第9話 当主と家臣
「当主様」
執務室の扉が敲かれ、ロイエは反射的に体を竦ませた。
まだ座り慣れない豪奢な椅子が、ギッと濁った音を鳴らす。
この部屋には、父がまだ存命だった頃、用事のために何度か入ったことがあった。
ガラス戸付きの本棚が壁中に設置され、異様な圧迫感を醸し出している。
当主らしくと思って仕事のために篭もってはみたものの、どうにも落ち着けないでいた。
そこに不意にノックが来たとなると、心臓の高鳴りも致し方ないというものだ。
「どうぞ」
なるべく動揺を抑えて、ロイエは声を発した。
失礼します、と言って入ってきたのは、幼少から館に勤めているシュティレだった。
肩につかない長さで切り揃えられた栗色の髪が瑞々しい。
その均整の取れた髪と、ピシッと首元のボタンまで留められた服は、彼女の几帳面で真面目な性格をよく表していた。
屋敷の中でも一番といっていいほど小柄なのに、その雰囲気は決して子供じみてはいない。
「ナハトが目を覚ましました」
「そう……よかったわね、シュティレ」
ロイエが微笑むと、シュティレは顔を真っ赤にして目を見開いた。
「なっ、わっ、私が、なぜ……」
「心配していたでしょう、彼が館を離れてから一週間――いえ、帰ってきてから目を覚まさなかった三日を合わせると丸十日ですか」
「そんなことは――」
「目の下の隈、メイクで隠しきれていませんよ」
ハッとしてシュティレが目元に手を触れる。
それを見たロイエがクスクスと肩を震わせたのを見て、シュティレは眉間に皺を寄せた。
「ロ――当主様、お戯れは程々になさっていただきますよう」
「貴方が以前と同じように、わたくしのことを名前で呼んでくれたらそうするわ。わざとらしく『当主様』ではなくて」
寂しそうに笑うロイエに、シュティレも困ったように笑った。
年はそれほど近くはないが、二人は姉妹のような親近感を互いに覚えていた。
もちろん主従関係は大前提として横たわっていたが、それを超えて他愛のない会話をすることも多かった。突然の先代の訃報にくずおれたロイエに、何も言わずに寄り添い続けたのもシュティレだった。
「それで、ナハトの容態は?」
「すぐに当――ロイエ様に報告したいと。侍医は、ひと月は安静にするべきだとお冠ですが」
「例の同行者は?」
シュティレの顔が曇る。
無理もない。
ふたりの関わりは長いのだから。
ナハトがロアリテート家に保護されたのと同じ時期に、シュティレも奉公に来た。
故郷を失って心を閉ざしたナハトと、貧しさで家を出されたシュティレとは、何か通じるものがあったのだろう。未だ恋慕の情といえるほどの関係性でこそないが、長い時間を共有した者同士の空気はある。
そんなナハトが護衛長レーラーに剣を習い、当主から『おつかい』を命じられて度々館を離れ、帰ってくれば黒装束には血の汚れ――それらの出来事を、翌日に街で噂される『要人暗殺』に結び付けるのは、聡明なシュティレであれば当然のことだった。
今回も、ある夜突然館を発ったナハトの身を、彼女はずっと案じていた。
そして帰ってきたと思ったら侍医が顔を青くするほどの負傷をしていて、傍らには芸術品のような女性が在った。
シュティレの胸中に様々な動揺が去来しているのは、想像に難くない。
「……あの方は、今日も街の散策に出かけられています」
「分かったわ。では、わたくしが医務室に行って彼から報告を受けます。貴女も同席しなさい、シュティレ」
シュティレが小さく声を漏らす。
「よろしいのですか」
「ええ。わたくしの考えでは、今後、貴女にも色々と動いてもらわなければならなくなるから」
書きつけていた帳簿を畳み、インク壺に蓋をして、ロイエはスッと立ち上がった。そしてシュティレに先立って、医務室までの廊下を行く。
「入りますよ」
「ロイエ様――」
「そのまま臥していなさい。起き上がる必要はありません」
体を起こそうとした青髪の青年を、ロイエはすぐさま制した。その時挙げた手をサッと動かし、無言で人払いをする。
二つのベッドが並ぶこじんまりとした医務室には、横になったナハト、隣に腰を下ろしたロイエ、そしてその隣に立つシュティレだけが残った。
「具合はどうですか?」
「仕事に戻れと言われれば、今すぐにでも」
「そういう強がりは、少なくともシュティレの前ではよした方がいいですよ。彼女が不摂生に対してどれほど厳しいか、貴方も分かっているはずでしょう」
ナハトが見ると、シュティレは雪原の風よりも冷たい視線で見下ろしていた。
以前、熱を出しながら執務に当たっていたロイエが、この栗色の髪の同僚の手で有無を言わさず寝室に引きずり込まれていった光景を思い出す。
ナハトは短くため息をついた。
「……自分の身の回りのこと程度はすぐに出来ると思いますが、屋敷の仕事に戻るには三日ほど、外の仕事には――万全を期するなら、二週間はかかるように思います」
「そうですか。今回は相当な無理を強いましたから、充分に休養をとって構いません。ただ、話を聞くことだけは前倒しにさせてもらいますよ」
主君の言葉を受けて、ナハトがチラとシュティレを見た。
「構いません。今後のことを考えると、貴方の仕事をシュティレにも知っておいてもらいたいのです。それに、彼女はとっくに気付いていたでしょうから」
ナハトの視線に、シュティレは静かに頷いた。
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