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哀と光のトンネルで  作者: 蒼月 想
第一章 無子男
3/13

第二話:「鳴興戸トンネルの呪い」

2017年8月5日 20:24


帰路の車内には、まるで葬式のように重苦しい沈黙が漂っていた。

誰も一言も口を開かず、車のエンジン音だけが虚ろに響いている。


無理もない――ついさっき、あんな恐ろしい体験をしたばかりなのだから。


助手席のあかりは窓の外を見つめたまま動かず、後部座席ではひながぐったりと眠り込んでいる。健吾もいつもの陽気さをすっかり失い、険しい表情でハンドルを握りしめていた。


胸のざわめきを振り払うように、僕はスマホを取り出した。そして、あのトンネルについて検索を始める。


「古いトンネル……廃道……黒い女……」


キーワードを変えながらスクロールを続けていると、徐々に手が震えていることに気がついた。


「……これか?」


画面に表示された一つの記事が目に留まる。内容を読み進めるにつれ、頭の奥で鈍い痛みが広がっていく――。


あのトンネルについて、何か知らないほうがよかった事実を掴んでしまったかのような、不安が胸を締め付けた。


以下は、僕がスマホで見つけた情報の要点だ。


【トンネルの歴史】

あのトンネルはかつて「鳴興戸なこうど村」に存在した旧防災トンネルで、約76年前に爆発事故が発生し、多くの命が失われた。その後、トンネルは閉鎖され、地図上では「通行止め」と表示されている。現在では近づくことが禁じられている場所だ。


【謎の女】

トンネル内で不慮の爆発事故で命を落とした女性の霊が現れると言われ、その姿は焼け焦げたように全身を黒くまとっている。一部の界隈ではその女性を「呪いの闇姫」と呼び、彼女の霊を目撃した後、三日後には命を落とすと噂が絶えないらしい。


【呪いの扉】

トンネルの中に入った者は、最後に扉を必ず閉めなければならないという言い伝えがある。扉を閉めずに立ち去った場合、その者は三日以内に謎の死を遂げると言われているのだ。

さらに、このトンネルには人を引き寄せる力があるとされ、「何かに操られるようにして中へと進んでしまう」という証言が多数寄せられている。そのため、トンネル周辺は地元の人々から「呪いのスポット」として避けられている。


……僕はスマホの画面をじっと見つめていた。


背筋がぞわりと寒気に襲われる。車内にいてもなお、あのトンネルの冷たい空気が肌にまとわりついてくるような錯覚が消えない。


――扉を閉めること。


スマホに記されていた最後の一文が、頭の中で何度も反響する。

僕たちはどうした? 扉を……閉めただろうか?


――いや。


記憶を必死にたぐり寄せようとする。だが、震える手の中でスマホが滑りそうになり、冷や汗が額を伝って滴り落ちた。


……本当に、扉を閉めたのか?


心臓が早鐘を打つ中、あの時のことを順に思い出してみる。


ひなが操られるようにトンネルの奥へ進んでいったこと。僕たちが慌てて後を追い、あの異形の「女」に出くわしたこと。


――そうだ。あの女。


あの時、確かに目が合った。真っ黒な瞳の奥から、冷たい何かがこちらを見下ろしていた。あれが……呪いの闇姫……。


その時の恐怖が蘇り、全身が震えた。


そして僕たちは、闇姫の恐怖から逃れることに精一杯だった。走り出した時、トンネルの扉なんて考える余裕はなかったはずだ。いや、絶対に閉めていない。


――つまり、僕たちは……。


理解が体を突き刺した。そうか、ネットに書いてある言い伝え通りなら、扉を閉めずに立ち去ったことで僕たちは呪いを背負ってしまったのだ。


三日以内――。


スマホの画面に映るその言葉が、まるで自分に突きつけられた死刑宣告のように思えた。


「……これは僕の失態だ」


心の中で自分を責める声が、嫌でも大きく響いた。

思い返せば、東京に早く帰るためにあのトンネルを通ろうとみんなを説得したのは、紛れもなく自分だった。


――あの時、なぜ引き返すという選択肢を選べなかったのか?


