11 絶対に譲れない想い
さくらと來華は滝のような雨に打たれながら、俯いて咽び泣いていた。
「わ、わしには磯姫を攻撃することなんて、絶対にできないんじゃ……」
「あたしだって、あんな話を聞いたら……。ラ、ライちゃん!」
ライカが突然意識を失ってその場に崩れて海に浮かび、その周囲の海水が赤く染まった。
「ライちゃん、しっかりして!」
滝のような激しい雨音にさくらの声がかき消され、磯姫の話を聞いて号泣していた鏡太朗は、背後で來華が倒れたことに気づかなかった。
鏡太朗は磯姫を見上げた。
『止めなきゃ。磯姫さんを止めなくちゃ……。このままじゃあ人類が滅亡してしまう……』
「磯姫さん! お願いだから、もうやめて! 磯姫さんが人を傷つけると、優しかった彌助さんだってきっと悲しむよ」
磯姫は悲しみと怒りが入り混じった表情で、鏡太朗を睨んだ。
「彌助が悲しむことなど二度とないのだ! 彌助の存在の全ては……永遠に消えたのだから……」
磯姫は顔を左に向けると、傍らでカタカタと音を立てて揺れている牛鬼の頭蓋骨を苛立たしく睨んだ。
「忌々しい牛鬼め!」
磯姫の腹と腰に生えている紫色の六匹の犬の首が一斉に伸びると、鋭い牙で牛鬼の頭蓋骨を嚙み砕いた。
その直後、牛鬼の頭骸骨の残骸から八つの白い光の粒が飛び出し、周辺を漂った後でそれぞれ違う方向へ飛んで行った。白い光の一つが、魂を食われて水面に浮いていたグリーンマンの体の中に入ると、グリーンマンは目を開き、腹の高さまである海水の中で立ち上がった。鏡太朗が驚きの笑顔で叫んだ。
「グリーンマンさん!」
「牛鬼に食われて魂が牛鬼の中に閉じ込められていたが、魂が開放されて体に戻ることができたようだ」
「グリーンマンさん! ライちゃんを助けてええええええええええっ!」
さくらの絶叫を聞いた鏡太朗はハッとして背後を振り返り、目に映った光景を見た瞬間に愕然とした。意識がない來華をさくらが泣きながら抱え、その周辺の水に血が広がっていた。
「ライちゃん!」
海面に浮かんでいる黒猫の姿の火車に光の粒が入ると、両目を開いて炎の帯を纏いながら宙に浮き上がり、全身が炎に包まれた後に和服姿の女性に戻った。
三つの光の粒がカマイタチの三男の体に入ると、カマイタチも同じように目を覚まして立ち上がり、長男と次男の上半身も姿を現して宙に浮き上がった。
その向こう側では、双子の半魚人も体に魂が戻って立ち上がっていた。
グリーンマンが発するピンクの光に包まれた來華が、目を開けて海の中で立ち上がると、土砂降りの雨の中で涙を流していた鏡太朗とさくらが笑顔を見せた。來華の服にできた穴の向こう側に見える肌からは、傷が消えていた。
「グリーンマンさん! じーちゃんも助けてだきゃ!」
グリーンマンは、河童に抱えられているじーちゃんの方へ海の中を歩いて行った。
「よかった……。みんなが元に戻れて」
鏡太朗は幸せいっぱいに微笑みながら、大粒の涙を流していた。
「鏡ちゃん! あれを見て!」
さくらは、俯いて咽び泣く磯姫のそばを指差した。そこでは一粒の白い光が磯姫の周りを飛び回っていたが、磯姫にはそれが見えていないようだった。
「磯姫にはあの光が見えないんじゃ!」
「さくら、ライちゃん。あの光の粒……、俺には、磯姫さんに何かを懸命に訴えているように見えるよ」
白い光の粒が磯姫の前で若い男性の姿に変わった。男性はボサボサの長い髪で髷を結い、丈が短い深緑色の粗末な小袖を着ていた。
