第十二話: 「幽霊と赤ん坊、そして新たな父親」
--ヨハン視点--
2017年8月7日、3時50分。
今、この瞬間、深夜の静寂に包まれたトンネルで、俺の人生が一変しようとしていた。
呪いの闇姫の過去は、想像を絶するほど壮絶だった。
そして、数多くの命を奪ってきた過去を持つ俺が、今や幽霊と赤ん坊の父親になる羽目になろうとしている。
佐江実咲の過去、山本光一の真実。それらを知ってしまった俺には、こんな子供を育てる資格なんてないと思っていた。
だが、この霊の赤ん坊には、もはや誰かの手が必要だ。
親がいなければ、たとえ霊の子であっても、生き延びることができるかどうかはわからない。このトンネルで死なせるわけにはいかない。
だから、俺がその役目を引き受けるしかなかった。
はぁ……困ったもんだよ。
「先に言っとくけど、俺は善人じゃないし、柄の良い人間でもねぇからな」
「オマエなら構わない」
俺は頭を掻きながら、溜息をつくしかなかった。
「はぁぁぁ! わかったよ、このガキの面倒見てやる。ただし、それ相応の報酬はきっちりもらうからな。これ、依頼として受けとるから、文句ないだろ?」
「そうか……。ありがとう」
その瞬間、呪いの闇姫――いや、佐江実咲がふっと笑った気がした。
でも、その笑顔は一瞬のものだったようにも思えた。
俺は佐江実咲から赤ん坊を受け取った。
こんな小さな命を抱えるのは初めてだった。腕の中に収まるその軽さに、思わず息を飲む。
こんなに軽いのか、赤ん坊ってのは。もし地面に落としたら、それだけで命が尽きてしまいそうだ。
「そういえば、この赤ん坊の名前は……?」
そう尋ねようとした瞬間、佐江実咲が俺の頭にそっと手を置いた。
「え? なに?」
「すまない、報酬の件だが……わたしには金目のものはない。その代わりになるかはわからないが、いいものをやろう」
「いいもの?」
一瞬、期待を込めて問い返したが……。
いや、何ももらってない気がするんですけど? ちょっと待て、佐江さん?どういうこと?
もしかして、女子からの“頭ポンポン”が報酬代わりってことか? いやいや、それにしては……もうだいぶオバさ……
「ヒェッ!」
突然、佐江実咲から冷たい視線を浴びせられた。
その表情は、ホラー映画で見るどんな怪物よりも恐ろしく、全身に鳥肌が立つ。
まさか……俺の思考、読まれてる? それも超能力の一つなのか?
今日初めてアンタのことが本気で怖いって思ったよ。
「ウンギャァアアアア!」
突然、抱きかかえていた赤ん坊が大声で泣き出した。
「え、ちょ、おい! 泣いたぞ!? どうすればいいんだ? 赤ん坊のあやし方なんて知らないんだけど!」
パニックになりながら赤ん坊を見下ろす。
まさか、さっきの母親……佐江実咲の顔を見てビビったんじゃないだろうな。
いや、わかるぞ。その気持ち。俺だってさっきビビったもん。
そう思いつつ、あやし方が全く分からずおろおろしていると、佐江実咲の姿がふと目に入った。
……いや、目に入らなくなりつつあった。
「あ……おい、ちょっと待て。なんか薄くなってないか?」
佐江実咲はみるみるうちに半透明になり、その輪郭がぼやけていく。
まるで霧が風に流されるように、彼女の姿は今にも消えてしまいそうだった。
「おい、そんなすぐに消えるのか!? まだ勝手にいなくなるんじゃねえよ!」
必死に呼びかけるが、彼女はもうこちらをじっと見つめるだけだった。
その目は、どこか安堵と哀しみが混じったような光を宿していた。
「本来なら、もう少しは持っただろう。だが、さっきので、わたしの残りの霊力を全てオマエに授けたからだろうな」
佐江実咲のか細い声が、消え入りそうな姿とともに耳に届いた。
「は? 霊力? なんだよそれ。そんなの貰った覚えねえよ!」
思わず声を荒げる。霊力だ? 冗談じゃない。そんな不可解なもの、知らないし、欲しいとも言ってない。
