アドベンティア編 擬態
森で追われること二日目の夜のことだった。
真理たちは追手の居場所を完全に読み切り、射線の通らない大木に身を沈めていた。ようやく確保した休憩のひと時。木の幹に穿たれた穴を偶然発見したアークが、そこから赤く熟した木の実を発見する。大量に貯蔵された木の実を取り出すと、ほのかに甘い香りが漂ってきた。疲労困憊の体にとって、それは天からの恵みに思えた。
(ふわみんの巣だったんだ)
ふわみんというのは、この森を彷徨ううちに何度も見かけることになった、可愛らしい動物のことだ。ふわふわとした長い毛並み、真ん丸なシルエット。オスは地味な灰色、メスは鮮やかな赤い毛並みを持ち、仲睦まじく寄り添う姿はどこか人間とも似ているような親近感を感じさせる。
しかし、その平穏は突如として破られる。乾いた銃声が、森に鋭くこだました。咄嗟に伏せた真理たちのすぐ脇に、何かが落ちる。バウンドして転がったのは、真紅の毛をしたふわみんだった。短い手足をきゅうきゅうとすり合わせ、藻掻いている。銃弾が掠めたのか、赤い毛が空中に漂った。
直後、さらに二発。三発。
狙いは全てメスのふわみんだった。痛みと恐怖に転げまわる彼女の元に、仲間たちが駆け寄る。雄のふわみんたちは、傷ついた彼女を庇うように身体を張り、幹に身を寄せてその小さな命を守ろうとした。
だが、銃撃は止まなかった。いたいけなメスのふわみんが涙を流し、恐怖から歩くことができない。それを見たオスたちが、彼女に思いを寄せているのか、ボロボロになりながら彼女の体を木陰に引きずっていく。あと一歩で助かる!その瞬間に、正確無比な弾丸がメスふわみんの股の間に着弾する。
pgyaaaaaaaaaaaa!!!!?
響き渡る絶叫。撃ち抜かれたのは、深紅の毛並みをしたふわみんのナッツである。ひっくり返った深紅の毛並みをしたふわみんの、その乱れた毛の下からオス個体特有の灰色の毛があらわになった。(………オスだったのだ)。周囲のオスふわみんが、銃弾を忘れて呆然とする。まさか思いを寄せていた相手が、毛を朱く染めたオスだったとは……ぺぇっ!と唾を吐き、散り散りに逃げていくオスふわみんたち。偽った身分、弄んだ恋心、惚れた相手のためなら命も賭ける種族の本能。取り残されたオスだったふわみんは、今も泡を吹いて気絶している。ふわみんの社会の世知辛い一面を見た気持だった。
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椿真理とアークは、周囲に警戒しながら森の中を日夜移動していた。少しでも隙を見せれば飛んでくる弾丸を木で防ぎつつ、ドラゴンの卵を目指して歩を進める。移動すること三日。弾丸と殺気で織りなされる応酬は、まるで言葉の代わりのように、互いの思考を伝え合っていた。
戦闘とはお互いに考え抜かれた意思のぶつけ合いだ。相手の剣を見て、体で受けることで、その持ち主の考えていることが見えてくるのだ。それは、狙撃においても同様であった。狙撃には明確に人格が乗っており、三日にわたってその弾丸を受けることで、真理は己の覚醒を自覚しつつあった。
真理は、追手の性格を“サディスティックな快楽主義”と理解するに至ったのだ。
頭部でも心臓でもない。狙われるのは、腹部、太もも、肩、上腕。致命傷にならずとも、戦闘力と意志を奪う部位ばかりだった。
それは獲物を追いかけ、いたぶることを目的としていると考えた。この敵への理解が、後に重要な意味を持つこととなる。
「おい、姐ーちゃん。あれは…」
アークが立ち止まって、森の奥の木を指さした。目を凝らすと、一本の細い木の枝にきらきらと光る正六面体の箱が、まるで引っかけられた飾りのようにぶら下がっていた。
片手にすっぽり収まるほどの小さな箱。側面には緻密な紋様と絵が描かれており、美術品に疎い者であっても、この箱がとんでもない価値を秘めていることが分かるだろう。その箱に、真理は見覚えがあった。現在行方不明になっている奇術師ジル・レトリックの所有品である。
「“怪盗の玩具箱”……ジルがここに居たんだ」
そっと手に取った箱を、追手に気づかれぬよう慎重にアークに手渡す。
それは確かに、ジル・レトリックがこの場所に痕跡を残した証。その箱一つが、彼の居場所をたぐり寄せる数少ない鍵となる。
アークが目を伏せ、眉間に深い皺を寄せた。
彼のスキル――《シーカー》が、細い糸を手繰るように、残された痕跡から現在の居場所を探っているのだ。
アークはそのまま目をぎゅっと閉じ、慎重に、しかし迷いなく森の奥へと歩を進めていく。彼の中に浮かぶ“何か”を辿るように、数十歩、数百歩。空気の色が、風の匂いが、徐々に変わっていくのを感じた。
(おいおい…何があったんだよ…)
真理は驚きを隠せない。
木々は根元から千切れ、幹は裂け、地面には巨大な爪でえぐられたような跡が幾重にも残っている。土は捲れ上がり、空へ向けて破壊の軌跡を晒していた。その惨状は、まるで嵐が地上に墜ちてきたようだった。
その嵐を纏っていたのは、“空色の天帝セラフクロウ”。彼は既に倒され、今は真理の持つ“怪盗の玩具箱”に収納されているのだが、それを知っている者はジルただ一人である。
「……ここだ。間違いない。ここで、ジルの旦那の気配はぷっつりと切れてる」
惨状の中心で、アークが歩を止めた。
「だが、気配はまだ残ってる。遠いような、近いような……あの人は多分、この場所で新しいダンジョンに入っちまったんだ…と思う」
「新しいダンジョン…だと?」
私は思わず天を仰いだ。
既にアドベンティアの、さらにその中にあるドラゴンズネスに来ているんだぞ!?
