10 人類の終わりの時
老神主は住宅の居間でお茶を淹れながら、ソファに座っているもみじに言った。
「もみじちゃん、よく聞きなさい。どんな理由があろうとも、海にある魔界との出入口は決して開放してはならない。出入口を開放した時、人類は終わりの時を迎えるのだ」
老神主は深刻な表情をしていた。
「牛鬼とは、人類の終わりをもたらすほど恐ろしい魔物なのですか?」
「確かに牛鬼は恐ろしい。牛鬼が目覚めると、どれだけの人が犠牲になるかわからない。しかし、人類の最後をもたらす存在は牛鬼ではない! 『磯姫』なのだ!」
「じーちゃん! しっかりするだきゃ!」
人間の姿に戻った河童が、胸から血を流して気絶している緑色のカッパの姿のじーちゃんに泣きながら言った。
「う……ん……、太郎! 心配かけてすまなかった。じーちゃんは大丈夫だ」
人間の姿に戻って河童に助け起こされたじーちゃんは、隣の島を見つめた。海を隔てて砂浜と向かい合っている丸い島の崖の中腹に、大きな洞窟が見えていた。
「太郎、見なさい。牛鬼の岩の陰にあったあの洞窟が、魔界との出入口のようだ」
洞窟の中は底が海面に隠れており、奥には暗闇しか見えなかった。洞窟の前に転がっていた大きな岩の破片が突然金色に輝き始めた。
「ライちゃん、あれは何?」
「さくら、体に戻ったんじゃな」
さくらたちが見つめる中、輝く岩の破片が粉々に崩れ、その中から直径二メートルほどの金色の光の球体が出現し、海の上を飛んでさくらたちの目の前まで来ると、砂浜に着地して消え去った。光の球体が消えた場所には、赤紫色の小袖と呼ばれる和服を着た裸足の若い女性が、紫色の長い髪を海風になびかせて立っていたが、とても美しい顔立ちの女性は両目から涙を流し続け、その表情には激しい怒りと深い悲しみが満ちていた。
美女はさくらたちを睨んで言った。
「人間たちよ、滅びゆくがよい!」
美女の二本の脚の形が歪んで四本のへびの尾に変わり、美女の上半身を高く持ち上げた。美女は両手を高く掲げながら、天を仰いで叫んだ。
「長年に渡る激しい怒りと悲しみで極限まで高まった我が魔力よ! 人間たちが棲むこの世界を海の底へ沈めるのだ! 今こそ、全ての人間を世界から消し去るのだ!」
美女の両手から赤紫色の光が放たれて天高く伸びていき、光が到達した空の一点から赤紫色の厚い雲が現れると、見る見るうちに空全体に広がっていった。やがて、赤紫色の雲から滝のような激しい雨が降り出し、鏡太朗は雨に打たれて意識を取り戻した。
「わらわが魔力で生み出したこの憤怒と悲嘆の雲は、やがて人間界を覆い尽くし、無限に振り続ける雨が全てを呑み込み、全ての人間を滅ぼすであろう!」
赤紫色の雲は滝のような雨を降らせながら、もの凄い速度で日本列島の上空を覆い尽くし、全世界に向かって広がっていった。雨が降っている場所では、川や湖、海の水位がどんどん上昇し、びっくり島でも海の水位が上がり続けて鏡太朗が倒れている砂浜まで達した。
鏡太朗はよろよろと起き上がると、土砂降りの雨の中で美女に懇願した。
「お願いだから、この雨を止めて! このまま雨が振り続けたら、世界がメチャメチャになっちゃうよ!」
美女は涙が溢れ続ける悲しみと怒りの入り混じった目を鏡太朗に向け、鏡太朗は美女を真っ直ぐ見つめて声を和らげた。
「どうして人間を滅ぼしたいの? 俺たちがきっと力になるから、何があったのか話を聞かせて!」
「わらわの話を聞かせろだと? まあ、いい。聞かせてやろう。人間とはいかに残酷であるのか、そして世界から抹殺すべき存在なのだということを。わらわは魔界から来た磯女族の磯姫だ」
老神主はソファに腰を下ろすと、正面に座っているもみじに言った。
「今から三百年程前、魔界から恐ろしい魔物が二体やって来たと言われている。一体が磯姫という腰から下が四本のヘビの体になっている魔物で、人々を襲って生き血を吸っていたという。当時の人々は魔物を『妖』などと呼んでいた」
土砂降りの海岸で、磯姫は鏡太朗たちを見下ろしながら口を開いた。
「わらわは磯女族の王女として、魔界の磯女族の国で何不自由ない生活をしていたが、決まった場所で暮らし、一族の中の決まった者とだけ関わる単調な日常の繰り返しに物足りなさを感じていた。わらわの安全を守るため、そして王族だけが持つ特別な魔力で一族を守るため、国から出ることが許されない王女という立場に息苦しさも覚えていた。わらわは国の外にどんな世界が広がっているのか、この目で自由に見て回ることを夢見ていた。
