悪魔憑き ルーカ・ディ・サンティスの視点
儀式当日、暦は3月を終え、4月に差しかかろうとしていた。
4月――それは、俺たちキリスト教徒にとって特別な意味を持つ月だ。
この時期には、イエス・キリストの復活を祝う「イースター祭」が行われ、毎年、世界各地から信徒たちが巡礼のためヴァチカンへと集まってくる。イースターにあわせて、巡礼の儀式をはじめとするさまざまな宗教行事が執り行われ、ヴァチカン全体が祈りと敬虔な熱気に包まれるのだ。もっとも、今ヴァチカンを包んでいるのは異質異様な狂気であった。
「ついに儀式の準備が整いました。いよいよ、今日です。」
「ルーカ君、ありがとう。儀式が行われる間、我々も隠れてダンジョンに潜入する。」
エリック隊長が、傷だらけの右腕で俺の肩を叩く。
この日のため、デルタフォースの4人は綿密な準備をしていた。俺にはどうやったのかすら理解できないが、俺たち教皇庁の監視の目を掻い潜って何度もダンジョンに潜入している。どうやらダンジョン内外を自由に行き来できるのはイレギュラーな事態であるらしい。ダンジョンの各地に物資を隠して拠点を構築し、隅々までマッピングしているようだった。
儀式には、当然俺も参加する。
自分で言うのも照れくさいが、サンティス家は教皇庁内でも由緒ある名門とされており、若輩者の俺であっても儀式への招集を受ける立場にある。実際、祖父は現教皇の座にあり、父も枢機卿として混乱する教皇庁の中核を担っているのだ。
「俺は儀式中、何をすればいいでしょうか?」
「極力安全に気を付けていてくれたら、それでいい。あと、これを身に着けておいてくれないだろうか?」
エリック隊長が、半透明のテープのようなものを差し出してきた。慣れた手つきでそれを小さく切り分けると、俺の首筋、上腕、足首へと順に貼り付けていく。皮膚の上から優しく揉み込むように触れると、テープは徐々に透明度を増し、やがて完全に肌と一体化して見えなくなった。一体何を貼ったのだろう?
「エリックさん、このテープは一体…」
「これはそれぞれが発信機であり、盗聴器になっているんだ。儀式の様子は、この機械を通して把握させてもらう。仮に敵が現れたら、ルーカ君には即座に退避してほしい。我々が突入して戦闘が始まるだろう。」
「な、なるほど…俺だって戦いますよ。」
「やめとけボウズ。知った顔を弔う気持ちにもなってみろよ。」
「レオン!ルーカさんに危険な任務を任せてるのは私達なのよ。
ただね…私も逃げてほしいと思っているのよ。敵によっては、庇いきることも難しいかもしれないわ。」
部屋の奥から、デルタフォースの方々が話かけてくる。あまり話したことは無いが、口調が厳しいのがレオンさんで、女性の方がリリーさんだ。もう一人、アイザックさんは現在ダンジョンにこもって準備しているとのことだ。俺たちも、これからダンジョンに向かうことになる。
「気をつけて。儀式の最中に何かあったら、全力で逃げなさい。命があってこそ、次に繋がるのだから」
そう言ってリリーさんが背を押してくれたとき、不思議と母に送り出された気持ちになった。俺は無言で頷き、足を踏み出す。向かった先はサン・ピエトロ大聖堂の地下、そこから下る石の階段を抜けた先、重々しい礼装に身を包んだ一団が待っていた。
神聖騎士団──
聖別された白銀の甲冑は、光のない地下でもわずかに輝きを帯びていた。肩当てから下がる厚ぼったいマントには、金糸で縫い込まれた十字紋章。腰には儀式剣と呼ばれる長剣が佩かれている。それはあくまで「象徴」に過ぎないが、直立不動を貫いている彼らは精鋭の訓練を受けている。
「ルーカ=ディ=サンティス様。ご到着をお待ちしておりました。」
「ああ、ありがとう。父は?」
