第五話: 「影刃 対 呪いの闇姫」
ーーヨハン視点ーー
2017年8月6日19:32
静まり返った事務所。
ゆうきたちが去った後、俺は静かに立ち上がり、部屋の隅に置かれた古びた木箱に歩み寄った。
埃を被ったその箱は、もう何年も開けていなかった。だが今、この状況では避けて通れない。
「まさか、またこれを使う日が来るとはな……」
独りごちる声が、静寂の中で微かに響く。
箱の錠を外し、蓋をゆっくりと開けると、中には二本の刀が収められていた。
どちらも、俺が殺し屋だった頃に愛用していたものだ。
年月が経ってもなお、刀身には傷一つなく、研ぎ澄まされた刃が鈍い光を放っている。
「呪いの“闇姫”か……相手がそのレベルなら、備えは万全でなければならない」
一本を慎重に手に取る。鞘を滑らせて刃を露わにすると、冷たい金属の感触が手のひらを刺すように伝わってきた。
その冷たさは、過去の記憶を呼び覚まし、同時に心に新たな緊張感をもたらす。
「……さて、どれだけ腕が鈍ったか試されるな」
静かに息を吐き、もう一本の刀も手に取った。
この刀たちは、命を奪うための道具として俺と共にあったものだ。だが今、彼らを守るために振るう決意を新たにする。
装備を整えながら、自分の中に眠る戦意を奮い立たせた。
もう後戻りはできない。これは、俺に課された贖罪の一環なのだ。
「さあ、行くか」
刀を腰に収め、ヨハンは再び静寂に包まれた部屋を背にして立ち上がった。
その背中には、重い決意が刻まれていた。
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深夜までにトンネルへ到着するつもりだった。だが、準備に手間取ったせいで、出発は予定より遅れてしまった。
車を走らせながら、窓の外に広がる暗い山道を見つめる。
そこに広がるのは、ただ漆黒の闇。それは不安を煽るどころか、むしろ心を静かに、そして確実に引き締めてくる。
「いよいよだな……」
ハンドルを握る手に自然と力がこもる。頭の中では依頼の内容を反芻し、状況を整理していた。
依頼は、ゆうきたちの代わりにトンネルの扉を閉じること――言葉だけなら単純明快だ。
だが、そんな表面だけの解決策では、問題の本質には届かない。
もし、再び誰かがトンネルに足を踏み入れれば、その瞬間、新たな犠牲者が生まれるだろう。
結局、扉を閉じただけでは根本的な解決にはならない。
「今日で終わらせるしかない……呪いも、闇姫も」
低く呟いた声が車内に落ち、エンジン音にかき消される。
これ以上、無関係な人々が巻き込まれるわけにはいかない。
俺がここに向かう理由は、それだけだ。
だが――どうする?
単に扉を閉じるだけではなく、“呪いの闇姫”とやらに直接交渉する必要があるのかもしれない。
「交渉……か」
自分で口にしたその言葉に、どこか苦笑いが浮かぶ。
霊と話し合いで解決――そんなことが本当に可能なのか?
そもそも、霊に言葉が通じるのかすら分からない。
交渉が成立する保証など、どこにもない。
助手席に置かれた刀に目をやる。
研ぎ澄まされた刃の冷たい光が、微かな月明かりに反射していた。
「平和的に済ませたい。もちろん、それが一番だ」
再び視線を前方に戻しながら、思考を巡らせる。
だが、もし相手が聞く耳を持たなかったら――。
「その時は、最悪のシナリオを覚悟するしかない」
低い声が車内にこもり、静かに消えていく。
目指すは、“呪い”の巣窟である鳴興戸トンネル。
その先に待つものを考えるたび、胸の奥底にわずかな緊張が芽生える。
車のライトだけが深い闇を切り裂くように進んでいく。
山道の冷たい空気が、開け放たれた窓から静かに入り込んできた。
もし交渉が決裂し、戦闘になった場合はどうする?
