第10層 イシュ=カマズ
乾いた風が、私の頬から水分を奪い去るように吹き付けてくる。
それは風というにはあまりに重く、まるで誰かの長い息のようだった。
空間は巨大なドーム状の遺跡。
天井は高く、遠く仰げば、崩れた石板の隙間から光が斜めに差し込んでいる。
私と師匠は、ついに、進化の箱庭10層に辿り着いたのだ。元々5層で帰還する予定だったが、私のわがままもあって10層にまで来ることになった。ここに居るのは、たったの1体。先へ進む資格があるかを問うための試練。
旧い遺跡は風化し、床には足首ほどの深さまで砂がたまっている。遺跡の中心近くに至り、巨大な門が姿を現した。随分親切な演出だ、この扉の先に試練が待ち構えているに違いない。もしかすると、遺跡をくまなく探せば、ボスを倒すヒントが隠されているのかもしれないなと思った。石板には崩れかかった文字と絵がびっしりと刻まれ、この門以外にも多くの部屋がある。
「もう少し周りを探ってみますか?」
「不要じゃろぅ。こげな所、長居すれば枯れ木のように干からびてしまうわぃ。」
「…。」
うーん、これは老人ジョークなのか?
100歳を超える師匠は、一見するとたしかに老人風ではある。しかし、振るう剣は誰よりも早く力強い。師匠をみて枯れ木のように思う人はいないんじゃないだろうか。
「早く帰らないと、みんなが心配しますからね。」
天井にも届きそうな巨大な石の門に手を触れる。
どうやって開けようか調べようとしただけなのだが、意思を持ったようにゆっくりと開き始めた。重たい扉が動く振動で、パラパラと天井から砂が零れ落ちる。
内部から吹く風は限界まで乾いており、鼻奥の粘膜がひりつくように感じた。外套で顔を覆い、浅く呼吸する。
円形の構造、崩れた柱、中央には浅いくぼみがあり、そこだけ黒い砂が詰まっている。
くぼみの周囲に、数本の柱が円形に立ち並んでいる。表面には風に削られた文様。
見かけは全く異なるが、かつて巫さんと訪れた神域に近い気配を感じ取る。
「……やっぱり、ココみたいですね。」
師匠は視線で応え、静かに足を止めた。
その先、黒砂がふわりと呼吸するように盛り上がり、見る見るうちに形を作っていく。
ズゥゥ……ッ。
音にならない音が響き、空気が震える。
砂の中心から、何かが立ち上がる影がみえる。大きいッ
それは巨人だった。
頭はなく、胸の中央に空いた裂け目から、砂混じりの風が絶え間なく吹き出している。
腕は左右非対称で、一方は太く岩のように、もう一方は細く鞭のように揺れる。
жイシュ=カマズж
「乾きの神」の力を宿した兵器。生命に反応して起動し、全てを砂に還すまで戦い続ける。
イシュ=カマズを生み出した文明は、彼を制御することができず都市を捨てた。
非常に抽象的な説明しかない。
まあ、ぱっと見ただけであるため、万理の魔導書さんでもほとんど情報を引き出せなかったのだろう。
もっと攻撃方法とか弱点とか教えてくれたら楽だったのに。
「…というか、遂に生物ぽくない敵が出てきましたね。」
「この先、地球の常識は通じんのかもしれんのぅ。」
乾きの神、という情報だけ意味がある様な気がする。巫さんの世界では、様々な神が存在し、その力を借りて戦ってきたはずだ。この砂岩のゴーレムも、巫さんの世界からやってきたのだろうか。
考察の沼に浸る私の横を、一陣の風が吹き抜ける。イシュ=カマズから吹きつける風に逆らうように、師匠が走り出したのだ。風と風がぶつかり、通路に小さな竜巻が発生している。
「先に駆けるが老骨の務め。」
止めることはできなかった。先手必勝、四の五の言わず斬ってしまえばよい、100年以上の剣の道で得た一つの答えである。
砂を振り切ってイシュ=カマズというゴーレムの足元に現れ、腰を低く落とした居合の型を見せる。
視認不可能な一閃、音すら追いつかぬ速さで──ゴーレムの足が、斬り飛ばされる。
巨体が揺れ、文字通りの意味で膝をついた。
だが、手応えの残った剣閃とは裏腹に、切断された足は地面に落ちると同時に崩れ、砂へと戻る。
