第七話: 「佐江実咲」
1922年――。
山深い村、鳴興戸村に一人の少女が生を受けた。
佐江実咲。その名には「花のように美しく、優しき人生を」という両親の深い願いが込められていた。
だが、その名が表す希望とは裏腹に、実咲の人生は過酷な運命に翻弄されるものとなった。
実咲は生まれながらにして“特別”な力を持っていた。
誰にも説明のつかない不思議な力――超能力と呼べるその力は、幼い実咲にとって呪いのようなものだった。
村では、災いが起きるたびに実咲の名が囁かれた。
農作物が枯れれば実咲のせい、家畜が病に倒れれば実咲の仕業――人々はそう信じ、次第に彼女を災厄を引き寄せる存在だと見なしていった。
「実咲を村から追い出せ」「あの子がいるから不幸が続くんだ」
そんな声が日に日に強くなり、いつしか実咲は村人たちにとって恐怖そのものの象徴となっていた。
それでも、実咲は驚くほど心優しい少女だった。
どれほど冷たい目で見られても、どれほど憎まれ、疎まれても、彼女は誰かを恨むことをしなかった。
だが、その力のせいで実咲は幼い頃から孤立していた。友人を持つことも許されず、誰も彼女に近づこうとはしなかった。
彼女が目を合わせれば、人々は慌てて目を逸らし、道端で姿を見れば遠巻きに避ける――。
実咲の日常は、常に冷たい壁に囲まれているような孤独なものだった。
それでも彼女は静かに耐えた。
ただ一人で、誰にも頼らず、心に優しさを宿したまま。
彼女の瞳には、村人たちに向けられる敵意の代わりに、どこか哀しみを含んだ温かな光が揺らめいていた。
実咲は“災厄の子”と呼ばれながらも、ただ自分の心の中の小さな光を守り続けていたのだった。
1928年――。
鳴興戸村に、秋の冷たい風が吹き抜けるある日のことだった。
実咲は村の広場で一人、黙々と草むしりをしていた。
村人たちの冷たい視線を避けるため、外での作業を選んだつもりだったが、それが良い結果を生むことはなかった。
広場には数人の子供たちが集まっており、その中に真理子の姿もあった。
真理子は実咲の姿を見つけると、すぐに顔をしかめ、まるで獲物を見つけたかのように近づいてきた。
その後ろには、真理子を取り囲むように何人かの子供たちが続いている。誰もが真理子の次の行動を期待しているような笑みを浮かべていた。
「ねぇ、実咲ちゃん、何してるの?」
真理子はわざとらしいほど明るい声を出しながら、実咲のそばに寄った。
その声には、明らかに嘲笑が滲んでいる。
実咲は作業を止めることなく、小さな声で答えた。
「……草むしりをしているだけ」
「そうなんだ。実咲ちゃんって、本当に面白いよね」
真理子はニヤリと笑いながら、その言葉と共に実咲の手元にある草を突然引きちぎった。
「そんなことしても、何も変わらないんだよ」
実咲は一瞬驚いて手を止めたが、すぐに何も言わず草をむしり直そうとした。
だが、その動きを見た真理子は意地悪そうに手を伸ばし、実咲の手を払いのける。
「やめてよ、真理子ちゃん。お願いだから……」
実咲は小さな声で懇願した。しかし真理子は聞き入れるどころか、満足そうに笑みを浮かべた。
「お願い? 何をお願いするの?」
真理子の声には、悪意がはっきりと込められていた。
周りの子供たちはその様子を見てクスクスと笑い声を上げる。誰一人として実咲を助けようとはせず、むしろ彼女の困惑した様子を面白がって見下していた。
実咲は小さく震えながら、それでもまた草に手を伸ばそうとする。だがその手は再び払いのけられ、真理子の嘲笑が耳元に響いた。
真理子は急にしゃがみ込み、地面に転がっていた小さな石を拾い上げた。
そして、何のためらいもなくそれを実咲の足元に向かって投げつけた。
鈍い音が響き、石は実咲の足に当たる。
鋭い痛みが足元から走ったが、実咲は声を上げることができなかった。ただ、必死に耐えるように身を縮めるだけだった。
「どうしたの? 痛いの?」
真理子は冷ややかに笑いながら、実咲の反応を楽しむようにじっと見つめていた。
