第一話:「トンネルの先に待つもの」
ーーゆうき視点ーー
2017年8月5日 18:32
大学三年の夏休み、僕たちは千葉のキャンプ場から東京へ帰る途中だった。ナビに従い、ひたすら山奥へと進んでいく。
やがて車が古びたトンネルの前で止まった。
「ん? 道が塞がれてるな」
運転席に座る健吾が、不思議そうに呟く。
目の前には、大きなトンネルの入口。その鉄格子の扉は全体が錆びつき、長い年月閉ざされていることを物語っていた。
「これ……ナビの指示通りに進んでるのよね?」
助手席のあかりが、不安そうに尋ねる。
「うーん……ナビによればこのトンネルを抜ければ近道になるはずなんだけどな」
普段自信満々の健吾だが、あかりの問いかけに自信なさげにナビを何度も押しながら答えた。
ふと、あかりが気になったように窓の外へ視線を向けた。その瞬間、すでに青ざめていた彼女の顔がさらに青ざめる。
「どうした?」と僕が尋ねるより早く、あかりが言葉を失ったまま外を指さす。
つられるように同じ方向を見ると、そこにはまるで時間が止まったような不気味な廃村の跡が広がっていた。傾いた屋根、崩れかけた家々、草木に飲み込まれた道筋――どこを見ても、人の気配など微塵も感じられない。
「ねえ、元の道に戻ったほうがいいんじゃない? ここ……なんだか怖いし、あのトンネルだって不気味じゃない?」
あかりが不安を隠しきれない声で言う。
その言葉に、今まで黙っていた後部座席のひなが小さく震える声で応じた。
「わ、私も怖い……。引き返したい……」
不安と恐怖が車内にじわじわと広がっていく。誰もがこの異様な雰囲気を察しているのに、確かな判断がつかないまま、ただ静かに時間が過ぎていった。
「でもさ、もしあのトンネルが通れるなら、東京に早く帰れるし、今から引き返すとなると、余計に時間がかかるんじゃないか?」
僕は帰りが遅くなる可能性を考慮し、慎重に提案した。なぜならあかりと健吾には、それぞれ急いで帰らなければならない理由があるからだ。
あかりは家族との約束の時間に遅れるわけにはいかないし、健吾は翌日に控えた就職活動の大事なプレゼン準備が残っている。ひなに至っては予定こそないが、キャンプの疲労からさっきまでうつらうつらしていた。正直、早く帰って休ませてやりたいところだった。
「どうする? 進むか、戻るか?」
僕がそう問うと、健吾がナビの画面に目を落としながら口を開く。
「俺は進むに一票だな。ナビの指示通りに進めば渋滞を避けられるし、東京にも早く着けるはずだ。俺も帰ってプレゼンの準備があるし、みんなもそれぞれ予定があるし、何より早く帰って休みたいだろ? だったら時間を無駄にしない方がいい」
「そう言うけどさ……。確かに早く帰りたいけど、もし何かあったらどうするのよ?」
あかりは不安げに眉を寄せ、トンネルの方向をちらりと見やった。
「それでも、可能性があるなら試すべきだと思うよ」
僕はあかりをなだめるように続けた。
「健吾だってここまでずっと運転してくれてるし、今さら引き返すのも時間がもったいない。それに、あのトンネルが通れるかどうかはまだ分からないだろ? 扉が開かなかったら、大人しく引き返して来た道を戻ればいいだけだし」
「……確かに、健吾も一人で運転してるし、ここで引き返すよりは通れる道を試してみる方が合理的かもね」
あかりはしぶしぶ頷くと、隣の健吾に視線を向ける。
後部座席のひなも、少し怯えた様子を見せながら意見を口にした。
「私も怖いけど……健吾がずっと運転してるのに、引き返すのは体力的にキツいよね……」
トンネルの先に何があるのか分からない不安が、車内に微妙な空気を漂わせていた。それでも、全員ができるだけ早く帰りたいという思いは一致しているようだった。
「……うん、そうね。時間もないし、ここで迷ってる暇もないわよね……わかったわ、行きましょ」
あかりも最後には意を決して声を上げた。
こうして、僕たちはトンネルを通る決断を下した。
もちろん、通るのは怖いが各々の目的が僕たちを突き動かしたのだ。
ーーーーーーー
車を降り、トンネルの前に立つと、ひんやりとした寒気が全身を包み込んだ。隣にいたひなが怯えた様子で僕の肩にしがみつく。その小さな手の震えが、肌越しに伝わってきた。
「どうだ? 開くのか?」
健吾が鉄格子の扉に手をかけ、力を込めて揺らした。その瞬間、ガタンと鈍い音を立てて扉があっさり開いた。