「磯姫、俺だよ! 彌助だよ!」
「彌助さん?」
鏡太朗たちは宙に浮いて磯姫に語りかける彌助の魂を見て驚いたが、磯姫は彌助の魂の存在に全く気づいていなかった。
「さくら、ライちゃん。磯姫には彌助さんの魂が見えなくて、声も聞こえないんだ!」
しばらくすると、彌助の魂が鏡太朗の方へ飛んで来た。
「お前の体を貸してくれねぇか? 何だか知らねぇが、お前を見てると、それができそうな気がするんだ。早く磯姫を止めねぇと!」
光の粒の姿に戻った彌助の魂が鏡太朗の体に入ると、鏡太朗の顔つきが変わった。
「磯姫! 俺だ、彌助だ!」
磯姫は鏡太朗の口から発せられた言葉を聞くと、鏡太朗を睨みつけ、怒りに体を震わせ始めた。
「ふ、ふ、ふざけるなああああああああああああああっ!」
激高した磯姫の体から六匹の犬の首が鏡太朗に向かって伸び、犬の頭は凶暴な顔で叫び声を上げながら、鋭い牙が並ぶ口を大きく開けて一斉に鏡太朗に襲いかかった。
「妖だから何だってんだ! 妖だって構わねぇ。俺はお前とずっと一緒にいてぇんだ」
鏡太朗の体を借りている彌助が、磯姫の顔を真っ直ぐ見つめながら叫ぶと、その瞬間、六匹の犬の首は鏡太朗のすぐ手前で固まったように動かなくなった。
両目を見開いて驚きの表情を浮かべた磯姫は、やがてポロポロと大粒の涙を零し始めた。
磯姫の心に彌助との思い出が蘇った。
彌助の粗末な小屋の中で、磯姫は腰から下が四本のへびの尾に変化した姿を彌助に見せていた。彌助は目を丸くして磯姫を見つめていた。
「村で噂になっている生き血を吸う磯姫という妖は、お前だったのか……」
「人間のふりをして彌助をだまし続けることなど、わらわにはできない。だが、これだけは信じて欲しい。わらわは生き血を吸ったこともなければ、一度だって人間を傷つけたこともない……。だが、正体を明かした以上、もう彌助と一緒にはいられない」
磯姫は星のように煌めく涙を零しながら、優しく、そして悲しそうに微笑むと、人間の姿に戻り、彌助に背を向けて小屋から出ていこうとした。
「今までありがとう。さよなら……。……え?」
磯姫は左手を彌助に両手でつかまれ、驚いて振り返った。彌助は真剣な表情で磯姫を見つめていた。
「妖だから何だってんだ! 妖だって構わねぇ。俺はお前とずっと一緒にいてぇんだ」
磯姫は予想もしていなかった彌助の言葉に、両目を見開いて動揺した。
「彌助……。わ、わらわは人間ではないのだぞ。そ、それでも……よいのか?」
「お前が何者だろうと俺はお前が好きだ! 好きで、好きでたまんねぇんだ! だ、だから……、これからもずっと俺のそばにいてくんねぇか?」
磯姫は、彌助の真っ直ぐな想いに驚き、彌助の真剣な顔を言葉もなく見つめていたが、やがてその泣き濡れた顔が幸せな笑顔で輝いた。
「わらわも……同じ気持ちだ」
滝のような雨に打たれながら、磯姫は信じられないものを見ているかのように、胸まで海水に浸かった鏡太朗を呆然として見つめていた。
「ほ、本当に、彌助……なのか……?」
「俺の魂が牛鬼に吞み込まれてから、あまり時間が経たずに牛鬼は岩になったんだ。俺の魂は牛鬼に吸収される前に、牛鬼が変化した岩の中に閉じ込められたんだ。牛鬼に魂を食われた後、俺には牛鬼が見ているものが見えた。磯姫が牛鬼を尾で捕らえて岩になっていく様子も見えた。俺は牛鬼の中から、牛鬼なんて放って逃げるように磯姫に叫んでた。ずっと、ずっと叫んでいたんだ。でも、俺の声は磯姫には届かなかった。やがて牛鬼は岩になり、俺は岩の中で身動きが取れなくなったんだ。
