溶けて煮詰めた夢の先 (前)
最終話前後編です。
「あっ、これ美味しいわね……」
「そう? 私もこれ好きだよー」
喫茶店の中、テーブル席を囲むメルとカエデの二人は優雅にティータイムをして過ごしていた。
テーブルの上にはカラフルなお菓子が山盛りにされている。全てカエデ手製のお菓子で、カエデはここにきてから暇さえあればお菓子を作る生活を続けていた。もちろん作れば増える一方なので、こうして二人で(時には三人で)消費をしている。
そんなティータイムは、カエデがここにきてからすっかり日常となった時間でもあった。
他愛もない話……とある偉人の夢に入ったメルの話を聞いていると、珍しくグランが新しいカップを持ってくる。
「カエデ、これを飲んでみろ」
「あれ、カエデの分だけー? なんかすごくいい匂いがするんだけど」
ずい、と差し出されるティーカップには黄金色の液体が満たされている。
グランは相変わらずの無表情で、何を考えているかカエデには読み取れなかった。カエデはここにきてからメルとはよく話すが、グランとは必要以上の会話はなく、いまだに若干の苦手意識を持っていた。
それでもメルが反応したとおり、確かにいい匂いのする紅茶を前に、カエデの手は自分の意識の外で素早く動いた。そしてすぐさまぐいーっと飲み干してしまう。
いつもはゆっくり冷ましてから口をつけるカエデのありえない行動に、目の前にいたメルも唖然としてしまう。カップを手にしているカエデ本人も、自分の行動が理解できず首を傾げた。
「やはりな」
「……どういうこと?」
「今のは夢の成分を多量に含んだ茶葉だ。どちらかといえば我々、獏が好む茶葉と言える。それにカエデが反応したということは、味覚が、そしてカエデ自身も人の域を外れ始めているといえよう」
「んーと、カエデが人じゃなくなるってこと?」
「そうだ。カエデ、しばらく自分の夢に行ってないな?」
そう聞かれてカエデは頷く。キッチンも材料も喫茶店内で完結するから、とくに出向く必要がない。
「ついてこい」
返事もまたずすたすたと歩き始めるグランの後を、慌てて二人で追いかける。グランが向かったのはキッチンから繋がっているカエデ自身の夢だった。
そしてグランがドアを開けたその先は、カエデの記憶とはずいぶんと異なっていた。
「うわぁ、なんか……溶けてる?」
以前までなら広い牧場に数種の果物が実る菜園、それと高いビルがあった。
その高いビルはてっぺんから溶けていて、波を描くように外壁が曲がりくねっている。カエデから見ても、なんでまだ立っていられるのか不思議なくらいだった。
一歩踏み出した地面は水分を含むようにべしゃりと沈みこむ。かろうじて草原は残っているが、牛や山羊も元気がなく動く様子もない。
「おそらくだが、カエデは飲み物として他者の夢を取り込むことで、自身の存在が曖昧になっている。このままの状態が続けば、カエデが現実で目を覚ます確率も低くなるだろう」
カエデは呆然と目の前の光景を見ていた。確かにここは自分の夢だけではない、という違和感が支配している。自分の世界が今にも崩壊してしまうような、そんな感覚がカエデを襲う。
そしてその影響は、目の前のカエデの夢に伝わっていく。
「ん?」
「まずいな」
メルとグランはすぐさまカエデの手を取り、ドアの内側へ引っ張った。喫茶店のキッチンへと倒れこむのと同時に、素早くドアを閉める。少しして大きな衝撃がドアの外側を叩き、何度か衝撃を加えると、気が済んだのかやがて大人しくなった。
「夢が攻撃性を持ってしまった。次からはそう簡単に行けなくなったな」
「カエデ、カエデ! 大丈夫? 戻ってきたよー」
ぺちぺちとメルが頬を叩くが、カエデはなにも反応を返さなかった。
★ ★ ★
テーブル席でメルとグランが向き合う。テーブルの上にはしっかりとティーカップが用意されていた。
「もーさぁ、ここにいさせればいいんじゃない? せっかくお話相手が出来たのにいなくなっちゃうの寂しいなー」
「我は反対だ」
メルは手に持ったカップに口をつけようとしていたが、その言葉に一度ソーサーへと戻す。
「ふーん、意外。好きにすればいいっていうのかと思った。もしかして結構カエデのこと気に入ってる?」
「製菓の能力は評価している」
グランの中でカエデはメルが勝手に連れてきた住人というだけで、それは今も変わらない。しかしメルから見るとグランが人のことを褒めるのは稀で、カエデを高く評価しているように感じた。
「それは私もしてるよぉ。でもそうだね……グランがどうでもいいとか言うなら無理やり残そうと思ったけど、それならカエデに選んでもらおっかな」
「人から離れるだけで、我らのように獏になるわけではない。ここで正気を保ち続ける確率を我は低く見積もっている。……それに」
「それに?」
「まだカエデの夢に植えた茶葉を収穫していない」
