無限の内に降りる悪魔
我が命、主なき後に使う道無し
響け、福音。主の成すままに
照らせ、我が剣。主の征く道を、我が命に代えて
開け門よ!私の肉体を彼方から此方へ………
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帆世静香。
それは、ミーシャが敬愛し、親愛を寄せ、崇拝さえする唯一人の主人である。実際の帆世静香は、時々スイッチが入ると熱くなってしまうだけなのだが、それでもあの日ミーシャの人生を大きく変えたことに間違いはない。
『死死死死ィィねえええエえエエエえエ゛エ゛ッッ』
愛する主人に向かって、禍々しき鎌を振り上げる女がいた。
ミーシャは、それを見た瞬間、脳を血で浸したように視界が真っ赤に染まったように感じた。体が限界を超えて踏み出し、刀を盾に帆世と敵の間に強引に滑り込ませる。それまで感じていた葛藤や苦悩が一時的に完全に麻痺していた。
ガッギギギャリリリィィン!!!
刀と鎌が噛み合い、重たい衝撃が骨に響く。格下殺しとも言える異能の宿った攻撃も、ベルフェリアを顕現させたミーシャは、完全に防ぐことができていた。
しかし、昼間キーンの鎌と交わった時よりも、この女の持つ鎌が重たく感じられた。敵が強いのではなく、自分が力を十全に発揮できていない違和感。背骨が軋む音が聞こえる。
原因など、彼女にとってはどうでもよかった。
ただ、ただ今一時の力を望んだ。
足りない力を補うために、悪魔を宿した刀が、右手の皮膚を貫いて体内に根を伸ばす。
魂に直接異物をねじ込まれる激痛。それを受け入れる。
ベルフェリアを完全覚醒させる方法が、刀と融合を始めた腕から流れ込む。それを受け入れる。
完全覚醒後には、きっと自分の自我が失われるのだと自覚する。それも、受け入れる。
(だから、お前だけは、殺す)
ミーシャの胸中に渦巻くのは、主の敵に対する烈火の渦だった。
刀を天高くかざし、万力を込めて振り下ろす。天に開いた門は、テネブラエル(神無き闇世界)と地球を繋ぎ、巨大な悪魔の目がちらりとのぞく。
(嗚呼、私はうまく笑えているのでしょうか)
必死に叫ぶ帆世の顔を見て、噴火する火山のように気が溢れだした。
右手に根を生やした刀から丹田を通り、再び左腕を通って刀に戻る。気がミーシャの体内に生まれた回路によって、増大しながら巡る。刀に限界を超えて蓄積された気が溢れて立ち昇り、天へ集まって門がさらに大きく開いていった。
『貴様は守る側ではなく、壊す側のバケモノだろうが…!そこまで執着する人間がいるとは思わなかったぞ!それなら、その女をズタズタに引き裂いて死体を晒してあげましょう――狂い、暴れ、その手で世界を壊しておくれ。 System code:無限回廊ッ』
対峙している血色の悪い女が声を張り上げる。門は最後まで開かれることは無かった。
空間に生じた歪みの奥、悪魔の目がこちらを見つめる寸前、横合いから別の干渉が入り込んだのだ。
ミーシャの体は抵抗のできない力でふわりと浮かされ、空間が反転し、視界がねじれる。
異界に通じる門は閉じ、代わりに無限の混沌が眼前に広がった。降り立ったのは、以前、帆世とレオンが踏破した“無限回廊”の入り口。その第0層手前の広場。
空は高く、天井はない。雲のような靄が淡く渦を巻き、玉石が敷き詰められた足元には、血と破片と断末魔が散っていた。
広場の中央では、ジルが旋風のごとく跳び回り、巨大な獣たちの群れと交戦していた。
数えることを拒否するかのような無数の魔物――牙、爪、角、羽、尾、棘、鱗、嘴。それらが、ミーシャに向かって確かな敵意と共に迫る。
ガクンッ……
同時に、ミーシャの体も限界を超えていた。