素直に元の道を戻っていれば、こんなことにはならなかったはずだ。焦りや効率を優先した結果、僕たちはあの呪いの地に足を踏み入れてしまった。


「……くそっ……」


小さく唇を噛みしめ、うつむく。胸の奥が押しつぶされそうな罪悪感に苛まれた。


だが、こうして一人で後悔を噛み締めていても、状況が良くなるわけではない。

今やるべきことは、自分を責めることではない。


――落ち着け、落ち着くんだ。


深呼吸を一つ。震える手をギュッと握りしめた。

まずは、みんなにこの状況を説明し、次にどう動くべきかを話し合うべきだ。


――そうだ、一刻も早く。



ーーーーーー



僕は隣で眠っているひなにそっと手を伸ばした。


「ひな、起きてくれ……」


肩を軽く揺さぶると、彼女は眉を寄せながらゆっくりと目を開けた。


「……どうしたの?」

眠たげな声が耳に届く。


「みんなに話さなきゃいけないことがあるんだ」


ひなが小さく頷くのを確認すると、僕はスマホを手に取り、画面に表示された情報を見つめた。緊張で手が少し汗ばんでいるのがわかる。


「みんな、ちょっと聞いてくれ」


車内の空気が変わる。健吾はミラー越しに僕を見やり、あかりは不安げに顔を上げた。


僕はスマホを握り直し、深呼吸してから一つひとつ丁寧に話し始めた。

トンネルの歴史、女の霊、そして扉を閉めなければかかるという呪い――そのすべてを。


車内の空気は、まるで濃い霧が立ち込めたように重く、誰もが息を詰めて話に耳を傾けていた。

やがて説明が終わると、沈黙を破るように健吾が震える声で問いかけた。


「……つまり、あのトンネルに入って、扉を閉めなかったから、俺たちは今呪いがかけられたってことか?」


その声には焦りと悔しさがにじんでいる。

僕は息を飲み、うつむきながら静かに頷いた。


「どうやらそうみたい……。すまない。あの時、僕がトンネルを通ろうなんて言わなければ……」


自分が提案した道が、結果的に友達を危険に巻き込む結果を招いた――そう思うと、胸が締め付けられるような思いだった。

自分の責任を認めると同時に、その重さに耐えきれず言葉を詰まらせる。


だが、健吾は強い口調でその場の空気を断ち切った。


「違うだろ」


健吾がハンドルを握りしめたまま、低い声で言った。


「最後にトンネルを通るかどうか決めたのは、俺たち全員だ」


その声にはどこか強い確信が込められていて、車内の空気が一瞬止まったように感じた。


「だからよ、お前一人が全部背負う必要なんてねえんだよ」


健吾はバックミラー越しに俺を一瞥しながら続けた。言葉こそ荒っぽいが、その目は真剣だった。


僕はその視線を受け止めながら、何かを言い返そうと口を開けたが、声が出なかった。


健吾の言葉が胸の奥で何かを打った気がする。ずっと自分だけが責任を負わなければならないと勝手に思い込んでいた、そのことに気づかされたのだ。


「健吾……」


言葉が出ない僕に代わるように、あかりが小さく呟いた。車内の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。


