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英雄の戦場~帆世静香が征く~  作者: 帆世静香
第四章 気に食わない運命は捻じ曲げましょう。
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魔が笑う

殺意を隠そうともしないミーシャが、腰を抜かして座り込む猫女に向かって、一切の容赦なく刀を振り下ろす。空が、大気が、地面が、その一太刀から逃げ出すように、次々とひび割れ、悲鳴を上げた。


 バッッギィィィィンッ!!


   バリバリッ……バヂバヂッ!!


轟音と閃光。


薄暗い鍛冶場で神鉄と神鉄が激突したような、脳髄を重たく揺らす金属音が、空間を貫いて響き渡る。

同時に、黒紫の火花が撒き散らされて石畳の空間が歪んで見えた。ダンジョンを構成する空間が、火花に削られて、細かな裂け目を作っては闇に融けていく。


その闇の中心から、一本の大鎌が生えていた。

不気味な鈍光を放つ、紅黒の曲刃。死の象徴。


それが、《銀爪ベルフェリア》の斬撃を真正面から受け止めていた。


 ガチィン、ガチッ……ッ!!


悪魔の刃と、死神の鎌。二つの異界の力が、猫女の頬先にて激突し、ガチガチと音を立てながらせめぎ合う。

猫女は目を見開いたまま硬直していた。生きているのが信じられなかった。根源的な恐怖心を引き起こす轟音と、誰も口を開かない沈黙の中で、大鎌から軋む音が声となって聞こえてくる。


『コロセ コロセ セイアルモノハ コトゴトク』


大鎌から滲み出した黒煙が、空気を喰らうようにして渦巻き、集まって何やら形を作ってゆく。それは如何なる生物とも似つかぬ造形だが、強いていえばボロボロのローブが竜巻の中で踊っているとでも表現できようか。

キーンの魂の奥底に巣食う“死神”が、ついに現世へと姿を見せ、大気をじわじわと死の香りに染め上げていく。


「ミーシャ……!」


帆世の声が険しいものとなる。初めて見る異形の気配に、ミーシャに万に一つの危険が無いか警戒しているようだ。

帆世の身体が自然と前へ傾ぐ。腰を落とし、刀の柄に手をかけたその姿は、今にも飛び出そうとしているようだ。だが、その一歩を止めたのは、ミーシャの一声に他ならない。


「ミーシャは大丈夫です!それより……囲まれています。注意を!」


帆世を背に、ミーシャは刀に力をこめる。目の前に現れた金髪の男は明確な脅威であり、死を想起させる悪臭を振りまいている。また、周囲に気を張ると続々と武装した兵隊や、見るからに凶悪なモンスターが集まってきていた 。

今ミーシャの脳内にあるのは、全てを薙ぎ払って、帆世静香の安全を確保することのみである。その意思に呼応するかのように、銀爪の刀身が青白い輝きを放った。


『主の御前です。……頭が、お高いですよ。』


第一階級《微笑む福音の》ベルフェリア。


顕現する姿は死神よりも一回り大きい。一見すると柔和な顔をしているが、その顔を見た兵士が泡を吹いて昏倒する。それだけ高位。それだけ人類にとって害悪な脅威として降臨した。


ベルフェリアは、死神の形をしたものを一瞥し、同時にその頭を真っ向から押さえつけ始める。存在の殆ど全てを異界に置いてきた彼女だが、ミーシャの力を借りることで死神すらねじ伏せる格を得ていた。


『次からは自ら頭を垂れなさい。頭が空っぽですと、ふわふわ浮いてしまって大変ですわね くすくすくす……』


死神の持つ力は確かに強大で、現世を生きる殆どの(死神よりも格下である)生物にとって強制的な死を齎すものだと看破する。しかし、その性質であるが故に、その力はベルフェリア自身や主たる帆世静香には届かない。ならば問題はない。


それよりも興味を惹くのは、その依り代となっている人間のほうだった。


(うふふ 人の身でありながら、中身は我らに近しい、か。分不相応な願いを持っていると見えますわね。)


金色の瞳がゆっくりと、キーンへと向けられる。

その視線の重さは、魂を凍てつかせる怖気と、腰を砕く陶酔を同時に与える代物である。しかし・・・


「ハ、ハハ 俺は夢でも見ているのか...?」


キーンは、その視線に目を向けてすらいなかった。

彼の目は何か別のものに釘付けになっていた。強く、見開かれた双眸。背筋から肩へ、ぶるりと大きく震えが走る。冷や汗が一筋、顎先から滴り落ちる。


不意に、死神が煙に溶けて霧散する。


ガァン!!


