いつかその味を
どこまでも荒廃した大地が広がっていた。
出来るだけ遠くを見たかったから高い崖を苦労して登ったけど、そこから見えるのはなにもないという絶望だけだった。
重たいリュックを降ろし、崖の前に座り込む。
崖の下は永遠に続く暗闇が存在していて、ここから一つ足を踏み出せば、目の前の絶望から逃げ出すことが出来るだろう。だけどそうしないのは、きっとまだ生きていたいという気持ちを捨てきれていないから。
一息ついてぼろぼろのリュックを背負いなおし、崖を背に坂を下る。どこかに私と同じように、この大地をさまよっている人に会えることを信じて。
一日のほとんどを歩くことに費やす。崩れかけの建物はそれなりに存在するから、雨が降れば適当な建物に入ってやり過ごし、夜は火を起こして眠る。いっそ食料が尽きてくれたら諦めもつくだろうけど、リュックが軽くなると食料はなぜか見つかった。
食料は缶詰がほとんどで、賞味期限は見ないようにするのがコツだ。なにかわからない固形物を飲み込みながら、毎日少しずつ距離を稼ぐ。進む方向はなるべく一方向にしているけれど、コンパスなんてないし時計もない。もしかしたら昨日歩いた道を今日戻っている可能性もある。
だけど、それでもいいのだ、今生きて歩くことができるから。
そうやって何日も彷徨い続け、やがてたどり着いたのはらせん状に掘削された巨大な穴だった。真ん中は果てしなく、底は闇に閉ざされている。
なぜか底を目指さないといけない気がして穴を下る。途中の横穴で休憩し、夜をいくつも乗り越えながら進み続ける。いつの日か水がなくなって食料がなくなっても、私は歩き続けた。
何日歩き続けたのか、前に水を飲んだのはいつだったか、この穴の底はどこに繋がっているのか。ぐるぐると考えながら足だけは動く。まるで足だけ機械になってしまったかのようだった。景色はずっと変わらず、岩肌が伸びるだけ、いつの間にか歩いてきた道も暗く見えなくなっていた。
それでも歩き続け、ふと違和感があって顔を上げると横穴が何かでふさがれている見える。岩が崩れたのかなと思うが、それは木でできた扉だった。
なぜかこんなところにと、立派な扉があることを不思議に思いながら、しばらく休んでいなかったことに思い当たる。久しぶりに少し休もうと真新しく光るドアノブをひねった。
カランカラン
「いらっしゃいませー」
「い、いらっしゃいませ!」
出迎えたのはまるでよくわからない恰好をした人達だった。一人は白いふりふりがついたエプロンを着ていて、もう一人は真っ白の服で頭に長い帽子をかぶっている。
今までいた場所との落差に呆然としながら、私はいつの間にか手を引かれ、椅子に座らされる。
「……私、死んだ? これは幻?」
「はい、お水とおしぼりでーす」
目の前に出されたのは透明なグラスに入った水。信じることができないまま、出された瞬間、反射的に一気にあおる。痛いくらいに冷たい感触が喉を通りぬけ、思わず涙が出てきた。
「メル、メル。彼女大丈夫かしら?」
「大丈夫、よくあることだから。カエデはキッチンに戻ってていいよ。注文があったら伝えるね」
「わかったわ。気合入れて作るわね」
後ろでそんな会話がされていたが、私の涙は出続ける。出続ける涙を水で補充するように、私は空になったグラスを差し出した。
「落ち着きましたか?」
「うん、ありがとう」
小さな子供が話しかけてくる。テーブルの上にあった冷たくなってしまったおしぼりを交換してもらって、その暖かさに安心する。
「あれだけ水を飲んだ後ですが、暖かいものもいかがですか? 本日は各種ケーキもご用意できますよ」
「ケーキ?」
「あ、ご存じないです?」
「いや、知ってる。本で見たことあるから。食べたことはないけど……」
小さいころ、まだ両親がいた時に一冊だけあった絵本で見たことがある。この場所はあの絵本に書いてあった場所に近いような気がした。たしかカフェーとかなんとか……?