相手は霊。常識が通用しない存在だ。
刀が効くかどうか……正直、分からないな
助手席に置かれた刀を一瞥する。
これまで幾度も俺を救ってきた相棒だが、霊相手にその刃がどこまで通用するのかは未知数だ。
「さて、どうしたもんかね……」
一人呟く声はどこか虚空に消えた。
ただ一つ、確実に言えることがある。
それは、相手が人間ではないということ。
“呪いの闇姫”――常識も理屈も通用しない相手だ。
万が一戦闘になった場合でも、刀を抜く準備は整っている。
どんな状況になろうとも、冷静さを失わずに対応する。それが俺の務めだ。
胸の奥で緊張が高まるのを感じながら、それでも意識は研ぎ澄まされていく。
車は闇を切り裂きながら進み続け、目的地が刻一刻と近づいてくるのを感じていた。
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2017年8月7日0:08
トンネルの入り口に立つと、冷たい闇が全身を包み込んだ。
車のヘッドライトが照らし出す薄ぼんやりとした光が、トンネルの奥へと続く深い暗黒をわずかに浮かび上がらせる。
その先には何も見えない――ただ深淵だけが口を開けて待っている。
冷たい風が耳をかすめ、どこかから微かに響く音が不気味さを増幅させる。
心を奮い立たせようとしても、この冷たい空気と異様な静寂がじわじわと精神を蝕んでいく。
恐怖は感じない。だが、緊張感だけは確実に胸の奥で膨らんでいた。
「これが……鳴興戸トンネルか」
呟く声が闇の中へ吸い込まれる。
ポケットからスマートフォンを取り出し、ユウキへトンネル到着の報告メールを打った。
「ここからが本番だな……」
メールを送信し終えると、車のドアを開けてトンネルの前に立つ。
夜の闇はトンネルの入り口を覆い尽くし、圧倒的な静けさが辺りを支配していた。
ライトの光が届く範囲を超えた場所には、さらなる深い闇が待ち構えている。
正面にある扉は開いたままで、その隙間からは底知れぬ暗黒が広がっていた。
足元に小石が転がる音がかすかに聞こえる。わずかな音すら、この静寂の中では異様に響く。
「扉を閉めれば、一応の依頼完了……ゆうきたちへの呪いも解けるだろう」
自分に言い聞かせるように口にしたが、内心では分かっていた。
扉を閉じただけでは根本的な問題解決にはならない。
「そのまま放置して誰かがまた犠牲になるくらいなら、今ここで終わらせるべきだろう」
独り言のように呟きながら、トンネルの中をじっと見据える。
冷たい風が頬を撫で、背筋に寒気を走らせた。
意を決し、刀の重みを確認するように軽く握り直す。
その瞬間、心の中で揺らいでいた迷いが霧散していった。
「行くぞ」
決意を固め、トンネルの中へと一歩足を踏み入れる。
闇はさらに濃く、冷たく、そして重く――だが、俺の歩みを止めることはできない。
依頼人たちの笑顔を思い浮かべながら、俺は深淵の中へと歩みを進めていった。
トンネルの中に足を踏み入れると、湿気と腐臭が混ざり合った空気が鼻腔を刺し、息苦しさが増していった。
足元の石が転がる音が小さく響き、その反響はトンネル内に長く尾を引く。
一つ一つの音がやけに大きく感じられ、まるでそれが脅威の前触れであるかのように胸を締め付ける。
「……これは想像以上にヤバそうだな」
独りごちる声が自然と漏れる。
緊張感が徐々にピークに達し、全身の神経が鋭く研ぎ澄まされていくのを感じた。
進むごとに肌にまとわりつく冷たい空気が、次第に寒気となって体に忍び寄る。
視界は闇に包まれ、耳をすませばわずかな空気の流れすら聞き取れそうだった。
「……何かが、近づいてきている」
背筋に嫌な予感が走る。
周囲の静寂が異常に感じられ、背後に迫る気配に無意識に振り返った。だが、視界に映るのはただの深い暗黒だけ。