死神の消えた空白を埋めるように、六翼の刃を広げた光の槍が出現し、銀剣をはじき飛ばした。


拮抗していた力の均衡が崩れた瞬間、圧縮されていたエネルギーが一気に解放される。


「……つ!」

 

ミーシャは、瞬時に銀爪を傾け、決して衝撃を背後に流さないように受け止める。

迸る衝撃波が空間にヒビを入れ、チラリと空間の向う側が顔をのぞかせる爆心地。それでも歯を食いしばって、片膝を地面にめり込ませながら、全てを受け止めて耐えきった。


ようやく晴れた視界の目の前で、地面に崩れ落ちた猫女の姿が動かずにいた。焦点の合わない空虚な瞳が、呆然とミーシャを見返していた。


……なぜか、それが引っかかった。


意味も理由も分からなかったが、胸の奥に一滴の汚泥を垂らされたような、じわじわと広がる嫌悪が心を濁らせていく。

同時にキーンの存在が、視界から消えていることに気づいた。


(どこに行った!?)


ミーシャは瞬時に内に湧き上がる感情を押し殺し、身を翻す。帆世の方へ。


「止まれッ、貴様ァ!!」


怒声が空気を裂く。ミーシャの喉から放たれたその一喝は、何人たりとも主人に危害を加えさせないという明確な意思表示である。

ミーシャとて尋常ならざる経験を積んだ強者の一角。その殺意の波動に、周囲を取り囲んでいたモンスターですら一歩後退った。


だが、肝心のキーンの歩は止まらない。その足取りは大胆にして軽やか。

先程までの邪気はなりを潜めて、むしろ初夏の太陽を想起させる爽やかな笑顔を浮かべていた。


「まさか、貴女があの帆世静香様とは……! 本物に会えるとは思っていなかった!? 本当に……! いやあ、お美しい、そして凛々しい!」


少年のようなキラキラした瞳で、極々自然な所作で握手とハグを求めて手を出した。凄惨な戦場が、一瞬で社交会のパーティ会場に様変わりしたかのようだった。


だが、浮ついた空気を斬って捨てる声が上がる。


「止まれ。うぬの名を名乗らんか。」


低く、ドスの効いた声。柳生隼厳だ。

背筋をまっすぐに伸ばし、目を細めながらキーンを見据えている。

その姿は一見すれば戦いの構えとは程遠い。まるで、一触即発の取り巻きに対して、かろうじて話し合いの余地を残そうとしているようにすら見える。


(Oh……これが柳生隼厳か!足が前に進まないなっ)


しかし、対峙しているキーンにとって、隼厳は大きな壁であった。刀を抜いていなくとも、全身に冷たい剣先を突きつけられていると錯覚を引き起こす何かがある。


(嗚呼……俺がヤリたいのは、帆世静香なんだっ まさかこんなに早く来るとは……!)


前方の隼厳、後方のミーシャ。

いくら自分の城であっても、今ここで帆世静香を狙ったところで、満足に戦えないと直感した。


キーンは決して狂っている訳では無い。むしろ人類史上屈指の明晰な頭脳を持つ男だ。自らの望みを叶えるためのロードマップを即座に更新した。


「俺の名はキーン!ここアドベンティアのダンジョンを管理しているだけの、ただの冒険者だ!」


白い歯を見せて、笑顔を見せる。

その顔には一点の曇りも無く、陽気でハンサムなアメリカ人の気質そのものだった。

そのままくるりと振り向き、取り巻いていた武装勢に向かって大げさに手を振った。


「ああ、コラコラ君たちっ! 御客人に武器なんか向けちゃダメだ! ほら、さっさとご歓待の準備をしてきなさい!」


自らが持っていた“勇者の長槍”を、地面に放り投げた。

カン、と乾いた音を立てて転がるその槍を見て、ようやく帆世が口を開いた。


「名前は聞いているわ。私は帆世静香。……ここは剣を下ろしましょう。怪我をさせてしまった人がいたら、謝るわ。」


「ありがたい!Nice to meet you!帆世静香っ✩」


帆世は、ゆっくりと腰の刀を鞘に収めた。

そして、無手となった右手を静かに胸の前に掲げて見せる。


武器を持っていないことの証明。それは、古来より続く所作である。戦の絶えなかった時代時代、人類は敵意がないことを伝えるために、利き手である右手を差し出した。そこに何も持っていないと示すこと。それがやがて“握手”という形となり、数千年にわたって受け継がれてきた。