ダンジョンの中のダンジョンで、さらにどこか別のダンジョンに行ってしまったジル。
「本当に、お前はどこに行っちまったんだ…?」
「ある意味、ジルの旦那らしい気もするじゃねえか。安心しろよ、生きてるのは間違いねえ。」
静かな確信のこもった声だった。真理は目を細め、空を仰ぐ。
「生きているなら、それで十分だ。お互い生きてさえいれば、きっとどこかでまた会える」
ぐっと拳を握る。そして、次の瞬間には前を向き直っていた。
「生きているなら良いか。お互いに生きていれば、その内会えるからな! こーなったら、アーク!お前の探し物を先に見つけにいくぞ!」
下を向いていたって、何も始まりはしない。
心を上向けるには、自分で自分の胸を蹴飛ばしてでも立ち上がるしかない。
空元気でも構わない。続けてさえいれば、やがてそれは“本物の元気”に変わる。
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再び歩き出した真理とアークは、森の奥で異様な光景に出くわした。腐臭と硫黄のような刺激臭が鼻を突き、地面には茶色い水たまりがあちこちにできていた。
「…上だ」
真理の言葉に、アークが顔を上げた。
高い木々の枝に、大きな影が引っかかっているのが見える。巨大な胴体が、くの字に折れたような姿勢で幹に横たわっていた。ずるりと垂れた長い尾、かすかに風に揺れる鱗の欠片。
「パラダイススネーク、か」
どうやら何かに撃ち落とされ、そのまま木の上に引っかかっていたらしい。口元は裂け、鱗は焼け焦げ、腹の一部が異様に膨れている。
(う…見るに堪えんな…だがこの臭いは、好都合かもしれない)
無数の粘液の塊が、にちゃにちゃと蠢いていた。青や緑のスライムたちは、絡みつくように蛇の死肉を舐め取っている。ぬるり、ぬるりと体を変形させながら、裂けた鱗の隙間から内部へ侵入し、腹部へと群がっていた。
「こいつが吞み込んだドラゴンの卵が、どこかにあるはずだ。見つけなきゃな。」
ドラゴンの卵は、パラダイススネークの腹部から転がり落ち、このあたりの草むらにでも落ちているのだろう。スライムたちも死肉に群がるばかりで、私達に興味はないらしい。
「それは任せてくれ…だけどよ、遂に来たな。緊張するぜ」
「ああ、でも予定通りだ。あたしを信じてくれ。」
なにやら密やかに覚悟を決める二人。
その意味が分かるよりも早く、森に銃声が響いた。
──パァンッ!