その様子を見た周りの子供たちが、無邪気とも言える笑い声を上げる。
実咲の顔は青ざめ、痛みと屈辱に涙がぽつりぽつりと頬を伝い落ちていく。
彼女は震える手で顔を覆いながら、心の中で小さく呟いた。
――どうして……どうして、こんなことを……。
それでも声に出すことはできなかった。彼女の小さな声が届くはずもないことを、実咲自身が一番わかっていたからだ。
真理子は、実咲の苦しむ姿をじっと見下ろしていた。
その顔には満足げな笑みが浮かび、まるで“ゲーム”が思い通りに進んだことを喜ぶかのようだった。
「もういいよ。楽しかった」
真理子はそう言い放つと、何事もなかったかのように振り返り、他の子供たちと一緒にその場を去っていった。
実咲は広場の片隅にひざまずき、誰もいなくなるまでその場を動けずにいた。
周囲の冷たい視線が完全に消え去るのを待ちながら、ただ静かに涙を流し続けていた。
涙はぽろぽろと止めどなく頬を濡らし、冷たい風がそれをさらに冷やしていく。
足元に残る鈍い痛みと、胸に渦巻く恥辱と孤立感が、彼女の心を容赦なく押しつぶしていった。
どれだけ酷い扱いを受けても、実咲が反撃することは決してなかった。
彼女の内に秘められた“特別な力”を使えば、いじめっ子たちを一瞬で黙らせることはたやすいだろう。
それでも、実咲はその選択肢に手を伸ばすことはなかった。
――傷つけるわけにはいかない。
その信念が、彼女を縛り付けていた。たとえ理不尽な仕打ちを受けようとも、自分が力を振るうことで誰かが傷つくことを許せなかったのだ。
実咲は幼いながらも、自分が他の子どもたちとは違う存在であることを理解していた。
彼女が持つ力は、誰もが持たない異質なものであり、それゆえに恐れられ、忌み嫌われていることを痛いほど分かっていた。
だからこそ、せめて普通の人間のように振る舞いたかった。
特別な力を使わずに、ただ普通の一人の少女として生きていきたい――。
しかし、それがどれほど難しいかを思い知らされるたびに、彼女の心には孤独が深く沈殿していった。
周囲の無関心な視線が遠ざかっていく中、実咲はその場にじっとひざまずきながら、何もできず、ただ涙を流し続けていた。
その日も、実咲は村の広場での辛い一日を終え、夕暮れの中を家路へと急いでいた。
家に着けば、母親が優しい笑顔で迎えてくれる――それが彼女にとって唯一の安らぎだった。
「ただいま」
小さな声で玄関に向かって呼びかけると、台所から母親が顔を出した。
「あら、実咲。おかえりなさい」
母親は温かく微笑んだ。その声と表情には、広場で浴びた冷たい視線とはまるで正反対のぬくもりがあった。
その瞬間だけ、実咲の心の中に張り詰めていたものが、ほんの少し緩んでいく。
「実咲……その傷、どうしたの?」
母親の目が、実咲の足元に向けられた。傷口に気づいたのだろう。
「ちょっと転んだだけだよ」
実咲は慌てて笑顔を作り、そう答えた。
「そう……? ならいいけど……」
母親はそう言いながら安堵の表情を浮かべたが、その瞳にはかすかな不安の色が隠せなかった。
その時だった。玄関から元気な足音が聞こえ、野良犬のポチが勢いよく駆け寄ってきた。
「ワン!」
小さな体を精一杯使って元気よく吠え、ポチは飛びつくように実咲にじゃれついた。
「わっ! ただいま、ポチ。今日もいい子にしてた?」
実咲はしゃがみ込み、ポチの頭を優しく撫でた。その瞬間、彼女の表情に初めて心からの笑顔が浮かぶ。
「ワン!」
ポチは嬉しそうに尾を振りながら、実咲の頬をペロペロと舐め回す。
「アハハハハ! もう、ポチったらくすぐったいよ!」
実咲はくすぐったさに身をよじりながらも、笑い声を響かせた。その笑顔は、広場では決して見せることのないものだった。
ポチは実咲にとって、心の支えであり、小さな癒しの存在だった。
広場での冷たさや痛みを忘れさせてくれるポチの存在は、彼女にとってささやかながら確かな希望の源だった。
しかし、村でのいじめは日を追うごとにエスカレートしていった。