死を覚悟して練り上げた気が、発散する場所を失って、今にも爆発しそうなほど膨れ上がっていたのだ。
更に悪いことに、帆世静香と引き裂かれた事実が、彼女の精神を臨界へと追い込んでいた。
意識がぼやけ、視界が滲む。
……そのときだった。
「チュウッヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!!」
耳障りな笑い声とともに、白い玉石の隙間からひとつの影が飛び出した。そいつは嬉々としてミーシャの白い小指に噛みつき、じわっと赤い雫をこぼす。
そう。彼の名はおせんべいねずみ。
阿鼻叫喚の戦場に召喚され、戦うことも無く地中で息をひそめていた弱小の種族。
空を見上げれば、巨大な女王蜘蛛が城のような巣を張り、その隙間を縫うように毒牙を備えた蛇が滑空する。赤いマントを羽織った男が飛び上がれば、空色に光る鴉の群れが殺到して羽根をばら撒いている。
地にも空にも、名を知らぬ怪物どもが蠢き、咆哮し、吠え、喰らい、うごめいている。
あまりにも危険な戦場で、おせんべいねずみ達は、ただひたすら逃げ隠れる道を選んだのだ。
何故なら彼らは“弱者”であるからだ。だが、この瞬間、戦場における“最弱の存在”が更新される。力なく倒れる少女は、既に戦う術を持っていないようだった。
ぞろり。ぞろぞろ。ぞぞぞぞぞぞ……歯の音。爪の音。歓喜の気配。
弱者は弱者に、絶対に寄り添わない。
むしろ、自分よりも弱い者を見つければ、積極的に襲い掛かるものだ。
なぜなら、彼らは弱者なのだから。より弱い者を喰わねば、腹が減るだけではないか。
「チュウチュウ!(こちとら寝てるアホ見つけりゃ、噛んでナンボの稼業でぇ!この間抜けがぁ!)」
「チュウー!(お仲間お仲間、寄っといでぇ!)」
「チュチュチュゥ!(オイラ達は逃げてたんじゃねえぞ!今が俺っちの出番なんでぇ!)」
気を失ったミーシャの肢体に、おせんべいねずみ達が群がる。
柔らかな場所を探し、白い太ももへ、耳たぶへ、唇へ。ぞわりと毛並みが波打ち、歓喜に震える細い牙が、肉へと突き立てられたそのとき。
「その子に触らないでもらえるかしら?」
倒れ伏すミーシャの唇から、柔らかな声がした。聖母が子供達に語り掛けるような口調だが、聞いた者の魂を凍てつかせる力があった。
痙攣が止まり、まるで何事も無かったかのように立ち上がる。
顔は依然として伏せられたままであるが、明らかに異質な気配を放っていた。
顔を上げると、身にまとう覇気が天を衝く。
そのあまりの存在感に、広場で繰り広げられていた戦争が凪いだ。全ての生物が、その眼をミーシャに集中させる。
「……知らぬダンジョンに飛ばされてしまったようですね。こんな所、早く出ないと、ご主人様に叱られてしまいますわ」
それは、かつて魔界テネブラエルに君臨していた第一階級の一柱、《微笑む福音の》ベルフェリアの声だった。彼女の意識が、いま一時的に、ミーシャの肉体を完全に支配している。
ミーシャが限界を超えて蓄積した気は、まさに爆発寸前。今この瞬間も、ミーシャの体を焼いている過剰なエネルギーである。
だが、致死量を遥かに超える猛毒と化したそれも、ベルフェリアにとって馴染み深い感触にすぎないようだ。懐かしい料理を仕上げるように、滑らかに銀爪へと凝縮し収斂させていく。
「チュ…チュウ!(て、てやんでぇ!)」
噛みついていたおせんべいねずみが、気に弾き飛ばされて地面に転がる。
先ほどまで捕食していた側だったからか、この異常事態にもかかわらず攻撃的な反応を示している。だが、その威勢もすぐにしりすぼみになってしまった。
――【召喚:天より覗く眼】――
悪魔が口を開いたからだった。いや、開かれたのは眼か?