磯姫、頼むからこの雨を止めてくれ! 誰も傷つけねぇでくれ。あの頃と同じように、誰かを傷つけることが嫌いな優しい磯姫のままでいてくれ」
磯姫は無言で俯いていた。
突然雨が止み、空を覆っていた赤紫色の雲が徐々に薄くなって消えていった。
「海水がどんどん引いていくだきゃ!」
河童のじーさんが河童に言った。
「太郎、あんなに大量の雨水が元々地球にあったはずがない。きっと、魔力で生み出された雨水がどんどん消えているのだろう」
鏡太朗の体を使っている彌助が、輝く笑顔を見せた。
「磯姫、ありがとう」
磯姫の体から生えていた六匹の犬の首が消え去り、磯姫は泣きながら笑顔を見せた。
「彌助、また逢えるなんて……、また逢えるなんて……」
磯姫は声を上げて泣き続け、さくらや來華たちは涙で濡れた笑顔で磯姫を優しく見つめた。
しばらくして、泣き止んだ磯姫は微笑みを浮かべながら、尾の一本を鏡太朗に絡みつかせて鏡太朗の体を持ち上げた。
「彌助……、どこか静かな場所で一緒に暮らそう……。さあ、行こう」
「ま、待って!」
「鏡太朗をどこに連れて行くんじゃ?」
さくらと來華が慌てて叫んだ。鏡太朗の体を使って彌助が言った。
「磯姫、いけねぇ! この体は俺のもんじゃねぇ。この少年のもんだ。磯姫がこの体を連れて行けば、この少年も、少年の大切な人たちも、とても悲しむんだ。そんなことしちゃいけねぇ!」
「わらわは決めたのだ! あれだけの大きな絶望と悲しみに打ちのめされて、やっと、やっと彌助に逢えたんだ。もう何があっても二度と彌助を手放しはしない。そのためなら、わらわはどんなことだってする! もしも、彌助と一緒に生きていくことを許さないというならば、それを許さないという人間など消えてなくなるがよい!」
再び磯姫の体から六匹の凶暴な犬の首が現れ、磯姫が両手から空に放った赤紫色の光が赤紫色の雲となって、見る見るうちに空を覆っていった。
「磯姫、やめてくれ! 俺の魂はいつでも、いつまでもお前のそばにいるから」
「彌助……。そばにいてくれたって、彌助の存在を感じられないのなら、たまらなく寂しくて悲しいんだよ」
磯姫は俯いて涙を溢した。
「ほかのどんなことを我慢したって、あきらめたって構わない。でも、彌助と一緒に生きていきたいという思いだけは、絶対に、絶対に譲れないのだああああっ!」
涙を溢れさせて叫んだ磯姫に、さくらが泣きながら訴えた。
「磯姫さん……、磯姫さんにとって彌助さんが大切なように、あたしたちにとってその人はとても大切なの。だから鏡ちゃんを連れて行かないで……。お願い……」
磯姫は一瞬迷いを見せたが、再び険しい顔に戻った。
「わらわは、たとえ世界中の人間から憎まれて八つ裂きにされようと、地獄の業火で永遠に焼かれようと、そんなことは構わぬ! 彌助だけは、彌助と生きていくことだけは絶対に譲れないのだ!」
赤紫色の雲から再び滝のような雨が降り始めた。磯姫は涙を散らして叫んだ。
「彌助と一緒に生きられないというのなら、こんな世界など、今すぐ滅んでしまうがよい!」
「彌助さん、少しの間、俺に話をさせて」
鏡太朗が、自分の体の中の彌助の魂に言った。
