9 老神主の思い出
もみじは、老神主と並んで移季節神社の廊下を歩いていた。
「牛鬼は水辺に棲みつく魔物だが、たとえ高い山の上に逃げたとしても逃げ切ることはできないのだよ。牛鬼は影を自在に操る魔力を持っている。人の影に足先を突き刺して地面から影を引き抜くと、人の体から魂を引き出すことができる。自分の影の一部を実体化させて、自分の分身とすることもできる。牛鬼の分身は空を飛び、遠くまで逃げた者を捕まえて牛鬼の許まで連れて来るのだ。しかも、牛鬼は口から照明弾のような赤い光を吐き出すことで、どんな環境でも自分や人の影をつくり出すことができるのだ」
「きょ、鏡太朗……」
目を覚ましたライカが腹に右前足を当てながら、ヨロヨロと砂浜から立ち上がった。
「鏡太朗はどこにいるんじゃ?」
ライカが周囲を見渡すと、離れた場所では、緑色のカッパの姿の河童のじーさんが胸から血を流して気絶していた。
「河童のじーさん! な、何じゃ?」
牛鬼が突然苦しげな叫び声を上げると、その口の中から、闇のオーラに包まれた最終形態の怪物に変身した鏡太朗が飛び出して砂浜に降り立ち、大勢の狂気に満ちた声が一斉に言葉を発した。
「げへへへっ……。たった一回口の中の空間を歪ませただけで、大騒ぎだな。げへへへっ……」
鏡太朗の姿は灰色の肌、真っ白な髪と目に変わっており、体中の皮膚の表面では数え切れないほどの大小様々な大きさの青白い顔が蠢いて、呪いの言葉を口にしていた。
「あいつにはあたしよりも悲惨な目に遭わせてやる……」
「お前らも地獄に堕ちろ……堕ちろ……」
「みんな苦しみ抜いて死ねよ……死にやがれ……」
「呪ってやる……呪ってやる……誰も彼も呪ってやる……」
「きょ、鏡太朗が最終形態になったんじゃ……」
鏡太朗は正面にいる牛鬼など目に入らないかのように、林の上に顔を向けた。林の上には半径三百メートルほどのドーム状の黒い空間があった。
「あれはあの女が満月の幻を見せる空間だな。げへへへっ……、今度こそ、あの女を食らってやる!」
鏡太朗の背中から大きな一対のコウモリの翼の形の黒い雲が飛び出し、胸や腹、背中の八か所から長く伸びる黒い雲が生えて、ヘビのように宙を彷徨った。翼の表面や長く伸びる八本の黒い雲の表面でも無数の顔が蠢いており、呪いの言葉を呟いていた。
最終形態の鏡太朗は翼を羽ばたかせて宙に浮かび、その様子を見たライカが目を見開いて叫んだ。
「さくらが危ないんじゃ!」
「きゃああああああああっ!」
「みんなあああああああっ!」
二十体の魔物の子どもと河童が、木々の間の地面に向かって落下していた。
「もうダメだきゃああああああああああああああっ! え?」
河童は目を丸くして驚いていた。河童と魔物の子どもたちは、白い光に包まれて地上一メートルの高さで宙に浮かんでいた。
「な、何が起こっただきゃ?」
河童が周囲を見渡すと、隣で気絶して浮遊しているピラコの体が白い光を放っていた。
「それにしても貴重な写真がいっぱいですね。昔の風景や祭りの様子ですね」
移季節神社の廊下の壁に飾られた様々なモノクロ写真を眺めながら、もみじが言った。全ての写真は相当古く、セピア色に変色していた。
「あれ? これだけが子ども二人の顔写真なんですね」
老神主が懐かしそうに目を細めて言った。
「右側に写っているのは、八十五年前の私だよ。隣にいるのは人間ではない。座敷わらしという魔物だよ」
「あの有名な妖怪、座敷わらしですか!」
「座敷わらし族は変わった生態を持つ魔物でね、一歳の人間の子どもの姿で生まれ、四年かけて五歳の姿に成長したら、約八十五年の寿命を迎えるまで、ずっと五歳の子どもの姿のままなのだよ。寿命を迎えた座敷わらしは、体を分裂させて子どもを生むんだ。そして、生まれた子どもは親とは別の魂を持っているが、姿形は親と全く同じなんだよ。
座敷わらしには人間や魔物と闘う魔力はないのだが、仲良くなった人を事故や病気から守る魔力があるんだ。そのため、人々は座敷わらしと一緒に暮らしていると幸せになれると噂するようになった。この神社には、何百年も前から座敷わらしが住んでいたんだ。私も幼い頃は、毎日座敷わらしと遊んでいたよ。しかし……」