ある時、この世には魔界と人間界の二つの世界が存在しており、大昔から魔界の魔物と人間界の人間が交流を続けた結果、言語や文化に影響を与え合ってきたと一族の長老から聞いた。魔界に古来から伝わる文字を使っている部族もいるが、魔界の多くの地域では、人間界と同じ言語と文字を使っているという。
幼い頃から好奇心が強かったわらわは、魔界の言語や文化に影響を与えた人間界と人間に興味を持ち、実際にこの目で見てみたいと思った。人間とはどんな生き物で、どんな生活をしているのか、そして言語や文化の共通点や違いについても知りたいと思ったのだ。
とうとう我慢できなくなったわらわは、人間界への冒険に旅立つことを心に決め、魔界の海の底にあった磯女族の国の王宮をこっそり抜け出した。気分は爽快だった。人間界という未知の世界への旅立ちにワクワクしながら、わらわは人間界への出入口があるという人魚の国に向かったのだ。しかし、海の底にあった人魚の町は破壊されており、一面廃墟になっていた。そして、そこには夥しい数の牛鬼が巣食っていた。どうやら人魚の国は、牛鬼の大群に襲われて滅亡したようだった。人魚の姿は全く見当たらなかった」
「え? に、人魚の国が……滅亡だきゃ……?」
磯姫の言葉に呆然とした河童はその場に崩れ、じーちゃんが慌てて河童の体を支えた。
「わらわは牛鬼たちに見つからないように、人間界との出入口を目指した。しかし、人間界との出入口を発見した時に一体の牛鬼に見つかり、その牛鬼がわらわに襲いかかってきたのだ。
わらわは磯女族の王女として特別な魔力を持っている。激しい怒りで発動し、敵を撃破する強力な魔力も生まれつき備わっている。しかし、わらわはそれまで怒りという感情を抱いたことがなく、幼い頃からいくら訓練を積んでも、その魔力を発動させることはできなかった。それに、わらわは誰かと争うことも、誰かを傷つけることも絶対にしたくはなかった。わらわはその牛鬼に追われながら、人間界への出入口に逃げ込んだのだ。そして、人間界まで追ってきた牛鬼から逃げ続け、牛鬼を振り切った時には、この島から離れた海岸に辿り着いていた。
わらわはその場所で海の中に身を隠しながら、人間たちが舟に乗って歌いながら魚を獲ったり、子どもたちが楽しそうに波打ち際で遊ぶ様子を眺め続けた。わらわは人間とは友好的な生き物で、友達になれる存在だと思った。そして、意を決したわらわは、海岸に上陸して人間に話しかけてみた。しかし、そこにあの牛鬼が現れ、わらわが話しかけた人間を丸呑みにし、魂を食らっていったのだ。その牛鬼はそのまま海岸に棲みついてしまった。
人間に親近感を抱いていたわらわは、人間を守りたいと思い、その場所に近づく人間を見つけると、人間に牛鬼のことを伝え、急いでその場を離れるように訴えたが、いつもあの忌々しい牛鬼が現れて人間を丸呑みしていった。やがて、わらわはその海岸に近づいた人間に、磯女族の戦闘モードである四本の尾があるこの姿を見せて脅かし、その場から逃げさせて、人間たちを牛鬼から守るようになった」
老神主がもみじに言った。
「そして、もう一体の魔物が牛鬼だ。磯姫と牛鬼は仲間で、一緒に人を襲っていたという。まず、磯姫が人間に化けて海にいる人間に近づいて生き血を吸い、その後に牛鬼が現れ、その人間を丸ごと食らっていたと伝えられている」
土砂降りの雨に打たれながら、磯姫が悲しそうに言った。
「いつしか人間は、わらわの姿を見ただけで怯え、遠くからわらわを罵倒し、石を投げてくる者もいた」
老神主が続けた。
「その地域の人々は、有名な神伝霊術家に磯姫の退治を依頼した。海の神様の力を借りる神伝霊術家の強力な術に、磯姫は成す術もなく、傷だらけで海へ逃げていったという」
磯姫が言った。
「ある日、奇妙な術を遣う人間が現れて、わらわを退治しようとした。その人間が術を遣うと、海の水が槍や矢になって、わらわに襲いかかった。
しかし、わらわは人間を傷つけたくはなかった。だから、どれだけ傷つけられても、戦闘モードに変身することも、反撃することもなく逃げ続け、やがて海に逃れて意識を失ってしまった。