「え、マジかよ……南京錠かかってねえじゃん」
健吾は拍子抜けしたように扉を押さえながら呟いた。
「本当に……開いちゃったの?」
あかりの声には、明らかな動揺が混じっていた。トンネルを進むことに強い抵抗を感じているのだろう。彼女の顔はますます青ざめ、その視線は闇に包まれた奥へと吸い寄せられている。
「これで中に入れ……っ!」
その瞬間、トンネルの奥から冷たい風が吹き抜けてきた。湿り気を含んだその風は、どこか鉄錆のような匂いを運び、生き物のように僕たちの肌に絡みつく。刺すような冷たさに思わず身をすくめる。
「うわっ……」
さっきまで余裕を見せていた健吾でさえ、その冷気に触れた瞬間、びくっと体を震わせた。驚いたように目を見開き、蒼白な顔には冷や汗が浮かんでいる。
「こ、これはヤバいな……」
震える声で健吾が呟く。
「ね、ねぇ? やっぱり引き返さない? 今ならまだ間に合うし……って、ひな!?」
あかりが震える声で帰ることを提案したその瞬間、ひなが突然僕の肩から手を離した。まるで操られるように、無言のままトンネルの中へと歩き始めた。
「ひな!」
僕が慌てて呼びかけたが、ひなの耳には届いていないようだった。彼女の瞳は虚ろで、どこか遠い場所を見つめている。足取りはまっすぐで迷いがなく、何かに引き寄せられるように、ひたすら奥へと進んでいく。
「ひなを連れ戻そう!」
僕が叫ぶと、健吾がすぐさま反応し、あかりも慌てて頷いた。
「ああ!」
「まったく、何やってんのよあの子は!」
僕たちはひなの後を追い、足を踏み入れるのも躊躇われるようなトンネルの中へと突入した。
内部は外よりも一段と冷え込んでおり、骨まで凍るような冷気が全身を包み込む。壁は湿気に覆われ、時折ぽたぽたと滴る音が静寂を切り裂いていた。どこか嫌な匂いが鼻をつき、暗闇の中、僕たちの影が頼りなく揺れている。
それでもひなは、まるで暗闇に導かれるかのように軽やかに足を進めていく。その様子はどこか人間らしさを欠いていて、不気味ですらあった。
「ひな! 戻れ!」
健吾が声を張り上げるが、彼女はまったく反応を見せない。その背中は僕たちの呼びかけを置き去りにするように、さらに奥深くへと消えそうだった。
焦りと恐怖に駆られる中、健吾がついにひなに追いつき、その腕を掴んだ。
「ひな、目を覚ませ!」
健吾の叫びがトンネル内に響き渡った。
「え? ここは……なんで、私……こんなところに……」
健吾の叫びによって、ひなははっと我に返った。しかし、その顔には強い動揺が浮かんでいる。まるでここに来るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちているかのようだった。
「おい、ひな、大丈夫か?」
「私……わからない……何も思い出せない……」
彼女の震える声に、安堵と不安が入り混じる。ひなを掴む健吾の手に力が入ったその時だった。
「……た す け て え……」
耳を疑うような不気味な声がトンネル内に響き渡った。声は低く、湿った空気を震わせるように広がっていく。
――もちろん、僕たち誰の声でもない。
「な、なに……今の……!」
「い、いやあああああ!」
ひなとあかりがほぼ同時に悲鳴を上げた。ひなは恐怖で膝から崩れ落ち、崩れた姿勢のままガタガタと震えている。一方、あかりはトンネルの出口に向かって全速力で駆け出した。
「あかり! 待て!」
健吾が叫ぶも、あかりは振り返らず闇の中へ消えていく。
「健吾! あかりを追ってくれ! 一人にさせるのは危険だ!」
僕は声を張り上げて指示を出す。
「でもお前たちは!?」
「ひなは僕が絶対に連れて行く! 健吾はあかりのあとを追ってくれ!」
健吾は一瞬躊躇したが、鋭く頷くと出口に向かって走り出した。
「ゆうき! 絶対戻ってこいよ!」
その声がトンネルの奥へ消えるのを見届けると、僕はしゃがみ込むひなに向き直った。
「ひな、行くぞ。僕たちも出口に向かうんだ」
「い、いや……足が震えて……立てない……」
ひなは顔を覆い、涙を流している。その恐怖が痛いほど伝わってくる。
「大丈夫だ、僕がいる。絶対に連れて帰るから」
僕はしゃがんで彼女の肩を掴むと、そのまま背中に担ぎ上げた。ひなは抵抗することなく、弱々しく肩にしがみついてくる。その小さな体から伝わる震えが、背負う僕の心にまで広がった。