老神主の顔が険しくなった。
「私が五歳の時、ちょうどこの写真を撮った直後に、座敷わらしは何者かにさらわれてしまった。もし、あの座敷わらしが無事でいたら……、もう寿命を迎えているだろうね。座敷わらし族はね、代々親の名前を受け継ぐんだよ。あの座敷わらしが天寿を全うしていたら、きっとどこかに、あの座敷わらしと同じ顔と名前の子どもがいるだろう……。ピラコという名の座敷わらしが」
写真の中には、五歳の老神主と並んでいるピラコの笑顔があった。
「ピラコちゃんの力だっただきゃ?」
河童は、白く光り輝きながら気絶して浮遊しているピラコを見つめた。周囲が突然暗くなり、河童が空を見上げると満月が輝いていた。
「みんな~っ、大丈夫~っ? 魔物たちが突然影の塊になって、ボロボロになって消えちゃったの~っ!」
天女姿のさくらの魂が、長い領巾をなびかせて木々の上から降下してきた。
「女! お前を食らいに行くぜ! げへへへっ」
林に向かって飛び立とうとした最終形態の鏡太朗の両脚を、牛鬼が巨大な右手でつかんだ。鏡太朗は振り返ると、黒目がない目を牛鬼に向けた。
「邪魔をするな。邪魔立てするなら、お前を先に食らってやる」
鏡太朗の脚から黒い雲が湧き出すようにどんどん出現し、牛鬼の右手を包み込んだ。黒い雲の表面では大小様々な青白い顔が蠢き、口々に呪いの言葉を発していた。黒い雲は見る見るうちに牛鬼の全身に広がっていき、牛鬼は黒い雲に包まれて悲鳴を上げた。
鏡太朗が地面に降り立つと、その両脚から伸びる黒い雲の先は、牛鬼を覆い尽くす巨大な黒い雲の塊になっており、塊の中から聞こえる牛鬼の悲鳴は次第に弱々しくなっていった。
「げへへへっ、お前はでかくて食いごたえがありそうだな。げへへへっ」
「た、大変じゃ! 牛鬼が食われたら、今度はさくらが襲われるんじゃ! さくらを守るんじゃ!」
ライカは右前足で腹を押さえながらお札まで飛んで行き、お札の上の石を蹴り飛ばして左前足でお札をつかんだ。
「ち、力が出ないんじゃ……。でも、今のうちに悪霊を封印するんじゃ……」
ライカはふらふらしながら後脚で立ち、視線の先の鏡太朗の背中を睨むと、お札を顔の前に掲げてから手放し、すかさず左前足からお札に向けて雷玉を放った。
「雷玉じゃああああああっ! 行けええええええええっ!」
お札は雷玉に押されて鏡太朗の背中に向かって一直線に飛んで行ったが、お札の力で雷玉が段々小さくなり、お札は次第に失速していった。ライカが左前足からお札目がけて再び雷玉を放つと、お札は新しい雷玉に押されて勢いを取り戻した。
突然、耳をつんざく大勢の人々の悲鳴が響き渡り、鏡太朗の背中に生える黒い雲の翼の前面の空間が歪み、雷玉を粉砕しながらお札を呑み込んでライカに向かって伸びていった。ライカが飛び上がって歪んだ空間を避けると、歪んだ空間は砂を巻き上げながら砂浜の奥に広がる林まで到達し、数十本の木を包み込んで粉砕した。
「気づかれたんじゃ!」
ライカは右前足で腹を押さえながら、林の手前の砂浜にひらひら落ちていくお札目がけて全速力で飛び、鏡太朗は振り返ってお札の方に右手を向け、掌で蠢く顔が悲鳴を上げた。ライカの左前足がお札に触れる寸前に、歪んだ空間がライカの真下の砂浜を直撃して砂が高く舞い上がり、ライカは思わず目をつぶって顔を背けた。
ライカが再び目を開けた時、鏡太朗の体から伸びる八本の黒い雲がライカのすぐ後ろまで迫っており、黒い雲は先端が大きく広がって今にもライカを呑み込もうとしていた。
「げへへへ……。お前もこいつと一緒に食らってやるぞ」
鏡太朗の口から狂気に満ちた大勢の声が発せられ、ライカが背後を振り返ると、無数の亡者の顔が蠢く黒い雲が視界を覆い尽しており、目を大きく見開いて茫然とした。
「く、食われるんじゃ……」
「超速!」