「枢機卿は、教皇様をつれて先に進まれております。我々も参列に加わりましょう。」
先頭の男がそう言うと、騎士団全体が動き、進行を開始する。彼らに前後を守られるように、俺も歩を進めてゆく。石で組まれた冷たい回廊を抜け、封印の魔法陣が浮かぶ玄関扉を越えていく。地下に広がるダンジョン空間は、思った以上に静かだった。空気が重く、地下特有の湿気を含んだ冷気が肌にまとわりついてくる。
この場所には、これまで敵らしいものは一切現れていないという。あくまで“聖域”として、儀式の舞台として用いられる空間。だからこそ、神聖騎士団の役目も、儀礼的な警備にとどまっていた。
通路の脇には、長く伸びた石柱。壁には古いラテン語で「神と悪魔の戦争の歴史」が彫られている。騎士たちはそのひとつひとつに短く十字を切って通過していく。ここにある全てが、最上級宝物として扱うよう厳命されているのだ。床に落ちた石一つ、無断で持ち出すことは禁止されていた。
「この先が、最奥の部屋となります。今一度、正装を。」
先頭の騎士がそう言って、重い扉の前で足を止めた。
儀式が行われる“神の間”。俺が体調を崩して以来、初めて足を踏み入れることになる。部屋の様子は大きく様変わりしており、なにか巨大な見えない渦があるような錯覚を覚える。背中から冷や汗が噴き出し、周囲の騎士団に視線を送ったのだが、やはり異変を感じているのは俺だけだったようだ。
中央には巨大な環状の魔法陣が刻まれており、その内側に設けられた六つの石壇には、聖書、香炉、聖水壺、葡萄酒の杯など、典礼に用いる神具が並べられている。祭壇の奥には、黄金に輝く円形の鏡が置かれ、その前に教皇と枢機卿たちが整然と立ち並んでいた。装飾の隅々にまで天使と十字架の意匠が施され、どこを見ても「神聖」であることに疑いを抱かせない。
「それでは、始めましょう。主の御名のもとに――」
教皇の厳かで深みのある声が、大空洞に響き渡る。
続いて枢機卿たちがラテン語の聖歌を唱え始め、空間全体に音のヴェールがかけられる。ゆっくりと香が焚かれ、甘くも刺すような煙が天井の高みへと上ってゆく。俺もそれに倣い、胸の前で手を組み、祈りの言葉を口にした。
やがて、祭壇に立つ聖職者たちが順に聖水を撒き、葡萄酒を杯に注ぎ、それを円陣の各所へと慎重に捧げていく。遺跡…いやダンジョンのあちこちから集められた祭具が、共鳴するように音を奏で始める。教徒の祈りに混じるように、不思議なメロディが流れ、それは次第に何かの言葉になって空間に満ちてゆく。
香の煙・無数の祭具が奏でるメロディ・理解できない言葉の合唱…それらが重なり合って、集った教徒の感情を際限なく昂らせていく。いつしか石壇に注がれる杯が、赤くどろりとした液体に満たされている。香の煙で気が付かなかったが、部屋の隅で家畜が生贄とされていた。
(聞こえますか…儀式の様子がどこか変です…)
腕に貼られたマイクロチップへ小さく報告する。しかし、小さな教会にオペラ座を入れたかのように空気が揺れているのだ、はたして俺の声が届いたかはわからない。
香の煙が濃くなるにつれ、教徒たちの表情が陶酔の色を帯びていく。まぶたは半ば閉じられ、唇はかすかに震え、時折、意味を成さない呻き声のような祈りが漏れる。
誰かが泣いている。誰かが笑っている。
だがそれらはすべて、内から沸き起こる感情ではない。煙に、音に、声に、何かを押し込まれているのだ。知らず知らずのうちに、思考が輪郭を失い、意識の輪郭までもが曖昧になっていく。まともに聖歌を合唱できている様子ではない。それにもかかわらず、空間に満ちる声はどんどん大きくなっていっていた。まるでこの空間そのものが、一つの巨大な「意志」を持って勝手に歌っているようだった。