気がつくと、わらわは粗末な小屋の中のボロボロの布団で寝ていた。隣には、わらわが目覚めた様子を見て無邪気に喜ぶ若い男がいた。わらわは気を失ったままこの島に流れ着き、この島で漁師をしていた彌助と名乗るその男に助けられたのだった。彌助はいつも優しく、輝くような笑顔で笑っていた。
彌助は毎日新鮮な魚を食べさせてくれた。だが、いつも彌助は腹がいっぱいだと言って優しく笑い、決して何も食べなかった。日に日にやつれていく彌助を見て、絶対に何かがおかしい、何かを隠していると思ったわらわは、ある時彌助を問いただした。なかなか本当のことを言わない彌助に、わらわはあきらめずに訊き続けた。
やがて、観念した彌助は本当のことを語った。彌助は毎日漁の後、舟で魚を売りに行き、傷だらけだったわらわのために薬を買っていたのだ。わらわが食べる分の魚だけを残して、他の全ての魚をわらわの薬に替えていたのだ。彌助の話を聞いたわらわは涙が止まらなかった。
わらわは彌助に惹かれ、彌助と一緒に生きていくことを心の中で密かに願うようになった。やがて、わらわは傷が癒えたが、彌助が住む小屋からは外に出なかった。わらわを狙う人間に見つかると、彌助に迷惑がかかるからだ。
だが、彌助は、傷が治ったのに決して小屋から出ようとしないわらわを不思議に思った。わらわは意を決し、この戦闘モードに変化した姿を彌助に見せ、わらわが魔界から来た魔物だと伝えた。彌助はとても驚いたが、すぐにいつもの輝く笑顔を見せてくれた。そしてわらわが人間ではなくても、ずっと一緒にいたいと言ってくれた。だが……」
幸せそうに微笑んで彌助との思い出を語っていた磯姫の表情が、急に険しくなった。
「ある日、村の者が牛鬼に食われたと彌助が言った。恐らく牛鬼は、棲みついた海岸に人間が近づかなくなったため、食うための人間を求めて場所を移動したのであろう」
老神主がもみじに言った。
「人を襲う恐ろしい妖、牛鬼と磯姫の噂は彌助の村にも伝わっていた。村人が集まっている時に、誰かが、一人暮らしの彌助の家から最近若い女の声が聞こえてきて怪しいと言い出した。村人たちは、磯姫が彌助に取り憑いてこの島に棲みつき、仲間である牛鬼を呼び寄せたに違いないと考えた。そして、彌助と磯姫のせいで村の者が牛鬼に食われたと考えた村人たちは激怒し、怒声を上げながら彌助の家に押し寄せた」
磯姫は悲しみに沈んで話を続けた。
「彌助は、村人が叫びながら押し寄せてくるのを見て、わらわに海に隠れるように言った。わらわは彌助が心配だったが、わらわがいないことを村人が確認すれば全てが丸く収まると言って、彌助はいつもの輝くような優しい笑顔を見せた。わらわは彌助のことが心配でたまらなかったが、彌助の言う通り、海の中に隠れた。彌助は事が収まれば海に迎えに来ると言っていたが、日が暮れて夜になっても、彌助は来なかった。
わらわは様子を見るために砂浜に近づいた。そこでわらわが見たのは、月明かりに照らされて砂浜に横たわる彌助の姿だった。傷だらけで上半身を縄で縛られた彌助の心臓は、すでに動いていなかった」
海面が膝まで上昇した海岸で、鏡太朗とさくら、來華、河童、じーさんは息を呑んだ。
老神主が憎々しげに言った。
「村人たちは彌助に散々暴行を加えた挙げ句、牛鬼を鎮めるために、彌助を縛り上げて海岸に放置して生贄にしたのだ」
「な、何てひでぇことを……。そいつら、ぜってぇに許せねええええええっ!」
もみじは、込み上げる怒りを抑えられずに叫び声を上げた。
老神主は、ふと窓の外に目を向けた。
「そういえば、さっきから激し過ぎる雨が降っているな。空全体を覆っているこの赤紫色の雲は……。嫌な予感がする」
磯姫は悲痛な表情で話を続け、鏡太朗たちも胸が引き裂かれる思いで話を聞いていた。
「わらわは大き過ぎる悲しみに泣き崩れた。牛鬼に魂を食われるというのが、どういうことなのかわかるか? 普通の死であれば、魂は死後の世界へ行き、新しい命に生まれ変わることもできる。形は変わっても心は残り続けるのだ。しかし、魂を食われてしまえば、存在の全てが永遠に消えるのだ。彌助の存在の全てが消えたのだ。人間たちによって、彌助の存在が永遠に奪われたのだ!