そして今。

再び武器が日常となったこの時代においても、帆世の手はその歴史をなぞるように、まっすぐキーンへと差し伸べられる。




ーーーーー




お互いに矛を収めた後、帆世たちはキーンの案内で、魔王城の内部を見学していた。


古の要塞のような外観に反し、城内は意外なほど清潔に保たれている。石造りの廊下には松明様の照明が規則的に灯り、歩くたびに風に揺られてはいるが十分な光量を保っている。帆世が興味深そうにじっと見つめると、炎の裏に潜んでいたスライムが驚いたように逃げ出していった。


「随分と大きな城ね。どうやって作ったの?」


先頭を歩くキーンが、振り返ることなく言った。


「この魔王城にいたのが、かつて“魔王ハイキブツ”と名乗っていた女で、当時から巨大な城でした。直接魔王と戦ったのは俺ともう一人の男なんですが、手こずりましたよ。冒険者を人質にとったり、装備品を封印したり……実に厄介な存在でした」


「封印?」帆世が眉をひそめる。


「ええ、ここアドベンティアではスキルを得られる魔法のアイテムなんかが手に入るんです。魔王は、そのスキルに干渉する力を持っていました。俺の槍も、魔王の前ではただの棒きれですよ。」


キーンは肩をすくめる。


すると、「ふむ」と隼厳が手にした刀を見つめながら口を挟んだ。


「この刀は、山中の宝箱から拾ったものじゃ。中々良い手の者が使っていたと見える。ダンジョンでは、こうした拾い物も多いのか?」


「ええ。このダンジョンは、いくつもの特殊なフィールドを貼り合わせるように膨張を続けていて……そのフィールド由来の武具や遺物が、宝箱として残されているんです。どうやら、それも先代の魔王が構築したシステムのひとつらしくて……」


「そんな都合のいい話、あるのかしら? ダンジョンの構造自体も特殊だけど、そういったシステムやスキルに干渉するなんて……」


帆世が懐疑的に問い返すと、キーンはしばらく黙った後、ひときわ静かな通路で足を止めた。


「……これは、ここだけの話なんですが」


振り返り、声を落とす。


「その“魔王ハイキブツ”が、死ぬ間際に言ったんです。“私はもともと、別の世界の管理者だった”って。より上位の管理者によって世界ごと廃棄された存在だと。」


「……ふぅん。随分不穏な話ね」


「はい。正直、俺にはちんぷんかんぷんで。でも、帆世さんなら...そういう世界の話もご存知じゃないですか?」


「残念だけど、私にも見当がつかないわ」


帆世とキーンは、表面上は穏やかな表情を浮かべて談笑していたが、その実、互いに腹の内を探り合っている。

一歩下がって、その様子を見ていた隼厳には、帆世がキーンのことをまるで信用していないのだと分かった。


(次の時代を獲る者同士の会話と言ったところかの。……こっちの子はいつも以上に静かじゃが)


隣を見ると、ミーシャは一言も発さず、じっと考え込むように歩いていた。視線は伏せられ、長いまつ毛の影が頬に落ちている。


「...?」


とはいえ、周囲への気配りは欠かしてはいない。隼厳のさり気ない視線に気がつくと、小首を傾げて反応をする。

隼厳は、「いいや、大丈夫じゃ」と手を振り、再び周囲へ目線を泳がせた。巧妙に隠されてはいるが、幾つものトラップが仕組まれ、時には手応えのありそうなモンスターの影も見える。


(臭いのぉ。 アメリカなんぞに着いてきた甲斐があったわい)


隼厳の求めるは、命を取り合う合戦である。きな臭いほどに魂は燃え、剣を握る時こそ生きている実感を得られるのだ。

チャキリチャキリ……待ち遠しいとばかりに、手に入れたばかりの刀で鯉口を切る。そのたびに刀身がわずかに松明の炎を反射し、まるで血に濡れているかのように怪しげに光った。この刀の性質をよく表していると言えるだろう、正に呪われた妖刀の類であった。


隼厳は、脳内でキーンの背中を何度も斬り裂いて無聊を慰めることにした。半分無意識のうちに、様々な角度で切りつけ、妖刀の試し斬りとしているのだ。これも、隼厳にはよくあることである。