そんな中、教皇が一歩前へ出る。円陣の中央に建てられた六つの石壇の内の一つ、大きな杯には既になみなみと赤い液体が満ちている。
そして、その杯に向かって祈りをささげると――左手の袖をまくり上げ、無言のまま手首を切った。
「ちょっと、じいちゃん!?」
俺の声は届かない。密集した教徒が邪魔で、動くことさえ困難だった。
赤黒い血が、杯の上に滴り落ち、ついに杯から液体が溢れて流れ始める。注がれる血よりも、流れ出る血の方が明らかに多く見える。赤い滝が、石壇から床へと注がれ、刻まれていた細く目立たない彫り込みが、血を吸い上げるように赤く浮かび上がり始めた。まるで毛細血管のように、血の線は床を這い、ゆっくりと広がっていく。
石壇は全部で六つだ。円陣の中に、等間隔に円を描くように建てられている。
一つはじいちゃん、教皇が血を注いでいるが、残りの五つには選ばれた枢機卿が同様に立っていた。
当然とばかりに彼らも杯に血を注いでいく。
六つの石壇から伸びる線はやがて壁へと達し、天井へとのぼってゆく。
そして、壁一面に見たこともない幾何学的な模様が姿を現した。
螺旋、角、円、接続、分岐、断絶。
複雑かつ大規模、立体を伴って展開される紋様の全貌を理解することなど到底できることではない。
しかし、六つの石壇をそれぞれ繋ぎ、さらにその先へと延びる線をみて、たった一つだけ分かったことがあった、
それに気が付いた時、俺は思わず、声を上げた。それは何度も見たことがある。俺たちキリスト教が、2000年かけて戦ってきた印じゃないか!
「六芒星だ! この魔法陣は……六芒星を描こうとしているんだ!」
背筋が凍る。
六芒星――それはダビデの星などと呼ばれ、一般には神聖なものとされている。
だが同時に、グリモワールの中では「召喚陣の骨格」として用いられる形でもある。
神を呼ぶ陣形と、悪魔を招く門。
解釈次第でその意味はまったく反転する。今、その解釈など必要はなかった。
俺の叫びに、空間に満ちていた音楽がぴたりと止まる。中断ではない…これは完了だ。
砂糖を煮詰めたような甘い香りと、窒息しそうなほどの血の香りが広がり、いまや最初の神聖な空気は完全に反転していた。最高まで高まった神気は、これ以上ないほどの禍々しいナニカに変貌している。
空間が揺れた。
大地が震えたわけでもない。天井が崩れたわけでもない。地獄の釜が開いたのだ。
それでも、何か巨大な“意志”が降ってきた――そんな感覚に、肺が急激に収縮する。
「神だ……神が、応えてくださった……」
「主よ、我らを導きたまえ……」
「なんと美しいお姿か…!」
息のできない俺とは違い、教徒たちは恍惚の表情を浮かべて祝福している。
違うだろ…ッ!
その“気配”は、まるで地獄の底から這い出してきたような、
腐肉と硫黄のにおいを混ぜたような、そんな“存在”だった。
教皇の後方、誰も立っていなかった空間の中心に、
空気が泡立つように歪み――“それ”が、姿を現した。
まず現れたのは、黒い翼だった。
天使のそれとは異なる。羽根ではない。煙のように揺れ、なびきながら、空間に存在を定着させていく。
その次に、輪郭の定まらない長身の影。腕があるのか脚があるのかも曖昧なまま、それは鏡のように揺れる空間を踏みしめ、こちらに顔を向けた。その顔には、目があった。だが数が多すぎた。
横一列に並ぶはずの目が、頬、顎、額、こめかみ…あらゆる場所に散りばめられている。
その一つひとつが別々にまばたきをし、笑い、哀しみ、怒りを浮かべていた。
ぐにゃり。
悪魔の顔が歪み、女性の顔に変化する。
そして、鈴を鳴らすような声で語り始めた。
『嗚呼…愛しき神の使徒たちよ…私を呼んだのは貴方ですか?』
「主よ……!」
父がひざまずき、涙を流して答える。違うんだ、そいつは神なんかじゃないッ!
