第四話:「沈黙の準備」
ーーゆうき視点ーー
2017年8月6日15:36
僕たちは、ついに「便利屋ヨハン」と対面する準備を整えた。
ネットで調べた限り、彼は「知る人ぞ知る」存在らしい。名前こそ広く知られていないものの、特定の界隈ではその評判を耳にしたことがある人もいる。
ただ、その背景には謎が多く、詳細は分からない。
約束の時間に合わせ、僕たちはヨハンの事務所へ向かった。住所を頼りに歩くと、街の片隅にひっそりと建つ古びたビルが目に入る。
控えめな看板には、シンプルに「便利屋よっちゃん」とだけ書かれていた。その何気ない佇まいが、かえって興味をそそる。
「ここが……便利屋ヨハンの事務所か?」
健吾が、不安げにビルを見上げながらつぶやいた。
古びたビルの外観は、特別目立つわけでもなく、看板も小さく控えめだ。
「思ったより普通っていうか……なんか地味だな」
健吾が口を開いたままぼんやりと見上げる。
「確かに。でも、こういう方が逆に信頼できるのかも」
僕がそう返すと、隣にいたあかりも軽く頷いた。
「案外、そういう感じの方が安心できるのよね。なんていうか、肩の力が抜けるというか」
その声に続けるように、ひながぽつりとつぶやく。
「派手すぎるよりは、控えめな方が落ち着くよね」
僕たちはエレベーターに乗り込み、五階のボタンを押した。
「便利屋よっちゃん」の事務所があるのは、このビルの五階だ。
エレベーターがゆっくりと上がる間、僕たちの間には奇妙な緊張感が漂っていた。
チン、と軽い音が鳴り、目的の階に到着する。
ドアが開くと、薄暗い廊下の突き当たりに一枚の扉が見えた。
簡素なプレートには「便利屋よっちゃん」とだけ記されている。
「……ここか」
僕は小さくつぶやきながら扉の前に立った。
ドアノブを一瞬見つめた後、軽くノックをする。
コンコン――
廊下に響く音が、妙に大きく感じられた。
しばらくして、中から落ち着いた声が聞こえてきた。
「どうぞ」
僕たちは顔を見合わせ、小さく頷き合うと、意を決してドアを押し開けた。
そこには意外にも落ち着いた雰囲気の部屋が広がっていた。
派手さや無駄な装飾は一切なく、どこまでも実用性を重視したシンプルな内装。
壁には一枚の時計がかかっているだけで、空間全体が静かに整えられていた。
部屋の中央には大きな木製の机が堂々と置かれ、その向こう側に一人の男性が座っている。
間違いない――彼だった。
昨日、僕が出会った、更科ヨハン。
彼は背筋を伸ばして椅子に座り、僕たちの方へ静かな視線を向けていた。
端正な顔立ちに目を引く口元の小さな傷跡。
それらを見た瞬間、僕の中で確信が生まれた。
「……ようこそ」
低く落ち着いた声が部屋に響き渡る。
その声には、どこか穏やかでありながらも芯の強さが感じられた。
「こんにちは、ヨハンさん」
僕が声をかけると、健吾、あかり、ひなも少し緊張しながら揃って挨拶をした。
「こんにちは!」
すると、ヨハンは椅子から軽く腰を浮かせ、にっこりと笑顔を浮かべた。
「よく来たね、若人諸君!」
明るく大げさなくらいの声色で僕たちを迎えるヨハン。
その屈託のない笑顔には、まるで部屋全体を照らすような温かさがあった。
「さあさ、遠慮しないで中に入ってよ」
彼の軽快な言葉に促され、僕たちは恐る恐る部屋の中へ足を踏み入れる。
最初に感じていた緊張感が、その明るい雰囲気に少しずつ解けていくのを感じた。
「えっ、これがあのヨハンさん?」
健吾は、ヨハンの予想以上にフレンドリーな態度に驚き、戸惑いながら小声でつぶやいた。