健吾の力強い言葉が、心の奥に滞っていた重い塊を少しずつ溶かしていく。


「ありがとう……」


自然に口をついて出たその言葉は、心の底から湧き上がる感謝の気持ちだった。

健吾は軽くうなずくと、少しだけ緊張がほぐれたように、窓の外へと視線を投げた。


「でも、これからどうすんだ? 本当にその呪いとやらで人が死んでるってんなら、黙って待ってるわけにもいかねえだろ?」


健吾の低い声が静まり返った車内に響く。

その言葉に、ひなが耐えきれず泣き出した。震える声で、彼女が口を開く。


「もういや……怖いし、疲れた……」


か細い声に混じるすすり泣きが、静まり返った車内に重く響いた。その声は、僕たち全員の胸にじわりと染み渡り、言葉を失わせた。


「ごめん、ひな。なんとか……なんとか助かる方法を考えるから……」

震える声でそう伝えたものの、自分の言葉が空虚に聞こえる。根拠のない励ましが、どれほど彼女に届くのか自信が持てなかった。


「うちも……ごめん……みんなだって、同じ気持ちのはずなのに……うちばっかり、弱音吐いて……」


ひなは肩を震わせながら両手で顔を覆った。泣きじゃくる声が、暗闇の中でやけに大きく響く。


けれど、誰も彼女を責める者はいない。僕たちだって、心の中では彼女と同じだ。

――ただ怖い。何もかもが怖くてたまらない。


その恐怖を無理に押し込めているだけで、ひなの涙は、僕たち全員の代わりに流れているようにも思えた。


健吾がハンドルを握る手に力を込める。あかりも小さく息を吐いて、ひなにそっと手を伸ばそうとする。

僕も何か言いたかった。でも、のどがひどく乾いて、声が出なかった。


静寂の中、車のエンジン音だけが淡々と響いていた。


「とにかく今は、冷静に考えるしかない。どんなに怖くても、解決しないと僕たち全員が危ないんだ」


僕は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。


「つまり、三日以内にあのトンネルに戻って、扉を閉めなきゃいけないってことだよな?」


健吾が歯を食いしばりながら、苛立ちを抑えるように低い声で言う。

彼の顔には焦燥と絶望が浮かび、強がる余裕さえ奪われていた。


「……多分、そうだね。呪いを解くには、それしかない」


僕の返答に、車内の空気がさらに重く沈む。沈黙が流れる中、突然、あかりが口を開いた。


「あたし、お腹空いた」

「は? あかりお前今なんて言った?」


健吾が驚きながら問い返した。その声には明らかに現実感を失った混乱が滲んでいる。


「だから、お腹が空いたって言ったのよ」


あかりがあっさりとした口調で繰り返す。その冷静な言葉に、状況に対する驚きや困惑が混じりつつも、どこか冷静さを取り戻そうとする意志が感じられた。


「……いや、そうか」


僕も思わず呆気に取られる。

生死がかかったこの状況で腹を空かせるあかりの精神構造が、なんだかスゴイやつに見えてきた。

いや、もしかしたら混乱に耐えきれず壊れてしまったのかもしれない。


「飯に行くのは構わねえけどよ。よくこんな状況で飯なんて食う気になるな。……で、一応聞くけど、どこ行きたいんだ?」


「マックがいい。ハンバーガー食べたいし、あとポテトも」


「はっ!?」「えっ!?」


健吾と僕は同時に声を上げた。


「ちょっと待て、あかり、お前マジで言ってんのか?」


健吾は信じられないといった顔で彼女を見る。


「なによ?」


「いやお前……普段ハンバーガーとか揚げ物は絶対に食わないって豪語してたよな? “揚げ物は翌日の肌に響くんだから”とかなんとかさ」


健吾がまくし立てる。僕もうなずきながら心の中で同じ疑問を反芻した。

あかりは美意識が高いことで知られていて、食事にもストイックな女性だ。実際、これまで彼女がハンバーガーやポテトを食べる姿など一度も見たことがなかった。


「ああ、もういいのよ」


あかりは力なく呟いた。その声には、諦めと絶望がにじみ出ていた。


「どうせ死ぬってわかってるなら、なんか食べたくなっただけよ」


その言葉に車内の空気が一層重くなる。


「あ、あかり、お前……。まだ死ぬって決まったわけじゃないだろ」


健吾が震える声で言う。しかし、あかりは顔を上げないまま、絞り出すように答えた。


「じゃあ、どうすればいいの? またあのトンネルに戻れっていうの? それなら、死んだ方がマシだわ」


車内が静まり返る。誰も言葉を返せなかった。


みんな、本心では死にたいなんて思っていない。

だが、あのトンネルに戻るという選択肢は、それ以上に耐え難いものだった。

あの場所が持つ異様な冷気と、あの女の焼き付くような視線――それをもう一度経験するくらいなら、死んだ方が楽だとさえ思える。


死……。


その言葉が脳裏に浮かび、僕は奥歯を噛みしめた。

死んだら、何も残らない。ただの終わりだ――。


「くっ……くそ……」


喉から漏れた声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。