「……お任せしてもいい?」
「大丈夫ですよ。それではお飲み物もこちらでご用意しましょう」
「私のいたところ、なにもなかったから。ごめんね」
「いえいえ、お気になさらず! 少々お待ちくださいー」
そうして小さな店員さんがカウンターの向こうに消えていく。
カウンター内にいた背の高い店員さんがテキパキと動き出す。スプーンで葉を掬い、お湯を沸かす。
……こんなところに自分がいるということが信じられなかった。きっとこれは夢なんだろうなと思う。このカフェにくる前の一面に広がる荒野もきっと夢なんだろうけど、あれは私の未来でもあるような気がした。
この夢が終わったら、私は古びたアパートの中で目を覚まして、使えそうなゴミを集めて、回収業者に買い叩かれて少しのお金を得て、そのほとんどはわずかな食料に消えて……空腹感を思い出さないように次の日を待つ、その繰り返しだ。
いっそさっきの夢のように全て滅んでしまった方が楽なのかなと考える。あの夢と現実、どちらがマシだろう。
「お待たせしましたー。ケーキセットになります」
私はそんなことを考えをながら、目の前に置かれたやけに大きなお皿に視線を落とした。
★ ★ ★
カエデはキッチンからひそかに彼女の様子をうかがっていた。
なにせ人のために初めて作ったケーキ、気になるのも当たり前だった。今日のお客さんである女の子は、身なりはぼろぼろで髪も埃だらけ、カエデが想像していたお客さんのイメージとはまったく違ったけど、ケーキを知らないといった彼女のために、初めてのケーキとして最高の体験をしてもらおうとカエデなりに気合を入れて作った。
用意したのはケーキプレート、大きなお皿に食べやすい大きさに切ったケーキが6種並ぶ。まずは王道のショートケーキ、栗を丹念に濾したモンブラン、濃厚なガトーショコラ、フルーツの色合いが楽しいミニタルト、生クリームとカスタードがたっぷり入ったプチシュー、ちょっぴりどこか懐かしいバターケーキ。
どれもカエデにとって渾身の出来だった。彼女が全部気に入ってくれればそれが一番いいが、少なくともどれか一つでも気に入るようにといったラインナップだ。
心臓の鼓動が鳴りやまぬまま、カエデは最初の一つをフォークに刺した彼女の見つめる。
ぱくり、と口にした瞬間、今まで暗闇に染まっていた彼女の目に、光が指した気がした。
★ ★ ★
がばっと身体を起こし、上にかけていたタオルケットが宙に浮かぶ。
起きるとそこは古いアパートの一室で、カフェーは夢のように消えていた。
いや、夢だったから当たり前か……。
「美味しすぎて死ぬかと思った」
夢の中のはずなのに、まだ舌に甘さが残っているようだった。最初の白いケーキを口に入れた瞬間に、今まで使っていなかった脳の部分が爆発したような衝撃があった。
「まだ食べてないの5つもあったのにぃ! あぁ……なんで起きた私……」
ばしばしと薄い布団を叩く、あのケーキはどんな味だったのだろう。黒いのはきっと違う味だし、果物のようなものが乗っているケーキも美味しそうだった。
悔しさが胸の中を支配する。味の想像をしても、私のこれまでの経験では予想もつかない。目の前にあったあのケーキを、少し手を伸ばせば食べることが出来たのに、悔しさで狂いそうになる。
「うううううぅぅぅうぅぅ………………決めた」
決意をし布団を抜け出す。部屋の隅の棚、一番下の段の中にあったハンドガンを取り出し、弾の数を確認する。これはお父さんが遺してくれたもの、今まで使う勇気がなかったけど、今日からはたぶん必要になる。
いつもより装備の時間を長くかけて外に出ると、さあっと砂煙が頬を撫でる。山の中腹にあるアパートからは眼下を広く見渡すことが出来た。
銃声と悲鳴、怒号に爆発音。半分砂漠と化し、急激に終末へと向かうこの世界は、夢の中まで酷く荒廃していないけど、紛れもなく私の現実だった。それでも、昨日までの死んだような私と今日の私では、決定的に違うことがある。
「いつかあのケーキを味を確かめてやる」
砂糖もミルクも見たことがないが、この世界でも上り詰めればそれくらいの無理は叶うだろう。残った五個のケーキの味を想像しながら、揺るぎない目標を胸に私は一歩踏み出した。
★ ★ ★
「失敗だな。こうなるとは予想していなかった」
「なにが悪かったのかしら……」
「んー、たぶんカエデのケーキが美味しすぎたんだと思う。私達が夢を確保する前に美味しすぎて目が覚めちゃったんだね。カエデは悪くないよ」
「今回の主は餓えているようだった。余計にだろう」
「……ごめんなさい」
「まぁまぁ、残ったケーキでも食べよう。最初だし、こんなこともあるよ」