「なんか、思ってたのと全然違うというか……」
「確かに……もっと地味な人を想像してたけど……。やだ、すごくイケメンじゃない!」
あかりが驚きを隠せない様子で、小さな声を漏らした。その視線はヨハンの端正な顔立ちに釘付けだ。
「ヨハンさん、昨日はありがとうございました。それで今日は、折り入ってお願いがあって伺いました」
僕は昨日のお礼も込めて挨拶をすると、ヨハンはにこやかに笑いながら椅子から立ち上がった。
「ゆうきくん、怪我もなさそうで何よりだ。無理してない?」
「おかげさまで……ご心配いただき、ありがとうございます」
ヨハンは昨晩、僕が倒れた時に気にかけてくれていたらしい。そんな彼の優しさに、胸の奥が少し暖かくなるのを感じた。
「まあまあ、固くならずにその辺に腰をかけてよ。立ち話なんて野暮だろ?」
ヨハンの軽やかな声に促され、僕たちは机の周りの椅子に座った。
「すみません、ありがとうございます」
椅子は見た目以上に快適で、座った瞬間、それまで張り詰めていた肩の力がすっと抜けた。
「外、暑かったでしょ? 今、お茶をいれるからちょっと待っててね。それから……甘いもの、苦手な人いる?」
ヨハンが、明るい声で問いかける。
「いえ、大丈夫です」
僕たちが口を揃えて答えると、彼は満足そうに頷いた。
「良かった! 実はね、昨日に依頼があった女性から沖縄のお土産をもらってさ。これ、僕、すっごく好きなんだよね」
ヨハンはそう言いながら、棚の奥から何かを取り出した。
「じゃーん! 紫芋タルト!」
彼が机の上に並べたのは、鮮やかな紫色が目を引くタルトだった。ニコニコと楽しげな表情のヨハンに、僕たちは思わず釘付けになる。
「どう? みんなも食べるでしょ?」
「わあ、これ大好き!」
ひなが目を輝かせながら即答すると、健吾とあかりもつられるように微笑みながらタルトを受け取った。
その瞬間、部屋の空気が少し柔らかくなり、どこかほっとするような温かさが広がった。
しばらくして、ヨハンが淹れてくれたお茶の香りが部屋に漂う。僕たちは紫芋タルトを一口頬張りながら、少しずつ緊張を解いていった。
「さあ、お茶も飲んで一息ついたところで……」
ふと、ヨハンの表情が真剣なものに変わった。しかし、その声にはどこか優しさが滲んでいる。
「依頼について、詳しく聞かせてくれるかな?」
その一言に、僕は深く息を吐いた。肩の力を抜いて、頭の中で昨晩の出来事を整理する。
「はい、わかりました」
僕は静かに頷き、できる限り正確に、昨晩の出来事を語り始めた。
トンネルにまつわる奇妙な伝説――呪いの話。
そして、その後に僕たちが体験した恐怖の数々を。
話しながら、あの恐ろしい時間が鮮明に蘇ってくる。暗闇の中で感じた圧迫感、耳をつんざくような不気味な音。そして、トンネルの奥深くで出会った「闇姫」と呼ばれる黒ずくめの女性の霊。その姿を思い出すだけで、体が震えるような恐怖が胸を締めつけた。
「ヨハンさん、どうか……お願いします」
声を震わせながら、僕はヨハンに懇願した。
「僕たちは……まだ死にたくありません……」
その言葉に込めたのは、過去の恐怖と今の不安。混じり合った感情が言葉を通して絞り出される。
「呪いを解くには、トンネルに戻って扉を閉めなければならない、と言われています。でも……僕たちには、もう二度とあの場所に行く勇気がありません……」
僕の声は次第にか細くなり、最後には完全に力を失った。
隣を見ると、健吾も、あかりも、ひなも、目を伏せたまま静かに頭を下げている。それぞれが恐怖を抱え、そして必死に助けを求めていた。