――いや待てよ……。
頭の中でさっきの出来事がフラッシュバックする。
そうだ、あのとき……あのときだ。佐江実咲が俺の頭に手を置いた瞬間、何か妙な感覚がした気がする。
あれが、霊力を渡されたってことだったのか。
「おいおい、勝手に渡すんじゃねえよ……」
呆れ半分、困惑半分で頭を掻く。
霊力なんて聞いたこともないし、それが何の役に立つのかも全くわからない。
でも、佐江実咲は確かに俺にそれを託したんだろう。消えゆく彼女の姿が、そう物語っていた。
佐江実咲は最後の力を振り絞るように、我が子の頭を優しく撫でた。
泣きじゃくる赤ん坊はその温もりを感じ取ったのか、次第に泣き声を止め、スヤスヤと心地よい眠りに落ちていった。
「おい、待てよ! まだ聞きたいことが山ほどあるんだ!」
俺は焦りながら叫んだ。
「このガキのことだって、それに霊力ってなんなんだよ!」
佐江実咲は静かに首を横に振り、消え入りそうな声で答えた。
「すまない。もう説明してる時間も残っていないようだ……」
彼女は子供をじっと見つめ続けた。その瞳は慈愛に満ちていながらも、深い悲しみを宿していた。
気づけば、夜が明け始めていた。
トンネルの入り口から差し込む柔らかな朝の光が、かろうじて残る佐江実咲の輪郭を浮かび上がらせている。
その光の中で彼女の表情は、深い悲しみと諦めに満ちていた。
彼女はもう、自分の子供に二度と会えないことを悟っているのだろう。
霊であっても、わが子との再会が叶わない――その事実がどれほどの痛みを伴うものか、俺には計り知れなかった。
確かに佐江実咲は、過去に多くの人間を殺めた恐ろしい悪霊だった。
だが今目の前にいるのは、そんな彼女ではない。
自分の子供を誰よりも深く愛する、一人の母親だった。
その愛情は、確かに俺の目に映っていた。
憎しみや呪いの闇の中でさえ、彼女は母親としての誇りと愛を失わずにいた。
その姿は、俺にとって痛ましいほど美しかった。
こんな愛情に包まれた子供を、俺に育てることができるのだろうか。
不安が胸を過り、息が詰まりそうになる。
すると、佐江実咲がふいに口を開いた。
「そういえば、人間。オマエの名を聞いていなかったな。最後に聞いてもよいか?」
予想外の質問に、俺は一瞬呆気に取られた。だが、妙に肩の力が抜けた気もする。
彼女の声に、今まで感じたことのない穏やかさが宿っていたからだ。
「ははっ……更科ヨハンさ」
俺がそう答えると、彼女は微かに微笑み、静かに頷いた。
「そうか、更科ヨハン。いい名だな」
その言葉を最後に、佐江実咲の姿は陽の光に包まれ始めた。
眩しい朝の輝きの中で、彼女の輪郭がぼやけ、やがて光と溶け合っていく。
「……ありがとう」
彼女の声が、遠く響く風のように耳元を掠めた。
その瞬間、佐江実咲の姿は完全に消え、トンネルの中には、俺と赤ん坊だけが残された。
佐江実咲は、消えるその瞬間まで、一度もこちらに視線を向けることはなかった。
彼女の目に映っていたのは、ただ一つ――自分の子供だけだった。
そして、俺が最後に見た佐江実咲の姿は、恐れられていた「呪いの闇姫」ではなく、
深い愛情を持つ一人の母親、そして美しく穏やかな女性の姿だった。
赤ん坊は、母親が消えたことなど知る由もなく、俺の腕の中で心地よく眠っている。
その穏やかな寝顔を見つめる佐江実咲の表情には、微かな微笑みが浮かんでいた気がした。
こうして、俺は――幽霊の子供の父親となった。
罪を抱えた俺に、この命を育てる資格があるのか分からない。
だが、新たな命を守り育てることで、何かを変えられると信じたい。
「……あっ、子供の名前聞くの忘れてた」
ふと口をついて出た独り言に、トンネルの静寂が応えるだけだった。
陽光がトンネルの奥まで差し込み始める中、俺は赤ん坊を抱きしめながら歩き出した。
新たな命と共に始まる、俺の人生の第二章が――今、幕を開けた。
第一章完結!!




