第5話 究極のルーティン
まだ微かな闇を残す早朝、屋敷の中で誰よりも最初に目を覚ますのは俺だった。
寝室の小窓から差し込む光はまだ弱く、明かりの灯らない廊下は静寂に包まれている。
屋敷全体が深い眠りの中にあるこの時間帯こそが、俺にとって最も重要な時間なのだ。
メイドたちが給仕の支度を始める前、東の空がほんのりと白み始めるその時間帯。
時刻はおそらく午前4時半頃だろう。
使用人たちが動き始めるのはまだ1時間近く先の話だ。
足音を殺し、忍び足で廊下を進み、誰にも気付かれないよう屋敷を抜け出す。
朝の空気は昨晩の雨露で湿度を含んでおり、吸い込むとひんやりと肺を潤してくれる。
行き先は、決まっている。
ブチャプリオ領が誇る、連なる山々だ。
田舎貴族とはいえ、我が一族は相応の資産は持っている。
屋敷から徒歩一時間ほどの場所に、幾つもの山を所有しているのもその証だろう。
その山々は代々我が家が管理しており、木々から採れる木材や、山奥で取れる薬草なども貴重な収入源となっている。
もっとも、俺が利用するのはその経済的価値ではなく、広大で人里離れた空間そのものだ。
「よし、今日も頑張るか」
早朝の冷気を胸いっぱいに吸い込みながら、俺は山へと向かって走り出す。
最初はウォーミングアップの軽いジョギング。
汗が額に浮かび、背中を伝って流れ落ちる。
朝の涼しさも、激しい運動の前では無力だった。
レオナルドの体は、目覚めと同時に例の"朝の衝動"に襲われる。
この体が抱える最大の問題の一つ。
朝、目覚めと共に襲ってくる生理的な現象。
下半身の一部が朝日に向かって力強く屹立するのは、もはやデフォと化していた。
しかしその衝動も、激しい運動で流す汗と共に紛らわすことができる。
走ることで血流が全身に分散し、局所的な問題は自然と解消される。
この厄介な体の扱いも、だいぶコツを掴んできた。
二十分ほど走った頃、俺は山の中腹にある、お気に入りの空き地に到達した。
ここは木々が開けており、魔法の練習をするには最適な場所だった。
誰にも邪魔されない早朝の静寂は、魔法の修練にも持ってこいだ。
屋敷の中では、魔法の練習は難しい。
音や光で使用人たちに気づかれるリスクもあるし、なにより室内で魔法を撃つのは危険すぎる。
ここなら、誰に遠慮することもなく、思い切り魔法を使える。
山の大自然を相手に、存分に力を試すことができるのだ。
もっとも、この森には相応の危険も潜んでいる。
俺は山の更に奥を見やった。
深い森の向こうで、何かが蠢いているような気配を感じることがある。
両親が珍しく厳格な口調で、「あの森には入ってはいけない」と言い聞かせてきたことがある。
山に遊びに行きたいと言った俺に対し、普段は甘い父ががらりと表情を変えて、厳しい声で警告したのだ。
母も珍しく神妙な面持ちで、その警告に同調していた。
遭難の危険性もさることながら、モンスターの出没が最大の懸念なのだろう。
実際、俺も何度か遭遇している。
しかし出会うのは大抵、スライムのような無害に近い魔物だ。
ある時、好奇心に駆られて森の奥へと足を踏み入れた。
そこで目にしたのは『ここから先危険』と記された朽ちかけた看板。
看板の向こうから漂ってくる空気は、明らかに今まで感じたものとは違っていた。
重苦しく、どこか邪悪な気配が感じられる。
「いずれ、あの先にも……」
呟きながら、いつか力試しに挑戦したいという思いが胸をよぎる。
だがそれには、十分なレベルや実力、そして何より確かな自信を得てからの話。
今の俺では、まだまだ力不足だ。
焦りは禁物。
着実に、一歩一歩前進していくべきだ。
今はまず、目の前の特訓に集中しよう。
*
「さて、今日も始めるか」
基本的に、朝の時間に俺がやることと言えば、以下の三つだ。
・全魔法の火力の底上げ。
・全魔法の精度の向上。
・催眠魔法の試行と強化。
まずは火力を上げる特訓。
言うまでもないが魔法にとって火力はなによりも大事なこと。
これは絶対に無視できない項目なので、一番特訓に時間を割いている。
具体的にやることと言えば、自分の背丈を軽く超えるほどの巨大な岩石に向かって、火属性魔法Lv1であるファイヤーボール、雷属性魔法Lv1のサンダーボルトをひたすらに撃ち込む。