部屋には一瞬、重い沈黙が降りた。
ヨハンは腕を組み、目を閉じたままじっと考え込んでいる。その姿には、僕たちの話をただ聞き流すのではなく、一つひとつを丁寧に受け止めようとする真剣さが感じられた。
僕たちの話を聞く間、彼は時折メモを取りながら、静かに頷いていた。その表情には、事の重大さをしっかり理解しようとする鋭い目の光が宿っている。
すべてを話し終えると、部屋の空気はさらに重くなった。ヨハンが視線を上げ、僕たちをまっすぐ見つめる。
「鳴興戸トンネルね……」
低くつぶやいた彼の声が、部屋の静けさの中で鮮明に響いた。少しの間、考え込むように目を伏せていたヨハンは、やがて顔を上げ、軽く口元に微笑みを浮かべながら言った。
「うん、この件、ボクに任せなさい! 君たちは安心して、残りの夏休みをゆっくり楽しむといいよ」
その言葉は、あまりに軽やかだった。けれど、その裏に隠された覚悟のようなものを僕たちは感じ取った。
「ほ、本当にありがとうございます、ヨハンさん!」
僕たちは一斉に頭を下げ、声を揃えて感謝の意を示した。
彼のその言葉には、恐怖に立ち向かう決意と、僕たちを守ろうとする優しさが込められていた。
「うんうん、学生の休みは貴重だもんね」
ヨハンは微笑みながら、気楽な口調でそう言った。
けれど、僕たちはまだ少し不安げだった。
「あの……」
僕たちの代表として、僕が口を開く。
「なに? どうしたの?」
ヨハンが首をかしげる。
「依頼の報酬なんですが……僕たち四人で合わせてもこれぐらいしか集まらなくて……」
そう言って差し出した封筒には、学生の限界を尽くして集めた約50万円が入っていた。僕たちにとっては大きな額だけど、命を賭けた依頼にはあまりに少ないように思えた。
ヨハンは封筒をちらっと見て、それから笑った。
「いいよ、報酬は別に金じゃなくてもさ」
その言葉に、一瞬、空気が変わった。
僕たちは驚いて顔を上げる。
「えっ!? と言いますと……?」
「そうだな……」
ふと、ヨハンは微笑む。
「僕がこの便利屋を始めた理由ね――それは、困っている人を助けたかったから。それだけ。あ、あと、自分の中での罪滅ぼし、みたいな意味もあるけどさ」
罪滅ぼし。
その言葉に、僕たちは言葉を失った。
「は、はい……」
ヨハンの目には、過去の痛みがちらついているように見えた。何かを背負っている人間の重みが、彼の声や言葉に滲んでいた。
「でもね、世の中って僕が思ってた以上に困ってる人だらけなんだよ。つまり、僕一人じゃどうにもならないことも多いってこと。だからさ、もし君たちの周りで誰かが困ってるなら、その時は手を差し伸べてあげてよ。それが、僕にとっては最高の報酬になるんだ」
その優しい口調と微笑みに、僕たちは胸が熱くなった。
「も、もちろんです!」
「ははっ! じゃあ、この依頼はこれで交渉成立だね」
ヨハンはにっこり笑った。その笑顔には、僕たちの不安を和らげる力があった。けれど、その裏には深い決意が見え隠れしているように思えた。
「第一、君たちみたいな学生から、金なんて巻き取れるわけないでしょ?」
その軽口に、僕たちは思わず笑ってしまった。
「本当にありがとうございます、ヨハンさん」
深く頭を下げる僕たちを見て、ヨハンは軽く手を振った。
「でも、まだ気が早いよ。呪いの“闇姫”だっけ? 聞く限り、少し厄介そうだからね」
「ヨハンさんの無事を祈ります……」
「ありがと。まあ、あんまり気負わずに待っててよ。この件、終わったらまた連絡するからさ」