青く光る河童が姿を現してライカを右腕で抱え、稲妻のように青い光跡を描きながら凄いスピードで黒い雲の間をすり抜けて走り、黒い雲から遠ざかっていった。
「ライカさん、大丈夫だきゃ?」
「河童! わしのことよりも早くお札を鏡太朗に貼るんじゃ!」
「状況を理解しただきゃ!」
お札は林の手前の砂の上に落ちていた。
「げへへへ……。お前も来たか。好都合だ。まとめて食らってやる」
鏡太朗は、両脚から伸びる黒い雲で牛鬼を覆いつくしたまま、体をライカと河童に向けた。鏡太朗の体から伸びている八本の黒い雲の先端で蠢く顔が悲鳴を上げ、歪んだ空間が次々と河童に襲いかかり、河童はそれらを超速で砂浜を駆け回って避けた。砂浜を直撃した歪んだ空間は、次々と砂を高く舞い上げていった。
「ライカさん、オラは攻撃を避けるのがやっとだきゃ! お札を頼むだきゃあああああああっ! 水流砲ーっ!」
河童は走り回りながら、水流砲でライカをお札に向かって吹き飛ばした。水流砲に背中を押されて凄い勢いで飛んでいくライカを挟むように、左右から二本の黒い雲が迫り、先端が大きく広がってライカを呑み込もうとした。
「雷玉じゃあああああっ!」
ライカは後ろを向いて両前足を水流に突っ込むと、水を巻き上げながら雷玉を放ち、雷を帯びた水飛沫がライカを周りを囲んだ。黒い雲は雷に怯んだかのように、一瞬動きを止めた。
「雷に霊を祓う力があるのは本当みたいじゃなあああああっ! 雷玉の乱れ打ちじゃああああああっ!」
ライカが左右の前足から二本の黒い雲に向かって雷玉を連射すると、二本の黒い雲の先端で蠢く顔が悲鳴を上げ、歪んだ空間が雷玉を粉砕しながらライカに迫った。歪んだ空間が直撃して水流が無数の水飛沫に変わった時、ライカはその真下に逃れており、お札を左前足でつかみ、その直後に砂浜の上を転がった。
『やっぱりお札を持つと飛べないんじゃ! どうやってお札を鏡太朗に貼ればいいんじゃ?』
その時、ライカの視界の隅で、青い光が高速で砂浜の上を移動しているのが見えた。
「行けええええええええっ! 河童あああああああああああっ!」
ライカは青い光の前方に向かって、お札を雷玉で飛ばした。
「きゃー太朗は、絶対に消滅させないだきゃあああああああっ!」
叫びながらお札に向かって駆ける河童を囲むように、八本の黒い雲が八方向から同時に襲いかかった。
「金剛甲!」
走る河童の背中で、金剛甲がダイヤモンドのように輝いた。
「げへへへ……。お前のガラスのような甲羅じゃあ、俺たちの攻撃は防げないさ」
鏡太朗は狂気に満ちた大勢の声で河童を嘲笑った。河童を囲む八本の黒い雲から、悲鳴とともに歪んだ空間が一斉に放射され、河童に迫った。
「水流砲!」
「な、何っ?」
無表情で驚きの声を上げた鏡太朗の目の前では、空中で衝突した八つの歪んだ空間の下で、河童が仰向けになって自分の足の下に水流砲を放っており、背中の金剛甲でソリのように砂浜を滑っていた。河童は砂浜に向かって落ちていくお札の近くまで到達すると、仰向けのまま両掌を鏡太朗に向けて水流砲を放ち、お札を押し飛ばした。水流砲はお札に弾き返されて水飛沫を上げながら、鏡太朗に向かってお札を押していった。
「水流砲が弾かれるだきゃ!」
「そのお札は魔力を弱めるんじゃ!」
ライカが苦しげに右前足で腹を押さえながら、砂浜に立って言った。
鏡太朗は黒い雲の翼を羽ばたかせると、水流砲に押されて近づくお札を飛び越えて着地し、河童は愕然とした。
「さ、避けられただきゃ!」
鏡太朗の翼の表面で蠢く顔が悲鳴を上げると、歪んだ空間がお札を呑み込みながら鏡太朗の後方に伸びていき、海の上を水平線に向かって直進していった。歪んだ空間は砂浜から二百メートル離れた場所で消え去り、お札は海面に向かってゆっくりと落下を始めた。
「お札が海に落ちるんじゃ! 波にさらわれても、海に沈んでも探せなくなるんじゃ!」
動揺するライカの視線の先で、お札は海面に落ちる寸前に薄いピンク色の領巾に受け止められた。
「さくら! いいタイミングじゃ!」
海の上では、天女姿のさくらの魂が長い領巾をなびかせて空に浮かんでおり、いつの間にか周囲は満月が輝く夜になっていた。