「いつもヘラヘラしてて、きもいんだよ!」
広場に響いた真理子の怒鳴り声が、冷たい風に乗って実咲の心をさらに締め付ける。
その声に呼応するように、周囲の子供たちが次々と笑い声を上げた。
「ごめんね、まりこちゃん。ごめんね……」
実咲は震える声で謝るしかなかった。拳を握りしめ、ただ耐えることだけに意識を集中させる。
「ちっ……だからその態度がムカつくって言ってんだよ!」
真理子は苛立ちを隠そうともせず、実咲を睨みつける。その視線には容赦も同情もなかった。
「ちょっとはやり返せよ! なんか言い返してみなよ!」
それでも実咲は小さな声で同じ言葉を繰り返すだけだった。
「……ごめんね……」
真理子はそれを聞き、呆れたように肩をすくめると、ため息を吐いた。
「もういいや。つまんない。みんな帰ろ」
その一言で場が切り替わったように、いじめっ子たちは次々とその場を離れていった。
誰も振り返ることなく、笑い声を残して広場から消えていく。
取り残された実咲は、ただ黙ってその背中を見送った。
胸の奥に湧き上がる感情を押し殺すように、震える唇を噛み締めたまま――。
帰り道、真理子たちはグループで笑いながら歩いていた。夕暮れの空が赤く染まり、冷たい風が落ち葉を舞い上げていた。
そんな中、後ろから小さな声が聞こえてきた。
「ねえ、真理子ちゃん。どうして実咲をいじめてるの?」
その問いかけに、真理子は足を止め、不快そうに振り返った。
「なに? ゆうかは気に入らないの?」
真理子の鋭い目が、問いを投げかけた少女――ゆうかに向けられる。
焦ったゆうかは慌てて首を横に振った。
「ち、違うよ! 私たちだって、みさきが嫌いだからいじめてるわけだし!」
そう言いながら、どこか目を泳がせているのが分かった。真理子はそれを冷ややかな目で見下ろす。
「そう……。私がいじめてる理由?」
真理子は少し首を傾げ、つまらなそうに続けた。
「それは、自分より目立つ存在が気に入らないからよ。あいつが超能力とかそんなものを持っていようと、そんなのどうでもいいの」
「でも、本当に実咲って超能力使えるのかな?」
ゆうかは少し考えるようにしてから口を開いた。
「使ってるところ見たことないし、それに、実咲の親は普通っぽいじゃない? もしかして突然変異とか?」
その言葉を聞いた瞬間、真理子の眉間にしわが寄る。
「突然変異……? それも気に入らないわ」
真理子は口元を歪ませて続けた。
「まるでアイツが特別で、選ばれたみたいじゃない。もし私がその能力を持っていたら、もっと上手に使って、この村から疎まれないように、賢く立ち回れるのに」
「さすが真理子ちゃん! それに比べてみさきって、いつも犬と遊んでばっかりだし」
「犬……?」
真理子の足がピタリと止まり、何かを思いついたように目を輝かせた。
「そうだ……いいことを思いついた」
その声には、明らかに何かを企む色が含まれていた。
そして――事件が起きたのは、実咲が10歳になる前日のことだった。
いつもより落ち着かない様子で広場で草むしりをしていた実咲の前に、真理子たちが現れた。
「みさき、ちょっと付いて来てよ」
真理子が軽い調子で声をかけてくる。
「え? どうして?」
実咲は手を止めて、不安そうに顔を上げた。
「いいから、お願いがあるの」
その言葉に、実咲は一瞬迷ったものの、すぐに首を横に振った。
「ごめんね、行ってあげたいんだけど……昨日の夜からポチが見当たらなくて……」
「ポチって、アンタが飼ってる犬でしょ?」
真理子は少し笑みを浮かべながら言う。
「それなら、私見覚えあるよ」
「え? 本当?」
実咲の瞳がぱっと輝いた。
「だから、着いてきなよ。ポチの場所教えてあげる」
その一言に、実咲の胸の中に小さな希望が芽生えた。
けれど、真理子の表情の奥にどこか含みを感じ、不安も拭えない。
それでも、ポチのために――そう思い、実咲は渋々真理子たちについていくことにした。
向かった先は、村の端にひっそりと佇む古びたトンネルだった。
