そのはじまりはとろけるような
ふらふらと夢を渡り、いい匂いを探す。
進んだ方向でたまたま見つけた夢を食べる。またいくつかの夢を漂い、適当な夢をつまむ。
メルは夢の中で、その繰り返しを何百年も続けていた。
獏であるメルにとってその行動は人の呼吸とも等しく、特に何も考えずに漂い続けていた。この行動に生きていく以上の意味なんてないけれど、どこかつまらないものを感じていたメルは、気づかないふりをして時間は過ぎていく。
ある時一つの夢を訪れ、メルは広い平原へと降り立った。青空の下、草花が波のようになびいている。
ここにやってきてすぐに、この夢にはあまり食べる部分がないことにメルは気づいていた。ただこの夢に入った瞬間に違和感を感じ、それが気になって夢の中を探索することにしたのだ。
違和感の方向へと平原を飛ぶ。どこまでも続く平原を越え、夢の端の端、切り立った崖の前に、メルは小さな畑のような場所を見つけた。
「なにこれ?」
畑の前に着地。明らかに普通ではない畑に、メルは思わず呟いた。
メルがまずおかしいと感じたのは、その場所がはっきりと輪郭を持って存在していること。
人が見る夢は、その中心ほどはっきりと物事が見えて、端へ行くほどぼんやりとしている。実際に崖周辺の大地はのっぺりふわふわとしていて、あまり視認性が良くない。それなのに畑のある場所だけが、ふかふかの土の上、葉がきらきらと水を反射させ、風に揺れる。異常としかいいようがない光景だった。
「……ふむ、同族か」
メルが畑を一回りしているうちに、何者かが降り立った。
それは背が高くて線の細い、人の形をしていた。人の世界でいう執事のような服装をしているが、夢の主でないことは感覚的にわかる。
「同族ってことはあんたも獏? 初めて会った……」
「我も同族を見たのは500年以上前のことだ。ましてやこうして話すのは初だな」
話しながらも、互いは一定の距離をあけ警戒する。
獏にとって夢は人の数分、まさに無数に存在する。時代や時間をも飛び越える獏の世界は広大で、なおかつ数の少ない種族であるため、同じ獏と会う確立は奇跡のようなものであった。
といっても、今の状況はメルが縄張りに侵入したようなもの。その時点でお互いは敵対同士といえた。
睨みあう両者、しかし先に恰好を崩したのはメルだった。
「……久しぶり過ぎてどうやって攻撃するのか忘れた」
「ここで争うのは我としても避けたい。我が名はグランディアシュタール・ノイルメーハ・ツェルトである」
「私はメル。ここに来たのに特に理由はないよ。それと長いからグランでいい?」
「……仕方ないが許そう」
グランはその呼び方に少し不服そうにしたが、それより気になることがあり了承した。メルの警戒が解けたことを確認し、グランは素早く畑の様子を確認する。メルによって荒らされた形跡は特になく、グランは安堵する。
「んで、ここでなにしてるの?」
「見てわからんのか、茶葉を育てている」
「ふーん、なんで?」
「……メルといったな。貴様、食事はどうしてる?」
「食事? ご飯のことだよね。適当にいい匂いのところに行ってぱくっと」
メルがそう答えた途端、グランは深く深くため息とついた。
「やはり全然理解していないな。夢の食し方というものを」
「な、なにさ。夢なんてどう食べても同じでしょ」
なにかバカにされたような気がして、メルはムっとした。しかしグランは余裕がある様子を崩さない。
「貴様は運がいい、この茶葉は今が最良の収穫日でな。珍しい同胞の出会いだ、最高の食事を貴様に恵んでやる」
「へー、どーせ夢なんてどれも同じ味ですけどねー」
メルにはグランの自信がどこからきているのか全く分からなかった。夢を『味わう』ことをしたことがなかったから、その時のメルは味という概念さえよく理解していなかった。
収穫が終わり、平原へと移動する。
やがて平原の中に一件の小屋が見えてきて、メルとグランはその前に降り立った。
「ここに、この夢の主がいる」
「私も入って大丈夫?」
「騒がなければ問題ないだろう……が人の形はとれるか?」
「適当でいいなら」
メルは獏の姿から人の形へ変化する。グランと比べると子供のようだが、どこかの夢から借りてきたのだろうと推測する。
「その程度の技術はあるようで安心した。ついてこい」
グランの言葉はなんか癪に触るなぁと思いながら、二つの足でその後についていく。
ドアの先はいわゆる人が住むための普通の部屋が広がっていた。丸太を組み合わせたような壁、木のテーブル、椅子、小さなキッチンに冷蔵庫、天井からは干された柿がぶら下がっている。
そしてその中心には、安楽椅子に座った老婆が一人。
「おかえり」
「今戻った」
当たり前のようにグランが返事をする。先ほど収穫した茶葉の入ったバスケットを、キッチンの上に置く。
「ねぇ、話して大丈夫なの? 夢に影響あるんじゃ」
「問題ない。黙って見ていろ」
「あら、お友達?」
「いや、友人ではない。知り合い……でもないな。ただの他人だ」
そう、と老婆はあまり気にした様子もない。
夢は異物を拒む習性がある。だから獏の食事は夢の主に気づかれないように素早く、一口で食べるのが当たり前だった。今、目の前で繰り広げられているのは、メルにとって非常識なことばかりだ。
グランはキッチンでお湯を沸かし始める。戸棚から3つ分のカップを出し、茶葉を茶こしに分けていく。
