洗剤
ミライとユウキは新幹線に乗らず、ボロボロの建物から歩いて帰ってくることが出来た。二人は学校支給のタブレット端末を抱え、さっきまでの出来事をまだ信じられない様子で顔を見合わせていた。二人が座り込んだ床の上には、結局ミライが握りしめたまま持って帰ってきてしまった腕時計が置かれている。針は今は止まっているようだ。
「二人とも、駅に突然ワープして、東京で電車に乗って、洗剤をぶちまけた夢を見たんだね」ユウキは首をかしげた。そんなに不思議なことがあってたまるか。それに夢にしてはあまりにもリアルすぎた。駅の喧騒、ビニールに傘を近づける男、洗剤をぶちまけたときのツンとした匂い……すべてがリアルすぎた。
「ねえ、ユウキ。あの掲示板に書いてあった日付、覚えてる?」ミライがタブレット端末を起動させながら言った。
「えっと……1995年3月20日だったと思う!」
ミライがインターネットを開いて検索窓に「Wikipedia 1995年3月20日」と入力した。
「あれ、絶対夢じゃなかったよね」
母と父はまだ仕事から帰っていない。普段なら宿題でも始めている時間だが、今日はそんな気分にはなれない。画面に表示されたWikipediaのページをスクロールする。
「1995年……」
と、ある見出しが目に飛び込んできた。
『1995年3月20日 地下鉄サリン事件 オウム真理教によるテロで5人が死亡、二千人強が負傷』
ミライの手が止まった。ユウキが「何?!何見つけたの?!」とミライの肩越しに画面を覗き込むと、ミライは震える声で読み上げた。「1995年3月20日……東京の地下鉄で、オウム真理教っていう団体がサリンっていう毒ガスを撒いた事件……霞ヶ関駅とか、いろんな駅で起きた……」彼女は目を大きく見開いた。
ユウキが「毒ガス……まさか、夢の中のあの男が持ってたビニール袋って」と言いかけたところで、ミライが画面をさらにスクロールした。記事には事件の詳細が書かれている。「犯人はビニール袋にサリンを入れ、傘で突いて袋を破り、毒ガスを車内、地下鉄に充満させた……って書いてある。ユウキ、あの男、ビニール袋と傘、両方とも持ってたよね?!」
二人は顔を見合わせた。
「ミライ姉、あの駅はどうなったんだろう」
ミライは少し考えてから、なぜか首を縦に振った。「うん……私、あの電車の中でパイプユニッシュぶちまけたけど、結局男は袋を破ってたし……」
ミライは唐突に立ち上がり、洗面所に行ってパイプ洗浄用の洗剤を探す。奇しくも、我が家のパイプ洗浄洗剤もパイプユニッシュであった。一番最初には、水酸化ナトリウムと書いてある。
続けてWikipediaに打ち込む。
「サリン」
下へずっとスクロールしていくと、こう書いてあった。
「サリンの除染には塩基性水溶液が用いられる。」
別で地下鉄サリン事件の記事を読んでいたユウキが声をあげる。「ちょっと待って、ここ読んでみて」ユウキが指差したのは、記事の後半部分だった。「『事件当日、秋葉原駅では異臭騒ぎがあり、他の駅でみつかったものと同様のビニール袋がみつかったが、たまたま乗っていた子供二名がこぼした強塩基性洗剤により、奇跡的にサリンは無毒化され、毒ガスの被害は確認されず、乗客の混乱だけで済んだ……』秋葉原! 僕たちが降りた駅だよ?!」と叫ぶ。
「じゃあ、じゃあ……私達が、過去に行って……」
「僕たちが、事件を食い止めたってこと?!」
ミライは腕時計を手に持って見つめた。「この時計に二人で手を触れた瞬間、針が巻き戻って、光があふれてきて……私たち1995年の3月20日の東京にタイムスリップしたんだ」
彼女は時計をテーブルの上にそっと置いた。
「いったいこの時計、なんなんだろう?それにしてもどこかで見たことある気がするけど。」
そのとき、玄関のドアが開き、母の声が響いた。「ただいまー! 二人とも、お腹空いたでしょ?」ミライとユウキはハッとして振り返った。母が笑顔で入ってくる姿を見て、二人はなぜかホッとした。ユウキが「お母さん、遅かったね?!」と言うと、母は「ごめんね、帰り際に引き留められちゃって」と困った顔で言った。
ミライは母親とユウキが会話するのを眺めながら、まだ時計がなんなのか考えていた。ユウキに目配せすると、ユウキも目配せしてきた。ユウキは何も言わない。今日のことは両親には黙っていよう。何か言ってはいけないことの気がする。
床の上には、止まった腕時計が静かに寝そべっている。