今の状況を思えば、確かに“最悪”という言葉以上のものはなかった。



――だが、それでも。


このまま終わらせるわけにはいかない。何か方法があるはずだ。僕たちが生きてこの状況を抜け出す道が、きっと……。


車内に「カチカチカチカチ」とウィンカーの音が響く。

やけに大きく聞こえるその音が、マクドナルドへの道を示しながらも、僕たちの心を一層重苦しく押しつぶしていく。


重い沈黙が続く中、不意にひながぽつりと口を開いた。


「もしかしたら、まだ助かる方法があるかもしれないよ……」


その言葉に車内の空気がわずかに揺れた。



ーーーーーー



2017年8月5日 21:04


僕たちはマクドナルドのテーブルに、山盛りのハンバーガー、ポテト、コーラを並べていた。

まるで大食い企画にでも挑戦するかのようなその光景は、異様というより滑稽ですらある。


無論、これはみんながあかりのヤケクソな食欲に感化された結果だった。


「はあ……これだけ頼んで、どうするつもりなのよ?」

あかりが呆れたように言いながら、目の前のハンバーガータワーを見上げる。


「だって、これで少しは気晴らしになるだろ?」

健吾が口いっぱいにハンバーガーを詰め込みながら返事をする。その姿は、どことなくチップとデールをゴツくしたようで妙に笑える。


「でも、これじゃ気が紛れるどころか、体調崩しそうだよ……」

そう呟くひなの手には、すでにポテトが握られている。言葉とは裏腹に、彼女は誰よりも早くポテトを口に運び、その勢いは止まらない。


――こう見えて、実はこのメンツの中で一番大食いなのは『ミス・フードファイター』ひなだったりする。


「まあ、いいじゃないか。腹が減っては戦もできないって言うし」

僕がフォローを入れつつ、目の前のハンバーガーに手を伸ばすと、自然と笑みがこぼれた。

この異常な状況にあっても、こうして一緒に食べているだけで少しだけ心が軽くなる気がする。


そうして僕たちは口いっぱいにハンバーガーを詰め込みながら、ひなが見つけた“助かるかもしれない方法”について、改めて話し合いを始めた。


***


それは、ひながネットのブログで見つけた情報だった。


そのブログには、去年に鳴興戸トンネルを訪れたという人の体験談が綴られていた。

その人はトンネルの扉を閉めずに帰ったにもかかわらず、今も無事で生きているという。

驚くべきことに、呪いには“他者に移すことができる”という特徴があるらしかった。


――自分の代わりに誰かをトンネルに入らせることで、呪いをその人に移せる。


「呪いを移すなんて、まるで悪魔の取引みたいだな」

健吾が低い声で呟くと、あかりが不安そうに続けた。

「言われてみればそうね……それに、そんなこと、できるわけ……」


整理すると、現段階で呪いを解く方法は二つあることになる。


ひとつ目は、三日以内に自分たちがトンネルに戻り、扉を閉めること。

ふたつ目は、三日以内に誰かをトンネルに送り込み、その人に呪いを移すこと。

貞子の呪いのビデオみたいなものだろうか。


ただし、ふたつ目の方法は他人に呪いを押し付けるだけで、根本的な解決にはならない。

むしろ、それは――間接的に他人を犠牲にする行為だ。


「つまり、最悪の場合には……ふたつ目の方法を選ぶしかないってことか」

僕は重い口調で言った。胸の中で沸き上がる罪悪感が、言葉を紡ぐたびに大きくなる。


「そうなると、どうするか早く決めなきゃな」

健吾が真剣な表情でうなずく。その顔にはいつもの陽気さはなく、鋭い緊張感が漂っていた。


「待って……でも、誰かを犠牲にするって……そんなこと、本当にどうやって実行するの?」


あかりが声を震わせながら問いかけた。

その目からは、心の奥深くで激しい葛藤が渦巻いているのが伝わってくる。


僕も頭を抱えた。


誰かをトンネルに送り込む方法――そんな非人道的な手段を真剣に考えなければならない状況に、自分自身が嫌悪感を覚えた。

だが、生き延びるためには現実と向き合わなければならない。


「たとえば……大金をちらつかせるとか。『トンネルに行けば大金が手に入る仕事がある』って言うんだよ。でも、それが本当に信じてもらえるかどうかは、正直疑問だし……」


僕は言葉を詰まらせる。

仮にもしその嘘で誰かを送り込んでしまい、その結果、死に至ったとしたら――罪の重さがどれほど耐え難いかは想像に難くなかった。


「それに、その“口実”をどう作るかだよな」


健吾が腕を組み、眉間に深いしわを寄せた。


「仮に『どこかに調査の仕事がある』とか適当な理由をでっち上げたとしても、実際にトンネルに行かせるには、それなりの説得力が必要だ。しかも、もし騙したことがバレたら、こっちの身だってただじゃ済まないだろ?」


「そうよ。それに、仮にトンネルに行ったその人が本当に死んだら、その理由を説明する必要が出てくるわけよ。大金や仕事なんて口実、絶対に疑われるに決まってるじゃない……」