「さくら、ライちゃん、河童くん。今までありがとう。俺一人のために人類を滅亡させる訳にはいかないよ。さくらやライちゃん、河童くん、それに世界中の人々が苦しむなんて俺には耐えられない。俺のために一人でも苦しむ人がいるなんて、絶対に耐えられないんだ。みんなを救うことができるのなら、俺の体は彌助さんに譲るよ」
「きょ、鏡ちゃん!」
「鏡太朗、何てことを言うんじゃ!」
「鏡太朗、お前の体を俺に譲るなんて、そんなことしちゃいけねぇ!」
磯姫は驚きの顔で鏡太朗を見つめた。
「俺は覚悟を決めたんだ。そりゃあ、これで人生が終わるなんて本当は嫌だよ。怖いよ。でも、さくらも、ライちゃんも、河童くんも、他の人たちや人間界で暮らす魔物たちも、誰一人として苦しめたくはないんだよ。もちろん、磯姫さんのことだって苦しませたくない。悲しませたくないんだよ。俺が彌助さんに体を譲ることが、みんなにとって一番いい解決方法なんだよ。
さっきのライちゃんみたいに、火車さんに生命エネルギーを燃やし尽くしてもらえば、俺の体は終わりを迎えて俺の魂は体から出ていくはずだよ。そうしたらグリーンマンさんに体を復活させてもらって、彌助さんの魂が体に入ればいい。きっとうまくいくよ。
さくら、ライちゃん、河童くん、今までありがとう。みんなのお陰でいっぱい楽しいことがあったよ。それに、今までいっぱい助けてくれたね。本当にありがとう。俺、みんながいてくれたから、今まで本当に幸せだったよ」
鏡太朗は滝のような雨に打たれながら、今までの人生に満足し切ったような幸せいっぱいの微笑みを見せた。
「そ、そんな……、そんなのってないよ。鏡ちゃんがいなくなっちゃうなんて」
「きゃー太朗、オラはそんなの嫌だきゃ……」
さくらと河童は泣きながら鏡太朗を見上げた。
「俺のために泣いてくれてありがとう」
鏡太朗は幸せそうに微笑んだ。
茫然として鏡太朗たちのやり取りを見つめていた磯姫は、突然何かに気づくと、周囲を見回した。いつの間にか魔物の子どもたちが磯姫を囲んでいた。火車が慌てて子どもたちに声をかけた。
「お、お前たち、危ないから隠れるんだよ!」
子どもたちは口々に言った。
「お願い、その人を連れていかないで」
「その人はとても優しくて、一緒にいると楽しくなるの」
「その人は人間なのに、あたしたちに優しくしてくれた。一緒に遊んでくれた」
ピラコが泣きながら磯姫に訴えた。
「その人は一生懸命あたしを助けようとしてくれたの! その人を返して! お願い! その人を返してえええええええええええええっ!」
ピラコは力いっぱい泣き叫ぶと、声を上げて泣き出した。子どもたちの言葉を聞いた磯姫は、激しく動揺していた。
それまで黙って俯いていた來華が、何かを決心して磯姫を見上げた。
「鏡太朗を連れて行くというなら、代わりにわしを連れて行くんじゃ! わしの体を彌助にくれてやる! だから、鏡太朗だけは返してくれ……。頼むから、お願いだから……、鏡太朗だけは返してくれ……。お願いじゃ」
來華は宝石のようにキラキラと輝く涙を零しながら、磯姫を真っ直ぐ見据えていた。
「ラ、ライちゃん……?」
鏡太朗とさくらは來華の言葉に驚愕し、揺らぐことのない強い決意で磯姫と対峙する來華の姿を呆然として見つめていた。
磯姫は俯くと、やがて一言呟いた。
「悔しいな……」
突然雨が止んだ。
「わらわと彌助の周りにいたのが、お前たちのような人間や魔物たちだったら、きっとわらわと彌助は幸せな日々を過ごせただろうに……」
青空が広がっていく中、顔を上げた磯姫は、大粒の涙を流しながら柔和に微笑んでいた。