Lv1の魔法をあえて使うのは、少ないMP消費量で最大限の威力を発揮させるのが理想だからだ。
より上位の魔法を覚えれば火力は当然上がる。
基本魔法を極限まで鍛え上げることで、コストパフォーマンスに優れた戦闘スタイルを確立できるはずだ。
幾度もの反復練習を経て、岩石は焼け焦げ、所々に深い亀裂が走り、真っ黒に煤ばんでいた。
しかし、まだ破壊には至っていない。
この岩石の頑丈さが、今の俺の魔法の限界を表している。
目標はこの岩石を、木っ端微塵に破壊する事。
それはまだまだ遠い目標かもしれない。
次に精度を上げる特訓。
どんな強力な魔法が使えた所で、当たらなければ意味がない。
これは戦闘の鉄則だ。
人によれば、精度は火力以上に重要な項目になるかもしれない。
その際、威力の調整を兼ねて、俺は先程とは打って変わって最小限の力で撃ち込む。
ダメージの低いウォーターボールが直撃した時、木々がさざめく程度に身を震わせる。
すると、ひらひらと木の葉が辺りに舞い散る。
その舞い散った木の葉に向かって、今度は風属性魔法Lv1のウィンドカッターで一枚一枚正確に、尚且つ素早く切り裂く。
これがかなりの難易度だ。
葉は空気抵抗を受けながら不規則に舞い、その軌道を予測するのは困難を極める。
上下左右に揺れながら、時には回転もする。
まさに生きた標的のようだ。
いつかその全てを一瞬にして分断することが出来るようになれば、俺は胸を張って一人前と言えるだろう。
そして最後の課題が、催眠魔法の試行と強化だ。
これこそが俺の最大の武器であり、同時に最も研究の余地がある能力。
この魔法の可能性は実に多岐にわたり、未だにその全貌を把握しきれていない。
催眠は具体的に何が可能なのか。
どういう時に掛かりやすく、どのような生物が耐性を持つのか。
そもそも発動条件は何なのか——。
そんな疑問を解明すべく、低レベルのモンスターを実験台にして日々検証を重ねている。
今のところ判明している効果の一つが、自己催眠。
「これが使えるようになって、本当に助かってるんだよなぁ」
この発見は俺の生活を一変させた。
野菜嫌いの克服により食事改善ができ、疲労感の除去により長時間の修行が可能になった。
それだけでなく、集中力の向上や記憶の定着にも応用できることが分かってきた。
まさに日常生活の救世主とも言えるスキルだ。
ところが厄介なことに、催眠で打ち消せないものがある。
それは精通を境に新たに得たスキル。
────その名も『無尽蔵性欲』
その名の通り、無限に性欲が湧いてくる謎スキル。
なんと初めからレベルMAXという、余計なお世話としか言いようのないスキルである。
これの影響により、俺は一日中ムラムラして仕方がなかったのだ。
レベルMAXということは、これ以上強化されることはないが、逆に言えば常に最大の状態で発動し続けるということでもある。
試しに自己催眠を使って、この性欲を打ち消せないか試してみた事があるが何の効果もなかった。
催眠の力ではスキルの効果までは打ち消せないらしい。
つまり俺は一生この性欲と上手く付き合っていくしかないようだ。
やはり性欲を掻き消すのは、血の滲むような努力しかない。
運動によるエネルギーの転換こそが、唯一の対抗手段なのだ。
自己催眠の他には、催眠をかけた対象に簡単な命令や操作を行えるものがある。
俺は森で遭遇した低レベルのサル型モンスターをよく操作して色々な検証をしていた。
その場で意味もなく腹筋させたり、一発芸をやらせたり。
最近はサルに盆踊りを踊らせることにだって成功した。
これはスキルレベルが上がってきたお陰だろう。
レベル1の頃は単純な動作しか命令できなかったが、今ではかなり込み入った内容も指示できる。
この調子でレベルが上がっていけば、いずれはもっと高度な操作も可能になるかもしれない。
その他には、対象を眠らせたり、硬直状態にさせたり、発情させたりする事も可能だ。
睡眠誘導は戦闘では非常に有効だろう。
敵を眠らせている間に逃げるなり、攻撃するなりできる。
硬直も同様に戦術的価値が高い。
相手を動けなくした隙に、強力な魔法を叩き込めばいい。