それでも、その闇が何かを隠しているような気がしてならない。
刀の柄に手を添え、冷たく硬い感触を確かめた。
指先に力を込め、心を落ち着けようとする。
精神を整えなければならない――何が起きても対応できるように。
そのときだった。
トンネルの奥から、かすかな女性の声が聞こえてきた。
「……た す け て え……」
か細く震えたその声は、どこか不安と恐怖を滲ませていた。
暗闇の中で静かに漂いながら、直接耳元に囁かれたように感じられる。
身の毛がよだつ感覚が背中を這い上がり、胸の奥に鈍い緊張が走る。
心が揺さぶられるその声に、足が一瞬止まった。
その瞬間、トンネル内の温度が急激に下がり、息が白く立ち上る。
周囲に漂う冷気は、何か異様な存在が近づいている前兆のように感じられた。
心臓の鼓動が速まり、冷や汗がじわりと手のひらを濡らす。
「……来る!」
背後に、異常な気配を感じ取る。
冷たい風がさらに強まり、トンネル全体が静寂を通り越して、圧倒的な威圧感を放ち始めた。
その風音は、まるで呪いの闇姫そのものが近づいていると告げているかのようだった。
突然、トンネルの奥の影から、全身黒ずくめの女が現れた。
その身体には無数の焦げ跡が浮かび上がり、顔はほとんど判別できない。
ただ、その佇まいが周囲の闇をさらに濃く染め上げ、冷気は骨の芯まで貫くように強まった。
「やっと……お出ましだな、呪いの闇姫」
俺は無理に笑みを浮かべながら、冷静を装って口を開いた。
争うつもりはない。話し合いで解決したい――そう思って、声を絞り出す。
「アンタに話が――」
だが、その言葉を言い終える前に、闇姫の表情が一変した。
長い髪が突然うねり出し、生き物のように動き出す。
黒い霧を纏ったその髪は瞬く間に形を変え、蛇のように俺の首へと絡みついてきた。
「くっ……!」
冷たい感触が肌を刺し、鋭い締め付けが喉を絞め上げる。
息が詰まり、視界が狭まっていく。
まずい、このままでは――死ぬ。
必死に背中の二本の刀に手を伸ばし、闇姫の髪を切り裂こうとする。
一本の刀を抜き、力任せに振り下ろした。
「!」
だが、その髪は鋼のように強靭だった。
刀が「カキン!」と甲高い音を立て、刃が無残にも折れてしまう。
切断面から立ち上る黒い煙が、さらに不吉な気配を漂わせる。
握った刀が折れた衝撃が腕に伝わり、疲労感が一気に増していく。
それでも、諦めるわけにはいかない。
もう一本の刀を抜き、再び髪を引き裂こうと必死に抵抗する。
「うおおおっ……!」
全身の力を振り絞り、渾身の一撃を放つ。
ようやく、絡みついた髪が断ち切られ、俺は首に纏わりついていたそれを引き剥がすことに成功した。
だが、息を整える間もなく視線を落とすと、片方の刀が完全に使い物にならなくなっている。
「……くそ」
短く呟き、壊れた刀を見つめる。
だが、まだ終わりではない。
目の前の呪いの闇姫は、全く動じていないように立ち尽くしている――その視線には冷酷な意思が宿っていた。
俺は残った刀を握り直し、次の一手を考えるべく、闇姫の動きをじっと見据えた。
すると、呪いの闇姫が冷たく低い声で口を開いた。
「驚いた。オマエ、ただの人間じゃないな……何者だ?」
その声は、まるでトンネル全体に響き渡るかのようだった。冷気と共に染み込むような響きが、全身を一瞬硬直させる。
「なんだよ……アンタ喋れんじゃねえかよ」
俺は余裕を装うように軽く肩をすくめた。
「こっちだって驚いたよ。話し合いでもしようかと思った矢先に、いきなり殺されかけるんだからな」
闇姫は返事をせず、ただ冷たい視線を向けてくる。その無表情の奥に潜む何かが、こちらの言葉を静かに観察しているようだった。
だが、どうする?