「う゛っ……」


その度に、哀れな犠牲者となったキーンが呻く。

何をされたか分からないが、確実に何かされているという不安だけが募る。


「キーン、何かあったの?」


帆世が訝しげに顔を覗き込む。

キーンの心臓が嬉しげにときめく一方で、無様を晒したくないというプライドが軽口を叩かせた。


「……ハハ、風邪でもひいたかな」


首筋に走った悪寒に、喉元に微かな冷汗が伝うが、目の前にいる帆世静香の方がよほど重要である。キーンの心情は単純そのもので、(帆世静香さえ殺せれば、人生の全てに満足できる!)と妙な確信を深めているのだから。


「そろそろ料理の準備が出来た頃でしょう。食堂まで、ひとつ近道を使いましょうか」


キーンはそういうと、変な空気を誤魔化すように、足早に城の中庭に向かった。そこは、円形の石畳が敷かれた開けた空間で、中央には魔法陣のような刻印がうっすらと残されている。キーンがそこで、軽く手を叩いた。


パンパン。


呼応するように、中庭に影が落ちる。

その正体を見上げるよりも早く、ぐんぐん影が大きくなり、一匹のモンスターが姿を現した。


「こいつは、“グライフォルク”と言うんです。言うことをよく聞くので重宝しているんです。」


大地に着地したその体は、獅子と鷲を掛け合わせたような威容を誇っている。茶褐色の羽根と、白銀の鬣は、この獣がただの乗り物ではないことを主張しているようだった。


「さあ、乗ってください。魔王城は縦にも広い造りになっています。地上の移動では面倒ですから、食堂のある上層階までスキップしましょう」


キーンが、軽やかに〈グライフォルク〉の背に飛び乗った。


帆世が無言で続き、ミーシャの手を取って引っ張り上げる。隼厳は手綱代わりと言うように、生えている鬣を掴んでいた。




ーーーーーー




食事もつつがなく終わり、日も暮れた。

帆世たちはキーンの勧めに従い、城の中層にある客間をいくつか借り、一夜を明かす準備を進めていた。


「……師匠、本当に一人で寝るんですか?」


ミーシャが心配そうに問いかけると、隼厳はふっと笑って手をひらりと振った。


「心配無用。ここが敵地であることくらい、弁えておるわ。眠りに落ちるほど、隙を見せる気もないわい」


その眼差しは冴え冴えとし、剣気すら帯びているようだった。


「……アークの姿も見えませんし、キーンも底が知れない。用心に越したことは無いわね」


帆世が周囲に視線を巡らせると、何かを思い付いたようにミーシャの腰元から銀爪を引き抜いた。

そして、そのまま、床の石畳に突き立てる。


ピシャ!


小さな音とともに、空間がわずかに波打ったかと思うと、すぐに収束して静けさを取り戻す。

次の瞬間、音もなく影が現れた。第一階級《微笑む福音の》ベルフェリアが、帆世の目の前で両膝をつくようにして顕現する。


『この一帯を私の内に引き込みました。侵入者があれば即座に感知できますわ。ただし……この空間はダンジョン同様、外界とのウィンドウ通信は遮断されますので、お気をつけください』


「相変わらず、面妖な術に長けておるようじゃな」


隼厳が目を細め、感心したように呟いた。隼厳は詳しく知らないが、ヴァチカンでは悪魔達によってダンジョンの中にダンジョンを作られたこともある。彼女らにとって、空間を操ることは、そう難しいことでは無い。


「じゃあ、ベルフェリア。今晩はそこにいてね、誰かが入ってきたら容赦なく迎えてあげなさい。」


帆世がそう言うと、ベルフェリアはにっこりと笑みを浮かべ、銀爪の中に吸い込まれるように姿を消した。


「……じゃ、ミーシャ。今日は一緒に寝よ? 睡眠なんて、三日ぶりねぇ」


師匠と部屋を分けると、帆世は軽く腕を伸ばして誘った。言葉はなくても、穏やかで揺るがぬその仕草に、ミーシャは黙ってうなずく。


二人でベッドに入る。肩が触れる程度に、そっと身体を寄せ合いながら、呼吸の波が静かに重なっていった。

帆世の呼吸音は、すうすうと規則正しく一定のリズムで聞こえてくる。


ミーシャは眠れなかった。


小窓の外では、夜空の星々が、ゆっくりと弧を描くように流れている。その星を、まばたきもせずに見つめていた。心の内はまるで別の世界に沈み込んでいた。


昼間のことが、何度も脳裏に浮かんでは消えていく。


(……私は、弱いのに、驕っていた)