そう言い残しグランは席と立つ。ティーカップの中はしっかりと空になっていた。
「……絶対その理由が一番じゃん」
メルも自分のカップを空にして、カエデの元へ向かった。
キッチンの端には場違いなベッドがある。これは、カエデの要望により作られたものだ。
この喫茶店の中で睡眠は基本的に必要ないが、何時間も起き続けていられることに少しずつ違和感を感じていたカエデは、ベットを一台用意してもらっていた。
睡眠を全く必要としない獏の二人に、その違和感を説明するのはとても苦労したが、ベッドが用意されてからは時々カエデが横になる姿を見ることがあった。
そんなベッドの上、寝かされていたカエデが意識を取り戻すと、目の前には二人が並んで立っていた。
「選択の時だ、カエデ」
「まーたかっこつけてー。ねぇ、カエデはずっとここにいたい? それとも現実に帰りたい?」
起き抜けにメルとグランにそう問われ、その視線に今決めなければならないんだとカエデも感づく。
もともとカエデはブラック企業で働くOLで、ある日の深夜、疲労困憊の帰り道の途中、車と事故を起こした。グランの話では、本当の身体は未だ病院で寝ていて、この喫茶店に来たのは気まぐれでメルが誘ったからだ。
カエデが働く前まで趣味としていたお菓子作りの腕は、ここにきて遺憾なく発揮された。基本的に食べるのはメルとグランであったが、たまに現れる私と同じようなお客さんにも食べてもらうことは、お菓子作りが好きという自身の気持ちを再認識するきっかけとなっていた。
喫茶店にいる間に、いつの間にかカエデは本来の身体があることを忘れていた。ここにいれば、あんな会社で働かなくても済む。こうやって毎日お菓子を作って、たまにお客さんにも食べてもらって、メルと他愛もないお話をして、グランとももう少し仲良くなって、そうやってずっと……それはまさに『夢』のような話だった。
「……ごめんなさい。私、戻ろうと思うの」
しかし、カエデの口から出てきたのはそんな言葉だった。
「ここは、本当に夢のような場所だと思うわ。でも、前々からずっと感じていたの、身体が戻りたがっているって。細い紐でゆっくりと、ずっと引かれているような感じがして……ここは夢であって、現実じゃないって言われているような。最近はすっかり忘れていたけどね。ねぇグラン、私の身体、本当はすぐにでも起こせるんでしょ。私の意識がここにあるから起きないだけで」
「そうだ」
グランの答えは明快だった。それは決して隠していたわけではなく、カエデが聞かなかったから話していないだけだった。
それを聞いて、カエデはやっぱりと笑う。
「メル、グラン。私をここへ誘ってくれてありがとう。私は夢から覚めるわ、そして、この夢をきっと現実にする。……そのために、私が自分の夢に帰るのを、手伝ってくれないかしら?」
「いいだろう」
「まかせて!」
迷いがなくなったカエデの決意を、二人は受け止めた。
今度は3人でテーブルを囲む。(カエデ以外の)飲み物とお茶菓子を用意するのを忘れない。
グランの話では、カエデを夢の中心に連れていけばそのうち目が覚めるらしい。問題はどうやってカエデをそこまで運ぶかだった。
カエデにとっての夢の中心は、最初に二人と出会ったあのビルの中、広大なキッチンだ。
「一度攻撃してきた夢は、その攻撃性を収めることはない」
今やカエデの夢は、他者の夢と混ざり合った状態だ。カエデ自身も攻撃対象にする可能性高い。カエデが自身の夢に傷つけられることがあれば、夢への影響は計り知れないだろうとグランは説明した。
「我も守ることはできるが、迎撃は得意ではない」
「私もー。本気出せばなんとかなるかもだけど、すっごい疲れるからなー」
「えっと……夢って攻撃しても大丈夫?」
「大規模な破壊でなければ問題ない」
メルもグランもそこまでの力は持ち合わせていないらしい。
「まずビルに入るのが最優先? 入っちゃえば大丈夫かな」
「中心に近いほど抵抗が激しくなると考えた方がいい。以前、我がメルに頼み事をした時もそうであったからな」
「あー、私を囮にした時のヤツ。どういえばあの時ってどうやって収穫したの?」
「短時間であれば夢の中に存在を溶け込ませることができる、いわゆる迷彩というやつだ。囮がいればなおやりやすい」
「なるほどねー……もう手伝わないからね」
「それって私も使えたりする?」
「これは獏の力だ、少なくとも人には不可能。メルなら練習すれば可能だろうが」
「迷彩かー……それよりさ、壁出すやつ教えてよ。あれならカエデも守れるよ」
「それもそうか」
一瞬の面倒くささを隠してグランは了承する。壁を作り出すくらいならば、そこまで時間もかからない。
「あまり時間をかけてもカエデの夢が悪化するだけだ。メルの準備ができたらいくぞ」
「まぁ無理そーなら一回帰ってくればいいしね」
そうして、カエデを夢に返す計画が始まった。