「このトンネルね、防災のために作られたものなんだって。でも、今は使われてないらしいよ」
真理子が平然と言う。
「そうなんだ……」
目の前にそびえるトンネルは、鍵こそ掛かっていなかったものの、錆びた鉄格子の扉がしっかりと閉ざしていた。
長い年月を放置されていたその姿は、どこか不気味で、実咲の胸にさらなる不安を募らせた。
「わたしさ、あのトンネルの中に忘れ物をしてきちゃってさ。ちょっと取ってきてよ」
真理子が軽い口調で言う。
「え? 忘れ物って何?」
「行けばわかるよ。箱に入ってるから」
「でも……」
実咲は躊躇した。
「いいから、早く行ってきて。取りに行ったらポチの居場所、教えてあげるから」
真理子の声は、穏やかに聞こえながらも明らかに強制力を帯びていた。
その視線に押されるようにして、実咲は不安な気持ちを必死に押し殺しながら、仕方なくトンネルの中へと足を踏み入れた。
錆びた扉を引き開けた瞬間、暗く冷たい空気が実咲を迎え入れた。
奥へ進むごとに、彼女の胸に不安が重くのしかかる。
ポチが待っている――そう信じることで、どうにか前へ進む勇気を奮い立たせた。
トンネルの中に足を踏み入れると、実咲の心臓は早鐘のように激しく鳴り、震える手を自分で押さえつけることもできなかった。
昼間であるにもかかわらず、トンネルの内部はほとんど薄暗く、天井から滴り落ちる水滴がわずかな光を反射し、不気味な影を壁に揺らめかせていた。
湿った空気が重く、ひんやりとした感触が喉を冷たくなぞる。湿気に満ちたその空間は、外の秋風とは全く違う、息苦しい閉塞感に満ちていた。
「どうして……こんなところに……」
実咲は小さな声でつぶやきながら、一歩一歩慎重に奥へと進んでいった。
トンネルの中は狭く、壁のあちこちに古びた鉄の格子が取り付けられている。
錆びた格子は年月の重みを語るようにぼろぼろで、風も通さないその空間は静寂に包まれていた。
時折、実咲の足元に転がっている小石がカラカラと乾いた音を立てるたびに、彼女の胸は大きく跳ねた。
その音は、誰もいないはずのトンネルの中で不気味なほど大きく響き渡り、彼女の不安をさらに掻き立てた。
手にじっとりと汗が滲み、冷たい空気と相まって背筋がぞわぞわと震える。
「ポチ……本当に、いるのかな……?」
弱々しい声で呟きながら、実咲は重い足取りで一歩ずつ暗闇に向かって進み続けた。
手探りで進んでいると、冷たい風が背中に触れ、ぞっとした。
「箱に入っているって言ってたけど……どこにあるんだろう?」
と考えながら、トンネルの中を慎重に歩いた。
しばらく進むと、トンネルの奥にぼんやりと明るい場所が見えてきた。
箱はそこにあるのかもしれないと思い、足を速めた。
手探りで冷たい壁に触れながら進んでいると、背後からひやりと冷たい風が吹きつけ、実咲の全身にぞっとする感覚が走った。
「箱に入っているって……どこにあるんだろう?」
小さく呟きながら、実咲は慎重に足を進めた。湿った足音がトンネル内に響き渡るたび、胸の奥で不安が膨らんでいく。
しばらく進むと、薄暗いトンネルの奥にぼんやりと明るい場所が見えてきた。
実咲は希望を胸に抱きながら、思わず足を速めた。
「もしかして、あそこに……」
光に近づくと、地面の上に置かれた箱が見えた。鉄のように鈍い光を放つその箱は古びており、かすかに湿気を帯びている。
「……あった。これだ」
実咲は恐る恐る箱に手を伸ばした。両手でそっと蓋を開けると――。
「えっ……」
中から漂ってきたのは、刺すような血の匂いだった。
思わず鼻を押さえるが、次の瞬間、目に飛び込んできたのは、あまりにも衝撃的な光景だった。
そこに横たわっていたのは、ポチの動かない姿――血まみれの死骸だった。
「ポチ……? なんで……」
言葉が喉の奥で途切れる。実咲の頭の中は一瞬で混乱に飲み込まれた。
信じたくない現実が目の前に広がっている。それでも、目を閉じてもなお、その光景は頭の中に焼き付いて消えない。
全身が震え始め、胸の奥から怒りが湧き上がる。怒りとも悲しみともつかない、どうしようもない感情が彼女の心を押し潰そうとしていた。