あかりの声には、明らかな非難の色が混じっていたが、彼女の言葉は真実そのものだった。


――そうだ、そんなものはただの悪あがきに過ぎない。

相手が納得しなければ意味がないし、その結果が死を招けば、僕たちは取り返しのつかない罪悪感に苛まれる。


「結局、どんな理由を考えても……」

僕の声は自然と途切れる。


「……それが正しい道じゃないことだけは、わかってるんだ」


店内に重い沈黙が降りた。

考えれば考えるほど、逃げ場のない絶望が僕たちを包み込む。


「それに、もし本当に呪いを移すために誰かを送り込んだとして、その後にどんな問題が起こるかわからないし……」


ひなは不安そうに声を震わせながら言った。


「結局、どうするかを決めるのは僕たち次第だ。でも、どんな手段を取るにしても、慎重に考えなければならない」


僕は、迷いや恐怖を押し殺して、覚悟を決めたように口を開いた。


「ああ」

「そうね」

「うん」


健吾も、あかりも、ひなも、重く頷いた。


この沈黙の中、僕たちはそれぞれの心の中で何かを抱えながら、進むべき道を探していた。


「少し頭を冷やしてくる」


僕はそう言って立ち上がり、マクドナルドのトイレへ向かった。

気持ちを整理するために、少しの間だけでも一人になりたかった。


トイレに入り、用を済ませた後、洗面台で手を洗いながら顔を上げた。鏡に映る自分の顔は疲れ切っていて、目の下にはくっきりとクマが浮かんでいた。


その瞬間、不意に強烈なめまいが襲ってきた。


「っ……」


視界がぐるりと揺れ、次の瞬間、床に崩れ落ちていた。頭を打たなかったのは幸運だったが、身体は鉛のように重く、起き上がるのに手間取った。


「いっ……てて……」


うめき声を漏らしたその時、トイレのドアの向こうから足音が急ぎ足で近づいてきた。


「大丈夫? 君?」


見上げると、一人の男性が心配そうにこちらを見下ろしていた。彼の声には冷静さと優しさが混じっている。


「はい、すみません。立ち眩みで転んでしまったみたいです」

「夏バテかな? 怪我はない?」


男は落ち着いた声で問いかけながら、僕を手伝い起こしてくれた。

どこか神秘的な雰囲気をまとったその男は、端正な顔立ちと口元に走る痛々しい傷跡が印象的だった。


「大丈夫です、ありがとうございます……」

「そう。なら良かった。今年の夏は特に暑いから、気をつけるんだよ」


男は穏やかな笑みを浮かべながら言うと、そのままさっと立ち去ろうとした。

その時、ポケットから小さな名刺がひらりと落ちるのが見えた。


「これ、落としましたよ!」


僕は慌てて名刺を拾い上げ、男に差し出した。


「ああ、それ君にあげるよ」


男は振り返ると、少し気恥ずかしそうに笑った。


「僕は便利屋をやってるんだ。珍しいでしょ? どんな依頼でも引き受けるから、困ったことがあったらいつでも頼ってよ」


名刺には「便利屋ヨハン」と書かれ、その中央には「代表更科(さらしな)ヨハン」と丁寧に記されていた。


「は、はい、ありがとうございます」


僕が感謝を口にすると、男は軽く頷いて店を出て行った。

その背中を見送りながら、僕はふと名刺を見つめた。


――どんな依頼でも引き受ける……か。


「あ、ひとつ忘れてた!」


突然、男が店のドアを押し開けて戻ってきた。