――冷たい空気が肌を刺し、背中にのしかかる重さと恐怖が混じる中、僕はひなを背負ったまま全力でトンネルの出口を目指して駆け出した。
足音がトンネル内に反響し、心臓の鼓動と混ざり合う。暗闇に囲まれた空間は出口の光を遠くに感じさせ、まるで永遠に続く道のようだ。
その時、嫌な予感に駆られてふと後ろを振り向いた。
――そこにいた。
視界の奥で何かが揺らめいている。黒い影だ。じわじわと形を成すその姿は、全身を黒い布で包んだ女だった。音もなく、ゆらりとこちらに迫ってくる。
「う、うわあああ!」
その異形の姿に、理性が吹き飛ぶ。喉の奥から叫び声が漏れ出し、全身に恐怖が駆け巡った。
女の目――いや、目のように見える黒い闇――と視線が交わると、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われる。背筋が凍りつき、全身の血が冷たくなるのを感じた。
足がもつれそうになるのを必死にこらえながら、僕は振り返ることもせず、ひたすら前を向いて走り続けた。
やがて、視界にわずかな光が差し込む。トンネルの出口が見えたのだ。
「あと少し……っ!」
胸の中で恐怖がくすぶるのを押し殺しながら、僕はひなを背負い、全力でその光に向かって駆け抜けた。冷たい風が背中を押しつけるように吹きつけ、全身にまとわりつくような感覚は消えない。
――ようやく、出口だ。
トンネルを抜けた瞬間、どっと身体の力が抜けそうになる。それでも足を止めるわけにはいかない。車の姿が目に入った。
「健吾! あかり!」
車内には健吾とあかりの姿があった。二人が僕たちに気づいて窓から顔を出す。
「早く乗れ!」
その声に応じるように、僕とひなは急いで後部座席のドアを開け、そのまま滑り込むように飛び込んだ。ひなの震える手が僕の腕をしっかりと握る。
「よし! 全員揃ったな!」
健吾は焦った様子で叫び、すぐにエンジンをかけようとキーをひねった。
――が、エンジンは唸り声すらあげず、静まり返っている。
「……は? なんでだよ、動けよ!」
健吾が何度もキーを回す。が、反応はない。
「ちょっ! なんでエンジンかからないのよ! 早く出してってば!」
あかりが恐怖に震えながら叫ぶ。
その時、窓の外に目をやった僕は息を飲んだ。
――全身焼け焦げたような黒ずくめの女が、じりじりとこちらに近づいてきている。
その姿は、さっきトンネル内で感じた冷気の原因そのもののように見えた。女の顔は黒く覆われており、表情どころか目すら見えない。それでも、まっすぐにこちらを見ているのがわかった。
「健吾、急げ! 奴が来てる!」
「わかってる! わかってるけど、かからねえんだよ!」
トンネルの奥から、またあの不気味な音が聞こえ始める。
「……た す け て え……」
響くような唸り声と金属が擦れるような音が混じり合い、冷たい風が車の窓を叩きつけた。
女はゆっくりと、それでいて確実に距離を詰めてくる。
「くそっ! どうしてエンジンがかからないんだ!」
健吾は苛立ちを隠せない声で叫びながら、キーをひねり続ける。だが、エンジンはかかりそうな気配を見せたかと思えば、すぐにストンと音を立てて沈黙した。
「健吾、どうにかしてよ! 早くここから出たいんだけど!」
あかりの声は震え、焦りと恐怖が滲み出ている。
車内の空気は重く、冷たい静寂が押し寄せる中で、僕の頭にふとひらめきが浮かんだ。
――ガソリンは残っているはずだ。けれど、何度試してもエンジンがかからない。
そういえば、キャンプに行く前に読んだトラブル対処法の記事に「エンジンがかからない時の原因と対処法」が書いてあったのを思い出す。
確か……バッテリーの端子が外れているか、接触不良の可能性がある、と書いてあったはずだ。
「健吾、少し待ってくれ! 一度外に出てバッテリーを確認してくる!」
僕は後部座席から飛び出し、冷たい風が容赦なく吹きつける中、急いで車のボンネットを開けた。
暗闇の中、震える手でエンジンルームを探り、バッテリーの端子を確認する。冷え切った金属が指先に触れるたびに、緊張と焦りが一層強まる。
――やっぱり、これだ……端子が緩んでいる。
指先を使い、端子を力いっぱい押し込むと「カチリ」と小さな音がした。
「頼む、これで動いてくれ……!」
車に駆け戻るなり、僕は健吾に叫んだ。
「健吾! 試してみてくれ! エンジンをもう一度!」
僕の声に応じて、健吾が焦る手つきでキーをひねる。
ゴゴゴッ……ブォンッ!