「どうして……こんなことを……!」
声にならない叫びを心の中で繰り返しながら、実咲は箱の中からポチを抱き上げた。
彼の体は冷たく硬直していて、その小さな体を抱きしめた瞬間、涙が溢れ出した。
震える手でポチをしっかりと抱え、実咲は出口に向かって駆け出した。
冷たい風が再び背中を押し、トンネル内に響く足音だけが彼女の動揺を物語っていた。
彼女の目には涙が滲み、視界が滲む中で、それでも出口を目指して必死に走り続けた。
「はっはっはっ! 帰ってきた! 真理子ちゃん、見て見て! 実咲のやつ、帰ってきたよ!」
トンネルから現れた実咲の姿を見て、いじめっ子たちは指差しながら嘲笑い、歓声を上げた。
その笑い声は冷たく、嘲るように実咲の耳に突き刺さる。
「ねえ、実咲。ありがとね」
真理子が近づきながら、口元に薄い笑みを浮かべて言った。
「その犬、埋めてあげようと思ったんだけど、生臭くて耐えられなくてさ。だからトンネルの中に置いてきちゃった」
その言葉が、実咲の心に深く刺さった。まるで冷たい刃物で胸をえぐられるような感覚が広がる。
「許せない……」
実咲は、小さく震える声で呟いた。だが、その声は真理子たちの耳には届かなかったようだ。
「なに? 聞こえないんだけど?」
真理子が眉をひそめながら挑発するように尋ねる。
その瞬間、実咲は拳を固く握りしめ、真理子を真っ直ぐ見据えた。そして、今度ははっきりとした声で言葉を放った。
「許さない」
その一言が響いた瞬間、空気が変わった。
まるでトンネルから溢れ出た冷たい空気が周囲を包み込むように、何か目に見えない圧力が場を支配した。
真理子たちはハッとしたように足を止めた。
実咲の目はこれまでとは違っていた。燃えるような怒りがその瞳に宿り、普段の穏やかな少女の姿はどこにもなかった。
「ま、真理子ちゃん、帰ろう! み、みさきの奴、なんかヤバいよ!」
いじめっ子の一人が怯えた声を上げ、真理子の袖を掴んだ。
「別に、帰りたければ帰っていいよ」
真理子は冷たく言い放ち、その手を振り払った。
実咲の周囲に漂う異様なオーラに圧倒された他の子供たちは、恐怖に駆られるように走り去っていった。
彼らの足音が遠ざかり、トンネルの入り口には、実咲と真理子だけが残された。
静寂の中、真理子はじっと実咲を見つめ、薄く笑みを浮かべながら口を開いた。
「アンタのそういう顔、初めて見たわね」
彼女の声には、どこか挑発的な響きがあった。
「その犬殺した甲斐があったわ。ねえ、ほら――やるならやりなさいよ」
その言葉が再び実咲の心に火を灯す。
挑発だと分かっていても、怒りの炎は収まらない。ポチは、私にとって唯一の親友だった。
「どうして……どうしてこんなことを……!」
その思いが胸の中で何度も叫び声となり響く。
目の前の真理子を消し去りたい衝動が体中を駆け巡り、手が震える。
だが――。
――だめだ。こんなことをしては、私は本当に化け物になってしまう。
実咲は自分の拳をぎゅっと握りしめ、自分の怒りを抑え込もうと必死に耐えた。
決して許されることではない。ポチを奪った真理子を許すことなどできない。
それでも――。
もしこの力を使って誰かを傷つけてしまったら、私はもう「人間」として生きることができなくなる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
真理子は挑発的な笑みを浮かべたまま、じっと実咲の反応を待っていた。
実咲の目には涙が滲んでいたが、その奥には未だに怒りが燃え盛っている。
「どうしたの? 何もしないの? ねえ――やればいいじゃない!」
真理子の声が鋭く響く中、実咲は震える唇をかみしめながら、ただ立ち尽くしていた――。
次第に、自分の力が抑えられなくなってきた。
胸の奥から何かが沸き上がり、全身を突き抜けていくような感覚。
実咲は必死にそれを押さえ込もうとしたが、暴れる衝動は止まらなかった。
「ぐうっ……。に、逃げて……」