ユウキたちの時と、俺に対する対応は明らかに違う。
彼女は俺をただの侵入者ではなく、別の何かとして見ているのだろうか。
もちろん、戦闘は極力避けたい。
だが、この異様な雰囲気――話し合いが通じる可能性は限りなく低そうだ。
それでも、無策で挑むのは愚かだ。
次の一手を考えながら、相手の出方を探るしかない。
ふと、さっきの攻撃を思い返す。
確かに多少戦闘の勘が鈍っていたのかもしれない。けれど、油断していたわけじゃない。
それにしても――あの攻撃速度は予想以上だった。ただ、それだけだ。
「……あーあ、だりぃ」
無意識に心の声が漏れる。
なんでこんな依頼を引き受けちまったんだろうか。相手が自分より格上だと目の当たりにして、つい愚痴が出る。
だが、すぐに気を取り直し、深く息を吸い込んだ。
闇姫の次の動きに備え、気持ちを引き締める。
「とはいえ、ここで引くわけにもいかねぇしな」
目の前に立つ闇姫は、微動だにせずこちらを睨んでいる。
その視線には冷酷さと威圧感が混ざり合い、体中の神経がさらに研ぎ澄まされていく。
何か――突破口を探さないと。
俺はわずかに手元の刀を握り直し、視線を鋭く前方へと向けた。
この状況を乗り切るための手がかりを、必死に探し始める。
「次は殺す」
闇姫の言葉と共にその殺気は、先ほどよりもさらに増していた。
「待てって、オレは別にアンタと争いに来たんじゃねえよ!」
必死に説得を試みるが、呪いの闇姫はまるで俺の言葉を聞く気がない。逆にその動きはさらに激しさを増し、凄まじい勢いで襲いかかってくる。
長く伸びた髪が生き物のようにうねり、狂風のように暴れながら俺を押し込んでいく。
「ハァ、ハァ……!」
俺は必死に攻撃をかわし続けていたが、狭いトンネル内では動きが制限され、次第に疲労が溜まっていく。
髪の束が次々と襲いかかり、頬や腕には無数の切り傷が刻まれた。
視界には飛び散る粉塵が漂い、耳にはトンネルの壁に叩きつけられる音が響き渡る。
「くそっ、キリがねえ……!」
防戦一方の状況に、冷静さを保とうとしても焦りが募るばかりだ。
その間も闇姫の攻撃は激しさを増し、周囲の空間すべてを支配するかのように猛威を振るう。
だが――その圧倒的な攻撃の中、ふとひらめきが頭をよぎった。
「これだ……!」
瞬時に判断し、折れた刀を右手に持ち替える。
そしてその刃を盾のように構え、髪の束を受け止めながら、反撃の機会をうかがった。
「やるしかねえ!」
冷たい闇が迫る中、俺は全神経を集中させ、攻守の切り替えに賭けた。
折れた刀で迫り来る闇姫の髪の束を受け流しながら、その隙間から反撃の機会を探る。
髪が刀に激しく叩きつけられるたび、甲高い金属音がトンネル内に響き渡る。
その音がまるで戦いの鐘のように響き、俺は全神経を研ぎ澄ませた。
額を伝う冷や汗を感じつつも、手に握った刀はまだ戦えると信じていた。
そして、ついにその瞬間が訪れる。
闇姫の猛攻が一瞬だけ緩み、髪の束が鈍い動きに変わった。
あれほどの速さと力が、まるで息切れしたように失われている。
「――今だ!」
俺は直感に従い、折れた刀を盾のように構えたまま、もう一振りの刀で反撃の体勢を整える。
髪の束が振り下ろされるたびに、受け流しながら切り裂いていく。
切断された髪からは黒い霧が噴き出し、攻撃が次第に弱まっていくのを感じた。
そして、決定的な隙が現れた瞬間、俺は残された刀を大きく振り上げた。
全てを終わらせる覚悟を込めた一撃。
だが――その刃は振り下ろされなかった。
「……やめだ」
勢いを抑え込み、刀をゆっくりと下ろす。
肩で息をしながら、俺は闇姫の目をじっと見据えた。
「なぜ、手を止めた……?」
闇姫の声には、驚きと疑念が混じっていた。
「ハア……ハア……、だから争いに来たわけじゃないって言ってんだろ。それに、殺しはもうしないって決めてんだよ」
俺の本心には、戦わずに解決したいという願いがあった。だが、闇姫はその話を聞こうとしない。
そう、だからこそ――こうでもしなければ、俺の声は届かないと思ったのだ。
「オマエは、何しにこのトンネルに来た?」
冷たい視線を俺に向け、闇姫が静かに問いかける。
「アンタと話がしたかったんだ」
俺の声は、静寂に飲まれることなく彼女の耳に届いた。
「……なぜだ?」
低い声がトンネル内に響く。
