんの手をそっと握る。
その手が小さく、でも力強く感じられた。
今日からが、本当の始まりだ。
私は胸の奥で、もう一度だけ強く誓う。
――絶対に、絶対に、カナちゃんを守り抜く。
でも――実際にできることなんて、何もない。
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朝の空気は、どこか乾いて澄んでいた。
校舎へ向かう途中、制服のスカートがひらりと揺れるたびに、胸の奥で何度も「大丈夫」と自分に言い聞かせていた。
寮から教室までの廊下には、既にバディごとに固まって歩く姿がちらほら見える。
皆がそれぞれのパートナーと顔を見合わせ、互いの表情や声色を探っている。
「緊張するよね」
「でも結がいるから大丈夫だって、昨日みんなで話してたんだよ」
沙耶香がそっと肩をたたいてくれる。
私は「そんなことないよ」と首を振りながらも、どこか嬉しかった。
カナちゃんは私の隣で、背筋を伸ばして歩いていた。
顔は真っすぐ前を向いているけど、指先がわずかに震えている。
それに気づかないふりをして、私はそっと手を握り返す。
教室に入ると、先生が既に待っていた。
黒板の端には「前衛班」「後衛班」と書かれていて、今日の配属が張り出されている。
「今日は現場での任務だ。みんな落ち着いて、指示をよく聞いて行動するように」
担任の声はいつもより少し低く、静かだった。
私は配られた書類に目を通しながら、
絶対にカナちゃんを守ると、心の中でまた強く念じていた。
でも――実際にできるのは、魔力タンクとして機能することと、安否を確認することだけ。
教室のざわめき、友達の笑い声、そんなものも全部、どこか遠くに感じていた。
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出撃前の控え室。
バディ同士が静かに会話を交わしている。
「失敗したらどうしよう」「怪我したら……」
弱音のような小さな声が時折混じる。
私は、その不安を跳ね返すように「大丈夫、無事に絶対に帰ってくるよ」と自分にも言い聞かせる。
カナちゃんが、ふとこちらを見て微笑んだ。
「大丈夫だよ、結。……ボクは、絶対に帰ってくるから」
(ああ、なんでこの人はこんなに強いんだろう)
本当は、何もできない。
どんなに願っても、前に出て守ってあげることはできない。
魔力を送ることすらできない。ただの魔力タンクとして、カナちゃんが必要な時に引き出せるよう、そこにあるだけ。
でも、せめて後ろから見守るくらいは――それくらいしかできないと、ちゃんと分かっている。
控え室の外からは、靴音や小さなざわめきが聞こえる。
みんながそれぞれの不安と期待を胸に、今日という日を迎えている。
私は、カナちゃんの背中を見つめながら、小さく、けれど確かに拳を握った。
(無事でいて)
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私は、学校の後衛待機施設――まるで高級ホテルのような個室の一室にいた。
重たい扉、静かな廊下、深いソファやふかふかのカーペット。
他の後衛たちも、部屋ごとに散らばり、各自のバディの安否を見守っている。
出撃前、控えめなスタッフが各部屋を回って「間もなく前衛を乗せた車が、現場に到着します」と声をかけていった。
私はベッドに腰掛けて、胸の奥の緊張を押し殺す。
私は後衛待機室の個室で、パスを開き、脳裏にカナちゃんたちの輸送車内の光景を映し出していた。
悠馬や班の男子たちと並ぶカナちゃんは、冗談を交えながら装備を点検している。
「俺たち、姫騎士とその従者たちって感じだな」
「ね! ボク、お姫様みたいに可愛いでしょ?」
「見た目だけはな!」
「それ、褒めてる?」
気楽そうにじゃれ合う空気。班の緊張がほぐれていく。
(――結は今ごろ、何してるんだろう。リンクは繋がってるけど、どこまで伝わってるんだろう。声も表情も、全部届いてるわけじゃないし……けど、きっとボクのこと見ててくれるよね)
私は画面越しに彼女の顔や身振りを追いながら、ほんの少し、胸の奥が温かくなった。
(……大丈夫、大丈夫。余裕余裕。怖がってるなんて思われたくないし、結にだけは、平気な顔してたい)
彼女の本音や不安は、「結には気づかれていない」と思い込んでいるが、私にはすべて筒抜けだ。
でも、私にできることは見守ることだけ。何も手出しできない。
輸送車が現場近くに到着し、前衛たちが次々と車外へ降りていく。
現場の空気、朝のひんやりとした湿度、制服越しの緊張感。
私の体はここにあるのに、心はカナちゃんたちと一緒に外の世界を歩いていた。
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現場の公園前に輸送車が停まり、
カナちゃんたち前衛班が次々と車外へ降りていく。
新しい靴の音が舗装路に響き、仲間たちの緊張と高揚が空気に混ざるのが、画面越しにもしっかり伝わってきた。
私は後衛待機室の個室で、モニターのような感覚で現場を観察していた。
両手はじっと膝の上、足先だけが何度も床を擦る。
「……じゃあ行くか!」
悠馬が先に歩き出す。
男子たちも次々と武器を背負い、肩を軽く叩き合っていた。
「大丈夫だって、悠馬」「なんか、いい感じの緊張だな」
「朝霧、前出ろよ。お姫様なんだから先陣きってさ」
「えー、それお姫様っぽく無いよ。ちゃんと守ってくれる?」