かすれた声でそう告げるが、真理子は鼻で笑った。
「アンタごときに逃げるわけないでしょ」
挑発的な言葉を放ちながらも、真理子の表情にはどこか怯えが見え隠れしていた。
「このままじゃ……力が抑えられない。まりこちゃんのしたことは絶対に許せない……でも……怪我させたくないの……」
震える声で絞り出す実咲の言葉に、真理子は苛立ったように顔を歪めた。
「ちっ! だからアンタのそういうとこがムカつくのよ!!」
真理子は一歩前に出ると、怒りに満ちた声で叫んだ。
「なんでよ! 大事な犬が殺されたんでしょ! だったらやり返しなさいよ! それが普通でしょ!!」
実咲は眉間に深い皺を寄せ、拳を握りしめた。
「は、早く……逃げて……。もう……だめ……」
言葉を発しながら、実咲の中で抑えきれない力が暴れ始めていた。
体の奥底から溢れ出すそれは、冷たい風となって周囲に広がり、真理子の髪を揺らした。
「な、なにこれ……?」
真理子が一歩後ずさりした瞬間、実咲の足元に目に見えない波紋のようなものが広がり始める。
空気が変わった――冷たく、鋭く、刺すような圧迫感が場を支配し始めた。
実咲は涙をこぼしながら、自分自身の力と必死に戦っていた。
その目には怒りと悲しみが入り混じり、抑えきれない感情が限界を超えようとしていた。
そして――彼女の内に秘められていた力が、ついに静かに、暴れ始めた。
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日が暮れ始め、冷たい風が実咲の頬をなでた頃、彼女はようやく自我を取り戻した。
ぼんやりと周囲を見回しながら、状況を把握しようとするが、頭の中は霧がかかったようにぼんやりとしていた。
そして、目に飛び込んできた光景に、実咲の胸は凍りついた。
目の前には、真理子が血だらけで地面に倒れていた。
その周囲には、無惨にも倒された草木や、裂けた森の樹々が散乱し、荒れ果てた光景が広がっていた。
「うそ……わたし……」
実咲は震える声で呟いたが、耳に届いた自分の声が、どこか遠く他人のもののように感じられた。
足元の土は抉られ、風景はまるで嵐が通り過ぎた後のようだった。
彼女の手は小刻みに震え、全身から力が抜ける。
――自分が一体何をしてしまったのか、その記憶は曖昧で、断片的な映像だけが頭の中に浮かんでは消えていく。
目の前の真理子の姿が、静かに彼女を責めるかのように映り込む。
恐怖と混乱が胸の中で渦を巻き、呼吸が浅くなる。
「こんな……こんなこと、わたしが……?」
実咲はその場に立ち尽くしたまま、震える手で自分の頬を押さえた。
目の前の惨状が信じられず、現実感のない光景がただじわじわと心を蝕んでいく。
冷たい風が吹き抜ける中、彼女は動くこともできず、その場にただ呆然と立ち尽くしていた。
その時、村の方から大勢の住人たちが慌ただしく駆けつけてきた。
「い、いました! あそこです! 全部あの女がやりました!」
いじめっ子の一人が村人たちを先導するように叫びながら指差した。
村人たちの顔には驚愕と恐怖が浮かんでいる。彼らは現場に広がる惨状を目の当たりにした瞬間、次々に口々に叫び声を上げた。
「な、なんだこれは!」
「どうしてこんなことに……!」
抉れた地面、倒れた樹々、そして血まみれで倒れている真理子の姿。
村人たちの間に混乱と恐怖が広がり、その声が徐々に高まっていった。
やがて、彼らの視線が一斉に実咲の方に向けられる。
その瞳には、はっきりとした恐怖と憎悪が宿っていた。
「み、実咲だ……!」
「あの子が、あの子がやったんだ……!」
誰かが呟いたその一言が引き金となり、村人たちの間に不安と怒りが一気に噴き上がった。
かねてから実咲の力に対する恐れを抱いていた村人たちにとって、今回の事件はその恐怖を正当化するに十分すぎる出来事だった。
「やっぱりあの子は化け物だ!」
「村に災いをもたらす存在だ!」
言葉が次々に飛び交い、実咲を責める視線が鋭さを増していく。