「危ないッ」
真理がアークの胸を強く突き飛ばした。その反動でアークは後ろによろめき、地面に手をつく。
一瞬遅れて、真理の身体がビクリと震えた。腹部、右脇下あたりに衝撃が走ったのだ。
赤い液体が、服の内側からじわじわと滲み出し、やがて膝が砕けたように力なく折れ、真理は地面に崩れ落ちた。
「ち、ちくしょう!」
顔を強張らせたアークが、咄嗟に駆け寄る。
だが、それは追手の思い描いた通りの動きだった。
すかさず放たれる次の弾丸。肩に、胸に、まるで的をなぞるように銃弾が突き刺さる。
「ぐっ……!」
血飛沫を撒きながら、アークの体が大きく仰け反った。
森の斜面に足を取られ、そのままゴロゴロと転がり落ちていく。
真理の体に、まばらに銃弾が突き刺さる。慎重に移動しながら、倒れている女が本当に死んでいるのか探るように、肩や足を狙って撃ってきているのだ。
真理の全身に穴を穿ち、そこから流れ出た生命の証が、地面に赤い水溜りを出現させる。
「ちぇ…大事な瞬間なのに、なんでこんなに臭ぇんだよ」
木陰から現れたのは、一丁のスナイパーライフルを構えた男だった。細部まで研ぎ澄まされたターゲットライフル。銃身には使用者の癖が滲む無骨な擦り傷。モデルはRuger Mini-14、軽量で頑丈。操作性が高く、比較的高い命中精度を持つセミオートライフルである。
男の名は、≪狩猟帳≫B・B・ロバート。
自称で名乗っているB・Bとは、「Butcher-Baker(屠殺するパン屋)」の異名に基づいており、かつてアラスカで人間狩りをしていたロバート・ハンセンの生まれ変わりであることを暗にしめしていた。拉致した女性を山中に放し、逃げる背中を追いかけて殺害する手口は、映画や小説といったフィクションを大きく超える残忍さを持っていた。
「さ、記録記録。首を飾れないのが残念だよ。」
その狂気と快楽が宿った視線を、倒れた真理の全身に這わせ、写真を撮りながらニタニタと笑みを浮かべる。ロバートが決してヘッドショットを狙わなかったのは、こうして獲物を記録するためである。
そうして一歩、ロバートが足を踏み出した瞬間
真理の目がバチリと開き、視線が跳ね上がった。
「っ――!」
ロバートの目が見開かれる。
真理が地面から跳ねるように飛び出し、彼女に撃ち込まれたはずの弾丸がパラパラと地面に散らばる。
低い姿勢から右手を刀の柄に当て、ロバートとの間合いが急速に縮まった。
「っち、やりやがったな……!」
ロバートが舌打ちするが、同時に手を腰に回して、近接用ショットガンを取り出した。
ショットガンだけでなく、体のいたるところにハンドガンやナイフを備えており、オールレンジに対応する備えはあった。
だが――
既に銃の間合いは失われ、ロバートが立つのは剣士の間合い。
ギンッ――!
刹那、ショットガンの銃身が途中から斜めに切断される。
金属が歪む音とともにロバートの上肢が跳ね上げられ、同時に真理の足払いが下肢を払った。
ロバートの視点に立つと、地面が傾くように感じたことだろう。
世界がぐるんと回る最中、そこに、膝が叩き込まれた。
「グゥッ……!」
鳩尾にめり込んだ衝撃で、ロバートの体が折れる。
襟を掴まれたかと思うと、再び世界がぐるんと回り、木の幹に叩きつけられた。
激痛に顔がゆがむ中、ロバートは無理やりにやりと笑って、次の行動に出た。
彼は、倒れながらも自らショットガンを手放したのだ。
――ガシャッ、と音を立てて地面を転がる銃。
膝をつき、両手を上げ、顔面に醜悪な笑みを張り付けてせき込む。
「ゴホ…ゲホ…へへへ、女に人が斬れる訳ねえよなぁ?あん?」
無言で見下ろす真理。
「その服の下に何か仕込んでやがったな…血に見えたのは、木の実の汁か」
ロバートが、嫌な視線で真理を舐めまわす様に見ている。
この男、降参したことをいいことに、開き直ってべらべらと喋っている。
「…ああ。お前が急所をわざと外して撃つことは分かっていたからな。」
「けっ さあ、街に戻って警察でもどこへでも突き出せよ。俺は言われてやっただけだぜ。」
ロバートは大きな声を出しながら、打開策を探っていた。
その耳に、わずかな斜面の草を踏む音が届いたことで、ある確信を得る。
(真理が生きてたんなら、もう一人の男も生きてるに違いない)
「……!」
アークが顔を出した瞬間、ロバートが徐に立ち上がってアークの方へ走り始めた。
「ぎゃははは 狩る側の覚悟ってやつが足りねーな!」
普通の人間には、人を殺すことに抵抗感がある。それを自覚しているからこそ、ロバートはこれまで人間を一方的に狩ってきた。
時には逃がす獲物にナイフや銃を与えてみたが、誰もまともに引き金を引くことすらできない。せいぜい目を瞑って当てずっぽうに弾を撒き散らすことしかできない。
そういう人間を見ると、ロバートは心から満たされる。
目を開いて、冷静に人間に弾を撃つことができる自分を、神に選ばれた特別な人間であると確信することができるのだ。
アークに向かって走りながら、腰に差してあるナイフを掴む。
(このナイフを男の腹に突き刺し、ギリギリまで人質にして逃げのびる…!)
ナイフを引き抜いて前に突き出した、と思った。
「…あれ? 腕が…?」
なぜか腕が前に出ない。
目の前には弱そうな男が、ぺたんと地面にへたり込んでいる。
混乱するロバートだったが、ぞわりと首筋に鳥肌が立った。
「我ら夢想無限流――
剣を握った以上、人を斬ることを躊躇う者は居ない。」
そこでようやく気が付く。
前に出す腕が、ナイフを握りしめたまま地面に転がっているのだ。
恐る恐る振り返ると、刀を持った真理が、空間を歪める圧力を纏って立っていた。
刀を正中に掲げ、冷たい視線がこの後起こることを告げていた。
「ハ、ハハ…目…開いてんじゃん…」
真理の冷たい視線と、ロバートの慄く視線が交差する。
刀がロバートに振り下ろされる
其の寸前、ロバートの頭が爆ぜ、脳みそを撒き散らして地面に倒れた。