空が捲れ、金色の瞳が地上を睥睨する。悪魔の持つ眼は一つではない。岩の隙間、怪物の影、蜘蛛の巣の内奥、すべての影に、悪魔の眼が咲いた。
それを見た者は、ある者は逃げ、ある者は魅入られたように動きを止める。
その中に、天を睨む怪鳥がいた。“天帝”の称号を冠するセラフクロウだ。
空色の翼を広げ、己の領域に発生した不遜な存在へ、一直線に舞い上がった。
――【召喚:罰する左腕】――
続けざまにスキルが発動される。
勢いよく飛翔していたセラフクロウが、次の瞬間には地面へ叩きつけられ、血を吐いた。
その死に際にも、彼は理解できなかった。自らが何に潰されたのかを。
「……指、ですかな?」
ジル・レトリックのモノクルが空色に煌めく。
ウィンドウを重ね合わせた映像を、限界まで高密度にコマ割りし、解析していく。
そして、そこに映っていたのは——巨大なセラフクロウを押し潰す、ビルほどのサイズの“人差し指”だった。
その瞬間、見えていなかったものが見えるようになる。
天幕のような空の奥、ただの空白と思われていた領域に、何千本もの腕が垂れ下がっていた。
つららのように、ぶら下がり、降り注いだ。
どしゃっ。ばぎっ。ずしゃっ。
地に足のついた者から順に、肉が潰れ、骨が砕け、内臓が飛び出す。
影に潜んでいた獣も、空に逃げようとした魔物も、例外ではない。
直撃せずとも、風圧と振動だけで粉々になった弱小の種さえいた。
ただひとつ、未だ形を保っていたものがある。
光糸で織られた、女王蜘蛛の城。蜘蛛たちの母は、集めた無数の死骸と巣材を幾重にも重ね、分厚い繭を築いていた。我が子を守らんと、必死に腕の攻撃を耐えている。
「母の愛とは、なんと美しいことでしょうねぇ」
ベルフェリアが微笑む。
その瞳には、しかし一片の情もない。ベルフェリアにとっての愛とは、たやすく踏みにじっても良い物でしかないからだ。むしろ踏みにじる方が、より良い味がするとさえ思っている。唯一例外なのは、帆世静香とミーシャの関係であるが、彼女たちと目の前の虫を同列に比較することなどありはしない。
「ココのことも、大体わかりました。終幕と行きましょう」
剣を掲げる。
――【魔咆】――
銀爪の切っ先に、透明な光が凝縮されていく。
太陽を通したダイヤモンドのような輝きが生まれ、元々色素の薄いミーシャの顔が白銀に染まって髪をたなびかせる。
「うふふ。では皆様、ごきげんよう。さようなら。また、お会いしましょうね」
振り抜かれた一閃。
人間には聞き取れない轟音が、すなわち凄まじいまでの振動を伴った静寂として空間を満たす。
「ヂュ!?」
哀れなネズミが蒸発した。女王蜘蛛の巣は一瞬にして崩れ、その中の母体も子を抱いたまま消滅した。
モンスターの群れは、影も形もなくなり、ダンジョンの外壁にまで裂け目が生じる。
断末魔さえ残すことができない最期。訪れた静寂。
埃の舞う空間に、コツ、コツ……と靴音だけが響いていた。
「どなたか存じ上げませぬが、吾輩だけ生きているのは偶然ではないのでしょう?」
煙をマントではらいながら、ジル・レトリックが現れる。
その腕の中には、糸が切れたように力を失った少女がいた。少女の腕には、刀が溶接されたように痛々しく融合している。
『その子をお願いいたしますわね。』
気が付けば腕は消え、瞳は閉じている。
ただ、どこからともなく声が聞こえて、風に消えた。