彼女はその場に立ちすくみ、何も言葉を発することができなかった。
全ての視線が自分に集中していることを痛感し、胸の奥で混乱が渦巻く。
耳には村人たちの冷たい怒声がつんざくように響いていた。
「これが実咲の持つ力か……」
低い声が場を鎮めるように響いた。
村人たちが振り返ると、そこには村長が険しい顔つきで現れていた。
村長の重々しい視線が、荒れ果てた現場と実咲の震える姿を見据えていた。
「そ、村長……」
実咲は震える声で村長に呼びかけた。だが、その声は小さく弱々しく、かき消されそうだった。
村長の目は冷たく鋭く、そこには冷徹な決意が宿っていた。
「お前たちは、そこの倒れている娘を村に運び、すぐに治療を施してやりなさい」
村長は、まるで感情を押し殺すような声で命じた。
「恐らく、まだ死んではおらぬじゃろう」
村人たちは、その言葉に一瞬戸惑いながらも、慌てて真理子の元へ駆け寄った。
血まみれの真理子を慎重に担ぎ上げ、その小さな体が崩れないようにと細心の注意を払いながら運び出していく。
その動きには、目の前の惨劇から少しでも遠ざかりたいという必死な思いがにじんでいた。
彼らは震える足で村へ向かい、誰も実咲の方を振り返ることはなかった。
取り残された実咲は、その場に立ち尽くしたまま、冷たい風に晒されていた。
村長の視線は村人たちを見送るでもなく、ただじっと実咲に向けられていた。
その重い眼差しが、彼女をさらに追い詰めているように感じられる。
その後、実咲は暴走する力を恐れられ、トンネルの中に閉じ込められた。
トンネルの入口には頑丈な南京錠が取り付けられ、誰にも入れないようにしっかりと封じられていた。
冷たい石の壁と錆びた鉄格子に囲まれた狭い空間は、まさに牢獄そのものだった。
湿気を帯びた空気と暗闇に包まれたその場所は、彼女に安らぎどころか、ただ孤独と絶望を与えるだけだった。
村人たちは、実咲の存在をこれ以上放置することは危険だと考え、彼女をトンネルに閉じ込めることを唯一の解決策とした。
それでもなお、彼らの不安と不満は募るばかりだった。
「いつまた暴れるかわからない」
「本当にこのままで大丈夫なのか……?」
そんな声が村中でささやかれ、実咲に向けられる視線は恐怖と憎しみに満ちていた。
一方、トンネルの中では、時間がゆっくりと、そして冷たく流れていた。
実咲は暗闇の中で膝を抱え込み、ただひとり孤独に過ごしていた。
その静けさは、外の喧騒とは裏腹に、彼女の心をじわじわと蝕んでいった。
かつての自分がいた場所は、もう遠く彼方にあるように感じられ、彼女の胸にはぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残っていた。
「どうして……こんなことに……」
誰にも届かない小さな呟きが、冷たい石の壁に吸い込まれていく。
実咲が望んだのは、ただ普通の生活だった。
けれど、そのささやかな願いはすでに叶うことはなく、彼女の周囲にはただ深い闇と静寂が広がるばかりだった。
しかし――村長は彼女の「力」の可能性を見逃してはいなかった。
実咲が持つ超能力は、危険であると同時に、村にとって計り知れない「資源」になると彼は考えていた。
村長は、彼女を厳重に監視しつつも、その力を利用して村の利益を最大化する道を模索していたのだ。
そして――村長は決定的な判断を下す。
実咲の力が引き起こした事件の責任を、彼女の母親に押し付けることで、村の名誉と秩序を守ろうとしたのである。
母親が事件の黒幕であると公に断定し、彼女を処刑することで村人たちの不満と恐怖を和らげようとする村長の計画。
それは、村人たちの間に一瞬の安定を取り戻すための「犠牲」だった。
公開処刑の日が、静かに、そして着実に近づいていた。
その処刑の前夜、実咲には、母親との面会が15分だけ許可された。
トンネルの暗い空間に母親が現れると、実咲は膝を抱えたまま、動けずにいた。
鉄格子越しに見える母親の姿は疲れ果てていたが、それでも彼女の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「実咲……」