「おい、調子に乗んな!」
そんなやりとりに、全員の顔が少しほぐれる。
(みんな、無理に明るくしてる……でも、ほんとにちょっとだけ、楽しいって思っちゃうの、悪いことじゃないよね)
カナちゃんの心の中の声が、パス越しに染み込んでくる。
でもその本音は、誰に気づかれていないと思っている。
現場には、12年生の先輩たちも合流していた。
「まずは通常パトロールから。異常があれば無理せず報告して」
先輩バディの女子が全体に目を配りながら指示を出す。
私は待機室の窓際で、小さな声で「がんばって」とつぶやいた。
もちろんカナちゃんに届くわけじゃないと分かっている。
でも、この瞬間だけは、隣にいる気がした。
(結、見ててよ。ボク、やれるから)
(うん、ずっと見てる――絶対に)
班ごとに配置についていくカナちゃんたち。
朝の公園はいつもより静かで、風に揺れる木々と遊具だけが視界の端で揺れている。
「じゃ、出発!」
悠馬の号令で、いよいよ実戦任務が始まる。
私は――
自分の手のひらが、じっとり汗ばんでいるのを感じていた。
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班ごとに公園内を慎重に巡回していた。
カナちゃんの視界に映る光景――朝の斜光が木々の枝葉を透かし、露に濡れた芝生が銀色に光っている。鳥のさえずりが時折聞こえるが、どこか普段より静寂が深い。
12年生の先輩が、少し離れた茂みで小さく手を上げて合図する。
「瘴気、北側。集合!」
先輩の視線とジェスチャーに気づいたカナちゃんが、班の男子たちを呼ぶ。
私は待機室で、パス越しにその緊張感を肌で感じ取っていた。
カナちゃんの心拍数が上がり、呼吸が浅くなっていく。
でも、動きは落ち着いている。
「合図きた。全員中央に集まれ!」
悠馬が小声で周囲をまとめる。
全員が決めておいた持ち場から素早く合流し、半円に展開する。
カナちゃんは剣の柄に手をかけながら、周囲の仲間たちの位置を確認していく。
左に悠馬、右に山田、後ろに鈴木。
いつも練習している隊形が、実戦でも自然に組まれていく。
(みんなと一緒なら……いける)
瘴気はじわじわと濃くなり、草むらの向こうに黒い影がうごめいている。
私は待機室で、その異質な気配をパス越しに感じ取って身震いした。
瘴気は重く、粘り気があって、カナちゃんの肌にべったりと纏わりつくような感覚。
魔力の流れが少しだけ阻害され、いつもより意識して力を込めなければならない。
その時、カナちゃんが私の魔力を引き出していく感覚があった。
パスを通じて循環していた魔力を、カナちゃんが自分の意志で引き寄せ、剣に込めていく。
私は何もコントロールできない。ただ魔力タンクとして、カナちゃんが必要な分を提供するだけ。
誰も叫んだり慌てたりしない。
先輩の目配せと手信号、それに各自の合図だけで隊列がぴたりと整う。
「朝霧、中央だぞ。囮頼んだ!」
悠馬が少し茶化す。
「お姫様、守ってやるからな」
「ボクの可愛いお顔ちゃんと守ってよ?」
カナちゃんがニヤリと返す。
その瞬間、草むらから悪魔が姿を現した。
人間よりやや大きい程度、ねじれた角に赤黒い皮膚――
授業で何度も見た下位個体だった。
悪魔は四足歩行から二足歩行に移り、前足を鋭い爪として構える。
口から牙が覗き、低いうなり声を上げながら班員たちを見回している。
カナちゃんは剣を抜き、私の魔力を引き出して刃に青白い光を纏わせる。
剣身が淡く輝き、瘴気を切り裂くような鋭い気配を放つ。
私はその感覚を受動的に感じるだけで、何もコントロールできない。
(この感覚……慣れてる。模擬戦と同じ。大丈夫、やれる)
悠馬が「行くぞ!」と合図を送る。
全員が息を合わせて前進し、先輩が静かに「今」と手を振る。
カナちゃんが一歩踏み出し、悪魔をこちらに引きつける。
剣先を正面に向け、魔力を足に込めて軽やかに跳躍。
悪魔の注意を自分に集中させながら、横に大きく回り込む。
悪魔が爪を振り下ろす。
カナちゃんは剣で受け止め、火花が散る。
金属音が公園に響き、鈍い衝撃が腕に伝わってくる。
その瞬間――
左右から悠馬ともう一人が回り込む。
悠馬は槍を構え、魔力を込めた穂先で悪魔の脇腹を狙う。
もう一人は剣で背後から首筋を襲う。
悪魔が前に出て、カナちゃんの剣を力押しで弾こうとするが――
その隙を突いて三人同時に打ち込む。
「はっ!」
カナちゃんが気合いと共に剣を振り下ろす。
私の魔力を大きく引き出した刃が悪魔の肩口を深く切り裂き、黒い血が飛び散る。
悠馬の槍が脇腹を貫通し、もう一人の剣が首筋に致命傷を与える。
(みんなの気配、動き――全部わかる)
驚くほどスムーズに、悪魔は崩れ落ちた。
誰も叫ばず、淡々と作業のように勝利を確認する。
私は待機室で、その一連の流れをパス越しに見守っていた。
カナちゃんの集中力、仲間たちとの連携、私の魔力を引き出すタイミング――
すべてが美しいほど調和していて、胸の奥が熱くなった。
でも、私は何もしていない。ただ見ているだけ。
「ナイス連携、姫」
「はいはいボク、お姫様ですから!」
男子たちが軽口を叩く。カナちゃんの心にも少しだけ安堵の色が滲む。
私は待機室の椅子で、胸の奥の緊張がほんの少しだけほぐれていくのを感じた。
(カナちゃん、すごい……本当にやった)
でも、これはまだ始まりに過ぎなかった。
そして私にできることは、ただ見守ることだけだった。