「どうしました?」

「さっきの話だけど、依頼料の報酬はしっかりいただくからね」


そう言って、ヨハンはニコッと微笑むと、再び扉の向こうへ消えていった。

彼のその言葉と笑顔は、不思議と心に引っかかるものがあった。


------


席に戻った僕は、さっきの出来事をみんなに話し始めた。


「トイレで『便利屋ヨハン』って名乗る男に会ったんだ。『困ったことがあれば頼ってください』って名刺を渡された」


その名前を口にした瞬間、健吾の表情が明らかに変わった。


「え? ゆうき、お前ヨハンって……あの便利屋のヨハンに会ったのか?」


健吾が驚きの声を上げる。


「え? 健吾、この人のこと知ってるの?」


あかりが興味津々に尋ねた。


「いや、噂で聞いたことがあるんだよ。一部の掲示板や口コミサイトで話題になっててさ、どんな問題でも解決してくれるっていう、伝説的な便利屋だって」


健吾の言葉に、僕たちは一斉に顔を見合わせた。


「本当に? そんなのどこで噂になってるのよ?」


あかりが眉をひそめながら尋ねる。


「ネットの片隅だよ。表立った広告はないし、詳細は謎だらけ。でも、実際に依頼して成功した人たちが信頼してるらしい。だから、直接会って話してみないと実態はわからないんだけど……」


健吾が慎重な口調で説明する。


「でも、確かにさっき会った感じじゃ、ただ者じゃなさそうだった。なんて言うか……何か隠してるような雰囲気があったよ」


僕はヨハンとの短い会話を思い出しながら、そう付け加えた。


「ねえ、ゆうき。この人なら、呪いを解く方法を知ってるかもしれないよ」


ひなが恐る恐る期待を込めた声で言う。その言葉に、あかりも同調するように頷いた。


「そうね。一度会ってみて話を聞いてみる価値はありそう」


「よし、決まりだな。ゆうき、名刺に連絡先が書いてあるんだろ? 早速連絡してみようぜ」


健吾が軽く手を叩き、僕に向かって言った。


「そうだね。試してみる価値はありそうだ……」


僕はヨハンの名刺を取り出し、その奇妙な名前と「どんな依頼でも」という言葉をじっと見つめた。

――どこか奇妙で不可解な男だが、この状況を切り抜ける希望がそこにある気がした。


その後、僕たちは更科ヨハンに連絡を取り、彼との面会の準備を進めることにした。

運命を変えるための第一歩を踏み出す――そう決意した瞬間、胸の内には不安と希望が入り混じった。


果たして、この便利屋ヨハンがどのような解決策を持っているのか。そして、それが本当に僕たちの運命を好転させるのか。


誰にも分からない。


だが、今の僕たちに残された選択肢は他にない。

この不確かな手がかりにすがるしかなかった。


トンネルの記憶、冷たい風、そして闇の中に浮かぶ黒ずくめの女の姿が頭をかすめる。


――もし、彼があの呪いに立ち向かう術を知っているのなら。


僕たちは希望を胸に抱きながら、運命の扉を叩く準備を進めていた。

次回、本主人公ヨハンが「便利屋よっちゃん」として登場。偶然の出会いが運命を変えるか?ゆうきたちは彼に助けを求め、呪いの解決策を探る。果たしてヨハンの知恵と力で、絶望から脱出できるのか?



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