ヨハンは最後に安心させるように笑顔を向けた。その笑顔には、不安を吹き飛ばすような明るさがありながらも、背後に控える困難への覚悟が垣間見えた。
事務所を出ると、外はすっかり夕暮れだった。
空は深いオレンジ色に染まり、夜の訪れが近づいている。
「なんか、ほんとに大丈夫なのかな……」
健吾がぽつりと呟く。
「大丈夫だよ」
僕はそう言ったけれど、自分にも言い聞かせているようだった。
ヨハンがどうやってこの呪いに立ち向かうのか。
その答えを知りたい気持ちと、彼を信じる気持ち。
その間で揺れる僕たちは、深い不安を胸に抱えながらも、彼に希望を託して歩き出した。
空には星が瞬き始め、夜の静けさがじわじわと迫ってくる。
僕たちはただ、ヨハンの無事を祈りながら――。
ーーーーーー
2017年8月6日23:58
その夜、僕の家でみんなと一緒に過ごした。
部屋の中には、微かな緊張感が漂っていた。
僕たちは再びトンネルのことを考えながら、心の奥でざわめく不安を感じていた。
すると、あかりが声をひそめて言った。
「もし……ヨハンさんが失敗したら、どうする?」
その言葉に、一瞬、部屋の空気が凍りついた。
「そんなこと、考えたくないけど……」
僕は曖昧に答えながらも、その可能性を完全に否定できない自分がいた。
「でも、ヨハンさんならきっと大丈夫だよ」
そう言い切る自分の声には、どこか自信が混じっていた。
「なんだよ、ゆうき。妙に信用してるじゃん」
健吾が驚いたように僕を見た。
「なんだろう……あの人なら、何とかしてくれる気がするんだ」
ヨハンという男には、言葉では説明できない不思議な信頼感を抱かせる何かがあった。
その時、不意に僕のスマートフォンが震えた。
突然の振動に驚き、僕は画面を覗き込んだ。
「うわ……誰だろう?」
呟きながら通知を確認すると、そこには「ヨハンさん」からのメッセージが届いていた。
「何だろう……?」
僕たちはそのメッセージに目を凝らした。
そこに記されていたのは、短くも力強い言葉だった。
『トンネル到着したよ。呪いの件は何とかするから、子供は夜更かししてないで早く寝なさい! 取り急ぎ報告でした』
「おお、ちゃんと進んでるみたいだね!」
あかりがほっと息をついた。
「うん……ヨハンさん、ちゃんと動いてる」
僕もその言葉に安堵し、微笑んだ。
「ヨハンさんがいる限り、大丈夫だと思うよ」
それでも、僕たちの胸にはまだ不安が残っていた。
夜が更けるにつれ、その不安がじわじわと広がるようだった。
深夜、僕たちはヨハンさんの無事を祈りながら、それぞれの布団に入った。
だが、眠ることはできなかった。
何度も目を覚まし、そのたびに時計を確認しては、外の夜空をぼんやりと見上げた。
星々は静かに輝いていたが、その光はどこか遠く、僕たちの焦燥感を照らし出すことしかできなかった。
やがて朝が訪れた。
薄明かりが部屋に差し込み、鳥のさえずりが聞こえ始める。
僕たちは一斉にスマートフォンを手に取り、ヨハンさんからの連絡を確認した。
「来てるかな……?」
画面を見つめる僕たちの胸には、期待と不安が入り混じっていた。
その時、僕たちは心の中で願った。
ヨハンさんが無事に帰り、呪いを解決してくれることを――。
彼が「闇姫」と対峙している姿を想像しながら、僕たちはその結果を待ち続けた。
そしてその瞬間が、少しずつ近づいていた。
次回、元最強の殺し屋・ヨハンが呪いの闇姫と決戦!影刃の異名を持つヨハンが、深夜のトンネルで繰り広げられる壮絶な戦いに挑む。果たして彼は、呪いを打ち破り、ゆうきたちを救えることができるのか?
「命懸けの戦いが、今、始まる」