発情に関しては……まあ、使いようによっては色々な場面で応用が利くかもしれないが、元のレオナルドに近付きそうなので、使用する気は今のところない。
肝心な催眠の発動条件はというと、目を見るか、体に触れるか、俺の声に耳を傾けるか。
これ以外にも催眠にかける方法が存在するかもしれが、現状この三つが俺にとってオーソドックスな暗示方法になる。
「ふぅ……そろそろ切り上げるか」
とりあえず朝の分のルーティンを無事こなした。
以上が早朝から行なっている特訓の事例だ。
朝食の時間までには間に合わなければいけないので、ほどほどの所で切り上げる。
ちなみに朝の時間にMPを消費するのは、必ず半分までと決めている。
朝からヘトヘトになっては昼の活動の支障が生じてしまう。
自己催眠の効果で疲れは全く感じないが、これから昼と夜も頑張らねばならないので体力も余裕を持って残しておく。
ちなみに疲れを感じないという状態は、かなり危険だったりする。
少し前に、自身のHPとMPゲージが残り少ないことに気付かなかったことがある。
それでも俺は筋トレに励んでたら、そのままゲージがゼロになってしまい、その場で事切れるように気絶した。
その後、俺は数日間ポンコツとなり、何も出来なかった。
体が悲鳴を上げている中、無視して強行すると、こういう事になる。
今考えても死ななくて良かった思う。
そして昼からは勉強……と見せかけて、こっそり魔法の座学をしている。
書斎にこもって一人で勉強していることになっているが、実際は魔法理論書に没頭している。
考えなしに実技に励むのではなく、ちゃんと知識を持っておけば効率よく成長できる。
これは座学で得た事の一つだが、俺は毎日一滴も残さず、魔力を全て使い切ることを目標としている。
魔力は使用すれば使用するほど、その上限は際限なく伸びていくらしい。
筋肉と同じで、魔力も酷使することで強化される。
限界を超えた負荷をかけることで、さらなる成長を促すことができるのだ。
放っておくと夕方にはMP自然回復のスキルでほぼ全快しているので、夕食を終えるとまた屋敷を抜け出してここにやって来る。
そして夜は朝よりも激しいメニューを行う。
夜の修行では、火力と精度の練習をより長時間行う。
朝の二倍、三倍の魔法を撃ち込む。
それをただ愚直に、毎日、毎日、繰り返す。
単調な訓練の繰り返しかもしれないが、これこそが強さへの近道だと俺は信じている。
それに催眠状態というのは、ずっと永続するわけではない。
催眠の効果時間は、俺の魔力が切れるまでだ。
つまり、MPがゼロになると自動的に催眠が解除される。
就寝時間になると、俺はようやく己へかけた自己催眠を解く。
すると、溜まりに溜まった疲労感がどっと押し寄せてきて、俺はそのまま夢を見ることすら無く、泥のように眠る。
その疲労感は想像を絶するほどだ。
まるで巨大な重しが全身に乗しかかってくるような感覚で、体が押しつぶされそうになる。
しかし、その疲労こそが血の滲むような努力の証し。
俺は満足感に包まれながら一瞬で眠りにつく。
眠りが浅いとエッチな夢を見てしまう可能性があるから、その心配もなくていい。
深い眠りに落ちることで、煩悩の入り込む余地もない。
このハードな生活を続けていくことで、エッチな事を考える隙など微塵も作らない。
これが忌まわしき呪い、『無尽蔵性欲』に対する完璧な対処法。
これが俺の編み出した究極のサイクルであり、究極のルーティンなのだ。
「……ステータスオープン」
特訓を終えるごとに俺は、こまめにステータスを確認している。
成長の証を数字で実感する事が日々のモチベーションになっていた。
今のステータスはこんな感じだ。
――――――――――――――――――――
Lv 5
HP130/220
MP222/555
スキル
・無尽蔵性欲(LvMAX)
・催眠魔法(Lv4)
・全属性適応(Lv3)
・全武器適応(Lv1)
・MP自然回復(Lv3)
――――――――――――――――――――
レベル1だった頃と比べると、格段の成長を遂げていることが分かる。
しかし全武器適応のスキルだけは未だに一度も上がっていない。
ずっとレベル1のまま停滞している。
他のスキルが順調に成長する中、このスキルだけが取り残されているのが歯痒い。