身体を締め付けるような圧迫感に、声を出すことができない。止めないと、アレは本当にまずい存在だ。
『よくぞ私の試練を乗り越えました。
裏切られ、嘲られ、それでも信仰を捨てなかった――
その姿、私は見ておりました。
人の子よ、あなたを認めましょう。
この身は長く留まれぬゆえ、今は影にすぎません。
されど、あなたが導くならば――
私はこの地に、完全なるかたちで降り立つでしょう。
人の子よ。もし、あなたにその意志があるのなら。
この身の一端を受け入れなさい。
その肉を、その心を、わたしに委ねるのです。』
悪魔の声が、ひび割れた心の隙間を埋めるように流れ込んでいくのが見える。キリスト教の苦難、次々と離れていく人たちの顔が思い浮かんでいるのだろう。そのうえで、耐え忍んできた自分たちを神が認めてくれたという事実。それが虚構であったとしても、抗うことなどできない。
やめ、やめでぐれ゛ッ! 父さん…ッ
咽喉が裂け、血がせりあがってくる。それでも、ただ叫ぶしかできなかった。
「すべては主の御心のままに。」
父が悪魔を受け入れ、その禍々しい腕が胸中に吸い込まれるように消える。
悪魔が微笑み、契約が結ばれてしまった。禍々しい姿は溶けるように消え、その代わり父の額にぎょろりと目が植え付けられる。先ほどまで涙を浮かべていた顔は、今や頬が裂けたような凶悪な笑みに変わっていた。
『クカカ……我が王よ。この使命、しかと承りましたぞ。
王を降臨させるのだ。扉をこじ開ける極上の魂を揃えてみせましょう。』
父の声、父の顔で悪魔が喋る。父の人格は消え、悪魔が憑依したことを物語っている。
先ほど現れた悪魔ほど異質な雰囲気ではないが、それでも鼻が曲がる様な異臭が立ち込めた。
『我は好きだぞ、人間どもよ…。弱いくせに魂は美味い、それでいて世界中に蔓延っている。素晴らしいッ!!まずは我が手となり足となってもらおう。』
【召喚魔方陣】
悪魔が腕を振ると、空中に人の背ほどの魔方陣が現れる。そこからゾロゾロと異形の悪魔が這い出し、教徒一人一人の体に入っていく。この地に悪魔が留まるための肉体、ただそれだけの役目を果たすために教皇庁の人間が次々に魔へ堕ちていくのだ。
ついに俺の目の前にも、悪魔が現れた。赤ん坊のように頭が大きく、しかし老人のように肌がしわがれていて生気がない小人。むき出しの歯は鋭くも不揃いで、腐肉を齧ったような異臭を放っている。
俺は、こんな奴に心をゆるしたりはしたくない!主の名を騙る悪魔め!
拳を握りしめ、目の前で足を引きずっている悪魔に叩きつけようふりかぶる。この悪魔を殺し、できるだけ多くの人に目を覚ましてもらおう。主よ、御力を貸してください。
グシャリッ——
矮小な悪魔の体がはじけ飛び、原型も分からぬほどの肉片へと変わる。その身は現世に留まれず、黒い霧となり魔方陣へ吸収された。
悪魔を殺したのは、俺じゃない。
『お前、きちんと視えておるようだな。』
「と…父さん…。ちがう、お前は!」
『ク…クカカッ そうか、貴様この男の息子か。
その強い神気は不快だが、ふむ…王の生贄にはちょうどよいか…。周囲に育った魂もいくつか…』
「ふざけるなよ!父さんを返せ!!」
『喧しいぞ痴れ者が。お前の相手は、後でたっぷりしてやる。今は——』
ガンッ
背後から頭を殴りつけられ、膝から力が抜ける。冷たい床に頬をぶつけ、何人もの人に身体を掴まれる。視界の端で見えたのは、デルタ4人が部屋に突入する様子だった。