ついにエンジンが唸りを上げた。その瞬間、車内に歓声が湧き上がる。
「やった! 動いたぞ!」
健吾が叫びながらギアを入れ、一気にアクセルを踏み込んだ。車は勢いよく前進し、トンネルの暗闇を切り裂くように進み始める。
後部座席に飛び込んだ僕は、ぐったりとしたひなの体を支えるように抱きしめた。その小さな胸が微かに上下しているのを確認し、安堵の息をつく。
だが――その時だった。
視界の隅で、何かが動いた。
振り返ると、窓の外に焼け焦げたような黒ずくめの女が迫っていた。その輪郭は闇に溶け込みそうなほど不気味で、何よりもその目が――黒い闇に覆われたはずのその視線だけが、確実に僕たちを捕らえている。
背筋が凍りついた。
「くそっ、まだ追ってきてる!」
僕が叫ぶのと同時に、車は急加速した。タイヤが地面を蹴る音がトンネル内に響き、車内は緊張と恐怖が渦巻いている。
「早く! あの女から離れないと!」
あかりが泣きそうな声で叫ぶ。
健吾は無言でアクセルを踏み込み続けた。車のスピードに比例するように、バックミラー越しに見える黒い女の姿はどんどん小さくなっていく。
「追いつけるわけないだろ、これだけ速ければ……」
健吾が独り言のように呟いた。
だが、その時、視界の隅に異様な動きが映った。
――トンネルの入り口付近に佇んでいた女が、突如として姿を消したのだ。
「……消えた?」
あかりの声が震える。
健吾もバックミラーを確認しながら、ゆっくりとアクセルを緩めた。
「本当に消えたのか?」
車内はようやく安堵の空気に包まれた。全員が深く息をつき、前方を見つめる。
しかし、安堵は一瞬だった。
「……後ろ」
低く震える声でひなが呟いた。
嫌な予感が胸を締め付ける。僕たちは恐る恐る振り返った。
――そこには、あの女が窓の外から覗き込むように張り付いていた。
真っ黒に焼け焦げた顔。闇に溶け込むような不気味な輪郭。だが、その目だけは異様に鮮明だった。哀しげで、何かを訴えるような視線。言葉にならないメッセージが、こちらに突き刺さる。
「きゃあああっ!」
あかりが悲鳴を上げ、僕は思わずひなをしっかりと抱きしめた。
「くそっ……離れろ!」
健吾が叫び、再びアクセルを全力で踏み込む。エンジンが吠えるような音を立て、車は暗闇の中を猛スピードで突き進む。
それでも女の姿は窓から離れない。ガラスを叩く音が車内に響き渡り、僕たちの恐怖を煽る。
「あの女……何なんだよ!」
健吾が叫ぶ声が掠れる。
その中で、僕は震える声で言葉を絞り出した。
「……『助けて』って言ってる気がした……なぜかわからないけど助けを求めてた……」
「助け!? 何言ってるんだよ!」
健吾が怒鳴るように言う。
やがて車は急カーブを曲がり、木々の間を抜ける。すると、視界の先にちらちらと街の明かりが見えた。
「出口だ……!」
健吾が叫ぶ。
その瞬間、窓を叩いていた音がピタリと止んだ。僕たちは恐る恐る振り返る。
――黒い女の姿は、どこにも見当たらなかった。
車内に静寂が訪れる。だがその静けさが、逆に恐ろしく感じられた。
「……終わったのか?」
誰かが呟くように言った。
だが、僕はまだあの恐怖と哀しげな視線を忘れることができなかった。
「一体……何なんだったんだろあれは」
僕の呟きは誰にも届かない。健吾は無言でハンドルを握り締め、ひなはショックのあまりか疲れ切って後部座席で眠り込んでいる。あかりも目を伏せ、何も言わない。
車はトンネルを背にして進み続け、やがて安全な街灯が点々と並ぶ道路に戻った。僕たちはそのまま高速道路へ入り、何事もなかったように東京への帰路を急いだ。
僕たちはなんとか危機を脱し、無事に東京へ帰ることができた。
しかし、あのトンネルでの恐怖と、黒装束の女の哀しげな姿が、忘れられない記憶として心に残り続けた。
その後、僕たちはあの出来事がもたらした影響に直面し、予期しない変化が訪れることになるのだった。
次回のエピソードでは、東京に戻った後のゆうきたちがどのように変わっていったのか、そしてトンネルでの出来事がどのような影響を及ぼしたのかが描かれます。お楽しみに!