それも当然だが、俺は武器らしい武器を手に持ったことすら無かった。
魔法の修行には熱心だったが、武器の訓練は完全に後回しにしている。
体力もついてきた頃だし、そろそろ魔法だけでなく武器も扱ってみたい所だ。
そういえば、執事のルドルフが過去に傭兵をやっていたということを小耳にはさんだことがある。
若い頃のルドルフは相当な腕前の剣士だったのだとか。
経験者から直接指導を受けられれば、独学よりもはるかに効率的に習得できるに違いない。
帰ったらさっそくお願いしてみよう。
そんな事を考えながら俺は、屋敷へと戻ることにした。
*
「あっ」
屋敷の門前で予期せぬ出会いがあった。
メイドの一人と鉢合わせしたのだ。
彼女も俺の姿に気付き、もはや別の入り口から忍び込むことも叶わない。
「しまった……」
完全に油断していた。
普段なら彼女たちのスケジュールを把握して巧みに避けているのに、今日に限って運が悪い。
いや、そもそも、こんな時間に掃除をしているのもおかしい。
通常、メイドたちが朝の掃除を始めるのは六時頃からで、俺はいつも五時過ぎには屋敷に戻れるよう調整している。
まだ六時にもなっていないというのに、なぜこんなに早く仕事を始めているのか。
彼女の顔を見て、俺は思わず息を呑んだ。
————そう、彼女は女体盛り事件と尻撫で事件の被害者その人だ。
メイドの中でも一際可愛らしい彼女は、以前のレオナルドが散々ちょっかいを出していた相手でもある。
艶やかな黒髪を後ろで結った、年の頃は19,20歳であろう少女。
すらっとした体型に、整った顔立ち、澄んだ瞳が印象的だ。
確か名は、サーシャとか言ったっけ……。
心の中で名前を呟きながら、俺は無意識に一歩後ずさっていた。
彼女との接触は極力避けたい。
この性欲モンスターの体が、いつ暴走するか分からないのだから。
ゆっくりと深呼吸をして、心を落ち着ける。
平常心、平常心だ。
「お、おはよう」
とりあえず俺は挨拶を投げかけてみた。
途端に緊張で喉が渇くのを感じた。
心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。
「おはようございます、レオナルド様」
サーシャは丁寧に会釈をしながら応える。
そのしぐさには、以前のレオナルドに対する恐怖心のようなものは感じられない。
「……こんな時間から外出なされていたのですか?」
サーシャの質問が俺の思考を現実に引き戻す。
確かに、この時間に外出していることの方が不自然だろう。
「……あー、いや、まあ。天気いいし、散歩とか……?」
俺は目を泳がせながら見え透いた嘘をつく。
催眠で疲れこそ感じないが、肩で息をしながら散歩というのも説得力に欠ける。
何十キロと走ってきたのだから、当然体は激しく酸素を求め、汗だって滝のように流れている。
シャツは汗でびしょ濡れだし、髪もべったりと額に張り付いている。
どこからどう見ても、激しい運動をしてきた人間の姿だ。
そんな俺を見て、サーシャの表情が、疑念を深めていくのが分かる。
彼女の瞳が俺を上から下まで観察し、明らかに辻褄の合わない説明に首を傾げていた。
「いやー、いい運動になって、お腹もペコペコだ」
俺は強引に会話を打ち切った。
「それでは朝食にしよう!」
俺は逃げるようにして、サーシャの間を通り抜けていった。
「あ、レオナルド様……!」
サーシャの声を背に受けながら、そそくさと屋敷に入る。
何か言いたそうな様子だったが、聞いている余裕がなかった。
これ以上彼女の近くにいたら、あのスキルが暴走しかねない。
あの様子では、俺が何か秘密の行動を取っていることは間違いなく露見している。
まあ別に俺がやっている事がバレた所で、なにか不都合があるわけではないのだが。
むしろ、健全な努力をしていることが知られたって、悪いことはないはずだ。
評価が上がることはあっても、下がることはないだろう。
だが、だからといって努力なんて他人に見せびらかすものでもないしな。
俺は汗だくの服をサッと着替えて、無事時間通りに食卓につき、いつもと同じように朝食を摂った。
ただ、時折感じる視線の重みに、どこか落ち着かなかいものがあったが。