「アンタ、困ってるだろ? だから助けたいんだ。俺は便利屋をやってる。依頼ってことなら、できる範囲のことはしてやれる」
言葉を紡ぎながら、俺は彼女の鋭い瞳から目を逸らさなかった。嘘ではない、と伝えるために。
「依頼……フフフ!」
不意に、闇姫が笑い出した。
その笑い声は、冷たくも重くもない。むしろどこか懐かしく、柔らかささえ含んでいた。
「久しく笑った。面白い人間だ。それに――」
彼女は俺をじっと見つめ、言葉を続けた。
「オマエの顔を見る限り、どうも嘘だとは思えん」
その瞬間、彼女の強張っていた顔がほんのわずかに緩んだ。
凍りついたようだったその表情に、人間らしい温もりが少しだけ戻った気がした。
「ワタシの依頼を叶えたとして、オマエは見返りに何を求める?」
闇姫が静かに問いかける。その瞳には、俺の真意を探る冷たい光が宿っていた。
「金輪際、人々に呪いをかけるのはやめろ」
俺の声には迷いはなかった。
彼女は少し目を細め、俺をじっと見つめる。
「自身の欲望のためではなく、周りを救うために、オマエは命がけでワタシに立ち向かったのか……?」
「フン。そんな大層なもんじゃねえよ」
軽く鼻を鳴らしながら言ったものの、胸の内は少しざわついていた。
「フフフ……つくづく面白い人間だ」
闇姫がまた笑みを浮かべる。その笑いは、嘲りではなく、どこか柔らかく響いた。
「安心しろ。もう呪いはかけていない。それに――ワタシはもう、人間の命を奪ったりはしない」
「はっ? どういうことだ?」
思わず問い返す俺に、闇姫は静かに目を伏せる。
「呪いをかけていない、だと?」
頭の中で彼女の言葉を繰り返す。
もしそれが本当なら、ゆうきたちは何もしなくても最初から無事だったということか?
一瞬、拍子抜けした気持ちが胸をよぎる。だが同時に、彼女の言葉の裏に何か別の意味があるのではないか――そんな予感もしていた。
「じゃあなんで、オレには殺意ビンビンにして殺しにかかってきてたんだよ?」
俺は軽く肩をすくめながら問いかけた。
「オマエを勝手に危険な存在だと認識していた。どうやら誤解を招いてしまったようだ。すまなかったな」
闇姫は静かに答えたが、その言葉にどこか微かな後悔の色が見えた。
あれかな?
やっぱり刀を滞納してたのが悪かったのか? いや、あれは完全に俺が悪いけども……。
「まあ、生きてるし別にいいよ。それより、さっき“今は呪いをかけてない”って言ってたな。どういうことだ? なにか心情の変化でもあったのか?」
そう尋ねると、闇姫は一瞬黙り込んだ。そして、言葉を選ぶようにして口を開く。
「……少し、そこで待っていろ」
「……? ああ」
俺が答えると、闇姫は振り返ることもなくトンネルの奥へと消えていった。
その背中は、さっきまでの冷たい威圧感とは違い、どこか思案に沈んでいるように見えた。
薄暗いトンネルに静寂が戻る。俺は一人、立ち尽くしたままその場に残される。
いったい、闇姫は何をしに行ったんだ――?
数分後、闇姫が再び姿を現した。だが、その腕には見慣れないものが抱えられていた。
白い布に丁寧に包まれた赤ん坊――。
俺は思わず目を見開いた。
赤ん坊は、見た目は完全に人間そのものだった。小さな無垢な顔が布の隙間から覗き、かすかな寝息が聞こえてくる。
その光景に、俺は息を呑んだ。
「え……? それって、赤ん坊か?」
どうにか声を絞り出したものの、動揺を隠すことはできなかった。
俺の言葉に、闇姫はただ無言で赤ん坊を見下ろしている。
そして、呪いの闇姫が静かに口を開いた。
「ワタシの依頼は、この子の親代わりをオマエに頼みたい」
その言葉は、低く、しかし確かな響きを持ってトンネル内に広がった。
「……はっ!?」
思わず声が裏返る。
俺は目の前の光景と、闇姫の言葉を何度も頭の中で反芻したが、どうしても理解が追いつかない。
呪いの闇姫――あの冷酷で恐れられた存在からの依頼が、まさか赤ん坊の親代わりをしろというものだったとは。
「どういう……意味だ?」
混乱を隠しきれず、俺は闇姫を見つめながら問いかけた。
彼女は赤ん坊を抱く腕を少しだけ持ち上げ、再びその顔を見つめる。その瞳には、いつもの冷たさとは違う、かすかな温もりのようなものが宿っているように見えた。
俺の中で、さらなる疑問と戸惑いが渦巻いていた。