遥香
教室の窓際に座って、私はぼんやりと外を眺めていた。
今日も彼方は、結と一緒に楽しそうに話している。私のことなど、もう視界にも入らない。廊下ですれ違っても、気づいてもらえることすらない。
「遥香、大丈夫? なんか元気ないけど」
隣の席の友達が心配そうに声をかけてくれる。
「平気だよ、ちょっと疲れてるだけ」
そう答えて微笑むけれど、心の中は全然平気じゃない。
昼休み、一人で中庭のベンチに座っていると、遠くから彼方と結の笑い声が聞こえてくる。あんなに幸せそうな彼方を見ていると、胸が苦しくなった。
(私、いったい何をしてきたんだろう)
そんな風に自分を責めながら、昔のことを思い返していた。
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「ねぇ遥香、今日も一緒に帰ろ!」
彼方が私の名前を呼ぶたび、胸の奥がくすぐったくなる。
ランドセルを肩にかけて歩く帰り道、彼方が何を考えているか、だいたい分かるようになった。今日も校庭の隅っこで、二人だけの秘密基地を作って、泥だらけになりながらバカみたいに笑い合った。
「遥香が一緒だと、何でも楽しい!」
彼方が言うと、私もつい嬉しくなって「私も!」と強がってみせる。
この世界では、みんなバディ適性の話を当然のようにする。まだ小学生なのに、誰が前衛で誰が後衛になるか、話題に上ることも多かった。
検査の日、私は彼方と一緒に「結果、どうだった?」と顔を見合わせた。
二人とも前衛適性――
「そっか、バディは組めないんだね」
彼方がさらっと言ったとき、私は「うん」とうなずいたけど、本当は、心の奥が少しだけひりついた。
本当は、誰よりも彼方の一番でいたかった。バディを組みたいと願っても、前衛同士では叶わないって分かった瞬間、自分だけ取り残された気がした。
それでも、親友でいることだけは譲れなかった。彼方と席が離れれば、昼休みに真っ先に駆け寄ってくれた。誰かに意地悪されれば、さりげなく守ってくれる。
「遥香、大丈夫?」と何度も声をかけてくれる。
運動会でも、発表会でも、私が一番応援しているのは、ずっと彼方だった。他の子が彼方と話しているのを見ると、胸の奥がモヤモヤした。
「私はカナちゃんの親友だから」と自分に言い聞かせて、その輪に割って入るようになったのも、たぶんこの頃だ。
「遥香、これからもずっと一緒だよね」
「うん、絶対だよ」
その約束が、私の誇りだった。
でも心の奥では、もし彼方が、バディを組むことになったら――私だけの一番じゃなくなっちゃうかもしれない。そんな不安が、小さな影のように残り続けていた。
それに、彼方には、ずっと最強でいてほしかった。絶対に負けない、みんなの憧れの的で、そして私にとって唯一無二の存在でいてほしい――そんな欲張りな願いを、子供ながらに抱いていた。
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中学部に進むと、世界は一気に変わった。毎日がバディ単位で動くことが前提になり、クラスも、授業も、部活も――クラスの違う私と彼方はもう、同じ空間で過ごすことさえ少なくなった。
最初のうちは、それでもまだ、廊下ですれ違うたびに「元気?」と声をかけ合った。帰り道も、ときどきは一緒になれた。けれど、周囲の友達が次々と自分のバディを作りはじめると、私たちの距離はどんどん遠ざかっていった。
私はすぐに他の後衛と組むことができたけど、彼方は誰ともバディを組めなかった。廊下を歩いていても、教室でも、彼方は一人きりでいることが多くなった。
最初は、むしろ安心していた。
(誰かとバディを組まれるくらいなら、いっそ、ずっと一人でいてくれた方が――)
そんな、独りよがりな安堵感にしがみついていた。
だけど、時が経つほど、その気持ちは変質していく。私はバディやクラスメイトと一緒にいることが多くなり、彼方はどんどん孤立していった。
私と彼方は、もう親友どころか「すれ違う知り合い」みたいな存在になりつつあった。
彼方は、それでも明るく「遥香、久しぶり」と手を振ってくれる。その笑顔が、どこか遠くなった気がして、私は「うん」としか返せなかった。
(私だけが特別だったはずなのに、いつの間にか、私まで彼方の日常からはじき出されている――)
私の中の安堵は、いつしか焦りや喪失感に変わっていた。「誰にも渡したくない」気持ちと同時に、「このまま彼方を失ったらどうしよう」というどうしようもない不安が膨らんでいく。
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思い返せば、すべては高等部の最初の日、あの朝からだった。彼方がクラスの扉を開けて入ってきたとき、私は一番に目が合った。あの瞬間、胸の奥がギリギリと痛んだ。
ずっと親友だったはずなのに、私はなぜか、真っ先に冷たい言葉を浴びせてしまった。
「まだこの学校通ってたんですかぁ? 最強さーん」
クラスの誰もが私を見て、少し驚いた顔をしていた。けれど私は止まらなかった。
「彼方ちゃーん、まだ学校いたんだ? バディいないのに、何しに来たの?」
教室の空気が凍りつくのを、私はどこか他人事のように感じていた。本当は、彼方の笑顔が欲しかった。でも、最強で孤高でいる彼方でなければ、私の隣にいられない――そんな思いが胸の奥で渦を巻いていた。
(自分だけが一番近かったはずなのに、もう、私の手の届かない場所に行ってしまったのが怖かった)
放課後、食堂、寮の廊下、模擬戦――どんな場面でも、私はつい、みんなの前で彼方をからかった。