メルは立ったままも変かなと思い、空いていた席に座る。周りを見渡し、やっぱりここが夢の中心で間違いないと感じた。気の木目から老婆が着ている服まで、詳細に見ることができる。
老婆は人間の尺度で言えばだいぶ歳を召しているように見えた。メルが目の前に座っても、目を開けずイスを揺らしている。
いざ夢の主を目の前にして、果たしてこの老婆の夢は本当に美味しいのだろうかと、メルは思う。
今までは夢の主なんて気にしたことがなかった。食べてしまえばその夢はお腹の中に消えて、夢の主はどうせ忘れるから。
しかし目の前の弱弱しい老婆を見て、どちらかというと老婆の夢はあまり美味しくなさそうに思えた。
そんなことをメルが考えていると、キッチンからいい匂いがしてきた。それはどこか、メルが無意識に追いかけている匂いとよく似ている気がした。
「珠玉の一杯だ。よく味わって飲むがよい」
メルの目の前に置かれたカップ、その中は琥珀色の液体で満たされてる。
これが紅茶というものだと、メルは知っている。人の夢を渡りあるけば、それなりに人の世界についても知ることができる。たびたび人が紅茶を飲んでいるのを見てはいたが、まさか自分が真似をして飲むとは思ってもいなかった。
少し動揺する心を隠しながら、カップを手に取り、口元に運ぶ。
衝撃、だった。
喉を通り過ぎる紅茶は、とろけるような甘さだった。まるでいつも食べている夢を、何倍にも凝縮したような甘美な味わい。さらに驚いたのはその甘味のストレートさ。夢は様々な味が混ざり合った混沌としたものであったが、その紅茶は不要な味を全て取り去り、一つの甘さだけを抽出している。
はっ、と気づくとカップの中は空になっていた。
これは、やばい。もう今までのように適当な夢を食べられないとメルは直感的に感じた。
「……おかわりはある?」
「それは我が紅茶の味に屈したという意味で良いか?」
ぐぬぬ、と思いっきりメルはグランを睨みつけた。ここまでとは微塵も思っていなかったからなおさらである。
「あー分かったよ! 屈しましたー! 凄い美味しいでーす! こんなの初めて飲みました! もう一杯ちょうだい!」
「よかろう」
再度、琥珀色の液体がカップを満たす。メルはいっきに飲み干そうとしたが、それじゃもったいないと思い、今度は舐めるようにゆっくりと味わった。
グランと老婆もイスに座り紅茶を飲む。グランも納得の出来のようで、うんうんと頷きながらカップを口に運ぶ。
「もうそろそろじゃないかしら」
「……そうだな」
全てのカップが空になった頃、ふと老婆がそんなことを言う。メルにはその言葉の意味が分からなかったが、グランはゆっくりと頷いた。
「なに? もうそろそろって」
「この茶葉は老婆の夢の土地、風、光、水で、我が所持している特別な苗から育てたものだ。その茶葉から抽出された紅茶はまさに老婆の夢そのもの。我らが普段一口で食らってしまう巨大な夢の塊を、一杯に圧縮したのが今回の紅茶なのだ……それにしても素晴らしい香りと味! 老婆よ、礼を言うぞ!」
突然高笑いを始めたグランだったが、老婆は特に気にする素振りも見せる微笑んでいる。
「私は貴方の力になれたかしら」
「十分過ぎるほどな。……この茶葉がもう手に入らないことは残念だが」
「えっ!」
聞き捨てならない言葉に、メルは思わず立ち上がる。
「いいのよ、私も助かったから。できれば絶世の美男子と聞いていた貴方の姿を見たかったけど、それはまた次の人生に期待にするわ。それじゃあね」
カタカタと小屋が揺れる。いや、大地が揺れていた。
「夢の崩壊……!」
「この夢の主がいなくなるからな」
さらさらと小屋が消えていく。いつの間に席から老婆はいなくなっていて、窓から見える草原は光になって消えていく。あっという間に小屋まで光の渦に巻き込まれ、残ったのはグランが手に持つ茶葉入りのバスケットと、メルが咄嗟に掴んだカップだけだった。
「起きたの?」
「いや、死んだのだ。老婆との契約でな、夢の土地を借りて茶葉を栽培する代わりに、深く深く夢と見せると」
「どうして?」
「老婆はすでに様々な病気に侵されていた。自身では起きることは不可能、意識があるとしても感じるのは痛みだけ。だが我が導く深い眠りには痛みも届かない」
「ふーん……そういうこと」
老婆の最後を想う。今回の体験でメルが思ったことは、その夢の主のことだった。今までは主に会わないようにしていたけど、その主のことを理解することができれば、もっと美味しい夢に出会えるかもしれない。
「ではな、二度と会うこともないだろう」
メルがそんなことを考えているなんてつゆ知らず、グランはすーっと次の夢へ移動する。
「待った! 待ぁーーった!」
「うぐっ、なんだ。もう関わる必要はないはずだが」
メル自身今まで出したことのないスピードで、グランに飛びつく。
「あんなの飲まされてバイバイ。なんてそうはいかないでしょーが! 私にもどうやったらあんな夢が飲めるのか教えなさいよ!」
「面倒だ」
「あんたが嫌でも教えてもらうまで、絶対ついていくんだからね!」
本当に面倒そうに、だがグランも無理に振りほどいたりはしなかった。それは自分の入れた紅茶の味に絶対の自信があったのと、一度その味を知ってしまえば、他の夢を食べても物足りなくなることは自身で体験済みだったから。
メルとグランが長い長い夢の先に、喫茶店を開くことになるのはまた別のお話である。