キーンとの対峙。必殺の一撃を防がれ、目の前で帆世のもとに踏み込まれた。

自分の剣は、敵にいなされた。敵が帆世の元に歩いていくのを、止めることが出来なかった。


それは、失態だ。取り返しのつかない敗北に繋がる危険も、十分にあった。


思い返すたび、胸の奥に重たい石が沈んでいく。


(そういえば、あの子……あの猫みたいな子は、私に似ている)


朧げに、地面にへたり込む猫女の顔が浮かぶ。

敵として対峙したときには気づかなかった何かが、あの一瞬で確かに心をざわつかせた。


(あの子は、見捨てられたんだ。)

キーンという男が、彼女の主人なのだろうと推測する。主人の前で力不足を悟られ、無能をさらけ出し、捨てられた。


その姿が、どこか他人事に思えなかった。


(いつか私も……すて……す...)


 

胸の奥に、冷たい疑念がこだまする。


“英雄の戦場”というクランのなかで、自分は最も無力なのではないか――そんな思いが、頭から離れなかった。


ベルフェリアの力がなければ、私はまともに戦えない。その力は帆世静香から借り受けた物だ。


自分だけの力では誰かを守ることも、敵を倒すこともできない。

それなのに、帆世さんの隣にいていいのだろうか。

もし私のせいで、誰かの命が失われたら? 帆世さんが傷ついたら?


……それは、耐えられない。そんな自分を見せるのも嫌だ。


(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……嫌だよぉ...)


……命が削られる予感。争いが近いという直感。


そんな場所に、私はいていいの?

繰り返す自問自答。


(……嫌われたくない...でも居場所は、もうここしか...)


喉の奥が急に収縮し、熱い何かがこぼれそうなるのを、必死に噛み殺す。


失望されたくない。

この手を離される未来が、怖い。


ミーシャの胸の内では、言葉にならない涙が、静かに降り始めていた。





ーーーーーー




(『……ミーシャも、人の子でしたわねぇ』)


ひとり、声にもならない吐息を胸に含みながら、ベルフェリアはその少女を見つめていた。


薄い毛布に包まれて、かすかに震える肩。

闇に溶け込むような沈黙のなか、ミーシャはまばたきもせずに星を見上げている。


その心は、深く、静かに沈んでいた。

恐怖。嫉妬。羨望。尊敬。力への渇望。


(『ふふ……それはそれは、強くドロドロとした願望の渦……♡』)


それらの感情こそが、ベルフェリアの糧である。

《微笑む福音の》ベルフェリア。その名は一種の皮肉だ。人の願望に漬け込んだ“福音”の裏には、必ず“代償”があったのだから。

彼女は幾千年のあいだ、人間の欲を喰らい、願いを叶え、対価を徴収してきた。それは幾つもの世界線を喰らい、彼女が第一階級の中でも随一の大きさへ至れた理由でもある。


そんな悪魔の顔が、夜の闇に浮かぶ。


尊く、歪で、儚いほど純粋な願いを嗅ぎつけた。

自己否定と承認欲求が複雑に絡み合ったその心の様子が、手に取るように感じ取れた。


(『彼女の願いは、力の渇望、ですわ。』)


ミーシャ自身、混乱のきわに居て、今の状況を正しく認識出来てはいない。


自分の心が、どれだけ深く堕ちているのか。

自分の心が、どれだけ強い毒に犯されているのか。

自分の心が、どれだけ黒く輝いて見えているのか。


ベルフェリアは、その魂を傷つけたいと思っている訳では無い。むしろ、主である帆世のために全てを投げ打つ様は、大変に快いものだ。


けれど――もし、彼女がほんの一言、願いを口にするなら。


(『力が……欲しいでしょう?』)


問いかけは、まだ言葉にはなっていない。

まるで、夢の中の囁きのように。微睡みに落ちる寸前の、現と幻の境に差し込む声のように。


もし、彼女がベルフェリアを受け入れるとしたら。


(『貴女を糧に、私の全存在を顕現させてみせましょう。その方が、今よりもずっとずっと……』)


悪魔は、笑っていた。



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