「最強なのに、バディいないなんて変わってるよね」
「課題も一人でやるの? 寂しくない?」
本当は、誰よりも彼方のことを知っているのは自分だという自負があったのに、自分自身が一番、彼方を孤立させている加害者になっていた。
模擬戦では、教官の言葉を利用して「悪魔役にピッタリだよね」なんて、無邪気なふりをして彼方に声をかける。彼方の表情がどんどん曇っていくのを、私は見て見ぬふりをしていた。
「もうちょっと強くやってよ。最強なんでしょ?」
肩を小突きながら言ったその一言の裏に、本当は昔のままの彼方に戻ってほしい、私の特別でいてほしいという本音が混ざっていた。
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夜、寮の部屋で天井を見つめながら、私は何度も自分を責めた。
(どうして、あんなことを言ってしまったんだろう。どうして素直になれないんだろう)
好きだからこそ傷つけてしまう――そんな子供じみた思考。結局私は、彼方が誰のものにもならないなら、自分のものじゃなくてもいいと強がりながら、最強で孤高の彼方を追い求めていた。
でもそのせいで、誰よりも彼方を孤独にし、一番遠ざけてしまったのは、他ならぬ自分自身だった。
どうして私は、あんなことをやめられなかったんだろう。本当は何度も「やめたい」「もう傷つけたくない」と思っていた。けれど、そのたびに私の中で、「このままなら、彼方はずっと私だけを見てくれる」そんな声が、何度も響いた。
殻に閉じこもっていく彼方は、周りのクラスメイトや先生たちの声も、もうほとんど耳に入っていない。昼休み、窓際でじっと俯いている彼方の横顔を、私は何度も盗み見ていた。
誰と話すでもなく、ただ私の言葉や視線だけを受け止めてくれる――それがどれほど歪んだものであっても、彼方の世界が「私だけ」で満たされているのが分かった。
(これなら、誰にも奪われることはない。私だけが、彼方の全部を独り占めできる)
たとえその方法が、いじめという形でも、痛みや孤独しか残らなくても――それでも「私だけを見てくれる」彼方に執着し、自分でも止められなくなっていった。
放課後の教室で、私が声をかければ、必ず彼方は顔を上げて私だけを見る。「また一人でいるの?」と意地悪を言えば、彼方の視線が私にだけ向けられる。
他の誰にも、こんな特権はない――そんな風に、自分を正当化する声がどんどん大きくなっていった。
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彼方の世界が、私だけのものだった時間は、思っていたよりも短かった。
結城結が転校してきて、彼方の隣にすっと入り込んだあの日――私はその光景を、教室の隅から黙って見ていた。
初めて見る彼女は明るくて、どこか柔らかい雰囲気をまとっていた。クラスの誰とでもすぐに馴染んで、でも彼方の隣に座るときだけは、特別な顔をしていた。
それからの彼方は、少しずつ表情が戻っていった。廊下ですれ違うとき、私の方を見てくれることが減って、いつも隣には結がいた。
物凄く悔しかった。
(どうしてあの子なの? どうして私じゃないの?)
それでも、結といるときの彼方は、どんどん元気になっていく。また誰かに笑いかけるようになって、クラスの空気も変わった。
私は――本当は、そんな彼方を見て、心の底からほっとしていた。でも同時に、自分が独り占めしていた彼方を奪われた喪失感と、自分のしたことの重さに押しつぶされそうだった。
教室の窓からふと見えた彼方と結の後ろ姿。二人の間には、もう私が入り込む余地なんてない。結が彼方の腕を取って笑う姿が、胸の奥を鋭くえぐった。
(ズルい。そこは、本当は私の場所だったのに)
そう思いながらも、私は二人の姿を遠くから見守ることしかできなかった。
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結と彼方がバディになった。それは、私の世界から彼方が完全に消えてしまう瞬間だった。
今までは、どんなに苦しくても、殻に閉じこもる彼方は私だけを見てくれていた。それが、結とバディを組んだ日から――本当に、私の手の届かないところに行ってしまった。
結と並んで歩く彼方は、もう私のことなど見ていない。結の声に笑ってうなずく彼方。バディでいるときの二人は、まるで世界で二人きりのように見えた。
授業も、寮生活も、行動はすべてバディ単位。誰もがバディとだけ特別な絆を築いていく中で、私は、もう彼方の隣に戻ることはできないと気づかされた。
すれ違うとき、彼方は結とだけ小さな声で話している。私には、もうその世界の一部ですらなかった。
彼方の新しい日常の中に、私の居場所はどこにもない。
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チャイムが鳴って、昼休みが終わった。私は慌ててベンチから立ち上がる。
教室に戻る途中、廊下で彼方と結とすれ違った。二人は楽しそうに話しながら歩いている。私の存在など、全く気づいていない。
(私、いったい何をしてきたんだろう)
そんな後悔が、心の奥でいつまでも澱のように残り続けていた。
でも、彼方が笑ってくれているなら――それだけで、私のしたことが少しでも意味を持つなら――
そう思い込もうとした。けれど、心の奥底には「自分だけの彼方」がどこにもいなくなってしまった喪失感と、自分の愚かさへの深い自己嫌悪だけが、いつまでも残り続けていた。