怪しい男
いったい何が変なのだろう。他の客は傘を持っていないのに傘を握りしめていることだろうか。男はビニール袋を握りしめているが、あのビニール袋は不自然だ。中に入っているのは物ではないように見える。液体だろうか?
二人はホームの喧騒の中で立ち尽くしていた。ホームへ走り込んでくる電車の音がする。スーツ姿の人々がぶつからないのが不思議なくらいの勢いでお互いすれ違う。ホームへ電車が到着し、ドアが開き、男が電車へ乗り込む姿が見えた。隣でユウキがランドセルを背負い直しながら不安そうに叫んでいる――「ミライ姉、ここ人多すぎだし、早く帰ろうよ!」
「ユウキ、じゃあ私達も帰るためにあの電車に乗ろう」
ミライは手の中の腕時計をぎゅっと握って言った。
ミライとユウキは男の近く、電車のドア付近の場所を陣取った。
一駅ほど乗ったとき、男がおもむろにビニール袋を床に置いた。袋に傘の先を近づける動きを見せた。ミライは何故かギョッとしたが、男の行動が何を意味するのかはわからない。ただ、なんとしても男の行動を阻止しなくてはならない気がした。「ユウキ、あの人何かする気だよ、大声出して、気を引いて!」ミライは言うものの、急にそんなことを言われてもユウキもどうすればいいのか分からない。「え、どうするの?!」
そのとき、ミライの目に床の端に置かれた真っ黄色のボトルが飛び込んできた。清掃員が忘れたのか、はたまた乗客の忘れものか。「パイプユニッシュ」と書いてある。電車に配管はない。乗客の買い物の忘れ物なのだろうか。
とるものもとりあえず、ミライは洗剤の蓋を開け、男の足元に中身をぶちまける。男が「何だ?!」と驚きながら液体の海から足を離す。突然車内に広がる刺激臭と液体に、乗客達がざわめき、怒声を上げ始めた。乗客の誰かが叫ぶ。「窓を開けろ」「子供のいたずらか?」「毒ガスじゃないのか」
ミライがふと男の方を見ると、男は傘で袋を潰した後だった。袋の液体が、洗剤に混じる。
「駅員を呼べ!」と誰かが叫んだ。電車がまもなく駅に着き、男は次の駅で降りて行く。
『秋葉原、秋葉原です』
ぶちまけた洗剤は人々の靴と床を多少溶かしたが、乗客の杞憂とは裏腹に、この日、秋葉原の駅で異臭の元となったのは毒ガスではなかった。
『車内清掃のため、しばらく停車します』
ミライとユウキも慌てて男を追いかけて降りるも、男を見失ってしまった。
ユウキが息を整えながら、ミライに怒りをぶつける。「ミライ姉……何だったの、あれ。何であんなことしたの?!」ユウキが震える声で聞くと、ミライは少し考えてから答えた。「わからないけど……とにかく、あの人が何かしようとしてるのを止めないとと思って……」
結局、何も起きなかった。でも、何も起きなくて良かったじゃないか。
今度は計画的に電車に帰り道を探すために、とりあえず路線図の前に立つ。上野駅か東京駅まで行けば新幹線か何かがあるだろう。でも新幹線の子供料金っていくらくらいなんだろう。自分の持っているようなお金で乗れるのだろうか。
乗り換えのために改札を出ようと階段を上がると、駅に掲示板らしきものがあるのが目に入った。この掲示板っていったい何のためにあるのだろう。掲示板に目をやった瞬間、ミライは目を瞠る。
「掲示板の日付を見て!」
「1995年3月20日?!」
今から30年近くも前の日付だ。それからずっと日付が書き換えられていないということはさすがにないだろう。
その瞬間、ミライの手の中の腕時計が再び光を放った。足が地面から離れ、身体がふわっと水に浮くような感触。
光が収まったとき、二人はボロボロの建物に戻っていた。目の前には古い机、足元の床には、階段を大分登ってきたにも関わらず潮風が砂を運んで来ていた。ミライの手には腕時計が握られていた。
夢でも見ていたのか?
と思った瞬間、隣のユウキが声を出す。
「何?! 夢だったの?!」
ミライは顔を顰めた。
「ユウキも、もしかして東京に行った夢を見ていたの?」
「もしかして、ミライ姉も東京で電車に乗った夢見たの?」
ミライは手の中の腕時計を見つめた。