風に吸い込まれるように、砂が巻き上がって胸の裂け目へと流れ込む。すると、わずか数拍のうちにその砂が身体をめぐって再構築され、元どおりに足が形成された。
(……やっぱり、普通の敵じゃない)
私が声を発するよりも早く、ゴーレムの腕が唸りを上げて振り下ろされる。
師匠はそれを避けず、真っ向から迎え撃つ。
剣閃。次の瞬間、岩のような腕が真っ二つに裂け、砂と化して舞い上がった。
右。次いで左。
続けざまに襲いかかる異形の四肢を、足を動かすことなく砂塵へと変えていった。
このゴーレムを分類すると、ギミック系の敵と言える。なにか攻略のカラクリを掴まないと、一生倒すことができないタイプの敵だ。
神経や脳みそのような弱点になる器官があるのか。
核が身体に埋め込まれているんじゃないだろうか。
この部屋に仕掛けがあるのではないか。
ありそうな設定を思い浮かべ、嵐が吹き荒れる部屋の中を探し回る。
しかし、その労力が報われることは無かった。案外、答えは力押しでよかったのだ。
師匠の剣が振るわれるたび、砂の腕が裂け、脚が砕け、胴が吹き飛ばされる。
そのたびに風が唸り、胸の裂け目が砂を吸い込む──だが、その風が大きく乱されはじめていた。
「喜べ砂の巨人よ……夢想無限流に奥義がまた一つうまれたことを。」
——夢想無限流・斬風絶環——
風が消えた。
本当に、音も、流れも、動きも、すべてが止まった。
空間そのものが一瞬、師匠の一太刀に“息を呑んだ”ような錯覚。ゴーレムの体に還る砂の風が、師匠の斬撃により半ば断ち切られたのだ。斬られた流れが戻ることは無く、体の大部分を喪ったゴーレムは、先ほどまでの巨体を維持することができなかった。
ビルのように聳え立った体が、今や大きい人間と変わらないサイズにまで縮小している。だが、その体は黒い砂で構成されており、師匠であっても容易に切り落とすことはできないようだ。
右腕が棍棒のように振り下ろされ、石板の床を砕く。
左腕はしなる鞭のように素早く動き、師匠の刀と鋭く打ち合う音が響く。
砂の体ゆえに関節の可動域を無視した攻撃。
師匠の体勢がわずかに後ろへと傾いた。
巨体だったときよりも、明らかに攻撃が小刻みで速くなっている。
「独活の大木よりはマシになったではないかッ。」
師匠が、迫る両腕を捌きながら応じる。
上下から来る攻撃を跳ね上げ、反撃の一閃で胴体を袈裟斬りにする。だが、深く斬れたようには見えない。
胸元には依然として、大きな裂け目が口のように開いていたが──そこが明確な弱点というわけでもないらしい。
ゴーレムが唸るように、胸の裂け目から砂混じりの突風を吹き出す。
即座に師匠がその風を斬り払い、防御の構えへと移行する。お互いに致命傷はなく、互角の斬り合いに見えた。そうなると、体力というか動力源が不明である分、師匠の不利を感じ取る。
二人の剣戟がぶつかり合う音が、風と砂の中でこだまする。
その中で私は、姿を消すように砂に紛れ、遺跡の壁沿いを迂回して移動していた。
……こんな絶好の隙、見逃すつもりはない。
吹き荒れる砂で視界はひどく悪い。
だがそれは、奇襲にとって最高の遮蔽でもある。
私は地を這うように移動しながら、これまでの観察結果を脳裏で反芻する。
イシュ=カマズの反応速度は、それほど高くない。
再生に重きを置いた構造か、それとも自我のない自動戦闘機構か──
いずれにせよ、近くにいる生物を認識し、機械的に襲うだけの存在に見える。
私は静かに左手元に、ウィンドウを拡大して展開する。
数々のアップデートにより、膨大な機能を備えるに至った便利なシステムだ。地図作成やビデオ通話、自身のスキル参照などよく使う項目がずらりと並んでいる。
『万理の魔導書』
その中から、私だけ持っている特殊な項目を選択する。触れた物の情報を引き出す便利なアイテムだが、その本懐は、世界の根源に流れる理の具現化にある。その根源に至るまでの過程は、この本の持ち主だったリアーナという魔女にしか分からないものだが、しかし私は刻まれた理を操る術を盗み取っていた。