「女! お前の方から来るとは都合がいい! 今度こそ食らってやる!」
「鏡ちゃんは絶対にあたしが守る! 絶対に消滅なんてさせないんだからっ!」
さくらは強い眼差しで最終形態の鏡太朗を見据え、鏡太朗から伸びてくる八本のヘビのような黒い雲と歪んだ空間をかわしながら、右側の領巾の先でお札をつかんだまま砂浜の上の鏡太朗に向かって飛んだ。
「きゃあああああああああっ!」
左側の領巾に一本の黒い雲が巻きつき、さくらの魂を目がけてヘビのような黒い雲が次々と伸びた。
「飛べええええっ! 三日月鋏ーっ!」
ライカが空中でコマのように回転してしっぽの先の三日月鋏を放ち、三日月鋏はブーメランのように回転しながら、長く伸びる黒い雲を全て切断して消え、切断された雲は鏡太朗から伸びる長い雲まで飛んで行くと、合体して元通りになった。
「ライちゃん! 危ない!」
悲鳴を上げたさくらの目の前では、鏡太朗の胸で蠢く顔の悲鳴で生じた歪んだ空間がライカを直撃しようとしていた。
「金剛甲壁!」
緑色のカッパの姿の河童のじーさんが、右胸から血を流しながらライカの前まで跳び上がり、背後の空中に出現させた金剛甲壁で歪んだ空間を受け止めた。
「うわああああああああああっ!」
歪んだ空間は金剛甲壁を粉砕して河童のじーさんの背中に命中し、じーさんはライカを抱えながら血を吐いて叫び声を上げた。
「河童のじーさん!」
「じーちゃん!」
河童のじーさんは、ライカを抱えたまま砂浜に落下して動かなくなった。
「きゃああああああああっ!」
八本の黒い雲が大きく広がってさくらの行く手を遮り、そのまま合体して一つの大きな塊になってさくらを包み込んだ。
「さくらあああああああっ!」
ライカは腹から血を流しながら、さくらに向かって飛んだ。
「三日月鋏ーっ!」
ライカは、大きな黒い雲の塊と鏡太朗を繋ぐ八本の黒い雲を三日月鋏で切断した。
「さくらああああっ! 大丈夫かああああああああああっ?」
ライカの叫び声が響く中、大きな黒い雲の塊は八つに分裂して八本の黒い雲まで飛んで行って合体した。大きな黒い雲の塊がなくなった時、そこには大きな毬のように丸く巻かれた領巾の塊があり、領巾が解けると、中からさくらの魂が姿を現し、領巾の右端でお札を掲げながら、鏡太朗に向かって突進した。
「鏡ちゃああああああああああああああああああん!」
「今度こそ、お前を食らってやる」
鏡太朗がさくらに右掌を向けると、掌から黒い雲が飛び出した。
「超足!」
青く光る河童が、鏡太朗に向かって超足で突進した。
「金剛甲!」
背中から飛び込んだ河童の金剛甲が鏡太朗の胸と顔に激突し、鏡太朗は大きくバランスを崩し、右掌から伸びた黒い雲はさくらから逸れた。
「この……」
鏡太朗は黒目がない目で河童を睨み、左掌を向けた。
「水流砲!」
河童は足元に強烈な水流砲を放ち、一気に高く跳んで鏡太朗から離れた。水流の水飛沫に満月の光が差して七色の虹が架かる中、領巾でつかんだお札を掲げたさくらが鏡太朗に突進した。
「鏡ちゃあああああああああああああああああああああん!」
お札が鏡太朗の胸に貼られると、一瞬の静寂の後、たくさんの悲鳴が海岸に響いた。黒い雲が鏡太朗の中にどんどん戻っていく中、大勢の狂気を帯びた声が一斉に同じことを叫んだ。
「お前ら、許さんぞ! 今度出てきた時は、必ずお前ら全員を食らってやる! 必ず食らってやるからな……」
全ての黒い雲が鏡太朗の体の中に消え去ると、鏡太朗は意識を失って砂浜に倒れた。覆っていた黒い雲が消えた牛鬼は、巨大な骨だけの姿になって砂浜に横たわっており、その頭蓋骨は小刻みに揺れながら、カタカタと音を立てていた。
ライカは戦闘モードから人間の姿に戻り、右手で腹を押さえながらヨロヨロと歩いて鏡太朗の隣で膝をついた
「鏡太朗! 大丈夫か?」
「ライちゃん、あたし体に戻ってくるね」
さくらの魂は天女姿から私服の姿に戻って林の中へ飛んで行き、海岸からは満月と夜空が消えて青空が広がった。