母親の柔らかな声が、暗闇の中に響いた。
その瞬間、実咲の胸に押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出し、涙が静かに頬を伝った。
「お母さん……」
わずかな言葉しか出てこない。震える声の中に、込み上げる後悔と恐怖、そして何よりも失いたくないという思いが詰まっていた。
母親はゆっくりと鉄格子に手を添え、実咲を優しく見つめた。
「大丈夫よ、実咲」
その言葉には、不思議なほどの確信と愛情が込められていた。
しかし、目の前のわずかな15分という時間が、二人にとってどれだけ残酷なものであるか――実咲には痛いほど分かっていた。
「お母さん……お母さん、ごめんなさい……私……」
実咲は震える声でそう言いかけたが、涙が止めどなく頬を伝い、言葉が喉に詰まってしまった。
苦しみと後悔の思いを伝えようとするほど、胸の奥に溢れる感情が絡まり、声にならない。
ただ泣きじゃくりながら、鉄格子越しに母の顔を見つめることしかできなかった。
「実咲は悪くないわよ」
母親は静かに微笑みながら、優しくそう告げた。
「ポチのためだったもんね。実咲が優しい子なのは、母さんが一番知ってるから」
その言葉は温かく、実咲の心にじんわりと染み込むように響いた。
涙で濡れた目と目が合い、母親の穏やかな眼差しが、崩れそうな実咲をかろうじて支えてくれた。
母は深い愛情を込めて語り続けた。
「母さんは……あなたを守れなかったけれどね……」
その声が一瞬だけかすれたが、すぐに強い意志を込めた声に変わった。
「いつか、必ずあなたをこの村から救う人が現れるはずよ。だから信じて、待ち続けなさい。その人が……あなたの光となるから」
母の言葉は、絶望の中にあった実咲の心に深く刻まれた。
そのメッセージは、まるで暗闇の中で小さく輝く希望の灯火のようだった。
鉄格子越しに触れられない距離がもどかしい。
それでも、母の言葉と微笑みが確かにそこにあった。
「お母さん……行かないで……!」
実咲の心の叫びも虚しく、別れの時が訪れる。
母親は泣き崩れる実咲に静かに微笑みかけ、涙を拭おうとするかのように手を伸ばした。
だが、その手は鉄格子に阻まれ、二人の距離は永遠に縮まることはなかった。
「大丈夫よ、実咲。生きるのよ」
そう告げた母親の瞳からも、静かに涙がこぼれていた。
やがて、母親は看守に連れられ、ゆっくりとその場を去っていった。
実咲は鉄格子を掴みながら必死に母の後ろ姿を追い、名前を呼び続けた。
暗闇に響くその声が届くことはなく、母親の姿は二度と実咲の前に現れることはなかった。
そして――実咲の10歳の誕生日。
彼女の母親は村の祭壇で、多くの村人の目の前で無惨にも公開処刑された。
歓声と怒号が入り混じる中、実咲の中に残された希望も音を立てて崩れ去っていく。
それでも、母の言葉だけは、実咲の胸の中で微かな光を放ち続けていた――。
実咲は深い孤独と絶望の中で生きることを強いられた。
母親と、唯一の親友だったポチを失った心の痛みは、日々彼女の胸を締め付けるように広がり、彼女をさらに孤立させていった。
誰も彼女を救いに来ることはなく、冷たい石の壁と錆びた鉄格子に囲まれたトンネルの中で、実咲はひとり、圧倒的な孤独感と恐怖に耐えなければならなかった。
それでも――母が遺した最後の言葉だけが、彼女の心の奥底でかすかな光となって輝き続けていた。
「いつか、必ずあなたを救う人が現れる」
その言葉を信じるしか、実咲には生きる理由が残されていなかった。
どれだけ辛くても、暗闇の中でその光を見失わないよう、彼女は自分に言い聞かせながら待ち続けた。
だが、佐江実咲の物語は、まだ始まったばかりだった。
母と親友を失い、絶望の中に置き去りにされた彼女を待ち受けるのは、さらなる苦難と試練の連続だった――。
それでも、彼女の心の中に灯る希望の光だけは、消えることはなかった。