『エンシェント・ラーヴァ』を選択。
設定調整開始。
速度:最低、範囲:2メートル、威力:4/5、作用時間:3秒、作用部位:右掌。
奇襲の価値は準備と正確さにある。
普段は戦闘中で忙しく、スクロールを乱雑に叩いて発動するが──
今回は違う。私は手元を見ながら、じっくりと設定することができた。
全ての準備が完了する。砂と溶岩、どちらが格上の能力か教えてあげねばならない。
【ファストステップ】
もっとも愛用するスキルが、私をバネで弾いたように加速させてくれる。地面と足の摩擦や反動を消してくれるため、ほとんど足音も立たないのが奇襲に最適だ。ボスゴブリンの時も奇襲自体は成功させた実績がある。
「お待たせしましたーっ!」
砂と風を掻い潜り、ゴーレムの側面へ滑り込む。
すでに魔法錬成は完了している。
【魔法錬成 エンシェント・ラーヴァ】
右手を、黒砂の体に押し当てる。
その瞬間、空間が波打つように軋み、重たい質量を伴った球状の火球が顕現した。
火球が砂を食って膨張し、まるで空中に浮かぶ小さな太陽のように燃え盛る。
その熱は尋常ではない。空気がねじれ、視界が揺らぎ、ゴーレムの表面が白く熱されて輝く。
「さ、離脱離脱ッ!」
太陽をその場に置き、ゴーレムとすれ違うように退避する。
師匠を見ると、私が飛び出した瞬間から離脱を開始していた。奇襲のはずなんだけど、師匠にはかなわないなあ。
身体の大部分を溶かされ、失われた砂を取り戻そうと、ゴーレムはもがく。
胸元の裂け目が、風を吸い込む音を轟かせた。
それが——
彼にとっての決定的な悪手となった。
プログラムされた通りに、再生のために風を取り込む。燃え盛る太陽の中心に向かって、新鮮な空気がものすごい勢いで流入した。
(炎に酸素を送ったら、どうなるか──)
考えるまでもない。小学生だって知っているだろう。
風が爆ぜた。
薄暗い遺跡の一角で、まるで大玉の花火が炸裂したような閃光が弾ける。部屋全体を満たす白熱の閃光。熱が最高潮に達した時、私の設定した3秒が経過した。
古の溶岩は、まるでその役目を終えたかのように、静かに、元の世界へと回帰するように消えた。
爆発の衝撃が去り、私は一度、大きく息を吐いた。
空気が熱く、喉の奥がじんじんとするように焼ける。外套を片手で払って、周囲の状況を確かめるように見渡していく。
「師匠ーー、ご無事ですかーー?」
「こっちじゃ、こっち。100年分の走馬灯を見たぞぃ。」
「てへへへ。」
頭に砂を被った師匠を発見する。怪我もしていないし、元気そうだ。
イシュ=カマズの姿はどこにもない。完全に焼き切れ、二度と復活することもできないだろう。
「さすがに、帰りましょうか。」
「老人の散歩が長いと、皆が心配するでな。」
師匠の老人ジョークが、じわじわ分かってきたところで、帰還用ゲートを作動させる。
ウィンドウを展開し、進化の箱庭を選択。
帆世チャネル:第10層
パーティメンバー:L帆世静香、柳生隼厳
帰還しますか? [YES]/[NO]
しっかり帰還コマンドが現れている。これで帰れなかったら…と内心ドキドキしていたのだ。
もちろん[YES]だ。邂逅の時もそうだが、一度ダンジョンに入ると平穏な日本の空気が懐かしくなる。
温かいご飯、たっぷりお湯をはったお風呂、ふかふかのベッド。
疲れた体と、仕事が終わった後の開放感にアルコールを注ぐのも良いだろう。前に(´・ω・`)とお酒を飲んだ時は、酔っぱらって色々粗相をはたらいてしまったが。
帰ったら報告に、6層への対応に、色々しなければいけないことが山積だ。
ミーシャちゃんも待ってくれているだろうし。
あれこれ考えつつ、久しぶりの日本で私を待ち受けていたのは…
「帆世様!!!」
「ヴァチカンが、今大変なことにッ!!!」
「アメリカとロシアの間で戦争がッ!!!」
目を覚ました死人を見たような反応と、新たに湧き出た大量の問題だった。
作者自身、5層で帰る気でした。
長引いたせいで、地球が色々困ったことになっています。
でもミーシャちゃんは絶対救う。