やがて、わらわは生まれて初めて激しい怒りを覚えた」
磯姫の腹部や腰から、六匹の怒り狂った紫色の犬の頭が出現した。
「そしてわらわは、激しい怒りで魔力が発動するこの凶暴な犬の頭を、生まれて初めて出現させたのだ!」
渋谷の高層マンションの最上階で、人間の姿をした黑リリィが、バルコニーに面した窓から外を眺めていた。空を覆い尽くす赤紫色の雲からは、滝のような雨が渋谷の街に降り続けていた。
「不気味な雨ね。何だか世界の終わりが来るみたい」
「リリィ、人間が心配かい? そういえば、この前久しぶりにもみじちゃんに会ってから機嫌がいいね」
高級なソファーに深々と座っている黑リリィの父が、読んでいる古くて厚い洋書から顔を上げて笑顔を見せた。
「パパ、変なこと言わないで! もみじをからかうのが面白かっただけ。人間が滅んだって別に気にならないけど……」
「けど?」
「人間がいなくなった世界って、悪魔にとっては退屈だなぁって」
「ふふふっ、確かにそうだね」
『この雨は自然現象なんかじゃない。人間に大変なことが起こりそう……。もみじに何もなければいいんだけど……』
黑リリィは、不安な表情で窓の外を見つめ続けた。
もみじと老神主は、食い入るようにテレビの緊急ニュースを観ていた。ニュースでは、地球全体が赤紫色の雲に覆われ、全世界で激しい雨が降っていることを伝えていた。
「砂漠や南極でも豪雨が降るなんてありえねぇ。え? こ、これは!」
もみじは、テレビに映し出された映像を見て唖然とした。人工衛星が撮影したその映像は、赤紫色の星に変わり果てた地球の姿だった。
テレビ局のスタジオでは、深刻な表情の専門家が、この雨が四十日間降り続くと、地球上のほとんどの陸が海に沈むとの予測を述べていた。
老神主は、窓の外で空を覆い尽くしている赤紫色の雲を見つめて口を開いた。
「彌助の魂が牛鬼に食われた後、このような赤紫色の雲が空を覆い尽くし、激しい雨が降り続いたと伝えられている。磯姫の体からは六匹の犬の首が生え、磯姫は復讐のために村へ向かった。六匹の犬の首が怒り狂いながら伸びていき、その鋭い牙で村人たちを次々と襲い、命を奪ったのだ」
激しい雨の中、鏡太朗たちの腰まで海面が上昇した海岸では、磯姫が話を続けていた。
「人間という存在は、なぜ同じ種族である人間に対して残酷なことができるのか? 自分と同じように痛みや悲しみを感じる者に、どうして痛みや悲しみを与えるような酷い仕打ちができるのか? わらわは思った。人間が消えることこそ、世界の秩序と平和のために必要なことなのだと。そして、わらわは悟った。わらわの怒りと悲しみで生まれるこの雲と雨には、全ての人間を滅ぼす力があることを。わらわは多くの村人を手にかけた後、この世界から全ての人間が消え去るまで、この雨を降らせ続けることを決めたのだ。
その時、あの忌々しい牛鬼が姿を現した。わらわの魔力で人間の世界が滅びゆくことを悟ったのだろう、そこの島にある魔界との出入口から、魔界へ逃れようとしていた。わらわは人間と同じくらい牛鬼も許せなかった。だが、彌助の魂を食って吸収した牛鬼を攻撃することは、彌助を傷つけるような気がして躊躇われた。消滅してしまった彌助と、少しでも一緒にいたいという思いもあった。そして、わらわは牛鬼を尾で捕らえてともに岩となり、長い眠りについたのだ」
老神主がもみじに言った。
「牛鬼と磯姫は仲間だと言われているが、牛鬼が彌助の魂を食ったことで仲違いをしたらしい。磯姫は岩になる前に、村人の生き残りに向かって叫んだという。もしこの先目覚めることがあれば、その時こそ必ず人間を一人残らず滅ぼし、この世界から消し去ると。この悲しくも恐ろしい一件が起こって以来、あの島は呪われた島と呼ばれて近づく者がいなくなったのだ」